第二章≪ピエタ≫をめぐる考察

■≪ピエタ≫をめぐる考察

佐々木奈美子

▶︎序

 1989年だからもう16年も前だが、チェックポイント・チャーリーを通って東ベルリンに入った。手続きに思いのほか手間どり、夕陽に染まるウンター・デン・リンデン通りを歩く頃には、もう人影もまばらだった。ブランデンブルク門の方へと近付いていくと、門衛が、肩にかついでいた銃をガチヰッと鳴らした。近づき過ぎたようだった。

 それから6年後の1995年には、同じブランデンブルク門を、西から東へと歩いて通れた。壁も銃もなく、街はすっかり別の表情だった。どちらが本来のベルリンなのかと思う内に、何気なく古い建物が目にとまり、入ってみると、暗い。そして、がらんと広い部屋の真ん中に、彫刻が一体置かれていた。ケーテ・コルヴィッツの≪ピエタ》だった。

 内部はほの暗かったが、パンテオンのような丸窓が天井に開き、そこから斜めに白い光が幅広く差し込んでいた。光の帯は《ピエタ》を満遍なく照らした後、床に落ちて白く長い楕円形を描く。この部屋には先客がいた。おじいさんが小さな孫の手を引いて、子供の歩調で優に向かって歩いていた。やがて、天窓からのスボソトライトの白さの中に忽然と二人の姿が現れ、子供が、赤いバラをゆっくりと白い床の上に置いた。おじいさんは人差し指を上にあげると、見上げる子供に何かを静かに語り始めた。それは、舞台の上のような、あるいは、いつか夢の中でみたような、そんな光景だった。

l.コルヴィッツの≪ピエタ》

■「ノイエ・ヴァッヘ」の像

 後で知ったことだが、そこは「ノイエ・ヴァッヘ(NeueWache)」と呼ばれる建物だった。元は近衛兵の詰め所だったが、1931年に改築されて「プロイセン州立戦没者追悼所」となり、以後、政権の変遷にかかわらず「追悼所」としての歴史を紡いできた。ドイツ統一後、連邦共和国政府によって整備され、1993年に再オープンされる際にコルヴィッツの彫刻がそこに置かれたのだという1。私が訪れたのは、その翌々年の6月だった。

 ノイエ・ヴァッヘに設置されている≪ピエタ》は拡大複製版。このオリジナルはごく小さく、高さ40cmにも満たない(KaトNr.150)。ケルンの美術館で初めて実物のくピエタ》と対面した時、この、両手に収まるほどの小さなブロンズが、拡大しただけで、追悼所の中央で存在感を放っていた、あのモニユメンタルな優に変貌するのだという事実に、何よりも驚かされた。揺るぎのない造形の力がそこにはあった。

 ちなみに「ノイ工・ヴァッヘ」の像には、《ピエタ》ではなく、(母と死んだ息子(M此ermittotemSohn)》というタイトルが添えられていた。生と死の諸相、それを体現する母と子らの姿はコルヴイヅソにとって終生重要であった主題の一つ。宗教的図像を借りたこの優にも、「失われた子を悼む母親」という普遍的なテーマの反響があることは疑いない。だからこそ「追悼所」に相応しいと判断されたのであろう。

 しかし、オリジナル優については、コルヴィッツ自身が日記や手紙の中でそれを「ピエタ」と呼んでいる。本作晶が「母親と死んだ子ども」であると同時に、一種の「ピエタ」として成立している、その意味はどう解釈すればよいのだろうか。

1.ケーテ・コルヴィッツくピエタ〉(K乱−Nr.150)

■ディスクリプション〜様式的特徴

 地面に座っている母マリアは、立てて開いた膝の間に死んだ息子=キリストを抱いている。キリストは、上半身を母親の右足に、頭を太股の上に預け、顔を思い切りのけぞらせて無防備な首の下を露わにしている。そこから胸の下へと続くラインを延長するように、上下に両手が置かれている。両足は閉じた状態で、膝から足首までが平行に、斜め下へと下ろされている。キリストの全身は、マリアの身体の中にすっぽりと収められている。

 一方、マリアは背を丸め、マントで身体を覆っている。全体が一つの塊のような量感を示しているのは、一時期おそらく平行してアトリエにあった大型群像《母と二人の子》(KaトNr.153)にも見られる特徴である。

