絵画のたくらみ(パウル・クレー)No.2

■石切場からはじまる

 パウル・クレーは日本でもよく知られた画家です。しかし、彼の仕事をたとえばあの愛らしい天使のドローイングに代表させてしまう見方は、実はかなり偏ったものだと感じざるをえません。また、美術史家ヴィル・グローマン1929年に著した評伝には、前衛的な実験や社会との軋轢とは無縁な、おだやかで思慮深い画家の姿が描かれていて、多分にクレー本人の自己演出を反映したそのイメージが、後のクレー像を一般に決定づけることにもなりよした。

 しかしながら、この30年で、クレーに関する研究はあらたな展開を遂げてきました。まず1976年ドイツ人美術評論家オットー・カール・ヴエルクマイスターが画家の政治的・社会的背景を視野に入れ、客観的資料に基づいた意欲的な評論を発表しはじめます。1988年にはヴォルフガング・ケルステンの手によって『クレーの日記』 の改訂版が出版されました。

 この日記には幼年期の思い出から38歳までの日々が綴られていますが、画家本人が他人に読まれることを意識して、後にかなり改竄を加えていた箇所が1957年の初版以来そのままになっていたのです。また、1996年には画家の故郷であるスイスのベルンで国際的なシンポジウムが開かれ、1999年にはじまったカタログ・レゾネ全9巻9418番までの作品を収録)の刊行も2004年に完結。そして2005年6月には、約4000点の作品を収蔵するパウル・クレー・センターがついにベルンに開館しました。

 こうした新研究や資料整備が一段落したところで、あらためてクレーの絵の魅力や特質を考えてみたいのです。一見穏やかな画面にひそむ実験の数々、ナチスに逐(お)われ亡命に至った1933年の作品群、生涯にわたり絵画そのもののあり方を疑いつづけた反逆精神、そしてただ「忘れっぽい」だけではない天使たち・・・。そこからは批判的でアグレッシヴなクレーの顔が浮かび上がってくるはずです。そう考えたい。

 ところで、クレーはいつどこでクレーになったのでしょうか?1914年のチュニジアで、という・・・・そう考えたいのです。

 クレーは子どもの頃からスイスの自然に親しみ、風景をスケッチしていました。石切場を描きだすのは1907年、27歳の頃からで、当初はごく写実的に描いていたのですが、次第に対象の把握の仕方が変ってゆく。1915年の《石切場》[上図]になると、これはもうタイトルを知らないかぎり、誰も現実の石切場[右頁】を連想でき王せん。一方、チュニジア旅行中の作品

 この石切場という作品では、実際には灰白色の岩肌がさまざまな色に彩られ、大小いくつものブロックに仕切られています。ちょうど石切場が自然(岩)と人為(採石技術)のせめぎあう場所であるように、クレーは自然の風景にキュビスムという人為的な物の見方を重ね合わせたにちがいありません。ただし彼の関心は面の結合からなる立体性ではなく、色と形の組み合せ全体から生じる表情にありました。画面中央やや左に色彩の変化のスケールとして・・・。

 クレーは60年の生涯で厖大な数の作品を遺しました。親しみやすい画家なのに、技法も主題もさまざまで、よく考えると全体像がつかみにくい。いちばんの特徴というと?

 時間の描き方ではないでしょうか。つまりクレーは画面の上に時間を、さまざまな形をとった「うごき」として描きだした。じつさい彼の作品の多くに見られる特徴のひとつは、空間である画面に、あえて時間を表現しょうとするチャレンジです。まず最初に、時間芸術の代表ともいうべき音楽を絵画化した作品から見ていきましょう。

 《赤のフーガ》【上図]ですね。フーガ(遁走曲・模倣対位法(対位法)による音楽書法および形式。〈逃げる〉を意味するラテン語fugereに由来し,〈遁走曲〉などと訳すこともある。歴史的にその概念や技法は一様ではないが,17~18世紀の器楽曲の最も主要な形式の一つに数えられる)は、クレーが大好きだった作曲家バッハが18世紀に発展させた音楽形式。主題となるひとつの声部に別の声部が応答し、その後あらたな声部が加わるごとに主題と応答が連続していきます。

 《赤のフーガ》の画面上では円、三角、四角、あるいは壷や菓を思わせる形が現れては消え、消えてはまた現れる。

 どのモティーフもたがいに応答しっつ変化してゆくことに注意してください。画面の左から右へ動いてゆくけれども、画面のあちこちで応答しあう感じが大切です。

 左端の黒い部分はそうした「うごき」の始まりですか?前田 僕には指揮者がタクトを振り下ろした瞬間のようにも思えます。

 赤という色には何か意味があるのでしょうか?

