アレキサンダー・カルダー

アレキサンダー・カルダー

ジーン・リップマン 

 アレキサンダー・カルダーの祖父アレキサンダー・ミルン・カルダーは,アバディーンの石工の息子として・1946年・スコットランドに生まれ,22歳の時・僅かな貯金を持って若い妻とともにアメリカに渡った。

 アレキサンダー・ミルソは,フィラデルフィアのペンシルヴァニア美術アカデミーで学び,フェアマウント公園のミード将軍の騎馬像や,現在もフィラデルフィア市役所の塔にある4羽の大きな鷲と4つの人物像,ならびに塔の頂上にあるウィリアム・ペンの像など多数の記念像を残している。

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 1923年にアレキサンダー・ミルンが76歳で亡くなった時,息子のアレキサンダー・スクーリング・カルダー(1870−1945)も既に彫刻家として有名で,芸槻の重要な会員でもあった。父のアレキサンダー・ミルンと同じく,アレキサンダー・スターリングも・生涯古典彫刻に専念した。有名な作品としては,ニューヨークのワシントン広場ワシントン像フィラデルフィアのローガン広軌ある精巧な白鳥の噴水がある。この白鳥は,かなたの市役所の塔にある父の制作したウィリアム・ペソの像とあわせて眺めることができる(市役所とローガン広場結ぶ同一にフィラデルフィア美術館があるが,ここの階段吹き抜け大きな白いカルダーのモビール,『幽霊』がすえつけられて以来・フィラデルフィア市民は,この町の生んだ最初の彫刻家一家を”父と息子と聖霊”とよんでいるという)。妻のナネット・リーダラー(1866−1960)は,肖像画家として知られた。

 二人がパリに滞在していた1896年に、娘のマーガレット(ペギー)が生まれ,息子のアレキサンダー・カルダー・即ち三代目のアレキサンダーは,1898年7月22日,現在はフィラデルフィアの一部になっているローントンで生まれた。
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4歳で父の「人間の子」という彫刻のモデルを,また後に母の油絵のモデルをつとめているが,既にして巨体化のきざしの現われているのが知られる。1906年にカルダーー家は西部に移り住んだ。西部の気候が父の心臓病によいとすすめられたからである。カルダー一家は,始めアリゾナに居を定め、ついで1910年までカリフォルニアのパサデナに移った。それからニユーヨーク州にもどり,1913年に再びカリフォルニアにゆき,サンフランシスコとバークリーに住んだ。現在バークリーにはカルダーの姉マーガレット・カルダー・へイズが住んでいる。1915年に一家はまたニューヨーク市に移り,サンディ(カルダーの愛称)はエンジニアリングを勉強するため,ニュージャージーのホーボケンにあるステイーブンス・インスティチュートに入学した。

 1922年・カルダーは客船H・F・アレキサンダー号に機関士として乗船したが、カルダーの作品の多くに顕著な宇宙に対する傾倒は,この航海に源を発した。自伝の中の最も生き生きした章句において,カルダーは次のように回想している。

「或る朝早く,ガテマラ沖の静かな海上で、私は寝床一巻いたロープだったが・・から,一方に火のように赤い日の出,他方に銀貨を想わせるような月を見た。全航海で最も強い印象を受けたのがこの光景であった。それは太陽系についての忘れられない感動を残した

 カルダーが「最初」である数多い事柄の中でも,最も重要なのは,芸術家の仕事の主要なテーマとして宇宙観をもってきたことである。カルダーはくり返し、宇宙が彼の基本テーマであると語っている。作品でもしばしば,太陽、月,星を表わす形でそれを強調しているが,あるインタービューでこう説明している。「1932年に木の地球儀を見た時,太陽系のような宇宙を作ろうという考えが生まれた。それがすべての出発点だったのです。」批評家のキャサリン・クーにもこう語っている。「私にとってすべての基礎は宇宙です。宇宙における最も単純な形は球と円です。私はそれらを円板であらわし,形を変えていくのです。」カラカスでの展覧会のカタログにカルダーは次のように書いている。「私の抽象的な仕事の初めから,たとえそのようには見えない時でも,宇宙の他に私の選ぶべきモデルはないと感じていた。種々のサイズ,密度,色,容量の球が空間に漂い,雲の層,水しぶき,気流,あらゆる種類の粘度や香気をつきぬけていく。」1951年の「私にとって抽象芸術が意味するもの」というシンポジウムでほ,「私の作品における形態の根元は常に宇宙のシステムかあるいはその一部でした。」と語つている。