 マントで覆われた身体という表現からは、パルラッハのマグデブルク戦没者記念像(Abb.2)をベルリン国立ギャラリーの地下で見た折に、顔を隠すことでマリアの悲しみの表現としたことを賞賛し「母親の身体は外套で覆われている。素晴らしい!パルラッハ」3と日記に記した言葉が思い出されるかもしれない。しかし、コルヴィッツの《ピエタ》の場合は、マントは肉体を抽象化し記号化するというよりは、群像を一つの塊にし、その量感に雄弁に語らせるための手段として用いられているように見える。そして、見る者の視線は、覆われていないわずかの部分−マリアの顔や手に、自然に導かれていく。

 傭き、目を閉じたマリアの左手は、キリストの二つの手にそっと添えられている。そして何より素晴らしいのは、マリアのもう一方の手。その大きな右手は、マリアの顔の下半分と、キリストの顔の上半分を同時に覆っている(Abb.3)。

 すなわち、目を覆われるキリストと、口元を覆うマリアという二っを、一つの手によって表現しているのだ。これは、伝統的な「ピエタ」像には、まず見られない表現と言って良い。

2エルンストりりレラッハ  3ケーテ・コルヴィッツ(ピエタ〉(マグデブルク戦没者記念像〉 (部分) 木1g29年

■制作の背景

 20世紀前半のドイツの芸術家、それも近代美術の担い手たちの年表は、1930年代に入ると、ネガとポジが反転するように、がらりと色合いを変える点で共通している。コルヴィッツも、その例外ではない。1933年1月30日、ヒトラーの首相選挙戦の勝利を目の当たりにした暗、コルヴイゾソは既に65歳だった。60代半ばの女性が、制作者としてまだ現役、しかも発展途上でさえあり、その時点でまだ木版を経由して木彫へと向かおうとする道程の半ばにいたのである。内的なモティベーションを維持する、気の遠くなるような精神力が感じられる。

 一方、対外的には、国境を越えて作品が紹介され、その画力、主題のわかりやすさ、そして造形の力強さに裏打ちされたメッセージ性などを動力として、既に広く知られる芸術家となっていた。作品が世界中を掛ナ巡った端的な例として、米国人を介しての中国、さらには日本への紹介があげられよう4。公的にはプロイセン芸術アカデミーの初めての女性会員であり、1927年には60歳を記念して大々的な祝賀会が行われ、1928年からはアカデミーの版画室長を務めた。

 そこまで足場が固まっていても、1930年代には、コルヴイツツを取り巻く環境は大きく変わる。しかも、その変化は素早かった。

 1933年2月はじめ、独裁政府誕生を危惧する「緊急アピール」に署名したコルヴィッツは、ハインリヒ・マンと共にプロイセン芸術アカデミーの教授職を辞する。二人が辞めなければアカデミーを解体するという、事実上の解雇通告を受けてのことだった。当時、版画から彫刻へと仕事の幅を広げていたコルヴィッツは、前年にべルギーのロッヘフェルデ(ディクスムーデ)に戦没者慰霊碑≪父》と≪母》(116頁参照)を設置したばかりで、その後も引き続き彫刻の制作に取り組んでいた。辞職は、大規模な制作のできるアトリエを明け渡さなければならないことも意味する。当時アトリエには、完成に向けて長い年月をかけていた大型の作品があった。アトリエを使用できるのは、当初、同年9月末までとされており、コルヴィヅソはとにかくその群像《母と二人の子》(KaトNr.153)を急ぎ進めるが、結局ここでは完成させることができなかった。

 この1933年には、1929年に始まった世界恐慌がピークを迎える。10月、ドイツは国際連盟から脱退。ちなみに、やはり「緊急アピール」に署名し、ナチの対抗党派の医師協会に所属していたコルヴィッツの夫カールも、この年に仕事を失っている。コルヴィヅソ自身は公職からは追われたものの、それでも芸術家であった彼女は、その後もアトリエを移して制作を続けることが可能だった。造形芸術に対しては、ナチスの文化政策には流動的な部分があり、グレーゾーンの芸術家たちは、薄氷の上にいるような状態ながら、数年は泳がされているような状態にあった。しかし、それも1936年辺りまでで、その頃には政府内にもある種の統一見解が確立され、それが、1937年の大規模な「退廃芸術展」開催に向けての布石となっていく。