 クレーはカンディンスキーのように「赤は情熱」と色に意味付けをすることもなかったし、青と黄のような補色のコントラストに言及することもありませんでした。むしろ対立する色のあいだをグラデーンヨンで埋めていった。この作品にも黒から赤、さらに白へいたる繊細な階調が見られますね。ある原型的なものから何かが生まれ、成長してゆくような・・・。

 成長って何でしょうね。アリストテレスは『動物誌』で「生命の一番原初的な状態は同じ部分の反復である」と言う。たしかに細胞はみな同じで、同じものの反復は単調で貧弱に見える。たとえどんなに面白いテレビコマーシャルだって、深夜に3回も繰り返されるのを見ていると馬鹿馬鹿しく思えてくるでしょう? でも単調なものの連続、たとえば111111に123123と節を与えると、そこにリズムが生まれる。同じはずの細胞から筋肉と骨ができ、右手と左手ができていくように、単純なものの連鎖や反復が個性をおびてくる。《赤のフーガ》も同一主題の単なる反復のように見えて、色と形が成長するから画面が息づいてくるんですね。反復しながら変化する、それが成長という時間なのです

 《ヴァリエーション》[上図]は直線だらけの作品。たしかに「うごき」は感じられるのですが、でもその印象は一体どこから生じてくるのでしょう。

 ここでは線と線の間隔です。この作品はほぼ同じ大きさのマス目の中に同じょうな太さの線を引いている。引き方には一定のパターンがあって、「数列のモティーフ」という副題どおり、等比数列をもとにしています。一番上の列と一番下の列のマス目は途中で切れていますが、あとのマス日はほぼ正方形。左から2列目、上から3列目のマス目を見てみょしょう。左端の2本の縦線は等間隔に引かれている。しかし2本目と3本目の線の間隔はその2倍だし、3本目と4本目の間隔は4倍、4本目と5本目は8倍。つまり12、4、8、16と線の間隔が倍倍に、等比数列に基づいて増えてゆく。マス目の中の線の数はいろいろですが、基本にあるのはどれも等比数列です。クレーは数学の世界にさえ時間や成長を見つけてしまう。うごきの印象には斜線も関与していませんか?

 そうですね。規則性を見つけるのは難しいけれど、クレーはマス目のところどころを回転させている。右から3列目、上から6列目のマス目の中には斜線が交差した臍のようなものがあるでしょう。画面の生成運動は‥のあたりからはじまっていそうです。

 《光とその他のもの》[上図]は、うごきというよりは揺らぎを感じます。何を描いたものなのでしょう?前田 単純に港の風景でいいんじゃないかな。のびやかで自由で、豊かな光の表情はクロード・ロランの風景画を思い出させてやみません。

 祝福された空気がある。地中海かどうかわからないけれど、アルプス以北のヨーロッパの閉塞感から解放された豊鏡なる海。それがテーマです。作品が描かれた1931年当時ドイツでは豊かな自然をゲルマン人の沃野として神話的に描けというナチスのプロパガンダ的な政策がでてきますが、クレーはここで太陽や灯台を思わせる幾何学的な記号を使って、そうした政治的な意味づけをうまく回避していますね。画面には無数のドットが整然と並んでいよすが、淡い色調の地の上にいつの問にか形が浮かびあがり、水面に反射した光のようにゆらゆらと微妙なうごきを見せて、時間のたゆたいさえ(ゆらゆら動いて定まらないこと)伝わってくる色とかたちが実にうまくオーヴアーラップした傑です。点描は新印象派以降、ヨーロッパの画家の誰もが一度は試みた技法でした。パレット上で色を混ぜると濁るから、色の鮮明さを確保するためには、絵具そのままの色をタッチとして画面におくという画法です。

