不条理さの表現

■不条理さの表現

▶︎浜田知明の作品について

               渋谷 妬

 《初年兵哀歌》のシリーズで知られる浜田知明は、人間の精神状態や感情を表現する言葉をタイトルに持つ作品を比較的多く発表している。

 例えば《アレレ…》《いらいら》《せかせか》などのように擬音語が用いられているものや、《疑惑》、《狂った男》など、心もちをダイレクトに表現する言葉をタイトルに冠している作品、それに《行きどまり、《見られている・・・。》など、ひとつの状況の散文的な描写をタイトルにもつ作品などがある。

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 こうした浜田の作品を見ると、大学でフランス美術史を学んだ私は17世紀の画家シャルル・ル・プランによるテキスト「感情表現に関する講演」(1668年)を思い出す。

 このテキストはフランス美術史上よく知られたもので、その内容は、絵画に描かれる人物の精神状態、すなわち感情が顔の表情としてどのように描かれるべきかを論じたものである。テキストはさまざまな感情と対応する表情の図解入りで印刷され、今日に伝わっている。この表情の図解と浜田の作品は、ひとつのイメージと人間の精神状態を表す言葉を冠したタイトルがそれぞれ対応しているところがちょっと似ていて、きっとそれが浜田の作品を見てル・プランの講演を想起する所以なのだと思う。この講演は、17世紀を代表する哲学者ルネ・デカルトの著作『情念論』に影響されたといわれている。絵画ではキリスト教主題の宗教画、古典古代の物語の場面の描写、そして古典のエピソードを寓意的に利用して王権を賞賛する絵画が主流であった時代である。描かれる場面とエピソードに応じて、それぞれの人物の感情を的確に描き分けなくてはならなかった当時、絵画の表現を合理的に理解し、整理しようとしていた合理主義の時代の画家たちにとって、さまざまな感情を論じ分けている点でデカルトの著作は有用なものに見えただろう。

 合理主義者であるデカルトは物事が起こり行く様を原因と結果の連鎖で考えていたが、では感情が引き起こす顔の表情の変化、言い換えれば非物質的なものから物質的なものへの作用を、一体デカルトはどのように説明しただろうか。現代的な観点から見て、彼は結局理に適った説明ができなかったのである。心、魂、精神、こうした非物質的なものが身体という物質に変化を及ぼすこと、感情が表情(すなわち顔の筋肉の運動)の原因となることについて、デカルトは神の概念を持ち出すこと(要するに神がそのように創造したということ)で、あるいは事実そうなっているという現実の追認の形でしか説明することができなかったように思われる。物事が理に通った仕方で、すなわち合理的に説明できないことは、非合理的もしくは不条理であるというが、創造主としての神の存在を信じない現代の私たちの多くにとって、心と身体の間のつながりは、経験的には理解できても、合理的には説明できない不条理さを抱え込んだつながりのままである。

 浜田知明の作品を見ていると、私にはそれが一種の不条理さの表現になっているように思われる。もちろんデカルトが合理的には解決できず、ル・ブランが画家としてはあまり考えることのなかったはずの問題、感情と表情とのあいだにある密やかなつながりの理解に版画家が取り組んでいるなどと言いたいのではない。こう言ったらよいだろうか。ひとつの感情を起こさせる状況というものがある。だがその感情の原因となる状況が、まったく合理的な、もしくは道義的な正当性、理由というものを見出せないようなかたちで生じるとき、その状況は人に不条理なものとして映るだろう。浜田が表現しているのは、多くの場合こうした不条理さの感覚であるように私には思われるのである。