 コルヴイヅソの場合、ソ連の新聞『イズヴエスチャ(lzvestija)』に掲載された記事について、1936年7月13日にゲシュタポから尋問を受けている。11月にはアカデミーでの「ベルリンの彫刻家」展に出品した2点の彫刻が撤去された。この辺りから作品の発表も困難になっていき、翌1937年には、コルヴイツツの70歳を記念して行われる筈だった回顧展等は中止された。

 1937年7月19日、70歳の誕生日を迎えて旬日後、ミュンヘンで大が力叫な「退廃芸術展」が始まる。コルヴィゾソ自身の作品は出品されなかったが、ドイツ国内での作品の発表の場は、自分のアトリエ程度にまで縮小する。しかし幸いなことには、国外でのコルヴィッツの作品紹介は第二次大戦中も途切れることはなかった。もっとも、国境の内外での著しい温度差は、それほど国内での状況が悪化していたという証左でもある。それでも、状況がいかに悪化しようとも最期までドイツ内に留まり、そして、作品制作をやめなかった。

 この頃のコルヴイツツは、掛こ後半生の課簸でもあった彫刻の制作を続けていた。大きなアトリエを失ったため、記念碑的な大型作品の制作は無理となり(注文自体もある筈はなく)、また、加齢による肉体的な条件も手伝ってか、この時期は小型の彫刻作品に次々と取り組んでいる。その中の一体が、こ の《ピエタ》ということになる。

 1938年7月、71歳のコルヴィゾソは、ハインリヒ・ベッカー宛てに「私は主に彫刻を制作しています(lch arbeitein derHauptsache PぬStik)」5と手紙を書き送っている。石彫り状態の「私の大きな群像(おそらくKat.−Nr.153の≪母と二人の子》のこと)」について触れた後、制作中の数点の小さな彫刻についても付記する。

 それから、もう一つの小さな群像があります。大げさな言葉 を使うならば『ピエタ』と呼ばれうるものでしょうが、簡単に言 えば老いた女性が死んだ息子を膝に抱えている像です。(Da=nnOCheinekleineGruppe.Miteinemgrossen Wo什k6nntemansiePietanennen,SOnSteinfach einealteFraumiteinemtotemSohnimShor∋6).

 自分の作品を、らしからぬ「ピエタ」というタイトルで紹介することには、一定の説明が必要だと感じていたことが伺える。では、コルヴィッツ自身は、いつ頃からこの作品をピエタ像として認識していたのだろうか。その点については、前の年、1937年10月22日の日記中の、次の一節が辛がかりになる。

 私は小さな彫亥帽制作している。この像は、年老いた人物像を作るための彫刻習作から生まれてきたものだ。それは今や一種のピエタになった。母親が座り、両足に挟み込むよう に死んだ息子を抱えて、太腹の上に寄りかからせている。も はや苦痛ではなく、沈思の億である。(kh arbeite an der kleinenPねstik,diehe㈿Or9egan9enistausdem Plasti駆henVersuch,denaltenMenschenzumachen.EsistnunsoetwaswieeinePie抱geworden.DieMut− te「SitztundhatdentotenSohnzwischenihrenKnienimShor∋=e9en・Esist=ichtmehrSchmerz,SOndern Nachshnen7).★傍点・下線筆者

 これ以後、コルヴィッツは本作晶を≪ピエタ》と呼んでいる。しかし、だからといってこの作品を宗教的主題の枠内に収まるものと考えていたわけではないらしい。

 1939年12月14日、午前3時半にフリーダ・ヴィンケルマンが ヘドヴィヒ病院で死んだ。…9月20日、彼女のアトリエを訪 ねた時、私は彼女の《ピエタ》を見た。…しカル、私のものは 宗教的ではない。フリーダ・ヴィンケルマンの≪ピエタ》は全 く宗教的、それもカトリック的だ。(Am14.Dezember1939nachts,仙hl/2Uhr,StirbtFriedaWinckelmannimHedwigs−Krankenhausノ・・・AIsicham20・Septem− be「ir=hrem Atelierwarsahichihre Piet畠./...Aber meineistnichtrellg16s.FriedaWinckelmanns【190】 dagegenistreti9i6s,katholjschreligi6s8).