 しかしスーラほど細かい色彩のドットになると、画面から離れて見たときにむしろ、全体に膜がかかったようにぼーっと見えてしまう。ところがクレーのこの作品はドットなのに、光のきらきらとした感覚がおよそ失われていない。クレーはいつだって、光を描くことのできる画家だった。そんな20世紀の画家は他にいません。

▶︎クレーの絵にはしばしば文字が描かれます。そもそものはじまりは?

 1910年代ですね。年齢でいうと30代クレーは文字と絵画の関係につよい関心を抱きはじめました絵画の中に文字の描かれたキュビスム期のピカソ作品を1912年に見ていますからそれに刺激されたのかもしれない。1914年になると文字や数字をはっきりと自作に登場させるようになりますが、その頃はまだひとつひとつを記号的な形としてだけ扱っています。ところが1916年にクレーは、意味の単語や文章を画面に取りこんだ「文字絵」を描きはじめる。

《月高く輝き出で》[上図]に書かれているのは中国丁南朝時代の詩人、王僧稀(465〜522)の言古詩ドイツ語訳。夫が戦場き、奥さんがひとり寝の閑房を恨むという内容ですが、この年、クレーは妻リリーから贈られたハンス・ハイルマン編訳『中国抒情詩集』をもとに、水彩の文字絵を他にも5点制作しています。

 こうした文字絵の制作には時代的な背景も考えられますよね。1910年代というのはダダイズムの勃興期で、トリスタン・ツァラやアポリネールは文字の配列によって絵画的な造形をかたどる詩を書いていた。

 一方、クレーに限らずブラックやドローネーといった画家たちは当時みな文字に憧れていた。文字には絵画に描かれていないイメージまで想起させる力があるから、当時の画家たちは、絵画の二次元性を超越するためのいわばスプリング・ボード(ある行動を起こすきっかけとなるもの。契機)として文字をとらえていたんだと思う。ヨーロッパの芸術思潮のひとつの流れの中で、詩人と画家、文字と絵画がリンクしたのがちょうどこの第一次世界大戦前後のことだった。

 《月高く輝き出で》は文字の隙間や背景をびっしり塗りつぶしています。たしかに塗り絵的な感じ。画家が、文字自体の持っている造形とたわわじ戯れているような印象を受けます。ちょうど学生が退屈な英語の授業中、手もちぶさたによかせて教科書のアルファベットに色を塗っちゃったみたいな。でもよく見ると、詩句の意味に即した造形表現もあるんですよ。画面は帯のような空白によって上下に二分されています上部が夜空ですが、その両端を見て下さい。左のHOCH(高く)と右のMOND(月)、その「O」という文字はどちらも水色に塗られていて、これは月の形を表している。画面下部は女性が嘆く閨房(けいぼう・夫人の部屋)で、1行目の中央にLAMPE(ランプ)と書かれているその左隣の形はやはりランプなのでしょう。

《歌姫ローザ・ジルバトの声の織物》1922年[上図]に描かれたRとSは歌姫の名前の頭文字ですね。でも当時、そういう名前の歌手がいたとは実は確認されていないんです。このRとSはさまざまに解釈できる。一番簡単なのはこの作品に主につかわれている色、つまり薔薇色(ローズ)と銀色(シルバー)。クレーは音楽への造詣が深かったからそちらにも連想を働かせると、作曲家リヒヤルト・シュトラウスのイニシャルという線も考えられる。シュトラウスには「薔薇の騎士」というオペラもあることだし。しかもその薔薇は銀でできている。

 a、e、i、0、u は? いずれも母音ですし、作品タイトルを勘案すれば、これは声の表象でしょう。それぞれに色が着いて、文字どおり声色ですね。文字どおりといえば、この絵は本当に織物に描くかれています。織物というのは緯(よこ)糸と経(たて)糸のグリッド(格子)でできているわけで、ここではそのところどころが着色され、さらに声や名前や音楽を連想させる文字が乗っている。織り糸の単調な連鎖や反復から、だんだんと色や形の世界が生まれ、さらにいつのまにか、ふしぎな歌声さえ響きはじめます。そんな奥ゆき、時間の奥ゆきを感じさせるところがおもしろい。

