第1期・物質の祝福、地面の肖像

■第1期・物質の祝福、地面の肖像

 1942年(41歳)秋、デュビュッフェは法定代理人を補佐に付け、商売を完全に放棄し、ひたすら絵画に専念しようと断固決心した。彼は自宅の向かいに小さなアトリエを借り、「生きたモデル」をもとに最初のデッサン〈座る若い娘のヌード〉(上図下左)を制作する。この作品から続けて、グアッシュ15点ほどと絵画3点が制作される。その一つ〈フランソワーズ・マンシュロンの肖像〉(下図)は板絵だが、しかしこれら初期の作品の多くは後につぶされた。当時デュビュッフェの生活はすっかり孤立していて、もっぱらランプール(最上図)と、ポール・ビュドリーの兄弟ジャンだけがその作品に興味を示した。

 1943年1月(42歳)、「プロのモデル」をもとに描かれた絵画〈衛兵〉(上図中)が、彼の画業の展開における一つの転機をなす。「今や私は一切の価値を疑っており、芸術創造はもはや、最近まで苦労して習得したいろんな技量を必要としないように見えた。逆に私には、そんな理屈のいらない、もっと力のあるもの、くったくのない気楽さによって特徴づけられているものに思えた。(略)はじめて私は真っ白な紙を用意して、全く自由に、そしてすばやく描いた。(略)子供たちの描いた作品を私は好み、それ以上のものを目指しはしなかった」。

 2月のある日、ジャン・ビュドリーが彼の友人、建築家ル・コルビュジェとともにやってくる。コルビュジェは熱狂をあらわにして、〈縄跳びするダンサー〉(上図右)を購入したがった。デュビュッフェはコルビュジェにその作品を贈った。当時、絵を売るなどという考えは毛頭持っていなかった。楽しみのために制作していたから。

 都会の光景が彼の興味を引く。彼の住む界隈の地下鉄(上図左)、広場や路地、そしてさらにジャズ(上図中)・・・その自由な音楽ほどに彼の絵画も自由であってほしいとのぞんだ。夏の間、リリと自転車で遠乗りに出かけては、スケッチを持ち帰り、また郊外への小旅行でも、牛や風景のデッサンが描かれた。一年経って〈幸福な郊外〉(上図右)のインスピレーションとなった。この大事な年には〈帽子の試着〉(下図)を含む50点ほどの絵画、300点近いグアッシュ、クロッキーまたはデッサンが制作された。

 「1943年の終わりにランプールが私の家にポーランをつれてきた。ポーランは私の作品に強い関心を示し、熱い共感の念を表明してくれた」。この最初の訪問の後、ジャン・ポーランとその友人たち・・・ほとんどは作家である・・・が、アトリエを次々と訪れた。同じ区内に住んでいるにもかかわらず、訪問客との間で600通を超える手紙が取り交わされた。その驚くほどのテンポが画家のあわただしい生活を物語っている。

 1944年2月(43歳)、ポーランがルネ・ドルーアンを連れてきた。ドルーアンの画廊はヴァンドーム広場にあり、3月になると、「私は決心した。この秋ごろに絵画の展覧会を行おう。それがドルーアン氏の画廊で行われると嬉しいのだが」。ピエール・セゲルスとアンドレ・バローが会いに来た。それぞれが熱烈な文章を書いた。またポール・エリュアールが詩を捧げ、同様にアンドレ・フレノーも詩を贈った。ポーラン宛、アンドレ・ドテルの手紙、「デュビュッフェの作品に、私はひどく心を揺さぶられた」。ルネ・ド・ソリエ、マルセル・アルラン、フランシス・ポンジュにも会い、「フォートリエの丁寧な評価にはとても励まされる」のみならず、「ミショーとクノーに知り合えるのは嬉しい」と語っている。一方でグロメールは一度訪れただけで、「怒り狂って敵対者となっている」。

ジャン・ポーランJeanPAULHAN(1884-1968)フランスの作家、批評家、言語学者。

ジャン・フォートリエJeanFAUTRIER(1898-1964)パリ生まれの画家。

 デュビュッフェの絵画を買いたいと望んだ者は多かったが、「絵を売るなどということは、敢えてするまい。絵を売るというのは、憶面のない人のすることであって、私にはとてもできない。」と、セゲルスの訪問の後、デュビュッフェは書いた。「絵を描くことは、私にとって遊びであり(略)精神のための玩具である」から。その代わり、贈り物にされることは多かった。まもなくシャルル・ラットン、アンリ=ピエール・ロシェ、ルイ=ガブリエル・クレイユーらが最初の買い手となるのである。