 カルダーの宇宙のイメージは最も初期から正しく評価されてきた。1932年にニューヨークで初めてモビールを展示した時,評論家のエドワード・オールデン・ジュエルの展評には次のような標題がついていた。

「ジュリアン・レゲィ画廊でのアレキサンダー・カルダーの『モビール』展,宇宙での壮大なぶらんこ」

 ヘンリー・マクブライドの批評では,「土星や木星たちが,もしそういえるなら,それらがゆっくりと軌道を措きながら回っている」とあった。

 疑いもなく,カルダーの芸術とエンジニアリングを勉強したことは切り離せない。彼は1919年に,機械工学の学位を取得してステイープソス・インスティチュートを卒業した。

 カルダーの4年間の学習で特に秀れていた科目が,用器画,図形,幾何学,製図,機械工学実験,応用動力学であったことは注目される。動力学のコースはその後の彼の彫刻家としての仕事に関連して特に興味深い。即ち,「剛体の平面運動を支配する法則を学び,機械,複合とねじり振子,動いたり回転したりする固体への応用を取上げる。また仕事とエネルギー,その機械への簡単な応用を学ぶ」というのであった。

 スティーブンス時代のサンディについて学友ビリー・ドルー(結婚する時,カルダーの付添人となった)は次のような手紙を寄せられた。「最初から強く心に残ったのは,非常に静かで暖かい人物だということだった。身体を動かすという純粋な楽しみのために,彼はフットボールとラクロス(球戯)をやっていた。ダンスにかけては,彼はど女の子を早く回転させたものはいなかった。しゃれが大好きで,それを言う時はあの楽しそうなくすくす笑いをするのがくせだった。まったく別の面について言うと,彼は明晰な精神の持主だった。難かしいとされていた図形幾何学で,サンディほ問題用紙を眺めて答えを描き,内ポケットに突っこんで,どうしてそんな簡単な科目をわざわざ教えるのだろうといぶかるのだった。かといって彼は決してくそ勉強家ではなかった。

 サンディが人のことを傷つけたり,思いやりのない言葉を言ったりするのを聞いたことがない。彼が稀に怒ったりするのは,学生でも教授でも不正なことをした場合に限られていた。」

 カルダーはアート・スチューデソツ・リーグ(1923−1926)に通ったけれども,アカデミックな方法にはあまり影響を受けなかった。型にはまった美術専門家というより,彼は常に独創的なクラフツマンだった。1925年にニューヨークの14丁目に住んでいた頃,彼は一方の壁に天井から床までサーカスの絵を描き,もう一方の壁には,熱帯風景を描いて,本当のバナナやオレンジを針金で突きさしていたという。これは,異る素材による構成の始まりともいえよう。カルダーの有名なミニアチュアのサーカスとサーカスのスケッチのシリーズのもとは,1925年に「ナショナル・ポリス・ガゼット」紙に描いたリングリソグ兄弟・バーナム・ベイリー・サーカスのスケッチである。カルダーの彫刻家としての経歴は50年前のこの「サーカス」から始まったのである。これがその後の全作品の出発点だった。彼の『サーカス』上演はパリの美術界で注目され,この作品を通して当時の前衛芸術家達と会い,その作品に接することになった。

 1931年は抽象彫刻によって最初の展覧会を開いた年だが,カルダーはこの年インビューに応えて次のように語っている。「何故,パリに住んでいるかですって? パリではクレージーとよばれるのはほめ言葉だからですよ。」28歳でパリへやって来た時,カルダーは有能なイラストレーターであり,気のきいたユーモラスな玩具を作っていた。その彼がパリの前衛美術家に刺激されて本格的な抽象芸術家に変ってゆき,ついにほ国際的な芸術家になったのである。 当時のアメリカ美術界の地方的な限界内にとどまっていたなら,カルダーがそこまで到達できたかどうかほ疑問であろう。実際,その時代のアメリカ人の大多数は現代芸術をクレージーと考えていたからである。