 画家自身がいうところの不条理さというものについて耳を傾けてみよう。浜田は軍隊での経験を語りながら次のように表現している

 私は本来人間は基本的に平等であるべきものだと信じていた。しかるにこの軍隊という社会は、一つ星の初年兵を底辺としてピラミッド状に階級があり、その階級差と年次とを厳格に守ることによって秩序が維持されていた。旧日本軍隊のやり切れなさは、戦場における生命の危険や肉体的な苦痛よりは、内務班や内務班の延長上にある戦場での生活において、戦闘行為遂行に必要な制度として設けられた階級の私的な悪用からくる不条理にあった。不条理と矛盾の渦巻く中で、それでもモノを考えることを止められなかったものは、どのような生き方を選べばよかったのだろうか。〔「初年兵哀歌」、『浜田知明展』カタログ(1979年、熊本県立美術館)所収、14頁(『現代の眼』1972年207号より再録)〕

 このテキストでは、戦争や軍隊の批判の原点にある感情が吐露されているのみならず、さまざまな表現の違いを超えて見出されるもの、浜田芸術の全体を理解する上でのヒントが明かされているように思われる。ここでは不条理さというものは、具体的な軍隊経験(階級の私的な悪用)に基づいて述ベられているが、その本質的な内容は、整合的な理念と理に適わない現実の乖離に対する憤りが表現されていること、これではないだろうか。人間が平等であるとすれば、人々のあいだに階級づけがなされることがまず不条理なのであり、百歩譲って軍隊内の規律と秩序のために階級づけが正当化されるにしても、そこでは私的な利害や気まぐれという理不尽がはびこる。正当な理由づけ、納得できる原因もなしに現実に自らに降りかかってくる理不尽な出来事どもに、画家はやり切れない思いを抱いているのだ。そしてこうした気分は、戦争をテーマにした作品のみならず、文明批評的な作品や感情を表現した多くの作品にも見出されるものであるように思われる。画家が感じるやり切れなさ、不条理さの感覚の周りに作品が結晶しているように見えるのである。

《初年兵哀歌》のシリーズを中心として「戦争」のカテゴリーに分類した作品を見てみよう。より正確に言えば、こうした作品においては、戦争によって引き起こされる死をめぐる感情がテーマになっているといえるだろう。死とはほとんどいつでも不条理なものである。事故にせよ、病気にせよ、ケガにせよ、生命を脅かすものとの出会いは、活動し続けようとする生命にとっては不条理なものである。自殺は自らが望む死であるが、しかし生きているものが死を選ばざるをえない状況そのものが不条理極まりないともいえるから、自殺もやはり不条理が引き起こすものだ。しかし、なかでも戦争によって引き起こされる死はとりわけ不条理なものであるはずだ人の生死を左右するのが当人以外の他人なのだから。ひとりの人間の死という結果が、道理に適わぬ理由から生じるのである。 浜田のイメージにおいて、ひとつの感情は、ル・プランの講演の図解がそうであったように、顔の表現や身振りそのものによってストレートに表されることは少ない。《アレレ・・≫のような作品は例外であると言えるかもしれない。むしろ画家が好んで選ぶのは、人物が配置されたある状況の描写を通して感情を描き出すことである。戦争による死を頂点とする不条理の存在は、たとえば次のような状況の描写を通して示唆されている。死の直接的な《初年兵哀歌(風景)

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《黄土地帯(B)》や自殺の場面 《初年兵哀歌(便所の伝説)《初年兵哀歌(歩哨)≫

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では、不条理が引き起こす(道義的にその死の理由が説明できない)結果としての死が描かれている。道徳の高みから戦争を声高に断罪するようなイメージを作るよりも、不条理がもたらすひとつの結果を淡々と描くことを通じて、画家は鑑賞者に静かに訴えかける道を選んでいるように見える。こうした状況を生み出したものが何であるのか、その状況をもたらした理由の途方もない不条理さを自ら考えてほしいと願っているかのように。 浜田がこうした不条理さをうまく表現しているように見えるのは、亡骸もしくは死に直面した人物が置かれる状況の描き方が巧みであるからと私は考える。