 この作品については、小品のまま終わらせる気持ちはなかっ たようである。1944年5月に疎開先のノルトハウゼンからハンス・コルヴィッツに当てた手紙の中で、シュトウツトガルトの知人の息子の墓碑のために≪ピエタ》をほぼ2倍の大きさにする件に触れている9。現在ノイエ・ヴァッヘにある像は、ほぼオリジナルの4倍の大きさであるが、条件さえ整えば、この像を何らかの記念像とすることは、コルヴィッツ自身の考えの中にも当初からあったことが伺える。拡大にも耐えうるこの肖像の造形の堅固さは、その将来像までを見越した上でのことだったのかもしれない。

■≪ピエタ》とコルヴィッツ

■図像史〜ドイツ近代まで

 キリスト教図像としての「ピエタ」が西欧に登場するのは13世紀というが、大きく花開くことになるのは14〜15世紀であった。その中心はドイツで、Vespeわ‖dとも呼ばれる「ピエタ」傾が移しく制作された。おそらく当時の神秘主義的傾向が「祈念像(A=dachtsbild)」としての「ピエタ」をその時代のドイツで発達させる要因となったとされる10。

 「ピエタ」図像は、キリストの死と復活に直接かかわる主題である。時代の信仰形態が教会から個人へと変化していき、苦悩や悲しみを「瞑想」し追体験する「よすが」が求められていたという背景が、この図像を大きく進展させた。祈念像は「キリストの苦痛」や「マリアの嘆き」を「瞑想」の実践により強調するという信仰運動の産物である。「ピエタ」は一つの像で「キリストの苦痛」と「マリアの嘆き」の双方を表すことができるので、二人物像でありながら「祈念像」として成立しうる。

 一方、祈念像としての「ピエタ」のラテン諸国への伝播はやや遅かった。とりわけ、「祈念像」という概念自体と結びつきにくいカトリック国イタリアにおいては、むしろ物語的な図像−たとえば「十字架降下」「哀悼」などと結びつき、そこから派生する形で、絵画における「ピエタ」図が進展した11。祈念像という枠組みを越えつつ「ピエタ」という主題が伝播していく背景には、折しも高まるマリア信仰に加えて別の可能性−−すなわち、もう一つの重要な<マリア/キリスト像>である「聖母子像」では果たせないテーマを「ピエタ」が保証した可能性がある。それまでの宗教主題には、成人した男女の二人物像を許容するようなテーマが少なかった。「成長したキリスト」と「いまだ美しいマリア」による「ピエタ」がルネサンス前夜のイタリアで成立し、母と子ではあっても見た目にも快い男女の像が受け入れられていく根拠として「ピエタ」はまさにうってつけではなかったのか、ということである12。

 同時に、「ピエタ」像は、成立以来、造形的な間盈を伴っていた。幼児キリストではなく、成人したキリストの、しかも死体をマリアの膝の上に乗せて違和感の無い造形を作るのは存外に難しい。初期ドイツの作例では、キリストの背部を交点として、二人の身体は交差しているのが一般的。キリストの身体の角度にヴァリエーションはあるが、四枚羽の風車のように、マリアとキリストの上半身・下半身のそれぞれが別の方向に向かっている点で共通している(Abb・4,5)。瞑想のよすがとなることが期待されている以上、主眼はキリストの苦痛にあり、写実性や、表現の美的な性質からは遠く、逆に感情の表出の強さは後代に勝る。近代美術において、その感情表現の力の再来が求められたのが表現主義の時代ともいえ、たとえば、パルラッハは自作の≪ピエタ》(Abb・6)において、敢えてマリアとキリストを直交させるような造形を選択している0

 中世から15世掛こ入ると写実性がより求められ、死んでいる筈のキリストが自力で起き上がっているように見えたり、体操選手のようなポーズをとる不自然さを、解決しようとする試みが次々 に生まれる

Abb・7,8)0(ロットケンのピエタ〉1325年頃木 ライン州立美術館(ボン)6エルンスト・/りレラッハくピエタ〉1932年 石書 キュストロウ5くピエタ〉 木 ウルスラ修道院(エアフルト)7(ピエタ〉ザルツブルク1420年頃 木 ズユルモント・ルートヴィヒ美術館 マリアが左膝を下げ、右手でキリスト の頭部をぁさえることにより、キリスト の身体はなだらかに傾斜して両足を 地面につけられるようになった8ペルジーノくピエタ〉1494−95年 ウフィツイ美術館(フィレンツェ) キリストの上半身と足が支えられている

