芸術の価値転換

■芸術の価値転換

▶︎今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。

 と、私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。 これは、今まで考えられていた、絵はうまく、美しく、快いものであるという価値基準とは、まったく正反対の意見ですから、あるいは逆説のように聞こえるかもしれません。しかし、これこそ、まことに正しいのです。

 ふつう、絵をほめるばあい、まず、「うまいもんですな」とか、「きれいだわ」とか、「気持がいい、なんてたのしいんだろう」とか言ったりします。ところで、新しい絵にたいしては、どうですか。どう見てもきれいだと思えないし、うまいとも考えられない、まして、ここちなどみじんもよくはない。つまり絵として、ひっかかりようがない。今までの鑑賞法では、どうにもかなわないという絵がかなりあるでしょう。いったい、こんなものに、どこに価値があるのか、とお考えになることがあると思います。

 ところが、このように、今までそれなしには「すぐれた芸術」とはいえないとされていた絶対の条件がなにひとつなくて、しかも見るものを圧倒し去り、世界観を根底からくつがえしてしまい、以後、そのひとの生活自体を変えてしまうというほどの力をもったもの、一私はこれこそ、ほんとうの芸術だと思うのです。

■芸術はここちよくあってはならない 

 では、ほんとうの芸術は、なぜここちよくないのでしょうか。 すぐれた芸術には、飛躍的な創造があります。時代の常識にさからって、まったく独自のものを、そこに生み出しているわけです。そういうものは、かならず見るひとに一種の緊張を強要します。

 見るひとは自分のもちあわせの教義、つまり絵にたいする既成の知識だけでは、どうしてもそれを理解し判断することができないからです。そこには、なんとなくおびやかされるような、不安な気分さえあります。

 たとえば、富士山の絵とか、きれいな裸体画、静物画などならば、見なれている一つまり、今までそういうものを、なんども見て知っているから、すうっとそのまま、その世界にひたることができます。なにも努力しないですむ、はなはだ気分がよいわけです。ところが、創造的な芸術には、けっしてそういう安心感がありません。


 すぐれた芸術家は、はげしい意志と決意をもって、既成の常識を否定し、時代を新しく創造していきます。それは、芸術家がいままでの自分自身をも切りすて、のり越えて、おそろしい未知の世界に、おのれを賭けていった成果なのです。そういう作品を鑑賞するばあいは、こちらも作者と同じように、とどまっていないで駆け出さなければなりません。

 創作者とほとんど同じ緊張感、覚悟をもって、逆にこちらも、向こうをのり越えていくという気持でぷつからないかぎり、ほんとうの芸術は理解できないものです。つまり、見るほうでも創造する心組みでぷつかっていくのです。

 今まで、まるで想像もできなかった世界に、身を投じる緊張感は、すぐれた芸術に積極的にふれたばあいに、かならずおこる気分です。それは確かに、けっしてここちよいというものではない。まして作品に追いついていけないばあいには、正直に言って、疑惑と苦痛感を覚えるものです。

 すぐれた絵の前で、悲壮な顔をして見ている人がよくありますが、「アイツ、ブッてやがる」などと、バカにしてはいけません。髪をカキむしったり、ため息をしたり、森の中でライオンかなにかに出っくわしたときのように、すごい目で、前のほうをにらんでいる、苦痛そのものの表情は、そういう緊張感からきているのです。

 ところで、いったんそれがつかめ、自分自身のものにすることができると、急に命がぐっと力づよく飛躍します。そこにこそ、大きな喜びがあるのですが、しかしまた、それすらも苦痛に似た、それと背中あわせのよろこび、つまり歓喜です。うんうん、と言って、息もつけないような、心をふるいたたせ、心身に武者ぶるいみたいなものを感じさせる前進的な充実感なのです。だから、いずれにしても、たんにここちよいとか、「ああ、いいわね」とかいうような、無責任な感動ではないのです。

■芸術はいやったらしい

 さて、このような激しさをもった芸術、わかる、わからないということをこえて、いやおうなしに、ぐんぐん迫って、こちらを圧倒してくるようなものは、いやったらしい。

 例をあげょしょう。たとえば、ピカソの絵の多くは、正直にいって、ただ楽しいというものではないでしょう。むしろ、一種の不快感、いやったらしさを感じさせるにちがいありません。それほ、彼こそ今日のすぐれたアヴァンギャルドだからです。

 私が先年、パリに行ったとき、ちょうど「立体派」の回顧展をやっていました。今世紀のはじめ、新しい絵画の口火を切ったこの芸術運動は、久しいあいだ、「でたらめだ」とか、「絵ではない」などとののしられ、狂気の代名詞にさえ使われていました。ところが、半世紀たった今日では、すでに世界絵画の古典として頭を下げられるようになったのです○たいへんな評判で、会場は押すな押すなの騒ぎでした。