 影響といえば、アフリカ部族芸術のいわゆるプリミティヴイズム(原始主義)の影響が,カルダーの装身具の多くやグアッシュとドローイングのあるものに反映している。芸術家からの影響については,アルフレッド・パーは著書「キュビズムと抽象芸術」(1936年)の中で,モンドリアソ,ガボ,アルプ,ミロを,カルダーにとって最も重要な美術家として挙げている。カルダーの画商だったクラウス・パールズは・これらの他にレジェを加えたいといっている。ミロはカルダーの没するまで個人的な親友だった。両者の間のスタイル上の関連性は、特にカルダーのグアッシュにみられるし,カルダーの「星座」という彫刻のタイトルがミロの絵の題から採られていることによつて示されている。カルダーの家の壁には,モンドリアン,レジェ,タマヨ、トゥールーズ、ロートレック、タンギー,エルンスト,サレムや他のカルダーの敬愛する芸術家の作品の他にたくさんのミロがかかっていた

 アブストラクシオン・クレアシオン以外,カルダーはどの芸術運動やグループにも加わらなかったが、現代芸術の最も重要な動向のすべてに関心を抱き続けてきた。いくつかの重要なシュールレアリストの展覧会に参加したし,ハンス・リヒターの映画「金で買える夢」には2つのシーンに出演している。カルダーの最もよき理解者で批評家のジェームズ・ジョンソン,スウィーニーは,カルダー芸術の精神はダダと多くの類似点があると指摘している。マルセル・デュシャンはフランスでもアメリカでもよき友人だった

 「モビール」という名前を作り出したのはデュシャンだし,スウィーニーと一緒に「星座」という命名の際にも助言している。デュシャンと同じく,カルダーも二カ国語のもじりや二重の意味のある表現をいつも楽しんでいた。デュシャンのもじりは頭脳的で,どちらかというと謎めいていたが,カルダーのユーモアは俗っぽくて,困らせるのでなく面白がらせるといったたぐいいのものだった。インディアナ大学のために作った大きな赤いスタイビルにつけたPeauRonge・Indiana(フランス語で赤い皮膚−アメリカン・インディアンのこと)というタイトルとか,貞操帯を思い浮かべさせる装身具につけたTheJealonsHusbad(やきもちやきの夫)などの名を好んでいた。

 カルダーは1930年にピート・モンドリアンのアトリエを訪ねた時のことや・それに続く抽象美術への転換については詳細に語っている。モンドリアンはカルダーが直接影響を受けた数少ないひとりである。この画家との関係で興味深いのは,モンドリアンは単に出発点としての役割を果たしただけで,抽象作品を作り出すという問題の解決はカルダー自身で見つけていったということである。

 ヨーロッパの政治情勢を憂慮して、カルダーとその家族は1933年にアメリカに帰った。当時の重要な芸術家の多く,特に亡命中のヨーロッパ芸術とはその後も連絡を保っていた。アメリカにもどってからは,他からの外面的な影響は急速に減少してゆき,カルダー独自の新鮮なスタイルが現われるに至るのである。

 友人達は語る…・‥人間として・そして友人としての・サンディはナイアガラの滝のように大きな心の持ち主だ。芸術家としてのカルダーは大洋のような力の持ち主だ。サンディ,君に敬意を表する。−ホアン・ミロ

 サンディ・カルダー・・・哲学と遊び,正確さと自由奔放,気まぐれと永遠,これらを結合させ・彫刻作品の個人的商標とした芸術家。これほどもったいぶらず,こんなに多くの喜びを与えてくれる芸術家が他にいるだろうか?他のだれが,雪の花びらを震わせ・反響する天井を雲のように壮大に漂わせることができたろうか?この国のオプティミズムとひょうきんなユーモアをこれほど生き生きと表現したアメリカの芸術家はいなかった。                   −キャサリン・クー