 その中で、腰の部分を弧の頂点として、キリストの身体が弓なりに反ったタイプが登場する0アヴィニョン派の《ピエタ》(Abb.9)が代表的な作例0「哀悼」図から派生したと思われるこの形態は、マリアの膝の上にいる「死せるキリスト」を表現する最も無理のない解決法の一つであり、また、絵画にも彫刻にも応用できるため15世紀後半から16世紀にかけての「ピエタ」像でしばしば採用されている。掛こフランスで好まれたが、本国ドイツを含め広範に伝播し、後の時代にもこの弓なり型への支持は続いていたようである0ナチス御用達の彫刻家∃−ゼフ・トラクの《ピエタ》(Abb・10)もこのタイプ。

 「キリストの苦痛」と「マリアの嘆き」を同時に無理なく表現できる「弓なり型ピエタ」ではあるが、二人の行為がそれぞれ別々に行われ、接点の少ない点に難がある0より二人物の関係性を生かした形態の模索は、物語的な絵画の「ピエタ」図に多く見られる。たとえば、「謙譲の聖母」の発展形のようにマリアが地面に座り膝にキリストの遺骸を抱く図像が頻繁に見られるようになるが、これは二人のより密接な関係を表現できる構図といえる(Abb.11,12)。

9アヴィニョン派くピエタ} ルーヴル美術館10ヨーゼフ・トラク(ピエタ〉 1942年 大理石【191】11ジョヴァンニ・吋ノーニくピエタ〉 1505年頃 アッカデミア美棚 (ヴェネツィア)12サンドロ・ポッティチェリ(哀悼〉 14引)年以拝 アルテ・ビナコテーク(ミュンヘン) 例として掛fた全て(マリアが地 面に座一人キリストが身体を弓な りに反らせ、承と足を支えてもらう)  が行われてい

 「地面に座りキリストの上半身を抱きかかえる」マリアが「十字架降下」図に由来するとすれば、「地面に横たわるキリストの傍らで哀しみにくれる」マリアの表現は、「哀悼」や、「埋葬」といった、やはりナラティヴな図像に由来する<マリア/キリスト億>であり(Abb.13)、やがて彫刻に応用されていく。この形式は、19世紀の絵画・彫刻で再び取り上げられ、広義に追悼を表す一つの定型的な表現として近代美術にも蘇ることになる。コルヴイツツ自身の素描や版画にも例を見つけうるし13、近代彫刻でいえば、ムーニ工(Abb.14)やレームブルックなどの作例に見ることができる。

 以上概略したように、キリストの苦痛に焦点を当てた初期ドイツの痛々しい像から脱却し、大人二人の片方がもう一方の膝の上に乗る不自然さの解消を求める流れは、次第に美的な解決へと関心を移していった。その意味でも絵画作品の方が、彫刻よりも容易に解決法を提示できたことは間違いなく、彫刻の場合は、たとえばマリアを大きめにキリストを少し小さめに扱うという具体的な手段の他は、正面観を強めるなどして、絵画での達成を取り入れていくという形で後を追っていた(Abb.15)。

13セバスティアーノ・デル・ピオンボ くピエタ〉 1517年頃 ヴイテルポ市立美術館14コンスタンタン・ムーニエ(坑内煉発〉 1888−89年 ブロンズ

 彫刻における確実な成功例としては、ヴァチカンにあるミケランジェロの《ピエタ》(Abb.16)こそが、我われが知る最初の、そして最上の例ということになるだろう。

 ミケランジェロの《ピエタ》では、マリアは両足を大きく開き、さらに、豊かな衣服の襲によって身体の下半分が大きく安定している。その下半身を土台として、マリアの頭部を頂点とした安定した三角形の構図が形作られ、マリアよりやや小さいキリストが上半身を後ろに反らせて、その三角形の構図の中に全身を納めている。おそらく美術史上初めての「聖母子」像に勝るとも劣らない自然で美しい彫刻としての「ピエタ」の誕生である。

 4点の「ピエタ」像を制作したミケランジェロの、遺作≪ロングニーニのピエタ》(Abb.17)は、もう一つの寺跡的な作例といえる。くずおれようとするキリストを背後から支えるマリアという未完のこの像は、ほぼ立像と言いうる垂直の「ピエタ」。ドイツの近代彫刻家たちの多くが、この優にインスピレーションをかき立てられていたことは、同種の作例が数々残されていることからも想像できる。たとえば、ゲオルク・コルベにほぼ同じ構想の像《哀悼》(Abb.18)があるが、これは一例にすぎない。15

