彫刻家&建築家

■イサム・ノグチと丹下建三の建築の相違

藤本 照信

 イサム・ノグチと日本の建築界との縁は深い。ノグチは、母と二人だけで過した茅ヶ崎での少年時代に、大工(指物師)の徒弟をしたことがあると伝えられるし、戦後すぐ1950年に来日した時には、谷口吾郎や丹下健三とのつき合いが生じ、谷口と共同で、父である詩人の野口米次郎を記念する「万来舎」を慶応大学に作っている。65年には、「こどもの国」の遊具や洗面所を手がけ、84年には谷口吉生の「土門拳記念館」の庭をデザインした。

 最終作の<モエレ沼公園>は、アーキテクトファイブの川村純一が実施設計を手がけている。共同作品はないけれど、磯崎新は、ノグチの作品と動きをじっと見つめつづけてきた。

 戦後、19年ぶりに来日したノグチの歓迎会におそらく谷口吾郎から誘われて出席した丹下は、自分の仕事について話した。当時、丹下は、出世作となるかの「広島ピースセンター」の建設と取り組んでおり、その一環として原爆被害者の霊を慰めるためのモニュメントをどうするかに迷っていた。コンペの段階で丹が提案した、ル・コルビュジェの「ソヴィエト・パレス計画」から引用した大アーチは技術的にも予算的にもむづかしく、頓挫をよぎなくされていたのである。丹下どこまで具体的な話しをしたか分からないが、3ケ月後に三越デパートで開かれたノグチの個展に、島の鐘の塔と題するマケット(彫刻模型)が出された。丹下は自分の計画に一枚かんでもらうべく、ノグチを広島市長に紹介し、まだ焼野原のままの現場へ案内した。日米の狭間に生れ、日米の戦争に複雑にし深い傷を負っていたノグチは、「わたくしたちの作業場(東大の丹下研究室)にきて、何かに憑れた人のように、粘土とたたかいはじめた」(丹下の証言)。そして、広島の原爆慰霊碑案〉が生れる。

「広島の鐘の塔 1950年模型」      「原爆ドーム1951年」             

 しかし、アメリカ人の作品では死者の霊は浮かばれないという根本的反対が起こり、ノブチの精魂の注がれた傑作は実現にいたらなかった。おそらくもし実現していたら、20世紀彫刻の名作の一つとなったことは疑いないが、しかし、原爆ドームを隠して自作を前面に立てるノグチの案はやはり実現しなくてよかった、私は考えている。

 モニュメントは幻に終ったけれど、ピースセンターの敷地の左右に架かる二本の橋のデザインはノグチの手で完成している。

 以来、ノグチと丹下のつき合いは長くつづき、二代目「草月会館」(1977)ホールの石の空間をノグチは手がけているし、川村純一がノグチの仕事を手伝うようようになったのも川村が丹下事務所のスタッフだった縁による。丹下の最高傑作なる代々木の「東京オリンピックプール」のマジカルなまでに巧みな巴型プランは二人で食事中にハシ袋に描いて教えたものだ、とノグチは語ってもいる。ハタメイワクなまでに強い個性の持ち主であるノグチと丹下は、どうして互いに引き合ったんだろう。

 まず、二人の個人史に根ざす深層心理上の理由があると私はにらんでいる。よく知られているようにノグチの女性関係はあまりに華やかである。そうなった理由は、深層心理的に分析すればマザー・コンプレックスにほかならない。幼き日の母との関係がアンバランスなまでに濃くかつ複雑だった。その結果、ノグチの心理は、大人になってからも「母なるもの」を求めてさまようことになる

 ノグチほど激しくはないが、母に溺愛されて育った丹下の心理も、思春期以後、母からの独立と母への回帰の間を揺れることとなり、女性との関係が単純でなくなる。

 「母なるもの」・・を求める心理が、男をしてどうして父権的で記念碑的な彫刻建築に向わせるのか私の知るところではないが、ノグチにも丹下にもそういうところが観察されるのである。

 物を作る者として二人が引き合ったのは、テーマが似ていたからだ。出会った頃、二人とも同じ難急に取り組んでいた。

 彫刻家・ノグチは1904年、建築家・丹下は1913年、共に生れに一世代の間はあるが、二人の前に立ちはだかっていた壁は同じで、”科学技術の時代”と”インターナショナル”をスローガンにして1920年代に確立したモダニズムの芸術、具体的にはノグチの場合はブランクーシ丹下の場合はバウハウス、が立ちはだかる。