 

たしかにクレーの描く文字は魅力的で、扱い方も変化に富んでいます。たとえば《詩のはじまり》[上図]のような作品では、意味をなさない個々の文字と、単語としてまとまった文字とが混在していますね。単語としてまとまった文字には1から5まで番号がふられていて、順番どおりに読むと「このようにそれはひそかにはじまる」という、ちゃんとしたセンテンスになる。3の番号がふられたES(それ)は三人称単数中性の代名詞で、作品タイトルにある「詩」(中性名詞GEDICHT)を受けていると読むのが自然でしょう。

 でも「はじまり」という意味では、ヨハネによる福音書の最初の一節「初めにことばありき」を連想せざるをえません。ところがクレーはここにあえて「ひそかに」という単語を挿入します。自分の作品は神さまによる創造のようなそんな大仰なものじゃないよ、とほのめかしている。しかし、このほのめかしは一方で、それでも自分はささやかな世界創造をひそかに手がけつづけるんだ、という強靭なマニフェストでもあるとぼくには思われますね。異様に拙(つたな)い文字は、まだ一人前になっていない言葉や詩的なものの、それこそ「はじまり」の状態を強調しているかのようです。

 中央上方のUのようなかたちも気になりますね。この上に点があれば、素朴なキリスト教版画などにしばしば描かれた神の似すがたとして目になる。すべての上に立ってすべてを創造する神さま、と同時にこの画面を創造したクレーの目。点がないのが本当に残念!きっとこの神さまは、目をつぶっているんだね(笑)。

 最後にもうひとつ、《証書》【上図]について。これ、何語なんですか? 何語でもない。クレーの創作文字です。古代ゲルマンのルーネ文字やエジプトの象形文字ヒエログリフを思わせる。クレーはエジプトに行っているから、実物は目にしていたはず。僕はむしろ、クレタ島出土の粘土板などに記されていた線文字Aと線文字Bのことを連想してしまいます。Bは非常に古いギリシア語として解読されたんだけれど、Aはまだなんですよね。クレーがここに書いた文字はクレー流の線文字Aなんじやないかな。かつて紀元前十何世紀の人々には読めたけれど今はもう誰にも読めない。僕はこの《証書》の文字から「かつて」を想起する。

 「古代」や「過去」が感じられる。この創作文字のなかにはCとかSとかアルファベットつぼいものも混じつているから、読めないのに読めそうな気がして、つい作品にひきこまれていく。微かに見え隠れするもの、ふと浮かびあがってくるもの・・・それが、クレーの作品の場合、とても大切なような気がするんですよ。

 クレーはバウハウスヘ行く前の1919年、シュトゥツトガルトの造形学校からも招かれかけたけれども、家系がユダヤ人ではないかと非難する反対派がいたために、そうでないにもかかわらず、結局は就任できなかった。またこの作品が描かれたのは1933年で、その年の暮れにはドイツからスイスヘの亡命を余儀なくされています。しかし、住民登録必要な証明書が彼の手元に届いたのは亡命後1年半経ってからだった。そんな経験を考えると、この《証書》には、言葉や文書によって人間のアイデンティティを規定してしまう社会に対する無言の抗議さえ感じられる。

 作品の原題URKUNDEは「古文書」とも訳せます。つまり、この絵は亡命直前の画家の出自を明らかにする証書のようでもあり、解読を拒み続ける謎の古文書のようでもある。クレーがこれを出生証明書としてナチスに渡していたりしたら面白かったのに。

▶︎古紙が好き

 クレーは、絵画というメディアに一度たりとも安住しなかった画家でした。絵画といえばかくかくしかじかの芸術だと誰もがわかったつもりでいるからこそ、逆にクレーは徹底して自己批判の道を歩む。この章では彼が画面という枠組にこころみた多様で異様な実験を見ていきましょう。

