閑谷学校

■石塀に会いにゆく

中村好文

 閑谷学校寛文10年(1670)岡山県備前市

 

 名君とうたわれた備前岡山藩主・池田光政(1609〜82)が「読書・学問するによき地」として、武家の子弟のための藩校とは別に、庶民のために開いた学校儒学にもとづく教育がなされ、他藩の子供達も受けいれた美しい備前焼の瓦をいただく講堂や聖廟、神社、校門などを、卓越した職人技の石塀が囲む。講堂(国宝)は元禄14年(1701)の再建だが、近世学校建築としては現存最古。良材を吟味し、風雨にさらされる部分は黒漆で補強してある。磨きこまれた床板に正座し論語を朗読するのが、今も続く閑谷(しずたに)の年頭行事だ。

習い性となる」という言葉がありますが、あれ本当ですね。

 私は、十代の終わりごろから建築の世界に身を置き、それからというもの四六時中、建築のことばかり考えて暮らしてきましたが、あるとき、自分が見るもの間くものはもちろん、感じ方までことごとく建築と結びつけてしまう性格になっていたことに気づきました。

 ジャズ一筋に生きてきた渡辺貞夫さんは「メシ喰ってるときもジャズだ⊥と言い放ったそうですが、私にはその気持ちが実感としてよく分かります。肩肘張らないマイペースの取り組み方ですが、私も「メシ喰ってるときも建築だ!」で、これまでずっと過ごしてきたような気がするからです。

 そんなわけですから、ぼんやり風景を眺めていても、ふと、その風景の中に「建築」が二重写しになつて見えることがあります。いや、もっと分かりやすく「風景の中に部屋が見える」と書いた方がよいかもしれません。

 たとえば、私が週末や休暇を過ごす神奈川県の大磯には、「こゆるぎの浜」というたいそう美しい砂浜があり、私はそこに、朝なら魔法瓶に詰めたカフェオレとパンと果物の簡単な朝食を持って、夕方なら缶ビールか、冷やしたシェリー酒を携えて出掛けますが、砂浜にある海岸段丘に座ってのんびり海を眺めていると、松林を背にしたその段丘が、太平洋という広い庭に面した気持ちのいい「縁側」のように思えてくるのです。

 また、山荘の設計を依頼されて敷地を下見するときなど、林の中の傾斜地に、食堂はこのへん、居間はここ、浴室は眺めの良いこのあたり、と間取り(プラン)があぶり出しのように浮かび上がってくることがあります。ちょっと奇異な表現かもしれませんが、地形だけでなく、吹いてくる風や陽射しまでが笑顔で手招きして、「部屋」を呼んでいるような気がするわけですね。こうなれば設計作業は簡単、あとはそれを図面にしたり、模型で外形や内部の空間を確認したりするだけで基本設計の大筋は完成します

 風景や地形から建築を思い浮かべる習性は、私の場合、建築家という職業によって知らず知らずのうちに培われたものですが、それが建築家特有のものではなかったことに気づく機会がありました。

 風景に建築を重ね合わせて見ることのできた達人が三百年以上前にもいて、非の打ちどころのない見事な実例を岡山県の備前に遺していたのです。

 閑谷学校を創設した池田藩の藩主、池田光政(一六〇九~八二)がその人です。池田光政は熱心な儒教の徒であり、仁政主義(民衆に恵み深い政治)を貫いた名君として有名ですが、教育に非常に重きをおいた人で、寛文十年(一六七〇)に、庶民の子供も学ぶことのできる閑谷学校をつくりました。そして、その学校用地の決定に光政の「風景に建築を見る眼」がしっかり働いていたのです。一六六〇年代の半ば頃、光政は岡山の領地内に池田家墓所のための土地を探していました。もともとの菩提寺だった京都妙心寺の護国院が火災で焼失してしまったからです。そして、墓所の候補地探しの大切な任務を、懐刀とも言うべき優秀な側近、津田永忠に命じました。命を受けた永忠は領内をくまなく歩いて候補地二カ所を選び出し、光政を案内したのですが、その土地のひとつが後に閑谷学校の用地となった和気郡木谷村です。

石塀の全長は765m 高低差のある敷地の周囲を這いながら巡る量感に満ちた石塀の姿からイサム・ノグチの仕事を思い浮かべるのは私だけではないに違いない

 谷あいを分け入るようにたどり、一番奥まった場所にあるポッカリと空いた谷間の拡がりがその場所で、両手で水をすくうときの手のひらの形のような山並みに優しく包まれた静かな盆地でした。

 光政が木谷村を訪れたのは晩秋だったと伝えられていますから、盆地を囲む山々は紅葉の盛りでさぞ美しかったことでしょう。その風景をひとあたり眺め渡した光政は「ここは、お墓じゃなくて、むしろ学校にうってつけの場所だな」と直覚したのです。さらに言えば、谷そのものが学校に見え、熱心に学ぶ子供たちの姿が瞼に浮かんだにちがいありません。山に囲まれた求心的な空間は、落ち着いて勉強するためには理想的な環境です。山深い谷あいの空間が、今風に言えば「キャンパス」の全景として光政の脳裏にはっきり描き出されたのだと思います。

 「木谷」という地名は、そのとき「閑谷」という、いかにも閑寂な気配を伝える美しい名前に改められました

 私は、風景や地形の中に「建築」が潜んでいるということから書き始めましたが、そのことは、閑谷学校を初めて見学した三十年前にはさほど強く感じていませんでした。もちろん「学校の場所としては、気が散らなくてなかなかいい場所だな」くらいには思っていましたが、学校という用途と地形との関係について思いを巡らすことはありませんでした。まだ設計実務の経験が浅く、風景を見る目や、地形を感じる力が身についていなかったのかもしれませんし、石塀(せきへい)や備前焼の瓦屋根など、ほかのことに目を奪われていたからかもしれません。