 他人の行為が生じさせた結果としての兵士や市民の亡骸がおかれるのは、モノクロの、しかし深く美しいトーンで描かれる乾いた風景の中である。雄大な自然のサイクルの中では、人の生死というものはしばしば顛末(顛(いただき)から末(すえ)までの意)なことに思われるときがある。しかし浜田のエッチングは、それを観る者に人の死が自然のサイクルと比較して 顛末なことであるとは感じさせない。色彩が排除された画面は、情念的でロマンチックな自然観を持つことを抑制し、ここでは自然はひとつの合理的なシステム、いわばひとつひとつに理由がある物事の連鎖の総体であるように見える。整合的に物事が生じては消えてゆく自然を前にすると、人間の蛮行、愚かな行為はその不条理さが露呈され、強調されるかのようである。

 他方、後の作品では、人の死や恐怖を引き起こす原因の不条理さが比喩的に表現されている。核の死の脅威を寓意的に表現し、訳もわからず右往左往している人々を描いた1967年《風景》や、深い考えなしに(合理的な理由なしに)反射的、連鎖的に戦争を引き起こしかねない連中を描いた作品《ボタン(A)》1988年

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などの作品があげられる。ここで興味深いのは、《初年兵哀歌》で世に出、戦争の記憶がまだ鮮烈であったころの作品が、どちらかといえば不条理がもたらす結果の描写になっているのに対し、戦争体験に鮮烈さがなくなってくると(「新鮮な感動みたいなものが全然なくなってきたんです。“なま’’な感じがでないから。」)、表現は不条理な理由そのものを描写し、作品化する方向に向かったように思われることである。人は目の前の鮮烈な印象に奪われているときには、その印象の原因にはそれほど思いが至らないものであるが、より深く考え反省するとき、その印象のもとにある原因、理由に思いを馳せるようになる。

 古来アリストテレスの時代より、結果を享受することよりも原因を理解することのほうがより知解的であると言われてきたが、画家は哲学者ではないのだから、結果の側を描こうと原因の側を描こうとそれ自体に良し悪しはない。戦争の印象が薄れるにつれて、目の当たりにした光景やストレートな死の描写から、不条理な理由の比喩的な、したがってより複雑な象徴的操作を含む表現に向かうのは、画家の誠実な制作態度の表れであるように思われる。ひとつの印象が鮮烈さを失ったとき、より生き生きと感じられるのは、その印象についての知性的な認識のほうであるはずだからである。

 死には直結しなくとも、道理に適(かな)わずやり切れない思いをすることは実際の社会の中ではままあることである。社会的に高い地位にあるものたちの滑稽で茶番じみた振る舞いを描いたもの《副校長D氏像》1956年《地方名士》1958年《教授たち》1981年

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や、現代社会の利便性、消費社会の背後で進行する環境破壊や汚染をテーマにした作品<風化する街(A)上><風化する街(B)下> 1978年を見ていると、画家が深く嘆息している姿を思い浮かべてしまう。画家は言う、諷刺画が成功するためには、「冷厳な眼で周囲の現実を眺める」必要があると。冷厳な批評眼で眺められた現実は、さまざまな不条理、不合理を露呈するはずである。

 ここで1955年という年に注目してみよう。この年はうまくいった作品がないため「空白の1年」とされているが、興味深いのは、この年を境にして作品の方向性に変化が起こっているように見えることである。スランプの中で何かが起こったのであろうか。既に述べたように、戦地で目の当たりにした状況のストレートな表現、もしくは想像力によってそうした状況の印象を整理、再構築した作品ではなく、むしろその状況の原因となる不条理さを比喩的に表現した作品が現れてくる。戦争というテーマに注目してみると、不条理な死をまたもやもたらしかねない再軍備を、海の底に沈んだ戦艦の浮上によって表現した《よみがえる亡霊≫は1956年の制作であり、これは戦争による死を不条理な原因の側からみて表現した最初の作品にあたる。