 サンディ・カルダーはその最初からスタイルを持っていた。私がいちはん敬服するのは,彼が常に成熟し続け、いつもその時点で最長の仕事をしたということだ。彼は我々の国のもっとも偉大な彫刻家のひとりだ、が私はアメリカの彫刻家として限定したくはない。カルダーは世界的な人物だと思う。                ー ルィーズ・ネベルスン

 もしサンディ・カルダーの言ってることを分かるものがいたなら,私はその人を神と思うだろう。私は彼を信仰しているからだ。ー アーサー・ミラー

 私はカルダーの業績を,芸術家として、友人として・40年以上にわたって見続けてきた。彼のモビールとスタビルは世界中に知られ,愛されている。しかし,それらの作品でさえも,彼の並外れた人格のスタイルをあらわにはしていない。      一 アルフレッド・H・バー・ジュニア

 彼と妻ルイーザは,また,市民として、責任ある個人としてどのように生くべきかを我々に示してくれた。1966年に・平和運動支持の一面広告をニューヨーク・タイムズに出して,「理性は反逆ではない」と訴えたことを忘れることはできない。この言葉は,その時期に,そのような場で,我々が読むべきものだったのに,誰もあえていおうとしなかったのである。みんな知っていることだが,カルダーと一緒にいることは大きな楽しみである。かみしもを着たお偉方といったところが全くない。しかし,彼が成しとげたことは誰でもができるものではないし,またなろうと思っても,内なる強さなくしては彼のような人物にはなれない。作品と同じく,その人も材料は鉄なのだ。                                            − ジョン・ラッセル

 1937年,スペイソで内乱が続いている最中,スペイン共和国はパリの万国博覧会にパビリオンを建てた。ピカソ,ミロ,ゴンザレス,アルベルトが壁 画や彫刻を出品するよう依頼された。スペイン政府はコミッショナーのホセ皇・ガオスに水銀の噴水を設置するよう要請した。アルマデソの水銀鉱山が反乱軍によって占拠されていたからである。そのような噴水は,1929年のセビリアの博覧会で作られたことがあった。それは水銀を水のように見せた想像力のないデザインの見本であった。そんな噴水をピカソのゲルニカの前に置くことなどとうていできない,といったところ,ガオスは新しいデザインをしてくれるスペイン人の芸術家はいないだろうかと私に尋ねた。そういう条件にかなうようなスペイン人の芸術家は知らないと私は答え,だが,カルダーという名のすばらしいアメリカ人の彫刻家なら何か目を見はるようなユニークなものをつくるだろうと言った。

 サンディはその仕事を引き受けた。数日後,彼はデモンストレーション用の模型に使う水銀が欲しいと言ったが,費用がかかりすぎるからと断られた。それにひるまず,サンディは模型を針金とブリキで作り,それが作動することを示すために水銀の代りに鉛の玉を使った。それはうまくゆくのが認められた。モンパルナスの家に帰る途中,私はカフェ・デュ・ドームの向かいの歩道に人だかりがしているのに気がついた。何を見ているのか知りたくて,のぞいてみたところ,サンディが歩道にうずくまって,水銀噴水の模型を水銀を用いて動かしてみせているではないか/ 噴水はすばらしい成功だった。銀のような水銀が黒いタールを塗った金属の造形物に滝になって流れ落ちていた。                                       − ホセプ・ルイス・セルト

 1958年にさかのぼるが,始めてカルダーについて書いた時,私は次のような文句をタイプライターからひねり出した。「未来派彫刻では静的な形態で表現されていた空間での動きという考えが,アレキサンダー・カルダーの発明したモビールでは特別な表現を与えられている。彫刻としては,モビールは構成主義の理論と密接な関連を持っている。しかし,違う点は,モビールにおいては,全体的なアイデンティティを一度に現わすのでなく,空間におけるアイデンティティの連鎖という形をとることである」。