 しかし、すぐに、こうしたお節介な訪問全てにうんざりした。大いに時間を喰うからだ。彼はポーランに書き送る。「“見せるもの”はもうない。(略)私は全く普通の人のままでいたい」と。モンパルナス近く、ヴォージラール街の貸家を改装し、広いアトリエにすると、彼は毎朝自転車でそこへ通い、昼食に帰った後、再び戻って午後を過ごす。1階はインクを使った作品用。「紙と格闘する仕事。ひきちぎり、ひっかき、そして、ひきはがす」。2階は油彩用だが、リトグラフも試みられる。仲間の一人が手動のプレス機を貸してくれ、この新しい技法の手ほどきをしてくれた。〈ジョジョは行ってしまった〉(下図左)は最初の試みのうちの一つである。

 しかし、もっと真剣に「リトグラフ教室に」取り組み始めるのは、ムルロのアトリエでのことである。彼はそこで奇抜なやり方で石版にとりくみそこから思いがけぬ材質感や画肌を得た。11月、ポンジュ宛の手紙。「あなたにとてもお会いしたい、お願いしたいちょっとした提案があるのです」。つまり、リトグラフ( 上図右、下図)に序文を添えて欲しいということ。『物質と記憶』というその文章が、リトグラフ集のタイトルになる。

 毎晩、眠る前の変わらぬ読書の習慣「真に賞賛すべき」ジッド、ミショー、シュペルヴィェル、アルトー、バタイユ。アラゴンにはがっかりした。やはりサングリア。もちろんポーランと、その編集による『NRF(NouvelleRevueFranGaise)』誌の各号。最初の個展が10月20日にドルーアン画廊で開かれた。カタログにはポーランの手紙が掲載され、ランプールとアルランが最初の批評家となった。一般のジャーナリズムと大衆の反応はむしろ敵意に満ちていた。この年の作品は、新たに約50点の絵画、100点以上のスケッチ、40点ほどのリトグラフを数える。

 1945年(44歳)の1月から3月にかけて、リトグラフを作り続けた。ワジェーヌ・ギュヴィックが、《壁≫(上図左・右)に捧げられた自分の詩に挿画を描いて欲しいと頼んできたからだ壁のように立ちはだかる物体や風景が主題の作品ではいつも、こうした一定の正面からの描き方が重要であることを強調しておこう。4月、アンドレ画廊は、《物質と記憶》、《壁≫、幾つかの絵画とデッサンを展示している。デュビュッフェはカタログ『もっと慎ましく』のために文章を書いている下図左)

 リトグラフの制作がそうだったように、壁を作る左官のような制作は異常なまでに素材の探究へと向かわせ、タールや小石をパテに混ぜ合わせるようになった。その厚塗りのパテに、デュビュッフェは落書きをするようにナイフの先で切り込みを入れ、引っかいている〈祖型〉(上図右)という作品がこの新しいシリーズの始まりを告げている。これに反して〈露出〉(cat.no.22)の血管の浮き出た身体は、絵具の盛り上げが少なく、たくさんの通が見渡せる風景を思い起こさせる。

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 この時期にかれた多くの文章が、翌年書かれたものと一緒に、『あらゆる美術を愛好する人たちのための案内書』というタイトルで出版された。「芸術とは常に、ささやかな笑いと、少しばかりの恐怖を生むものでなければならない。まさしくそうだ。だが、決して退屈させるものであってはならない。(略)作品が特異であれば、それが呼びおこす笑いも大きいものであるだろう。そして、その特異さこそ、間違いなく、芸術とはどういうものであるかということを表しているのだ」。あるいは、さらに「陶酔をともなわぬ芸術はなく、(略)理性の腰はふらつくがよい、錯乱するがよい。(略)芸術は人智の及ぶかぎり最も情熱的なばか騒ぎなのだ」。

 6月に、ポーランとランプールがフロランス・グールドのところへ連れて行った。彼女は、「木曜日の夕食会」で数知れぬ作家や芸術家たちをもてなしていることで知られた女性だった。