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 同様に、最初の諷刺的な作品である <副校長D氏像≫ もこの年の作品である。画家の言葉を借りて、この<副校長D氏像>を分析してみよう。副校長D氏は「長年月、生徒を前にして固い話ばかりしてきた」せいで「心までも四角四面になってしまった」。「眼は複眼の如く、キョロキョロとす早く動く。」そのくせ酒を飲むと「わいせつな言葉を吐いて、周囲の人達のヒンシュクをかう」…。こうしたD氏をイメージ化するとき、画家が行っているのは、連想であり、象徴化の操作である。話の「固さ」は、「丸くはない」角ばったものとして連想、変換され、戸棚のような頭が描かれる。並んだ数字も、数でしか物事を判断できない頭の固さを表していよう。複眼のような眼つきは文字通り複数化されて描かれ、固い様子の陰に隠されたわいせつさは、閉まった扉のむこう、引き上げられた布のむこう側からのぞく女性のヌードとして表現されている。

 つまり描かれているのは、周囲の人がうんざりしている様子(結果)のほうではなく、うんざりさせる原因(D氏)のほうなのである。

 他方、環境破壊とそれによって蝕まれる人や街を描いた<風化する街(A)><ある風景>との関係もまた興味深いものである。基本的にこれらの作品では、環境破壊の帰結・結果が比喩的に表現されている。身体の汚染は虫喰いの粟のように表現され、自らの健康が蝕まれていることに人々ほ気付かないでいる。画家の言によれば、人の健康ばかりではなく、街もまた蝕まれている(《風化する街(A)》の中央の黒いビルは右下が欠けている)。

 だが、この街は道が舗装されたビルディング街であることを考慮する必要があ  るのではないだろうか。都市化は工業の発達の恩恵でもあるが、その発達が環境汚染を生み出してもいるのだから。都市/ビルディングの描写は、環境汚染の対象の描写であると同時に、その原因の表象であると解釈することもできる。したがって《風化する街(A)》において、また《ある風景》の最初のバージョンである《風化する街(B)》(1978年)において背景にビルが描かれているのは、画家が環境汚染の原因をも同時に表現したいと、無意識に望んだからであるようにも見える《風化する街(B)≫から背景のビルが除かれて《ある風景》になったのは、構図が煩雑すぎるという美学的な理由による)。

 今展の大きなカテゴリーのひとつである「感情」に分類した作品についてみてみよう。未出品の作品も含めて浜田の作品全体を見渡してみると、純粋な驚きの感情の表現である《アレレ…≫や、ポジティヴな精神状態の表現である《何とかなるさ≫(1976年)、《浮上》(1977年)などの作品よりも、ネガティヴな感情をテーマにした作品のほうが多いことに気付かされる。これは<副校長D氏像>についての画家のコメントに見られる、好きではないものが絵になりやすいこと、嫌悪の対象を分析し、絵になるかを考えるという画家の創作上の姿勢からよく理解されるだろう。望まぬ感情を被らなければならないという不条理な気分、そしてこれを分析し、作品を通じて不条理な原因を白日の下にさらけ出したいという欲望が画家を制作に向かわせている。したがってこのカテゴリーの作品に、私は戦争批判や文明批評などをテーマにした作品 との違いよりも、むしろ理解しがたい状況、不条理さに翻弄される存在としての人間を描写することを通じて、その不条理さに対するやり切れない思いを表現するという、浜田作品に共通する本質を見るべきだと考える

 《いらいら≫や《せかせか》、《見られている》、《怯える人々》では、タイトルにあるさまざまな悪感情(いらだち、焦燥感、監視への嫌悪感、怯え)を被る人物が措かれ、その感情の原因、引き金となるものが人物の外側に視覚化されて配置されてい る(手によって表現されるわずらわしい人々の干渉、ざわめく短冊として表現された心乱すもの)。感情をテーマにした 作品は1970年代以降に多いが、ここで観察の対象と画家自身との関係にある変化が生じているように思われる。戦争批判や文明・社会批評的な作品においては、画家自身はひとつの状況の観察者であり、《初年兵哀歌(歩哨)》を除いて画家の表象は画面には現れてこなかった。ひとつの悪感情の不条理な原因は、社会的な次元にあるものが考察されることが多かったといえよう。しかし70年代以降の感情をテーマにした作品では、イメージの中央に配され、感情に支配されている人物は画家自身の分身である。自身の姿が観察の対象としてイメージの中心に登場するのは、感情の不条理な原因が自分自身の中に巣食っているという意識の表れであろうか。自らの精神的、身体的な次元の理由が描かれるとき、そうした原因は、象徴的な操作を経て自身の内部から外化され、外部から何かに煩わされている状況として表現される。