 それ以来,まだ会ったことのなかったサンディと友達になった。私が書いた多音節的批評の本質的な正確さには固執するとしても,その四分の三は的はずれだったと思う。確かにサンディ・カルダーほどその創造生活を純粋に楽しんでいる芸術家はいないだろう。その喜びが、優雅さと活発さと入り混つてすべての彼の作品に見出せる。それは一見して明らかなことで,この最初の批評以来・私はカルダーの芸術についていくつか書いてきたが,すべての20世紀の重要な芸術家の中で、彼ほど説明の不要な芸術家もいないということにずっと気づいてきた。眺めて,楽しむこと、それ以上何をいう必要があろうか。                         − ジョン・カナディ

 サンディと仕事をすること、完成した作品に対する予想と期待を共有すること、楽しくしゃべりながら、彼の機智や生き生きしたユーモアで元気づけられて働くことは実に幸せなことだ。疲れを知らず,断固とした堅い信念の人。サンディの試みはすべてオプティミズムをもたらす。彼の生に対する大きな愛と熱情は、その才能と技を通して直接伝達される。それは全人類,全時代の永遠の遺産である。                                     ー カーメン・シーガー

 組立て作業の間,サンディは我々の鋳造所をほとんど毎日訪れ,彼の新しい作品の誕生に立会う。そこで、その作品のサイズにしたがって,ガセット(補強板)の輪郭や厚さ、必要な支柱などについて話し合う。私が僅かながら役を果しているこの長い協同作業によって,私は彼がいかに完璧に空間とバランスの問題をマスターしているかが解かるようになった。我々が敵立てを始めるより前に,サンディはその仕上がりの状態を心に描くのである。

 彼のぶっきらばうでがっしりした外観のかげに、友人達はこの偉大な天才の暖かい人間性、飾らない思いやりをみつけて感服するのである。                       − ジャック・バジオン

 私達が彼の最初の展覧会を春に開くことを提案すると、彼は驚き,また喜んだ。クリスマス・プレゼントとかツリー・デコレーションと関連した12月の展覧会ではない/そうすれば、彼の芸術はほんとうに真剣にうけとられるだろう。彼はあらゆる金銭的ならびに作品発表の管理を私達にまかせた。そして決してギャラリーよりも安く売ろうとはしなかった。通常はぴりぴりしている芸術家と画商の関係だが,彼のいつも変らぬ完壁な礼儀正しさのゆえに,この20年の間,私達も最善の礼儀をつくし,それで完全な相互信頼の関係が確立されたのである。我々の狭い美術界にあっては何という喜びであろうか   − ドリーとクラウス・パールズ

サンディは語る……                         サンディは,「生まれつき幸せになれるたちである」という「大きな利点」を持っていたと語っている。実際,彼の人生は早くから,楽しい出来事や人々で満ちていた。有名な名前が彼の個人史には何度も何度も登場する。多くは親しい友人であった彼等を任意にあげてみると,モンドリアン,ホアン・ミロ,アンリ・マチス,アーシル・ゴーキー,パーヴュル・チェリチエフ,メレ・オッペンハイム,ローレン・マッキーパー,ジョン・パイパー,ケイ・セージ,ピーター・プリューム,ウイリアム・アインスタイン,ベン・シヤーン,エペレット・シソ,ヘンリー・バーナム・プーア,ジャン・ティソゲリー,ニキ・ド・サン・ファール,アルベルト・ジャコメッティ,ヘップワース,マーセル・ブルーアー,ペギー・グッゲンハイム,ジョー・ミールジナー,バージル・トムスン,ジャン・ポール・サルトル,ジョン・ドス・パソス,アーサー・ミラー,マリア・マネス,エドワード・スタイケン,アンリ・カルティエー・プレッソン,ジェームズ・スロール・ソピー,ケネス・クラーク,ダニエル・カトン・リッチ,ジョン・ウォーカー,リンカーン・カースタイン。彼ほほとんどどんな人とでもうまくやってゆけた。    −ピカソ,ヘミングウェイ,ダリは有名な例外である。「ライフ」誌の記者の悲しかったことはという質問に答えて,「私にはその時間がありません。悲しくなりそうだと思ったら眠るのです。そうやってエネルギーをためるのです。」といっている。生涯を通じて,どんな分野においてもその作品は純粋な喜びが中核になっている。概念においても,手法においても,色彩においても。そのすべてが見る人に直接喜びを伝達するのである。