 「マルローは私の絵画やリトグラフに大いに理解と好意を示してくれた。(略)バルテュスもまた、全く予想に反して、私の作品に興味を示した」このフロランス・グールドが、後になって友人たちの肖像を描くように促すことになる。翌月、ル・コルビュジェおよびポーランと共に講演に招かれたスイスで、いくつかの精神病院を訪れ、〈生の芸術(アール・ブリュット)〉作品の体系的な研究を始める。そのころ、友人をモデルに肖像画を描き始めたが、この仕事は翌年も続き、モデルは広がっていった。

 まもなく、アパルトマンとアトリエを自転車で行き来することに疲れ、最終的にヴォージラール街に住むことを選んだ。デュビュッフェは、ロデスの病院に収容されているアントナン・アルトを訪れ、その『演劇とその分身』について次のように書き送った。「この本を読むことは、私にとって大きな喜びでした。芸術と演劇について私自身が長い間抱いてきた考えをあなたの本の中に見つけて、私はひどく驚いたのです。(略)まったく同じ考えが、絵画における私の仕事を導き、決定づけます」。

 ルネ・ドルーアンは頻繁にアトリエに来ては絶賛を繰り返し、近作を何点か購入した。まもなく、それらの絵はピエール・マティスをも、とりこにした。1945年の11月以降、マティスはアメリカでデュビュッフェの作品を取り扱うようになった。1946年(45歳)(下図左)の最初の6カ月間を特徴づけるのは、技法と素材の諸研究の探求である。新しいパテと新しい混合材を実験した。そのため、絵具とニスについて専門の化学技術者の助けが要るはどだった。それまでの風景画にかわり、8月以降特に人物像を描くようになる。一連のデッサンを経て、《肖像≫シリーズが始まり、まるまる一年をこれに費やすこととなる(下図右)。

 フロランス・グールドの友人達は次々に「生き生きとスケッチ」されていった。デュビュッフェはジューアンドー宛の手紙に書いている。「昨日私の家に来るはずだったポール・レオトーは、招待を断ってきた。ピエール・ブノワと君を描いた私のデッサンをこの前、フロランスの家で見たからだ。その拒否は断固たるものだ。同じような一撃を与えないでくれたまえ、もう十分まいっている。では、木曜日」(下図左・右)。12月ジャック・ベルヌ宛の手紙。

 以後、この人物との間に手紙のやり取りが盛んになる。「今朝、私は、ある著名な老画家との会話を楽しんだ。(その画家が言うには)芸術家の、また、詩人の役割とは、まさに、従来あたり前とされてきたものの見方を混乱させ、一旦反故にした上で、再構築し、自己の創意工夫や新寄な見方を[受け手の]精神に訴えることなのだ(略)」。この画家とはジョルジュ・ブラックであった

 そして翌月、「私はジョー・ブスケのいるカルカソンヌヘ出発する。(略)この人は、常軌を逸脱しており、目の覚めるようなところがあって、浮世離れしている。私は、可能な限り不思議な魅力のある人物たち(例えば、ミショー、レオト、アルト、サングリアなど)を題材にしたいのだ(それは、とりわけ、この肖像画連作を企てた私の最初の一歩を踏みだし、確かなものとするためだ)。それが私の心をとらえ、わくわくさせるからだ」(下図左、下図右)。

 1947年(46歳)の冬は寒く、石炭は足りなかった。それで、2月にリリとともにアルジェへ旅立ったが、そこでも気候は寒く、デュビュッフェ夫妻は水彩絵具の箱も、スケッチ用の画帳も持たずに南サハラに到着した。エル・ゴレアのオアシスに3週間滞在したが、そこに強く魅了されたので、もっと長く滞在するために、すぐまた戻って来ようと決心した。「パリに戻ると、私は急いでアラブ語の話し方、書き方を学び始め」、サハラを主題にした6枚の大きな絵画が誕生したあと、ようやく、肖像画連作にあらためて取り組みはじめた。「どういう点で、一人の男の顔という風景が他のただの風景よりおもしろくないのか、私には分からない。一人の男、男としての肉体を持った人間、それもまた一つの小さな世界、風景を持った小さな一つの国である」。

 この《抜粋された類似性、記憶の中で調理されじっくりと味付けされた類似性、つまり記憶の中で放光する類似性をそなえた肖像画の連作≫展[《思っている以上に器量よし:肖像≫シリーズの当初の発表名]はドルーアン画廊で10月に展示され(下図)、その数は合計で60点の絵画と115点のデッサンである。