 ハインリヒ・ドーヴエルマン (禁書〉(部分) 木 聖ニコライ教会(カルカー)17ミケランジェロ くロンダニーニのピエタ〉 1552−64年 スフォルツエスコ城(ミラノ)【192】16ミケランジェロくピエタ〉 1498−99年 大理石 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン)18ゲオルク・コルベ(蓑悼〉 1925年 石書と樹脂 ゲオルク・コルベ美術館

■再びコルヴイツツの≪ピエタ》〜造形的なソース

 たとえば、コルヴィヅソ自身の作品の中にも、主題の遣う素描≪浮上する死と若者と死〉(KaトNr.094)などに、《ロンダニーニのピエタ》の反映が見られる。事実、ベルリンの最後の家(1943年に爆撃を受け焼失)の壁にこの像の複製を飾っていた写真が紹介されている14。立像と坐像という遣いはあるが、死んだ息子が前に、支える母親が後ろにまわり、二人の顔を縦に並べている点は、本稿の主題である≪ピエタ》にも通じる。

 もっともミケランジェロの作品で≪ロンダニーニのピエタ》より直接的にコルヴィッツ≪ピエタ》の造形的な典拠とされてきたのは、やはりヴァチカンの《ピエタ》である15。コルヴィゾソにはヴィラ・ロマーナ賞を得てフィレンツ工に滞在していた時期があり、短い間ではあるがローマも訪れている。確かに、マリアの安定した構図や、後ろへと身体を反らせたキリストが母の腕の中にすっぽりとおさめられている点などには共通する要素が感じられ、この像がコルヴィッツのイメージの原点にあったとしても不思議ではない。

 また、パルラッハの女性像におけるマントの使い方などをはじめ、同時代の彫刻家の作品から何らかのヒントを得ていた可能性も否定することはできない。ただし、コルヴイツツ作品の大きな特徴は、前述したように、二人の身体全体が量感ある一塊になっていることであり、それは表現主義の時代における彫刻一般の特徴的表現といえるものではない。

 何らかの形で、コルヴィヅソの意識に刻まれていた作品となると、可能性は広がる。身近なべルリン、そして国内外の美術館を訪れる機会16、また、両大戦間には写真入り美術書出版の普及が進んでいたので、それらから情報を得る機会などは、コルヴィヅソには多くあったに違いない。それら無数の、実見、あるいは、出版物で見た可能性のある作例の中で、(私の知る範囲で)最もコルヴィッツの≪ピエタ》に多くの類似点を持っように思われる彫刻は、1420年頃の≪ウンナのマリアの嘆き》 である(Abb.19)17。

 絵画での成果が彫刻に取り入れ始められた時期の作例で、トレチェントのイタリア絵画の反映が感じられる他、マリアがキリストの身体を抱く表現などにはフランドル絵画の「十字架降下」や「哀悼」などからの影響も感じられる。もっとも、逆に、この作 品に類縁性を感じるほど、コルヴイゾソの≪ピエタ》を他の「ピエタ」像と比べることが困難なのだとも言えるのだが0

 最後に、コルヴィッツの彫刻について、ロダンからの影響がしばしば指摘されることにも触れておきたい。これは、パリ滞在時、実際にコルヴィッツが老ロダンを訪ねたことがあるという事実 に基づいている。同時代に生きていた最も巨大な彫刻家であった(しかも2度会った)ロダンを意識せずに彫刻を作れたはず がないという論拠である。だが実際に、この二人の造形言語 に共通点を見つけ出そうとするのは難しい。彫刻といいながら多くが彫塑に由来する造形であること。男性一性と女性性の極限に人間性が表出していることくらいしか思いつかない。この≪ピエタ》は、そんなコルヴイゾソの作品群の中では、少なくともロダンの直接の影響が感じられるものである。それは母マリアの、備き、手で口元を覆うポーズによる。

 これがロダンの≪考える人》(Abb.20)の嫡子ともいえる表現であることは疑いなく、さらに時代を逆行すればミケランジェロの頬を抑える人物になり、そしてデューラーの《メレンコリア岱(Abb・21)へと遡って、もう一人の偉大なドイツ人版画家へと辿り着く180このポーズこそが、コルヴィッツの《ピエタ》を、それまでの伝統的「ピエタ」像とは全く違ったものにしている。すなわち、マリアの一つの手によって、目を覆われる(=死んでいる)キリストと、口元を覆う(=思いに沈む)マリアの表現が、二つながら達成されているのである。この時マリアは、「嘆き悲しむ母」であると同時に、「思いに沈む人間」へと質的な変換を遂げている。