 《もくろみ》[上図]はクレーにしては珍しく大きな作品ですね。伝統的な壁画を思わせる横長のモニュメンタルな作品。ふつうならカンヴァスに油彩で描きそうなところです。でもこの絵は新聞紙に描かれている。古新聞という半ばゴミのような素材をあえて使ったのは、カンヴァスという美的権威に対するクレーなりの静かな反逆だったにちがいありません。

 画面のあちこちに見える新聞記事の細かい文字の配列が独特の点描的な効果をもたらしてもいる。

 色調からいっても画面は明らかに左右で二分されていますがこれは何を描きわけているのですか? 中央上方に青い目が浮かんでいる。画面の左右をわける境目には人物が真横から描かれていますね。腕をあげ、胴体は長く、腰かけているように見える。その向かって左側には犬、旗、少女など具体的なフォルムが描かれ、右側にはより抽象的なフォルムがちらばっている。図式化すれば左半分が外的現実右半分はこの人物の内面。この作品の右半分はクレー自身の脳内の光景を表していると思うんです。ところがクレーはそんな創造の根源に関わるようなものを扱った作品に、卑近な日常そのものともいえる新聞紙を使った。そんなところにも、世界に対するクレーの一種ニヒリスティックなスタンスがうかがえる。

 ▶︎クレーと音楽については、たくさん議論がありそうですね。

 クレーは何しろ、ヴァイオリニストになろうか、それとも画家になろうか、悩んだほどの音楽好きです。ヴァイオリンは生涯、手放さなかった。2挺のきれいなヴァイオリンを所有していて、家族との合奏や独奏を楽しんでいました。

 もっぱらバッハやモーツァルトを愛好した、とよく言われるけれども。

 それはあまり正しくない。同時代のマックス・レーガーにとどまらず、12音音楽の創始者アルノルト・シェーンベルク、より過激な思想の持ち主フエルッチョ・ブゾーニ、表現主義的なイディオムを駆使したパウル・ヒンデミートの音楽にも的確な批評を加えています。

 とくにバウハウス時代、ヴアイマールでもデッサウでも足繁くコンサートに通い、さまざまな音楽を聴いている。当時の最先端をゆく前衛的作品も楽しんでいました。 2006年の秋に、パウル・クレー・センターで展覧会「パウル・クレー・メロディとリズム」が開催され、クレーと音楽に新しい照明があてられました。

 作品を見てみましょう。 造形からすると、クレーの絵には矢印や太陽や月、星など、たくさんの記号が登場しますが、その仲間として音符や休符、フェルマータ、ヴァイオリンの共鳴孔も、よく描かれています。

 また、《VAST 薔薇の港>[上図]のように、楽譜のかたちを想起させる作品も多い。音楽形式を色彩や線によって表現する作品もあります。先に見た赤のフーガ》[下図]は、同じ旋律がいくらかずつずらされ、バッハの音楽の建築が、色彩の建築へと移行していく。そしていわゆる魔方陣絵画。

《ポリフォニーに囲まれた白》[上図]といったポリフォニー画もこれにちかい。前田 大作《パルナッソス山へ》[下図]は、ビザンチンのモザイク壁めいた色斑の上に、エジプトのビラミッドのような山稜のギリシアのパルナッソス山を描いたもの。

タイトルの「パルナッソス山へ」は、18世紀の作曲理論家ヨーハン・ヨーゼフ・フックスの対位法教本『グラドゥス・アド・パルナッスム (パルナッソス山への階梯)』(1725年)に着想を得ているらしい。

  ただし僕はこれには、ドゥビュツシーのピアノ曲集「子供の領分」の第1曲「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」諧謔(かいぎゃく・しゃれや冗談)が潜んでいるようにみえます。この曲はクレメンティの練習曲のような機械的なピアノ曲を、いかにもフランスのエスプリっぽく作品化したもの。