 1カ月後オアシスに戻り、クリスマスにアハガールヘ足を延ばしただけで、ずっと1948年の春まで滞在した。デュビュッフェは、今回は仕事に必要なあらゆる材料を準備していったので、郵便局の空部屋をアトリエに使わせてもらって制作を行った。そこで生まれた作品としては、〈アラビア人と足跡〉(下図左)や〈風に舞うバーヌース(外套)〉(下図右)を含む150点以上のグアッシュ及びデトランプ、〈茶を飲むアラビア人〉(cat・nO・28)を含む50点ほどの色鉛筆デッサン、そして、〈ラクダ〉(下図左)や〈ガゼル〉(下図右)を含む画帳や手帳に書き留められた数多くのデッサンがある。

 「ここでは人々は生きている。足が行き交い、その足跡の間をまた足が行き交う。細かな砂のなかに足跡が、まるで石膏で型取られたように印されるのは、心惹かれることだ。男たちの足、女たちの足、子供たちの足。またロバの足、馬の足、ラクダの足」。だが退屈してきたので、4月にポーランの訪問を受けるとすぐ帰国した。続く数カ月、サハラ砂漠から意欲をかきたてられた12枚の絵画が仕上げられた。しかし、デュビュッフェは〈生の芸術〉のコレクションに積極的に取り組むことを望み、それらはドルーアン画廊の地下に集められて展示されることになった。

 アンドレ・ブルトンと知り合い、ポーラン、ラットン、ロシェ、ミシェル・タピエらと共に〈生の芸術〉協会を発足させた。その年の暮れに、コレクションをガリマール社から提供された別棟に移送すると、再びスイスへ旅行、精神科医たちに会って興味深い記録を持ち帰った。彼はまた、サハラの遊牧民ベドウィン族の話すアラビア方言を研究した結果、音声学的な註を付けたテキスト、ポーランのいうところの「生きた言葉、祭りの言葉」のテキストを作成しようと思いついた・「レール・ドゥラ・カンパーヌ(Lerdlacanpane)』と題されたテキストは、リノリウム、タバコの箱、ヵマンベールチーズの箱底を版木に、「妻に助けてもらい、食堂のテーブルの上で私自身が刷った。(略)表紙の刷りには手のひらを押しつけ、本文ページには簡単なステンシル(小さな粋にぴんと張られた編み目の細かい絹地による)を用いた。その上に釘で書いた。(略)言葉が読みにくければいいと思っていた。(略)」(下図左・中)。この頃、デュビュッフェは、デンマークで入獄していたルイ=フェルディナン・セリーヌに救いの手をさしのべようとする。その著作を熱心に愛読していたのだ。

 1949年(48歳)の3月から5月に、デュビュッフェ夫妻は、3度目のアルジェリア旅行を果たし、ベニ=アベスとティミムーンを通って、エル・ゴレアに到着した。再び、おびただしいノートと手帳がデッサンやグァッシュで埋められる。その内のいくつかは、≪グロテスクな風景≫シリーズの始まりを告げており、帰国後、描かれることになる。200点を数える〈生の芸術〉のコレクション全体をドルーアン画廊で公開するに際して書かれた『文化的な芸術より好ましい〈生の芸術〉』は、デッサンに付された新しい表音学的テキスト「ラボヌファム・アベベ(Labonfamabeber)』と同じく、翌年の《ご婦人のからだ≫(上図右)という長いシリーズを予告している。

 1950年(49歳)、ポロックの友人であったフィリピン人画家アルフォンソ・オッソリオがパリに来て、デュビュッフェに会った。デュビュッフェは彼が初歩的な絵画」に夢中になり、その主題について評論を書くことになる。オッソリオの方でも、〈生の芸術〉に対してだけでなく、新しくできた友人の作品に対しても熱をあげて、何点かの作品、とりわけ《ご婦人のからだ≫シリーズを購入した。それらは、風景となった巨大な体であり、その体を突き動かしているのは「人間の肉体を連想させる肌触りであり、たぶん慎みという感情を損なうことさえあるだろう。しかしその巨大な体には力がみなぎっているように私には見える。その肌触りは、人間とはもはや何の関係もなく、むしろ大地を連想させる。(略)」。

 

 この激しい仕事を、ハイデルベルクでプリンツホルン・コレクションを訪れるための、そしてシュトウットガルトとミュンヘンで〈生の芸術〉研究を続けるためのドイツ旅行が中断させた。この時期に≪テーブル≫の習作(上図左・右)がある。この主題の最初の作品である。「テーブル」の主題は続く年月の間を通じて絵画でも彫刻でも定期的に扱われるが、このテーマについては「テーブルは人間にとって一番の相棒だ。(略)(人間は)自分のテーブルの中にものの世界全体を見ることが出来る」。

