タピエス芸術の再考察

■タピエス芸術についての再考察

マーコ・リヴィングストン

 過去40年以上に亘って、タピエスの作品は、彼に関する彪大な出版物の中で、詳細に分析され、その一方で、彼自身も、自分の意図を、長い回想録と理詰めなエッセイの中で、紹介しているものだから、我々は、もはや、この彪大で今なお増え続けている文献を抜きにしては、彼の作品を鑑賞する自由はないようにさえ思えるのである。彼の作品は、シェルレアリストの作品と理論、仏教と老荘思想の影響が顕著な東洋的なものの考え方、13世紀カタルーニヤの哲学者・数学者であったライムンドゥス・ルルスによって信奉された中世の錬金術と神秘主義フランコ政権の圧政に対するレジスタンス、等々を含む芸術的、哲学的、歴史的影響の混合の結果として、生まれたと考えるのが、現在の一般的解釈である

 しかしながら、タピエスの作品についての解釈は、この長い年月の問に変化してきているし、批評家が他に負けたくないばかりに、次第に奇を街った奔放な解釈に走る傾向と、実際以上に複雑化されたこと、この2点によって、誤って、そして空想的に形成されたスペインについての一般論にまどわされた一部外国人批評家のように、全く相反する解釈をしている場合さえあった。タピエスの作品に最も同情的な解釈でさえ、時には、フォルムの見かけ上の単純さあるいは簡潔さが思考の貧困を物語るものと誤解されはしないかと恐れている解説ではないかと思われるのである。そしてこの誤解をとく只ひとつの方法は、個々の作品を制作するに至った意図をひとつひとつ積み重ねて示すことによってのみ、可能なのである。タピエスの作品は多様な解釈が可能である。それは作品を鑑賞する人に、鑑賞している間、持続的にイメージをいだかせるために作品の中に詩的多義性を表現しようとしているタピエスにとっては避けることのできないことなのであるけれど、この多様性は、勿論、鑑賞する人が作品の中に求めたいものを殆ど読みとることが出来るという危険性を含んでいるし、タピエス自身についていわれている、いわれのない中傷に、タピエスが不本意ながら異議を唱えることによって助長されることのないひとつの状況をも含んでいるのである。

 タピエス作品の素材およびタピエス自身が我々に伝える無言のメッセージは次のような意味をもっている。すなわち、タピエスの作品を解説なしに理解するには、ともかくもむずかしすぎるし、極端すぎる、それ故に、こみ入った理論の糸で支えられる必要があるし、明らかに本物の創造的個性の表現として、作品は提示される必要がある、ということである。その一方で、それぞれの観点は、我々がタピエスの作品を理解する上で助けになるし、作品を、単に、美しいと思う反応や、作品の素材を見ることによって生ずる反応以上のものを与えてくれる。そして、又、それぞれの観点には、タピエスが創作した、いろいろな物体で構成された作品を通じて、我々がタピエスに感じた直載性、タピエス作品に対する我々の深い理解、そしてタピエスの庶民的性格、これらを台なしにするのにだけ役立っような誤った先入観にたよろうとするには、多くの限界がある。まず、我々の直感に頼ることにより、さらには、いかなる芸術作品に対面したときにでも我々がいだくであろう期待感をさえとりさることにより、我々は、タピエス芸術の精神をより深くより人間的レベルで理解するためのよりよいチャンスにめぐりあうことになる。かなりの程度まで、タピエスは、我々の信頼と善意とを当てにしている。それはどういうことかというと、我々をタピエスの制作上の巧妙さにまどわされたり、楽しませられたりしておくというよりは、彼が我々に提示しようとしているものから我々を見いだす意識について我々が自ら責任をとるように期待している、ということなのである。作品を理解しようとする我々の努力は充分に報われるけれど、理解するという行為は苦痛に満ちた苦労の多い一つの過程として示されることはない。それどころか、我々が肩の力をぬこうとつとめ、タピエスが作品を制作する際に精神を無心の状態にもどそうと努めるのと同様に、予断にみちた我々の心、を白紙状態にもどそうとつとめればっとめる程、タピエス作品との精神的交流に入るチャンスは、より多くなる。

 作品から受けた印象の直接性、あるいは、すなおな印象、とでもいおうか、そのようなものを重視するのがタピエスの特徴である。従って、彼がつけた作品の題名は、普通、作品の内容を全くそのものズバリにつけてあり、個性的でもないし、作品を構成する要素一色彩、形式、イメージ、材質、技法など−をそのまま列記することが多い。