 ピカソの大傑作、1907年作の『アヴィニョンの娘たち』が出品されていました。青年 りんLゆくピカソが、当時パリの優美でデリケートな欄熱しきった雰囲気のなかで、大胆不敵にも、グロテスクな黒人原始芸術の手法をそのよま取り入れて作った作品で、立体派運動への第一歩となったものです。画面の左右の形式が不均衡にずらしてあり、形態、色彩は猛烈な不協和音を発しています。これが、ものすごい迫力で、会場全体を威圧しているのです。ニューヨークの近代美術館からはこんできたもので、私もはじめてナマにふれたのですが、ズーンと全身にひびいて、骨の髄までくい入ってくるセンセーションは、なまめかしいまでにいやったらしい。その偉大さ、ほげしさにおいて、おそらく最高傑作『ゲルニカ』と対比していい作品であり、今世紀前半の絵画の最高峰の一つだと思います。

 いやったらしいというのは、けっして私のかってな言いぐさではないのです。この作品をピカソが措きあげたとき、仲間だったブラックでさえ、そのいやったらしさにたまげてしまった。「おまえは、ガソリンを1リットルぐらい飲んでから、これをかいたんじゃないのか」と言ったそうです。ほんとうか、ウソか知りませんが、いかにも感じが出ています。そんないやったらしい作品が、あやしいまでの美しさで、他の傑作を抑えているのです。

 ゴッホなどもよい例です。彼の悲劇的な生涯のことを、あなたはたぷん、ご存じだと思います。ゴッホは今でこそたいへんな天才だと思われていますが、その存命ちゅうは、さっばり一般から認められず、一枚も絵は売れないし、周囲のあまりにも冷たい無理解さに絶望して、ついに自殺してしまいょした。芸術作品にたいして、どこよりも寛大なフランスで、はなもひっかけられなかったなどというのほ、よほどのことです。これは、ゴッホの絵が、その当時の人たちにとって、まことに不倫院な、いやったらしいものだったから J。つとに、ほかなりよせん。なまなれい原色は嘔吐をもよおすほどだし、ひん曲った形、乱暴なタッチほ見るにたえない、けっして美しいとは思えなかったからなのです。彼の芸術を理解しなかったのは、一般市民ばかりではありませんでした。そのころ、同じように社会の無理解とたたかっていた革命的な芸術家、印象派の人たちさえ、あまりまじめにとりあゎなかったようです0セザンヌが、「こいつはまったく狂人の絵だ」と相手にしなかったという話があります。

 ところが今日では、ゴッホばちっともいやったらしさを感じさせません。むしろ、ひじょぅに優美で心地よく、ほほえましい感じさえあります。これほ、たしかに時代がゴッホをのり越えて前進してしまったからなのです。

 このように愛されるようになったゴッホは、もはや、われわれに今日の問題を投げかけてはいません。その生涯は、今なお残酷にわれわれの心をうち、芸術家の共感を呼びさますものがありますが、作品はすでに今日の問題でほないのです0現在のわれわれに、暴力的にほたらきかけてくればこそ、いやったらしい。だからこそ強烈に惹きつけられもし、また、同時に反発したり嫌悪したけるのです。しかし時代がたって、その裂け目がうずめられてしまうと、あれほどいやったらしかったものが反対にほほえましくなってしまう。真に現実に生きている芸術だけが、いやったらしい。「芸術は、いやったらしくなければならない」というのほ、このような意味なのです。

■芸術は「きれい」であってはならない

 つぎに、「真の芸術は、きれいであってはならない」ということに移りましょう。

 きれいさということは、芸術の本質とは無関係だからです0「ああ、きれいね」といわれるような絵が、絵そのものの価値でほなく、たいてい、中のモデルによって関心をひいていること、あるいほたんに心持のよいモダニズムにすぎません。「きれい」ということばつまり、ちょうど女の顔がきれいだとか、着物の模様がきれいだとかというように、ただそれだけの単純な形式美をさしています。それは、二度三度と見ているうちに、きれいでなくなる。たんにきれいなものというのは、かならず慣れてしまうものであり、見あきるものです。

 それは、きれいさというものは、自分の精神で発見するものではなく、その時代の典型、約束ごとによってきめられた型だからです。ハリウッド型の美人というものがはやってくひと ると、日本の女の子まで、みんなハリウッド型になってしまう。「あの女鼻ぺチャでボー ッとした顔してるけど、天平時代(710〜794年)に生まれてれば、きっとたいへんな美てんひよつ 人だったわよ」ということにもなるのです0きれいなファッションといっても、ほんとう にその衣装の形や色が美しいのでほなくて、こういうのがきれいだという、そのときの約束にほまったものだから、きれいに見えるのです。つまり、きれいさというのは本質では なく、なにかに付随してあるもの、型だけであるものです。