 1951年(下図左)は決定的な年であった。デュビュッフェは、長い間〈生の芸術〉についての著作を書こうと考えていたのだが、オッソリオがイーストハンプトンの自分の家にコレクションを受け入れようと申し出たとき、そこでゆっくり仕事が出来るだろうと考えて、その申し出にうっとりしたわけである。

 10月、リリと共にイル・ド・フランスからニューヨークへ出発した。しかし着いたときの失望は大きかった。家が出来あがっていなかったのだ。それで、アトリエをかまえ、すりつぶしたパテを厚く塗り重ねる手法による絵画を再び制作し始める。「こうした絵画は、パリで使っていたのとは違う材料を活用している。とりわけ、石膏や膠や油性エナメルを成分とするスウェーデン製のパテと、スポット・パテという名の奇妙なごちゃまぜの製品である。スポット・パテの方はある方法で用いると、表面にうねった皺をもたらすという効果を上げた。私はこれをニューヨークでだけでなく、引き続きパリでも大いに利用した。こういった材料をあれもこれも大量にため込んで、パリへ持ち帰ったのである」。

 イヴ・タンギー(上図右)と友情を交わし、マルセル・デュシャンはその上手な英語で、展覧会の時の講演を助けてくれた。それはアートクラブ・オブ・シカゴでピエール・マティスが組織した展覧会であり、講演のタイトルは「反文化的立場」という。「西洋のあらゆる美術や文学、哲学は、入念に練り上げられた観念の段階で力を発揮する。私自身の芸術、私自身の哲学はまるまる、底の底よりももっと隠された段階から始まっている。私は精神の運動を可能な限り奥に引っ込んでいる根っこのところでとらえようと試みている。そこでこそ、樹液は一番芳醇であることは間違いないだろうから」。

 1952年(51歳)の4月、フランスに帰国。マティスに売り渡されなかった珍しい幾つかの作品のなかに〈家具と物〉(上図左)がある。アトリエに閉じこもって「囚人のように暮らし」、中断することなく技術的実験を積み重ねた。墨に羽ペンないし葦ペン(古代の葦筆)を用いたデッサン、すなわち40点はどの≪陽のあたる大地≫が生まれ、それに大いに満足した。〈人物のいる風景〉(上図右)では、「今回は絵具の盛りあげに助けを求めることはせず、以前制作した<地面と大地〉と呼ばれる絵画が絵具をこねあげることによってあげたのと同じ効果を(略)再現すること。(略)物質そのものから離れようとする風、あらゆる事物を精神的で非物質的なレベルヘ移し変える風が、確かに、このデッサンのシリーズ以降、私の作品の中に吹き始めた。さらに続く数年間、後続のシリーズの中にもその風は吹き続けることであろう」。

 ≪精神的な風景≫および≪風景テーブル≫というテーマは、1953年(52歳)になっても、〈ハムと二つの水差しのあるテーブル〉(上図左)〈雄々(おお)しい大地〉(上図右)のような絵画によって追究されていく。そこでは、「押しつぶされた普通の油絵臭がナイフで厚く盛り上げられ、また薄く伸ばされる。そして、ねっとりした厚く塗られた絵具をナイフの先でえぐって引かれた線で、あっさりと仕上げられている」。このえぐられた線の特徴は、敏捷な手の動きの結果であり、デュビュッフェはかつてとても好きだった落書きを思いだして、大いに満足した。

 夏の間、車で急流に沿って走りながら、「私は、この生き生きとした流れの下にある、石ころだらけの川床や、石ころの上の流れの動きを題材に、絵を描きたいという激しい欲望を感じた。水を描くという考えに、私は強い関心を抱いた。(略)生きたままにこの主題をとらえようと、絵具とスケッチブックを携えてこの地方に戻ってきた。(略)パリで3枚の大きな絵画を描いた(略)」。最初の2作には満足せず、3番目の作品〈急流〉(下図)だけを保存した。

