彫刻家の仕事

■イサム・ノグチ、彫刻家?

 イサム・ノグチは20世紀彫刻の領域の越境や概念の拡張を、デザインや建築などの領域で早々とやってのけたような印象すらある。しかし、そのプランの拒絶や相次ぐ変更といった先駆者の苦労は我々の想像をはるかに越えるものだったが、それを持続したのも新しい試みへの意欲と同時に根幹に据えたノグチの哲学があったからのことである。それは、20世紀の思想的な新機軸への賛同と芸術の民主化・生活化の理念と言える。では、昨今流行の「空間・環境デザイナー」、「ランドスケープ作家」とか、広く「デザイン」といった名称の仕事を生み出したということなのだろか。

 ところノグチはあくまで「彫刻」の概念と領域にこだわったと私は考えている。一言で言えば、人間の生と精神の象徴としての「形態」の探求こそが生涯を通じて貫かれていると見るからであるノグチは言っている、「問題は彫刻作品が用途を目的としてつくられるか否かではなく、作品が生きていて、作品の回りの空間に生命をあたえるか否かである」と。この彫刻概念の原点と実態は、ノグチとブランクーシの関係から明瞭に見えてくるし、20世紀彫刻の全領域をカバーしないまでも、最良の核を形成している。

「私はひざまずいた女性のかたちと『祈る人』という観念を追及し、ようやくそれに到達した。私自身の道を見出して、救われた思いだった。正確な(対象)の 模倣は屍体をうむだけである。私のこの作品を抽象ということは馬鹿げている。それがいかに抽象的な性格をもっていようとも、それはきわめてリアルなのだ。 リアリティというのは外形ではなく観念のことであり、事物の本質のことなのである」 Brancusi, in Claire Gilles Guilbert, “Propos de Brancusi,”Prisme des arts 12(December 1957)

  ノグチが庭園や建築を設計し実現したとしても、それは彫刻概念の拡張であるまえに、彫刻の普遍化であった。ノグチが彫刻から始めたといった経緯の問題でもなく、また、彫刻中心主義という不遜な態度から発したものでもなかった。彫刻はあらゆるものを語ると彼は確信していったからである。要約すれば「彫刻のシンボリズムの力である。

 しかし、それゆえか、ノグチは20世紀の美術史(特にアメリカのそれ)に定位しにくい存在であったことも事実であった。様式化を嫌い、常に挑戦しつづけたノグチの作品世界は、外見では折衷主義の様相を呈した。

■2人の彫刻家

 ノグチが、ルーマニア出身でパリで活躍した彫刻家コンスタンティン・ブランクーシから学び、生涯自分のものとして展開したもの、それは「形態の単純さ」であり、生命の象徴となる形態である。1926年、ノグチはニューヨークのブルマー画廊でブランクーシの作品を見て感動し、翌年ケソゲンハイム奨学金を得てパリを訪れ、きっかけからアシスタントにしてもらった。ノグチ22歳、ブランクーシ50歳の時である。

 この6カ月間に、ブランクーシの圧倒的な影響力の下、自分の作品がなかなか作り出せなかったという。そうした苦闘の中から数点の抽象作品が生まれ出た。

 抽象的な形態は冷たい。暖かい生命を宿した抽象的な形態を模索していたノグチに、ブランクーシは正しく啓示であった。しかし、その海神を受け継ぎつつも様式を模倣せずに、独自の彫刻を模索していたノグチにとって、出口はなかなか見つからず、やっと制作可能になったのが<足のような木>のような伸び上がる動勢とふっくらしたボリュームをもった暖かい形態であったり、

Img07-WM<レダ>(1928)のように、キュビスムの痕跡を残しながら金属の薄い掛こよる、 同時に空間と形態の造形であった?