19くウンナのマリアの嘆き〉ライン川中流地域 1420年頃 木 ウエストファーレン州立美術博物館(ミュンスタ ̄)20オーキュスト・ロダンく考える人〉 1880年 ブロンズ21デューラー(メレンコリアけ1514年 エングレーヴインクー3:

■新たなテーマ〜死と女と子供と…

 「ピエタ」の登場人物は、基本的には、死せるキリストとそれを嘆くマリアの二人。キリストの死は人頬の罪の軌、として予定されていたとする教義を前提とすれば、母マリアにはその運命を回避する余地はない。ただ、悲しむことができるのみである0 

 そこに「死」という第3者が登場してきた時、主監のある種絶対的な宗教性は揺らぎ、近代的なテーマヘのシフトが可能になる。生誕地ドイツに復活した、あまたの近代的「ピエタ」像においては例タはく、宗教主題に重ねあわされて、ごく普通の人間に訪れる死の様相が表現されている。

 コルヴィッツ自身、「ピエタ」像以前にも、「女」と「子ども」と「死」の三者を主題とした版画・彫刻に幾度となく取り組んでいた。最重要のテーマの一つとさえいえる。母と子の間に、あるいは恋人たちの間に、常に存在を主張してきた「死」から、コルヴィッツは決して日を背けない。時には子どもの姿、恋人の姿に変容することさえある「死」は、女にとって第2着であり、第3着でもある輪郭のない存在である。従って、たとえば「母と死んだ子」という主題も、二人物像(母、死んだ子)としても三人の像(母、死、子)としても表されることがありえる。そこに描かれた母親は、絶望的な戦いを挑んだり、慾通され、支配される感覚に陶然となった姿で表されるなど、「死」との間に様ざまな関係を結んでいる19。伝統的な宗教主題のマリア像の抑制された嘆きの枠内に、とても納まりきれるものではない。

 本展の出品作でいえば、たとえば1903年の≪女と死んだ子ども》(Kat.−Nrn.44−46)、1910前後の「死」と「女」と「子ども」を主題とした一連の版画、および関連する素描(KaトNrn.62−67)がそれにあたる。1934/35年の連作『死』では、争う対象としての「死」は子どもをつかみ(Kat.−Nr.143)、女を襲う(Kat.−Nr.144)だけではなく、やがて少女を膝に抱き(Kat.−Nr.142)、友として認識されることになる。(Kat.−Nr.146)。 では、死との無数の闘争を経てきたコルヴィッツが、この時期に「死」との折り合いをつけたことが、木像《ピエタ》の制作背景にあったと結論づけて良いだろうか。

 ここでは、もう一つの新しいファクターが登場してきていることに注目したい。

 1937年10月の日記にもう一度立ち戻ってみたい。「この像(ピエタ)は、年老いた人物像を作るための彫刻習作から生まれてきたものだ。それは今や一種の『ピエ列になった」(傍点筆者)という一節である。≪ピエタ》の原案であったと思われる、文中の「年老いた人物像」については、その前年、1936年の11月に登場している。「私はそれから小さな彫刻<年老いた人>を計画しています(lch dachte noch eine kleine円astik》Alter Mensch≪zu machen....)」20。時期的には、プロイセン芸術アカデミー主催の「ベルリンの彫刻家展」に出品されていた2点の彫刻が撤去された頃にあたる。(それも本来出品を予定していた《母と二人の子》の代替作品であったが。)

 「年老いた人物」から生まれた「一種のピエタ」像について、コルヴィッツは1939年12月の日記でもうー度、比較的雄弁に語っている。フリーダ・ヴィンケルマン作の≪ピエタ》と自作とを比較して、自分の「ピエタ」は宗教的ではなく、ヴィンケルマンのはカトリック的であると言い、続けてこう言う。「(…)それが彼女の作品を、より力強く重厚にしている。マリアの顔は空ろではなく、ハンスが言っていたように、あくまでも救世主の母にまで高められている。私の≪ピエタ》の母親は、人間たちから拒絶された息子への想いに浸りこんでいる。彼女は年老い、孤独で、暗く考えに沈んだ女性なのだ。.しかしヴィンケルマンの母親像は、なお天の女王であり続けている。息子(キリスト)の方については、彼女と私のはもっと似ている。だけど、こちらも彼女のほうが良い。フリーダ・ヴィンケルマンもそう思っていたに違いないが、何も言わなかった。彼女の《ピエタ》は高貴な良品だ。彼女の一番の作品だ」21。