 ドルーアンがランプールの本『絵画はよいパン種、パンを焼くのはあなただ』を編集する。1954年〈群衆〉(下図)では、新しい技法が用いられた。つまり、ガラスまたはロドイド樹脂の板の上にインクが塗られ、色々な糸の切れ端と砂糖やセモリナ小麦といった粉末が散りばめられる。そして一枚の紙が貼り付けられ、手で押さえつけられる。するとそこには「型押し」が現れ、たちどころに切り取られた構成要素を呈示される。「それまでの歳月、〈地面と大地〉が生み出してきたのと同等の効果を、この型押しのアサンブラージュの中に見つけて私は大いに喜んだ」。

 一瞬やはかなさといった「再現」され得ないものをとらえるという、この型押しの作品は、いまや《形而上学的風郭シリーズという絵画へと形を変えた。〈湧出でまだらになった風景〉(下図左)や〈深紅の風景〉(下図右)はその一部である。奇抜な材料が絵画に割って入ることは多いが、すぐに絵画となじんでしまう。だから次に、そういった材料を生のままで利用しようと試みることになる0その結果、例えば≪はかない命の小像≫(下の下図左)では、石炭殻やスポンジ、木炭やブドウの木の根などがあらたにアサンブラージュにとりこまれて、人物群像を生み出している。

 ドルーアンはヴィスコンテイ街に新しい画廊を開く。1954年3月(53歳)に、彼は12年にわたる画業の成果を200点近く集めた内容豊かな展覧会をその画廊、セルクル・ヴォルネで企画する(上図右写真)。夏以来、デュビュッフェは、リリが入院しているオーヴェルニュの村とパリとを行き来して過ごすようになる。小さな部屋が彼にとってアトリエの代わりとなり、そこではとりわけ牛のデッサンとグァッシュを手がける。そして、パリでは数多く油彩を描く。「少し前まで熱心に取り組んでいた田舎という主題が、再び私の頭を一杯にしている」。しかしながら、パテを惜しみなく使って描かれた〈L字形の鼻〉(下図左)は〈牧草〉(下図右)を主題とした絵画とよく似ている。7歳の時この地方で抱いた最初の美的感動が思い出される!

 冬になって、やっとリリはサナトリウムを離れ南仏へと転地出来た。そして1955年(54歳)1月末、二人はヴァンスに落ちつく。一軒の別荘が借りられ、デュビュッフェは、まずはせまい一部屋だけを自由にし、そこで再び型押しのアサンブラージュを制作した。4月、もう少し大きなアトリエが出来あがり、再び絵筆がとれるようになった。〈故郷〉(下図)《牧草地≫連作の最初期の絵画の一つであり、そこでは、すばやく入れられた切り込みが錯綜して、風景と人物とを混同させている〈神経分布の光景〉(cat.no.44)の混沌とした起伏の方は、乾いていない厚塗りのパテ上に押しつけた型押しによる。

 夏、ポーラン宛の手配「(略)目下のところ私は、草の茂みや道端の小さな植物たちが与えるうっとりするような装飾こ心を奪われている。(略)私は小さなアザミの前で一日を過ごすと、翌日はそこから2メートルばかり離れた場所で日がな一日たたずんでいる(略)」。

 一方アトリエでは〈物のあるテーブル〉(下図左)のようなアサンプラージュによる絵画を次々と作り出している地面に直に置いたカンヴァス上に絵具を塗り、新聞やぼろ切れを貼り付けて、その型押しで色付けられた表面に生命を吹き込む。そうして、このカンヴァスを生け贄(にえ)にして断片に切り刻んだ後、新しく地にしたカンヴァスに重ね合わせ、再びコラージュにまとめあげると、木枠にはめ込むのである。こうしたコラージュのために、靴の製造に使われる強力で良質な糊を手に入れた。「こうしたアサンブラージュの技法は、思いがけない効果に喜んでいる。極めて膨大な実験をくり返すには、無造作にテーブルの上に投げ出された紙片を使えば、その配置の仕方にもよるが、素早くその効果を変えることが可能である0アサンブラージュは私にとってかけがえのない実験台であり、非常に力 のある創造の手段に思えた」。

 1956年2月のコラージュなしの油彩画、〈それぞれに運がある〉(上図右)でも、一つの風景をなす 地面にべとつく人物たちの光景がある。

 デュビュッフェを魅了するのは、今や庭であり、それも荒れ果てて野生化したような庭である。また、ヴァンスの山の石ころだらけの地面である。さらに蝶である。「私は蝶の羽のコラージュを、2年前の 技法ほど経験的ではなく、しかももっと確かな技法によって再び制作した。そこには自分の絵画にとっての発見の源があると思う」(下図左)。