 趣味について。夫人のルイーザが、台所用の水差しと洗い桶を買いにいった時のことを語っている。「水差しは、丈が高く,ほっそりとした円錐形の美しいものだ。ところが,ルイーザが買って釆たのは太くてずんぐりしていた。彼女は、『台所に置くのだから,あなたの目にはふれないわよ』と言う。しかし、私はかっとなった。水差しと洗い桶を持って地下室に下りてゆき,その両方に釘を打ちこんだ。私の考えでは,いいと思わない物を受け入れたらおしまいなのだ。そのうち似たようなものを益々手に入れるようになる。これは,自分が好きではないものを人にあげるのと似ている。人はそそういう種類のものが好きなんだと思って、こんどは同じような質のものをこちらにくれるようになる。悪い趣味というものはいつでもブーメランのように自分のところに戻ってくるのだ。」

 作品について。「暇な時間を最も良く利用する方法を知らなくてはいけない。それは新しいものを考え出すのに刺激的な雰囲気だ。」「時々,作った作品をこわしたくなることがある。しかし,その時私は改良する。」

 「或る作品が気に入らなかったとする。そうすると,それはよくないのだ。これが私の唯一の批評の基準である。」

 「私は自分の仕事こ対する反応には無関心な態度をとってきた。そうすれば,自分のしたいことに専念できるからだ。」

 カルダーは「アート」という言葉の代りに「ワーク」という言葉を使う。また、ひとつひとつの作品をよぶのに普通は「オブジェクト」という言葉を使う。そうすれば、「誰かがやって来て,これは、彫刻ではない。と言ったとしても,弁護しなくて済むからだ。」彼ほモビールというような一般的な言葉を使うのを好むが、その後の何年もの間に他の一般的なタイトルも考え出している。Towers(塔)・Gongs(鐘)・Totems(トーテム),Crags(突き出た岩)などである。特定のタイトルが便利であることは彼も認めている。

 「時には,そのもの全体からタイトルを思いつき,時には部分からだったりする。」しばしば,彼のタイトルは純粋に叙述的である(赤,黒,青)。多くは動物や,自然現象をあらわす(かに,風雪)。ケネディ空港の大きなモビールのタイトル「. 125」(材料の金属の厚さ)はカルダーの工学の知識からきている。また言葉の遊びも大好きである(Gwendolyn Cafritzという名の女性からの注文で制作したスタビルにGwenfritzというタイトルをつけたので,彼女はびっくりした)。

 彼はまた,注文制作についての依頼者の考えが彼の考えに合わなければ,気にしないでそれを無視する。カルダーがグッゲンハイム美術館のために黒い大きなモビールを計画していることを聞いた建築家のフランク・ロイド・ライトは,それを金で作って欲しいとカルダーに伝えた。カルダーの答えはこうだった。「分かりました。金で作りましょう。でも,それを黒く塗ります。」プリンストン大学のキャンパスのための大きなスタビルが,卒業生のアルフレッド・バーの提案でオレンジと黒に試し塗りされた。カルダーはこれに対して,”ノー”と言った。それで現在はプリンストンの色であるオレンジと黒ではなくて,カルダーの黒になっている。

 カルダーは言葉の浪費をしなかった。ホイットニー美術館のコレクションに入っているカルダーの作品に関する質問書に対する回答はその典型である。質問事項の中に,”制作方法(詳細に)”というのがあった。3点の作品についての彼の返事は次のとおりだった。『二重のネコ』については「のみと木づち,石目やすり」,『年老いた牡牛』については「切って曲げた」,『インディアンの羽』についてほ「模型を作って,それをツールのビュモン工場に持っていった。」彼の仕事について独断的な質問をされると,カルダーは1958年の展覧会「抽象の中の自然」のアンケートに対する回答のようにきわめて彼らしい返事をする。