 ところが、注意していただきたいことがあります。私がなぜ「きれい」と言って、とか くそれと同じような意味に混同して使われている「美しい」という言葉を使わないのかと いう点です。それほ、「きれいさ」と「美しさ」とは本質的にちがったもので、ばあいに ょっては、あきらかに反対に意味づけられることさえあるからです。「美しさ」は、たとえば気持のよくない、きたないものにでも使える言葉です0みにくいものの美しさというものがある。グロテスクなもの、恐ろしいもの、不快なもの、いやったらしいものに、ぞっとする美しさというものがあります。美しいということほ、厳密に言って、きれい、きたないという分類にはいらない、もっと深い意味をふくんでいるわけです0だから、はっきり分けたうえで、「きれい」という言葉を使ったのです。

 あなたは、つぎのような経験をされたことはないでしょうか。たとえば、きれいな女の ひとに会っても、ただきれいだなと思うだけで、さして気にとめないことが多いのに、いっぽう、きれいだとも思わないのになにか惹きつけられる人がいます。そして、その人がすばらしい女性だったら、つきあっているうちに、内のほうから美しさがかがやいてくるような感じで、ついには、ほんとうにきれいであるような気さえする。そんな人は、美しいのです。ところで、きれいな女のひとのほうは、かえって、つきあっていればいるほどなんでもなくなって、すっかり魅力を失ってくる。きれいにさえ見えなくなってくるのです。このように、美しさと、きれいさというのは、質的にちがったものです。

 ゴッホは美しい。しかし、きれいでほありません。ピカソは美しい。しかし、けっしてきれいではないのです。

■芸術は「うまく」あってはいけない

 さて、つぎは「どうして、うまくあってはいけないか」ということです。 昔の話によく、名人が虎を措いたら、あまりほんものみたいに描けてしまって、夜な夜な、絵から飛びだしてきて、あぶなくてしようがない。そこで綱をかきこんでしばったら、やっと抜けださなくなったなどという言いつたえがあります。

 先日、私は京都で円山応挙(1733〜95)の鯉の絵を見ょしたが、これはやはり同じよ   しLわうな日くつきで、鯉の上から網が精密に描いてあります。毎夜、庭の池におよぎ出すので、逃げられては困るからとあとから網をかき入れたのだそうです。この鯉は今日から見ると、けっしてほんものと見まごうほどの写実にはなっていないのですが、しかしそのころの形式化された日本画のなかでは、応挙のような、いくらか西洋画の影響をうけた写実がおそろしく真に迫って見えたのでしょう。当時の人に天然色の動物写真など見せたら、どんなにおどろき、心をさわがせたことでしょうか。

 あるいは、この網があまりにもきれいに、こころよく調和して措いてあるところを見ると、これはユーモラスな趣向だったのかもしれませんが、いずれにしてもそれが世間に伝しゃれえられると、もはや酒落ではなくなって、かえって芸術の問題をゆがめてしまうことになたぐし1るのです。私のおさないころには、学校の先生たちがきわめてまじめに、こういう類の話を教材にしていたものです。せっかくの話だから、おもしろ半分に聞いていましたが、子ども心にもバカバカしかった。

 生きているようだとか、いかにもほんものがそこにあるように措いてあるということで感心するというのは、じっさいには芸術の本質とほ関係のないことなのです。

 古今の名画傑作が数多く集められているパリのルーヴル博物館あたりに行って、見わたすと、ただちにピンとくる厳粛な事実なのですが、いつの時代でも、ほんとうにすぐれたたくものは、けっして「うまい」という作品ではありません。むしろ、技術的には巧みさが見えない、破れたところのあるような作品のほうが、ジカに、純粋に心を打ってくるものを持っています。美術史をつらぬいて残されているものも、けっきょく、そういう作品です。

 ところで、おどろくほど巧みで完璧な作品は、ぎっしりと並べたててあるのに、どうも印象が薄いのです。名前をしらべても聞いたことがないような作家ばかりです。その時代には偉い大家だったのですが、時代がすぎると、しだいに忘れ去られて、芸術史からはオミットされてしまった人たちです。反対に不遇だった真の芸術家が時代をこえて、しだいにあらわれてきて、つねに新鮮に美術史をあらためています。

 つまり、絵というものほやはり、うまいからいいというわけのものではないのですが、それを変に見当ちがいして、いわゆる職人的巧みさとか器用さなどというものが絵の価値、芸術の精神的内容みたいに、ごっちゃにされ、すりかえられている面が多いのです。

 以上、私の言いたいことは、こうです。うまいから、きれいだから、ここちよいから、−という今日までの絵画の絶対条件がまったくない作品で、しかも見るものを激しく惹きつけ圧倒しさるとしたら、これこそ芸術のほんとうの凄みであり、おそろしさでほないでしょうか。

 芸術の力とは、このように無条件なものだということです。これからの芸術ほ、自覚的に、そうでなければならないのです。

『今日の芸術一時代を創造するものは誰か』(光文社、1954年)より抜粋・構成