 ノグチがブランクーシに関してまとまって語っているものでは、シンポジウム「ブランクーシ一芸術と哲学の相補性」(1976年、ニューヨーク、フォードハム大学)での発言があるし、その影響は作品にも明らかである。神話の鳥のトテームポールのような形態とタイトルからしてもくブランクーシを讃えて》(1966−71、横浜美術館蔵)は直接的な影響関係を雄弁に語っているし、飛翔への意志と 生命の温もりを体現した、鳥をモティーフとした作品等がある。また人体のエロティックな形態の作品を制作中に、これがブランクーシに似すぎているという指摘に対して、逆に嬉しいとして、「過去や誰かとの連続性は一種の根拠の確かさなのだ。関連性の指摘によって、何が付加されたか、また何が革新的なのか、自分独自のものを判断・評価させてくれる。

■鳥の彫刻

 さらに、私は他人にも自分の過去にも囚われていない」として、ブランクーシとの連続性を自認している。そして、一連の柱状の作品(パイロン)、これには≪レヴァー・プラザズ・ビル庭園〉の模型(1952、実現せず)、≪無限の連結》(1957)から始まって、デトロイトのフィリップ・A・ハート・プラザのもの(1972−79)、東京の草月会館のもの(1977−78)があり、これらはブランクーシの

《無限柱》(1937−38)の引用・再解釈であるが、そうしたなかの<無限の螺旋>(1985)については、ここにブランクーシに欠けていた「トルク」を与えたかったとその意図を語っている。この振れの回転モーメントは、生命感と20世紀の構造とエネルギーの思想をノグチが注入したものである。

 1940年代中頃の、石板を切り出して、その二次元の形態要素を組み上げて三次元の立体彫刻とした〈インターロッキング・オーガニック・フォーム〉は、シュルレアリスムの影響下の有機的形態である机こうした構成には構成主義、ピカソの影響もあり、ブランクーシの単体の単純な形態からの脱皮が目指されていたものの、そこには生命を宿した人間像としてブランクーシに繋がるものを持っていた。ノグチの彼への敬愛は生涯持続された。

■近代彫刻におけるノグチの位置

 近代彫刻のロダンといっても、彼が19世紀に留まった要素と、20世紀を開いた要素は峻別されねばならない。それは、モダン・アート側の、セザンヌからピカソ経由の近代彫刻という文脈とは別のものだとしてもである。ロダンの生命礼賛、造形要素の言語化、裸体像の文節化、作品化・断片化といったものが次世紀に受け継がれた。

 ロダンを筆頭とする同時代の具象彫刻に対してブランクーシは「ビフテキ」と揶揄したが、同時に「ロダンの発見がなかったら、私が実現したことの全ては不可能だったろう」とも評価している。「大樹の下では木は育たない」として、半年間でロダンの下を去ったとされるブランクーシ。ノグチもまた同じような体験をする。

 ブランクーシは生命のシンボリズムを単純な形態に実現した。「単純さは芸術における目的ではないが、ものの現実的な意味に接近すると、意に反して単純さに至る」としている。彼の〈空間の鳥〉や<眠るミューズ>をはじめとする作品にその探求が跡付けられる。最初から球や立方体といった観念的な幾可学形態を目指してなどいなかったのである。

 もちろんノグチにとってブランクーシが全てではなかったし、上述のような芸術環境に身を置いてはいたが、ブランクーシこそが彼の彫刻の師であったと言えよう。ブランクーシはノグチに語ったという。「直接に抽象に行く新しい世代に君は属していて、私の世代がしたように自然から抽象せねばならないことはないのだと。それに対して「純粋抽象は本当に進歩だっだのだろうか。この問題に関しては、進歩があるのではなくて、むしろ持続し、時間に行き渡る何かの認識があるだけなのだ」とノグチは考えるようになった。

 ブランクーシの他にも、ピカソや構成主義は上述したが、エズラ・パウンドやアンリ・ゴーディエ=ブルゼレスカらのヴォーティシズムからエネルギーの山や渦巻きのイメージ、ハーバート・リードの定義した、ヘンリー・ムーアのヴァイタリズムと、シュールレアリスムのハンス・アルプらのオーガニック・フォームといったものを消化して、ノグチは生命とエネルギーの象徴を作り出していった。

 ノグチのこうした象徴的造形は幾何学的形態と有機的形態の二極に分類できようが、前者は<赤い立方体>(1968)、後者は〈黒い太陽》(1969)その代表例である。

  しかし、これらの独立した形態は庭園の一要素からの独立として作品化したものだということも忘れてはならない。≪赤い立方体〉は幾何学の権化である立方体を一つの頂点を支えにして立たせてている。ノグチによれば立方体は、サイコロであり人間の運命である。<黒い太陽>は、宇宙の工ネルギー源であり無でもあり、生命を暗示する有機的形態でもある。