山本理顕

山本理顕設計工場 山本理顕

■合同家族の住宅

 トギ(インド)での調査は少したいへんでした。たくさんの建物が集まっている中で、どこまでがひとつの住宅なのかがまったく分からなかったのです。実はこのたくさんの建物全体がひとつの住宅でした。

 インドという国はおもしろい所で、その家族形態は合同家族と呼ばれています。合同家族の住宅の特徴は拡大拡散のプロセスです。子どもたちが奥さんをもらうと、寝室や台所となる建物を次々に増築していき、親子兄弟全体でひとつの大家族として住むのです。そして父親が死ぬと、子どもたちは父親の財産を分け、分かれてしまいます。つまりトギの合同家族の住宅は時間が経つにつれて拡大したり縮小したりするので、ひとつの集落の中に大きな建物や小さな建物が混在しているのです。大きな住宅には兄弟が住んでいる場所や、奥さんの場所、二番目の奥さんの場所などが集まり、全体でひとつの共同体を形成しています。そうした共同体の集合がひとつの集落になつているわけです。

■かつて住宅は「共同体内共同体」だった

 多くの集落において住宅は「大きな共同体」の中の「小さな共同体」として、私の言い方では「共同体内共同体」としてつくられています。素材や形は違つても、今お見せした集落のすべてがこの構造を持っています。これらの集落に住んでいる人たちは自分たちの住む環境を「小さな共同体」である住宅だけではなく、その集合としての「大きな共同体」と共に認識しています。「大きな共同体」の中の「小さな共同体」に身をおいて初めて、人間は住む環境を考えることができます。

 かつて日本の集落でも同じ環境がありました。住宅は田の字型のプランで座敷や閤炉裏端がありました。囲炉裏端は家族が使い、座敷はゲストと共に儀式などに使われていました。ここで言うゲストとは「大きな共問体」のメンバーである集落の人たちです。住宅は必ず「大きな共同体」と「小さな共同体」の関係を基にしてつくられるものだったのです。

 こうしたことは建築家がかなりの責任を負うべきではないかと思います。ル・コルビュジエたちが1920年代に「一住宅一家族」システムをつくったのと同じようなことが現在起きていて、それに代わるどんなモデルをつくるべきなのかが問われていると思います。横浜国立大学で大学院生たちとそれを一緒に考えていますが、景観がひとつのキーワードになるのではないかと思っています。住宅を考える時、その内側だけではなく、外に対してどう考えるかということです。

 「一住宅一家族」で住んでいる人たちも、その外側にどこかで擬似的な共同体を求めているはずです。小さな子どもがいる人たちは周りで助け合いながら住んでいたりするでしょう。そういう現状に対して、かつての農業共同体や古い集落で見られたような「共同体内共同体」とは違う、現代の私たちに固有の「地域社会圏」をつくることができないだろうかというのが、今、考えていることです。

 このことについては、それほど意識していたわけではありませんが、「熊本県営保田窪団地」(1992年)の時から考えていました。「東雲キャナルコートCODAN1街区」(2003年)をつくる時も、それほど自覚的であったわけではないのですが「地域社会圏」をつくろうとしていたのだと思います

 大韓住宅公社が2006年2月に低層ヴィラの国際指名設計競技を行い、ペッカ・ヘリン(フィンランド)、マーク・マック(アメリカ)と私たちが設計者に選定された。 私たちは大きく二つの提案をした。 
 一つは建築をクラスター状に配置する事である。敷地内には9つのクラスターがあり、各クラスターは3又は4階建ての住戸が9〜13戸集まってできている。 
 もう一つは各クラスターの2階レベルにパブリックな「コミューナルデッキ」をつくり、「しきい」(ハングルでは「マル」)と呼ばれる透明な空間で各住戸と結んだ事である。「しきい」は大きな玄関のような空間で、応接間・ホームオフィス・アトリエなど様々な用途に使える、周辺環境と一体化した空間である

 現在、仮に400人ほどの人聞が一緒に住んだら「一住宅一家族」の場合と比べてどれだけ有利になるのかを示すデータを集めています。このスケッチは1ヘクタールに約400人の住宅があるということを想定したものです。2015年の日本の人口を400人のコミュニティに置き換えて考えてみると、4分の1近くが65歳以上の高齢者で、うち12人が要介護者、15歳以下の子どもたちは50人という構成になります。エレベータが止まっても下に降りられることを考えて建物は7階建てか6階建てです。オフィスやギャラリー、スパといったさまざまな共有施設が一緒になっていて、緑化された屋上には家庭菜園があります。

 現代の都市では、電力は都市から遠く離れたエネルギープラントから各住戸へ供給されています。火力発電の熱効率は約40%だそうです。ということはエネルギーの約60%を無駄にしているわけです。発電した約40%のエネルギーも、さらにその約5% が送電ロスで失われています。つまり、火力発電所で取り出したエネルギーで、私たちの所まで来るものは全体の4割弱なのです。仮に自分たちの住んでいる地域で発電するとしましょう。コジェネレーションシステムは、エネルギープラントを非常に小さくすることができます。排熱が給湯などに使えるので、エネルギーの約70%を利用することができます。400人が一年間に排出する燃えるゴミは76トン、そのうちの40%は生ごみで、これを利用すると約10トンの堆肥ができるのだそうです。これは一ヘクタールの土地を肥沃にする量です。

 「一住宅一家族」の住システムで二酸化炭素の排出量を25%削減することは非常にたいへんです。しかし、このように400人がひとまとまりになってエネルギーや資源を利用していくだけで、二酸化炭素の排出量はかなり減らすことが可能なのです。

■地域社会の復権

 現在、建築家は国から改正建築基準法を押し付けられ、設計にたいへんな不自由を強いられています。しかし、こうなってしまった責任はやはり建築家にあると思います。私たちはずっと、敷地の内側だけで建築をつくってきました。そこに住む家族のことだけを考えて住宅をつくり、行政の指導に従って公共建築をつくるということに、慣れきってしまったのです。しかしそういうつくり方は間違っていたのではないでしょうか。建築が誰かの利潤を上げるための道具のように使われている現状は、やはりどこかおかしいと思います。

 住宅をつくるにしろ、公共建築をつくるにしろ、建築家は施主と同じ方向だけを見て設計をしているわけではありません。施主の要望に応えるのと同じように、その地域社会にとってどれだけ有効なものがつくれるのかを問われているのだと思います。それは外国で仕事をしても、日本で仕事をしても、まったく同じことが言えます。地域社会とはいったい何なのか、考えるべき時が来ていると思います

 地域社会は既に完全に崩壊してしまっているのか。それとも、見えないけれどまだ残っているのか。それは私にもよく分かりません。私が建築をつくる時は、地域社会がまだ何らかのかたちで存在していると信じていますし、もし失われていたとしても、地域社会を再構築するには何か手立てがないかを考えるようにしています。「広島市西消防署」は消防署であると同時に地域社会の中心的な施設になっています。「天津図書館」も同じような建築になればと思います。

 昔ながらの村社会の復活などは不可能でしょうが、それとは何か違うかたちで「地域社会圏」が実現できるのではないでしょうか。景観や環境も重要なファクターかもしれません。それらを考えていくことはきっと地域社会の再構築に繋がっていくはずです。私自身の自戒も含めて、建築家はそういう視点から建築を考えてこなかった気がします。どうしたら地域社会が実現できるか。これは私個人の問題というよりも、私たちものづくりに携わっている人間にとっての大きな課題ではないでしょうか。