 貴方は御自分の仕事に,自然が何らかの重要な関係を持っているとお感じですか? 「すべては自然なのです。想像できれば,それを作れるのです。」 自然が重要な関係を持っているとしたら・それを貴方は意識しています か,それとも潜在意識的なものですか?           「それについて考えないだけです。」 抽象芸術家として、貴方が自然にひきつけられるのは,そこに感じられるある永遠な特性とか力によるのだと仮定すると,貴方のお仕事は貴方がこれらの特性や力に対して持つ個人的な関係の主観的な表現だとお考えですか?             「私はベストをつくしているだけです。

 ユーモアは、カルダー芸術の本質的要素である。言葉の機知も同様に彼の性格の際立った特色である。或る時・われわれは,製作中のスタビルを見に,シーガー鋳造所に行くことになった。カルダー家の車回しを出る時,私の夫がルイーザに,そこに見える光った金属屋根の大きな納屋は誰のものかとたずねた(当時・マリリン・モンローと結婚していたアーサー・ミラー夫妻が隣りに住んでいるとは知らずに)。サンディはうたたねしようと目をつぶったばかりだったが、「あれがマリリンのお熱いブリキ屋根さ。」とつぶやいた。

 別の年、これはサッシェで,だったが,「アートニューズ」誌に載ったディヴィッド・スミスの言葉について私はサンディに話していた。スミスのある彩色彫刻を買ったコレクターが塗料を落してしまったため,それは60ポンドの重さの鉄のスクラップの価値しかなくなってしまったというのである。明らかにスミスは・それほもはや自分の作品ではないといいたかったのだ(サンディが面白がることを私は知っていた。何故なら,彼はディヴィッドをはっきりライバルだと見なしていたわけではなかったが,スミスがアメリカの最も重要な彫刻家だと折にふれていわれることについてはあまり同意したくないようだったから)。サンディが聞いた。「そのコレクターがディヴィッドの彫刻をどうしたんだって?」私はいった。「いったじゃない?塗料を全部落しちゃったのよ。」サンディの言葉。「それで,ばらばらになっちゃったのかい?」

 カルダーはフランスやコネティカットの世間から隔絶した村に住んで,自分の芸術と選ばれた芸術サークルのみにしか興味がない人間ではなかった。彼とルイーザは,常に社会的,政治的問寮に関心を持っていた。彼は文化的,社会的,政治的目的のために,多くのポスター,リトグラフや他の作品,金銭を寄贈している。

 カルダー夫妻は早くから精力的に,アメリカのベトナム参戦に反対していた。1965年には,

 ”SANEのための美術家’’(SANE一正当な核政策のための委員会)の議長として,グループを率いてワシントンへ拡大する戦争の抗議に出かけた。ルイーザと一緒にニューヨーク・タイムズに全頁広告を載せて,米国人に1966年の新年の挨拶とともに,新しい年を平和にささげるように訴えたこともある。1972年にはウォーターゲート事件の嵐よりずっと前に,再びタイムズの広告で,他の広告主と一緒にベトナム戦争についてのニクソン行動が達意だという理由で,リチャード・ニクソンの辞職を求めている。サンディはどんな状況でも自分が受け入れることができないと思ったら決して妥協しない。前にも述べたように,それが仕事に関することであれ,政治的な問題であれ,また,人とのつきあいでさえもそうであった。

 大きな事柄だけでなく小さな事でも,カルダーほ自分の生活についてはやりたいようにやったが,それほ彼の服装にもあらわれていた。いつもだぶだぶの作業ズボンにL.L.ピーンの赤いフランネルのシャツを着ていた。改まった席では,着古したグレイの背広に着かえるが,赤いシャツはそのままだった。若い頃から,型にほまらない服装で有名だった。彼が最初にパリにいった時,「オレンジに黄色のしまが入った本場ツイード」の特別仕立ての背広を持っていった。それに昔の校友会のリボンをつけたかんかん帽といういでたちなので,「かんかん帽をかぶったマスク・メロン」というあだ名がついた。マーサ・グラハムのマネージャーをしていたフランセス・ホーキンズは,こんなにエレガントでないカルダーのかっこうを覚えている。