 〈光のあたった彫塑台〉(上図右)は「(略)蝶の羽の思い出にまつわるものであり、特に私が執着し、そこに新たな展開を見出せると思っている絵画である」ユバック(図34)の非常に広いアトリエは、都市の城壁の下に建てられており、この広いアトリエのおかげで、夏以降、植物研究に関わるいくつもの仕事を同時に行う「作業場」を横並びに設置することが出来た。〈垂直の庭〉(図35)は、アトリエの庭の壁に植えられた植物から構成されていて、「これはわが領地の真珠であり、(略)植物研究の宝石である

 そこには、数多くの植物種が見出されるばかりか、見事なコケのコレクションもある」。そして、デュビュッフェに植物研究の趣味をもたらしたのはその絵画であって、決して逆ではないことがこの絵から説明出来るだろう。

 リリの健康状態がパリで冬を過ごせるはどになったので、二人は1957年(56歳)の冬までパリで過ごす。「パリの空気は私にはありがたく、私に張り合いを与えてくれる」。墨による型押しの作品がたくさんでき、デュビュッフェはそれについての文章を書いた。アサンブラージュのために用意された500〜600枚の紙片のうち、いくつかは手を加えずにそのまま取って置かれた(下図左右)

 こうした地肌についての実験が行われるのは、9月にヴァンスの作業場で生み出された膨大な量の≪地肌学≫シリーズにおいてである。このシリーズは翌年もひき続き「地面を祝福」し続けたが、〈地肌学(黄色)〉(下図)のむき出しの広大な地面は、南仏を離れるか離れないかの頃に描かれており、このシリーズの最初期のものである。

 抽象についての質問への答え。「何も抽象化されはしない。(略)極端だが一言でいえば・・・セザンヌのリンゴはジオットの礫刑図(たっけいず・はりつけ)とはかけ離れている。(略)レジェやデュシャンでは、その主題は機械装置に向けられている。(略)今日の芸術はもはや抽象ではない。というのは、機械装置よりもむしろ生物学の方が芸術をとらえるからだ。今日の芸術はいつも何かを人の心の中に呼び覚ますもののことなのだ」。「人それぞれの真実とは」という質問に対する答え。「事物は確実にそこにある。もし仮に絵画が私を引きつけるのであれば、私が絵画というものに何らかの炎を灯すことが出来る場合においてのみである。(略)生命の炎とか、垂直の炎とか、存在の炎とか、現実の炎とか」。

 1958年の初め、パリ在住のデュビュッフェは、型押しの偶然性がもたらした結果をりげラフによって手に入れようと望んだ。〈石の地形図〉(cat.no.51)はこの試みの最初の一部である。

 リトグラフの石とその可能性を、最近までずっと追求してきたが、それに夢中になればなるほど、ゆっくりと仕事をするためのアトリエを手に入れなければならない。それでパリに一つ、その後まもなくヴァンスにもう一つのアトリエを設けて、自然“≪現象≫”による本物の百科事典に取りかかった。しかしその前に、1カ月の間、「ムルロのアトリエでの勤勉で完璧な実習」に改めて従事せねばならない。

 〈砂場〉(上図)は絵画への回帰を示しており、新しい地平を開く独特の技法で描かれている。絵具にひたした絵筆を、地面に広げられたカンヴァスの上で振り回すと、滴の「飛び散り」が生まれる。次いで、砂の「飛び散り」が今度はそこに微妙な押し痕を残す。絵画の空間は、高低を失い、消失し、剥奪され、砂漠のようになっている。まるで10年も昔に魅了されたサハラの砂漠のようである。「(略)内部の地肌だけが働き、一切の外的な押し痕と形が排除されている純粋な絵画の、様々な効果。ついには絵画をあらゆるデッサンから解放するというこの考えが、私につきまとっている。

 しかしながら、いくつかのボリュームのある大人物像が、前面に立つことに少々当惑しながらも現れてくる。例えば、〈青白い顔のお嬢さん〉(上図)は、まるで石碑のように正面に顔を上げている。ユバックにはリトグラフのアトリエが設けられて、〈地面の誘惑〉、〈地面の陰影〉、〈地面の肉〉、〈大地と塵〉が再び油彩で描かれ始める。次いで、リトグラフが始まって、油彩の仕事は2カ月半にわたって一切中断される。カンヴァスがあまりに増え続けるのでそれをあきらめるよりほかなかったが、一番気に入っているいくっかの作品は残されており、それが〈地肌学的断片〉(下図左・右)となっている。