 誰に読まれることのない日記においてなお厳しい自己評価の数々に目をくらまされずに、コルヴィッツの芸術観を汲み取らねばならない。埋もれさせてはいけない言葉の一つは「彼女(=自作のマリア)は年老い、孤独で、暗く考えに沈んだ女性(Sieisteinealteeinsameunddunkelnachs山nendeFrau)」という部分であろう。「ピエタ」のマリアを、「老いた女性」として意識的に表した像は、皆無とはいえないまでも、きわめて例外的。いまだ光り輝く天の女王ではなく、子供を失い、暗く沈んだ孤独な老女。ここには「死」との、物狂おしい闘争の痕跡は既にない。

 もとより伝統的「ピエタ」のマリアは、「席罪」としてのキリストの死を、悲しむことはできても、否定することはできない。宗教的な意味において、受容しなくてはならない。それまでコルヴィッツが表してきた、子供を死によって奪われてきた無数の人間の母親たちとは、立場が違うのである。しかし、ここでコルヴィッツは「老い」を意識的に導入することにより、死をも含めた運命までを受け入れるような、ある種の諦念と受容の境地を人間の母(たち)にまとわせようとしたのだとは言えないだろうか。マリアとキリストが宗教的に極めて重要な一つの「死」によって結びついていた伝統的「ピエタ」とは質的に違うにしても、「老い」を伸介とすることにより「死んだ子」と「死を受け入れつつある母親」の間が限りなく接近した、現代版の「ピエタ」が、コルヴィゾソの≪ピエタ》像では成立しえたのではないかと推測する。

 そして、もう一つ注目すべきは、この年老いた孤独な女性が「暗く考えに沈ん」でいることである。「考えに沈むマリア」。それが意図的に表現された例であるならば、ここに、ミケランジェロ、デューラーからロダンヘとつづく、頬杖をついた「考える」人々のマスキュランな系譜に、初めて女性が、それも年老い、地上に生きてきた人間のマリアが加わった。それまで聖母は嘆き、受け入れ、許すだけだった。

22ノイエ・ヴァッヘに設置された (ピエタ(母と死んだ息子)〉 (拡大複製版)

 今や、困難な戦いと苦悩の果てに、深く考えに沈む人間となった。

「もはや苦痛ではなく、沈思の像である」22一制作中のコルヴイツツ自身が記している言葉の意味に、もう一度立ち返ってみたい。

■結び

 ≪ピエタ》の拡大複製が設置されている建物「ノイエ・ヴァッヘ」には、20世紀のドイツの歴史が刻み込まれている(Abb.22)01931年に「プロイセン州立戦没者追悼所」として改築されたが、直後のナチス政権下では彼らの「英雄」が追悼されることとなった。戦後しばらく放置された後、1960年、東ドイツ政府により、国立の「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための肇告追悼所」として整備された。そして1990年のドイツ統一後、現政府によって、まさに新しい「ノイ工・ヴァッヘ」(正式名称:ベルリンの戦争と専制政治の犠牲者のための国立中央追悼所)として再開されたのである0今は「敵味方の区別なく」追悼の対象とされているが、その新しい方針に対しては国内でなお批判もあるという。たとえばドイツ軍と、ホロコーストの犠牲者一つまり加害者と、被害者が同列に扱われることの是非である。議論は続く。 

 そのような施設に設置する作品の選定は、困難であっただろうと想像するが、最終的にこの場に提示されるものとして、コルヴィゾソの≪ピエタ》が選ばれた。それは、この作品の底流にある問いによるものだろうか。すなわち、我われの普遍性一一愛をあざないつつ死へと歩む生命という意味で、誰一人例外のない人間存在への問いと、そして共感である0 そして、かっては皮肉にも、時に鈎十字の形にすら見えることのあった中世ドイツの「ピエタ」像は、コルヴイゾソの手によ って、一つの形態に融合した二人物の像となった。

 敵意と共感とは、共に知性を超えて無制限に増殖しうるという点で、兄弟のようによく似ている○困難な時に、そのどちらを信じ、選ぶのか一私たちは無数の岐路を、今しも通り続け ている。芸術の力が、国境を越えて、いつまでも私たちを魅了 し続けるよう《ピエタ》は今も静かに、私たちに語りつづけているようだ。(新潟県立近代美術館主任学芸員)