 スゥイニーが指摘しているように,型にはまった服装に関心を払わないことは,人が思うよりも重要な意味を持っている。

「木こりのようなシャツ,好き勝手にししゅうしたネクタイ,だぶだぶズボンのカルダーほくつろいで生き生きしている。タキシードを着たカルダーは大仰(おおぎょう・おおげさ)でぎこちない。カルダーの普段の服は遊びと夢というダンディの服装の重要な特質を全部そなえている。紋切り型の服装はカルダーを精神的に圧迫する。これは彼の芸術についても言えることである。」

 批評家は語る……                         今日,彼の作品はほとんどあらゆる国で見ることができるが,その膨大な作品には,驚くほど広範な主題,素材,規模,スタイルが含まれている。多分ピカソのそれに匹敵するといえば一番当っているように思う。術評論家のバーバラ・ローズはカルダーは多くの点でピカソと似ていると評している彼が触れるものすべては生命を持ち,喜びと斬新さでみたされる。ピカソのように,彼も「永遠の子供で,決して直観力の衰えない純真な人。その無垢な目であらゆるものを新しく見つめる」と。

 カルダーの子供のようないたずらっぼい気質は多くの人々によって描写されている。フランスの評論家ミシェル・スーフォールは現代彫刻についての著書の中で,カルダーを「ジャイアント・チャイルド」と形容している。スーフォールはまた1930年代のパリジャンの生活を描いた小説,「甘美な田舎」でカルダーの『サーカス』の上演を目に見えるように生き生きと描いている。「子供だ,このカルダーという男は……おとなのかっこうをした子供‥・‥・子供の不思議さを全部そなえた‥‥‥」

 スウィーニーはその著書「アレキサンダー・カルダー:作品と遊び」を次のような文句で始めている。「カルダーは一貫して芸術と人生で遊んできた。しかし,カルダーにおける遊びは決していいかげんなものではない。それは真剣だ,といって決してしかめつらしくはない。遊びはカルダーにとって尊敬し,真剣に扱わなくてはならない必要なものなのである」。 レジェはかつてカルダーを「100パーセントのアメリカ人」と評した。セルデン・ロッドマンも「アーティストとの対話」の中でそれに賛成している。

 「彼はつましさ,温和,活力,創意,プラグマティズムに富んでいる典型的なアメリカ人だ。理論や概念ぎらいもアメリカ人らしいし,ドライなユーモアもそうである。仕事がうまくゆけばそれで充分なのだった。

 ニューヨーク近代美術館での1943年のカルダー回顧展のカタログで,スウィーニーはカルダーのスタイルを見事に要約している。」

 「豊潤,軽快,活力…‥・ユーモア‥‥‥威厳……これらすべてが,素材への感受性と新鮮な構成に対するあくことを知らない関心とあいまって,アレキサンダー・カルダーの創造の特徴を形づくっている。

 カルダーの芸術の最も顕著な特色は,アメリカの開拓時代から受けつがれた特性である。鋭さと好奇心の入りまじった荒々しい強さ,実際的で創意にみちた発想,間に合わせの方法を即座に見つける考え方,物質的なものの見事な把握のし方,たくましく力強いエネルギー,自由と快活さと豊かさ。だが,カルダーは時代の子である。彼の言語はアメリカの彼の時代の言語である。科学,工学,力学などの未知の分野が人々の想像力を支配している時代である。百年前に未知の辺境が人々の心を占めていたのと同じように。

 カルダーの成熟した作品は国際的に養われた感性とアメリカ固有の独創性との結合である。その作品の個性によって,カルダーは国内でも国外でも・現代芸術家としての地位を確立したのである。

 10年前に,バーバラ・ローズはこう述べた。             「カルダーの仕事は,小型のサーカスから大きなスタビルにいたるまで,最も高度な創造的営みの記念碑であり,楽観的姿勢を持ち続けることが益々困難になっている現代における肯定の証言である。」

 詩人ジャック・プレヴェールはカルダーの魔術を6語で表現した。「彼は楽しみを与える。それが彼の真髄だ(Hegivespleasure,that’shissecret)。」

 


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