 さらにユバックのアトリエを拡張し、増築しなければならなかった。グアッシュによるアサンブラージュがいくつか現れてくる−〈導火線男〉(下図左)〈枯葉の地形図〉(下図)。〈地肌劉シリーズは1959年9月に、石」を描いた3点の絵画をもって終わりを迎えることになる。その一つが〈当惑する石〉(下図上段)であり、ワックスがけされたカンヴァスに描かれていて、「モノトンで乏しい色彩によって微妙なニュアンスの付けられたゆらぎが、ワックスがけされた画面からたちのぽろぅとしている。 なめらかな上塗りがいっぱいに広げられると、すぐさま大きな紙片で押し延ばされる」。

 (現象〉の試みはヴァンスで生まれたが、まもなくパリに整備されたアトリエで続けられ、4年間を通じて362枚の白黒と彩色された作品が作られ、引きちぎられて集め直されたり、アルバムに納められたりして、例の地肌への関心を大きく発展させた。《現象≫と密接に結びついているのが、紙に貼られている、黒い油のしみこんだ皺くちゃの銀紙の型押しであり、それは1959年1月に作品〈粒状の構成〉(下図左)と入り組んだ連作≪網状のもの≫(下図中・右)をもたらす。

 5月に閉鎖されるヴァンスの広いアトリエでのこれらの実験は、シリーズ《ひげ≫を生み出す。〈怒りのひげ〉(cat.no.61)

 「私は、取るに足らない美的な心地よさなど、もはや必要としない重みのある平面に、人間の似姿をもたらしたいと思った。高尚な儀式の、荘厳な式典祭式の平面に、私は人間の似姿を生み出したいと思った。多くの宗教人が神々に捧げる奉献、神々に立ち向かい、場合によっては侮辱の言葉すら許すような奉献は、ジョゼフ・コンラッドが”親密さと恐怖の混ぎり合い”と名付けたものによって作り出されている。しかしながら、こうした平面に人間の似姿を生み出すなら、私はその混ざり合いから救い出されることであろう。(略)こういった手短な説明で理解してもらいたいのは、私がこうした人物をユーモアをこめて描いたやり方と、私がもともと生まれもっている滑稽なユーモアのあるニュアンスとが、どれほど遠く隔たっているかということである。私はただひたすら祝典の場に立っているのであって、そこにユーモアや風刺、辛辣なことばや罵言雑言を見つけ出したと思いこんでいる人は、私の立つところを見誤っている(下図左)

 自筆の詩画集《ひげの花≫を創作した。それは1年後、朗読され、「音響的な素材」が付与され、さらに作者によって録音され、レコード化されることになる。植物研究への情熱は、夏の間を通して、「標本作りに長けた植物研究の助手」の助けを借りて、大量に積み上げられた植物からなる新しいアサンプラージュのシリーズを生み出した。イチジクやプラタナスの葉、リュウゼツラン、オレンジの皮、朝顔の花弁、キャベツの葉っぱが≪植物的要素≫を構成した。一方で海岸で集められた海藻の残骸は新しい小彫刻シリーズをもたらす。やがてこうした自然の素材は、もっと人工的な素材に取って替わり、それが12月から始まる新しい≪素材学≫シリーズを構成する。

 例えば銀紙、セメントのように固まる」ポリエステルのしみこんだ紙粘土、プラスチック粘土、雲母くずといった物質である。材料はこねられ、加工され、男っぽい油で古色をっけられ、枠に張られた目の細かな地に押しつけられる上図右

 錬金術画家デュビュッフェが楽しみを見出すのは、こういったマグマ[雑多な混合物]、大地の臓物であるマグマが突飛な効果、「自然よりもリアルな自然主義的効果」をもたらすことであり、それはある時は〈ペンチの嘴(くちばし)〉(上図左)のような彫像や人間の似姿の形をとり、またある時は〈メモリアル〉(上図右)のような、断面から見た地面の拡がりの様相を帯びたりする。1960年12月、パリの装飾美術館において、フランソワ・マテイの主導のもとで回顧展が組織される。マテイへの打ち明け話。「私が現在制作Lている《素材学≫はどこで考察されているか知っていますか。未来の読者の視点から、預言者の視点からなのです。そのことはちょうど、あなたの発する神秘的な言葉が示唆するものと似ています。私の宗教は汎神論なのです」。