 “科学技術”と“インターナショナル”の二つを掲げる造形の道は、19世紀までの歴史、文化、風土、地域といった言葉で説明される世界、いってしまえば“血と大地”の領分を離れ、合理と機能へと向う。目の前の具体的存在に含まれる歴史、文化、風土、地域といった爽雑物のなかから存在のエッセンスを抽象しようとする。存在から抽象へと向うのだが、このスリリングで蠱惑的(こわくてき)なアバンギャルド過程が1920年代にバウハウスやブランクーシの抽象的表現に行き着いた後、まだ20世紀は80年も残っていた。

 <広島の鐘の塔〉1950年/模型/テラコッタ木組み:1986年

 1920年代の革命的核嬢発的モダニズム過程を生きた先生世代に一歩遅れて造形表現の舞台に登場した第二世代はどうすればいいのか。師の世代をさらに洗練するか、原理から引っくり返すか、原理は踏まえて別の方向を目ぎすか。三つに一つ。

 ノグチと丹下は、モダニズムの原理を踏まえて別の方向を選んだ。別な方向の標示板には「伝統」と書いてあった。その下にやや小さくしかし深く「血と大地」と、さらに下にはもっと小さくもっと深く「存在」と刻まれていたはずだが、先を急ぐ二人の目には「伝統」の二文字しか映らなかったようである

 伝統、具体的には日本の伝統をさすが、長い日本の歴史のなかで成立した幾筋かの伝統のうちどの筋を二人は目ざしたんだろうか。

 当時(昭和10年代・20年代)、日本のモダニズム陣営のなかで日本の伝統といえば桂離宮のことを指していたが、丹下はその軽さと明るさ、一言でいえば抽象性を毛嫌いし、代りに伊勢神宮の存在感をよしとしていた。伊勢神宮の奥に丹下が見抜いていたのは、1942年の「大東亜建設忠霊神域計画」のなかで明言しているように埴輪に象徴される古墳時代の造形だった。古墳の墳丘、埴輪、銅鐸、曲玉、などなど。建築史的にいうと伊勢神宮は古墳時代の妻族の家に由来する。

 ノグチはどうだったか。幼き日を日本で過したノグチは、彫刻の道に進んでから、間に日米戦争をはさんだ1931年と50年の二度、日本各地をたずねている。一度目の時にノグチを打ったのは師のブランクーシが軽侮していた素焼きの造形で、とりわけ埴輪こ魅せられ、京都帝室博物館で研究している。当時、ノグチは本心では日本嫌いの無名の青年彫刻家にすぎず、日本でのさまざまな便宜は自分たち母子を一度絶てた父の野口米次郎の尽力による。ちなみに丹下は当時、旧制広島高校の二年生。

 そして1950年、彫刻家の道に進んでから二度目の来日の時、ノグチは丹下と話したのをキッカケにして<広島の鐘の塔〉を作成するが、そこには古墳時代の銅鐸を模した釣鐘が五つ吊るさげられていた。それを見て丹下だけがノグチの求めているものを理解したにちがいない。

 そして、丹下の依頼で<広島の原爆慰霊碑案〉が生れるが、それは、黒御影で作った高さ4mの巨大な銅鐸とでも呼ぶべき姿をしていた。

 二人は、古墳時代の造形、その力強くマッシブで存在感に満ちてしかもどこか温かくて柔らかな造形によって、モダニズムに伝統の息吹を吹き込み、新しい道を開こうとしていたのである。

 二人はよき理解者として戦後を一緒に走ることとなるが、しかし、別れの時がくる。丹下は1964年にオリンピックプールを完成させた後、それまでの道から未来の情報化社会へと進路を変える。二人の乖離が誰の目にも明らかになるのは二代目「草月会館」で、丹下の鉄とガラスのクールなビルのホールに、ノグチの岩の彫刻が溶岩のようにあふれ返り、建築と彫刻はお互いを殺し合っている

 丹下は、古墳時代の造形を埴輪や銅鐸の段階でとどめ、建築デザインに即していうなら古墳時代の造形の生命を打放しコンクリートに注ぐところまででとどめ、以後はしだいに金属とガラスと石によるツルツルピカピカの箱形の建築へと向った

 一方、ノグチは、未来型の社会を目ざして舵を切る丹下を尻目に、古墳時代の造形を埴輪や銅鐸といった器物の段階にとどまらず、器物を納める古墳の墳丘まで掘り下げ、大地の造形へと深化してゆく。

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