 そして画家の言葉を追うと、画家がこの感情の原因となるものの表現、象徴化の操作に心を砕いていること、この表現の如何に作品の成否が掛かっていると考えていることがわかるだろう。《怯える人々≫における天井と壁から垂れ下がる尻尾について、画家は次のように述べている。

 何に怯えているんですか? -(浜田)原爆でも水爆でも戦争でも何でもいいんですが。僕の場合、結局ここに何を持ってくるかが問題でして。怯えさせるものを何で表現するかということが。・・ (『浜田知明一版画と彫刻による人間の探求』展カタログ、2001年、熊本県立美術館、141頁。)

 この「感情」のカテゴリーに入る作品は、浜田における表現の手法の一種の総合であるように見える。不条理によって生じたある状況の描写を通じて、その不条理さについて画家が感じているやり切れなさ、憤りが表現された作品では、原因としての不条理なものは画面の中に表現されない傾向があった。不条理さが作り出したひとつの状況という結果の側を、淡々と描写することによってイメージが作られていた。

 他方、不条理な原因の側を寓意的、象徴的に表現することに力点が置かれている作品があった。そして感情を表す言葉をタイトルにもつ作品では、ひとつの感情を生み出す原因と、その感情に翻弄されている人物の様子(結果)が、同時にひとつの画面に描き込まれている。制作の時点で生き生きと感じられている感情をひとつの状況として巧みに表現しながら、その感情を生み出す原因を象徴化を通じて可視的なものにし(これに画家が心を砕いているのは既に述べたとおりである)、双方をひとつの画面内にまとめ上げるには、原因もしくは結果の一方のみの描写によって作品が成立していたとき以上に、画面内の要素をよりいっそう整理し単純化する必要があったように思われる。ここに至って、人間を翻弄する不条理は、人間が生きるときにどうしてもついてまわらざるを得ないものとして、そして浜田自身にとって創作に向かうためには必要だったものとして受け止められたのではないだろうか。ひとつの絵画空間の中に、不条理な原因とその結果が共存するようになったことが示しているのは、そのような画家の意識の表れであるかのようにも思われる。

 浜田は、従軍経験によって自らの創作の方向性が決められてしまったことを繰り返し述べている。歴史に「もし」はありえないが、「もし」大陸でさまざまな不条理を目の当たりにしなければ、浜田芸術はどのような方向に向かっていたのか、と私は考えてしまう。フランドル地方、ドイツ、イタリアのルネサンスの画家たちの作品に対する深い愛着と敬意は、キリスト教的主題への共感から来るのではなく、高度な職人的技術と理念的なもの(神)に対する謙虚な姿勢に由来する、物質的に堅固でありながら詩情豊かなイメージから来るものであろう。「もし」大陸でさまざまな不条理を目の当たりにしなければ、浜田芸術は、中世からルネサンス初期の画家たちの作品に感じることができる詩情を、宗教色抜きで現代的に洗練させたイメージ群となっていたのではないだろうか。

 今展で「愛」と「ポエジー(詩情)」というカテゴリーに分類した作品に、私はこうした批判的精神からは自由な、ある意味では無垢な版画家の感性の解放を見たいように思う。ではそうした作品は、浜田の創作の原動力であったように思われる不条理さについての感覚とは、まったく関連がないものなのであろうか。必ずしもそうとはいえまい。何しろ「愛」も「ポエジー」も、古来しばしば説明しがたきもの、いわば一種の不条理として語られてきたものなのであるから。(大川美術館学芸員)