 俗世間から隔絶された場所で、学問というひとつの目的を共有しつつ営む集団生活は、どこか修道院の暮らしを連想させます。山に囲まれた地形も、近くを流れる川の様子も、あたりに漂う空気も、私にはプロヴァンスにあるシトー派の修道院などと共通するものがあるような気がしてなりません。

 地形と言えば、閑谷学校の敷地内の配置には、地形を利用した特別な工夫があることにも触れておきたいと思います。

 この学校は寄宿制で、寄宿舎や食堂、厨房などが敷地西側に配置されていましたが、これら火の気のある日常の生活圏と、東側の講堂や聖廟などのある勉学、儀礼のための領域の間に、「火除山(ひよけやま)」と呼ばれる延焼を防ぐための丘がうまい具合に造成されているのです。

 防火壁を造ることはありますが、防火のためにわざわざ山を築くという大がかりな土木工事をするのは日本ではあまり例のないことだと思いますが、背後の尾根を延長する形で造られた火除山の効果は絶大で、弘化四年(一八四七)に学房(寄宿舎)からの失火で西側にあったほとんどの建物が焼失したときも、東側の建物への延焼はなかったと伝えられています。

 裏山に登り敷地全体を見おろすと、神社、聖廟、講堂、飲室(休憩用の部屋)、文庫など、用途も規模も様々な建物が、山ひだ(山の尾根と谷が作る凹凸によって,ひだのように見えるところ)によって生まれた不整形な平地と高低差を巧みに利用し、近からず遠からず、適度な距離を保ちながらゆったりと配されていることが分かります。火除山がどれほど防火に有効なのかも、そこからだとよく見てとれます。文化十年(一八一三)には、山に囲まれた学校全体を傭撤した見事な「閑谷学図」が描かれました。

 寺院の伽藍を連想させる配置を、ちゃんとした絵図にしておきたくなる気持ちは私にもよく理解できます。

 池田光政が初めてこの谷を訪れ、あたりを見渡したとき、こうした絵図まで頭に浮かべていたのかどうか・・・建築家としては大いに気になるところです。

 閑谷学校を最初に見学したとき、たちまち魅せられ、強烈な印象としていつまでも心に残ったのは、敷地をぐるりと囲む石塀の風合いのある材質感と、精度の高い石工の技術、そしてそのたおやかで彫刻的な姿でした。実は今回は、石塀をもう一度じっくり眺めたり撫でたりしてみたいと思って出掛けたのです。

 石塀は学舎という聖域を縁取る結界の役割をしており、延べ長さは七百六十五メートルあるそうです。その特徴は断面がカマボコ型をしていることと、石積みではなくこの地方で瀬山石と呼んでいる水成岩の割栗石(わりぐりいし)を土塁状に築き、そこに同じ水成岩の切石をパッチワークの要領できっちりと積み貼りしていることです。ちょっと測ってみると、塀の厚さ(幅)は約1.8メートル、校庭側からの高さは1.5〜1.6メートルぐらいでした。解説書によると、後になって目地の隙間から雑草が生えてくる見苦しさを嫌って、内部の割栗石をあらかじめよく水洗いし、雑草の種を含んだ土を取り除いておくという実に念の入った仕事がしてあるそうです

 石塀について、その構造も工法も材質も分かった上で心に湧き上がってくるのは「それにしても、なんという魅力的な形なんだろう!」「なんという美しい石貼り模様だろう!」という単純で率直な感銘です。 近寄ってよくよく石貼りのパターンを見ると、ほとんどの石は変形の四角形から六角形までの多角形で、精妙な組み合わせによるパターンの絵画的な魅力は、いくら眺めても見飽きることはありません。

 ひとつの石からその次の石へ、そしてまた隣りの石へと、ひとつひとつを目で積み上げるように眺めていくと、自分が石工になったような気持ちになってきます。石の複雑な組み合わせがジグソーパズルのようにピタリと散っている見事な出来映えの箇所に来ると、満足げな笑顔を浮かべた石工たちの肩を叩いて労をねぎらってやりたくもなるのです。そのようにして石は次第にカマボコの肩の部分にさしかかり、柔らかな丸みを帯びてきて上面へとつながっていきますが、パターンは単に上に積み重なつていくのではなく、絞ったタオルのように螺旋状のねじり模様を描いているように見えました。長い長い石塀に裂け目や割れ目がないのは、石貼りの組み合わせ方にこうした工夫がしてあるからかもしれません。

 石塀の間近な観察を堪能した私は、次に講堂の縁側に腰掛けて、少し遠くから眺めてみることにしました。杉木立の山をバックに真一文字に延びる石塀のモダンな美しさは、また格別。見ようによっては、イサム・ノグチの彫刻が横倒しになっているようでもあります。磨き込まれた縁側の床板の感触は心地よく、ゴロリと横向きに寝て、頬杖をついて眺めたらさぞかし気持ちがいいだろうと思い、そうしようとすると、傍らで「縁側に寝そべらないこと」という注意書きの木札が睨んでいました。どうやら私と同じことを考える「石塀好き」がいるらしいのです。 そうそう、うっかりしていました。関谷学校は儒教の教えで名高い学校なのですから、そんなお行儀の悪いことをしてはいけないのでした。