 諧謔という点に注目するなら、クレーの大作《ドゥルカマラ島》[下絵]も見逃せません。ドゥルカマラ島はクレーの創作した島ですが、これまで「ドゥルカマラ」は甘いと苦いの合成語だとか、ドゥルカマラ茄子に由来すると解釈されてきました。でも僕はここはやはり、クレーも聴いたはずのガエターノ・ドニゼッティの甘い恋愛オペラ「愛の妙薬」(1832年)に登場するインチキ薬屋ドゥルカマラ博士も由来の候補に挙げたい。

  画面左下に蛇がいるでしょう蛇はキリスト教の原罪の象徴です。キリストの死によってその原罪が洗われ、人類が救済される。つまり、《ドゥルカマラ島》は死と再生の島なわけです。そして、そのふたつを結びつけるものが「」であることはほぼ間違いない。とはいえクレーはキリスト教とも距離をとっていますから、キリスト教的愛とはまたちょっと違う。男と女、聖と俗・・・これらが否応なく惹かれ合ってゆく、そのような愛と捉えるべきでしょう。

 ともかく、そんな「楽園/彼岸」である島を主宰するのが、ドニゼッティの怪しげな人物ドゥルカマラ、なんてちょっとおもしろいでしょう?

 それは、新しい指摘だ。壮大かつ神話的な作品に、卑近な要素を入れて混ぜっ返すのは、クレーの常套手段。なにしろ《ドゥルカマラ島》は、新聞紙に描かれているんだから。

[上図]作品を見てください。四辺がよじれて見える。もちろん、意図的なものです。完成していない、途上である、まだどうなるかわからない。、どうしてこうなったのかも、わからない。「できあがりつつあるところ」と「壊れつつあるところ」。生成と衰退はいわばコインの両面。そう、やっぱり「中間領域」なんです。でも、そういう複雑な道筋こそ、クレーにとっては一番重要でした。

 むろんシュルレアリスム絵画にも作品生成の時間性はあるけれども、イメージの進む通路は理解しやすい。でもクレーの場合、右往左往のまさに迷路。といって、出口はかならずあるはず・・・。

 奥が深いですねえ。深くておぼれそうです(笑)。シェルレアリストたちはクレーを絶賛したけれど、クレーの意図は彼らの理解とはちょつと違うんですよね。それに付け加えておくと、クレー本人だって自分がシュルレアリストであるとは言っていない。というか、「この件についてはノーコメント」という態度を一貫して崩しません。

 絵画市場の状況が大きいでしょう。第一次世界大戦後、シュルレアリスム運動が起こり、フランスびいきのドイツの画商を通じてクレー作品が高く評価される逆にドイツ語圏では次第に売れなくなってゆく。ナチスに嫌われたんですね。画家だって、生活が大事。新しい「販路」を開かなければならない。シュルレアリスムからの高い評価はありがたい。評価が高くなること、生活の安定が重要だった。

贖罪(しょくざい・犠牲や代償を捧げて罪をあがなうこと)者》[上図]は、イチ押しの作品?

 うーん。この作品の前に立つと、僕自身が恥ずかしくなる、という意味でね。研究って、先行研究の解釈ではとかこの記号の解読とか、いわば、すれからしの作業です。この作品、そんな作業とは無縁にしてくれる。じつに凛とした人間像です。西洋の思想世界はどうしても、母たる物質から生物・人間をへて父なる超越者へいたるシステムをもっている。その中のステップアップやステップダウンが人間のドラマになる。クレーだってその世界を呼吸しているけれども、この作品はそのシステムの外にあると思う。非西洋とか脱構築とか言いたくありませんが

 クレーの有名な自画像[上二点]と似た表情だから、これも自己探求の絵なんでしょうが、切羽つまつた感じがない。禅宗高僧の肖像画を頂相(ちんぞう・如来の頂上にある肉髻(にくけい)のことで、転じて禅宗の肖像画を指す場合は「ちんぞう」という。禅宗では師資相伝の証として、師が弟子に自賛の画像を与えるが、その形式は通常全身像と半身像に分けられる)と呼びますが、それよりずっ といいなあ。聖であり俗であり、賢者であり愚者でもある。青の力もあずかって大きい。これほど見事な青もありません。