2.自然と抽象

2.自然と抽象

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 クレーの描く生き物の姿は、しばしば現実とかけ離れた幻想味のある様子で表現された。ここに登場する蛾も、長スカートを履いた女性や妖精などを思わせる不思議な形態にされている。体中から下方に向かって飛び出る矢印は、クレー絵画に頻繁に登場する運動の方向を示すモティーフであり、ここでは蛾の羽ばたきに括抗する引力の働きを表すのであろう。蛾の図像は予め下絵の素描に描かれ、油彩転写といって、本紙と素描の間に油性黒インクを塗った紙を挟み、尖筆で絵柄の線をなぞる方法で写し取られた。転写という工程を踏んだ理由の一つには、蛾の図像を制作者のパトスが創造したものから、世界から自然に浮き上がって生まれた存在へと高めようとする意識が働いていたのではなかろうか。また転写の際に、自然に手の圧力がかかったためか、意図的に何かで紙を擦ったために、蛾の周りにはインクの跡が細かく付着したが、それが画面に微かに羽音を聴かせるようなざわめきと震動感を生んでいる。

 色彩を与えているのは、肌色と青の濃淡によるグラデーション構造である左右方向においては、中央から、両端に向かって漸次的に色調は強められている上下方向では、画面を上段と下段に二分割するように、それぞれの中央水平ライン辺りから上下両方向に向かい、色は渡さを増している。その結果、画中には蛾のシルエットと重なるようにして、濃く青い横軸と明るい肌色の縦軸が十字を切り、羽ばたく生命体を昇天する礫刑図のキリストのようにも見せる。

イメージの全体を縁取る黒枠は、本紙に貼付された台紙上に引かれている。この枠の絵画空間に対する役割は両義的だ。つまり、それは一方では、画中世界が現実から区切られたこの世ならぬものであることを強調する。しかし他方ではグラデーションの連続という視覚効果により、台紙という半ば現実世界に属する物体と、画面に描出された虚構の空間との間に緊密な繋がりを生み出すからである。(S.H.)


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 無数の力強く細かい描線で覆われたモノクロームの小さな画面。眼を凝らして見ればそこには、ごつごつと隆起する大地に巨大な植物がさまざまな方向に葉を伸ばして生い茂り、あちこちで大仰な身振りの裸人たちが両腕を広げて何事か騒ぐ光景が表されていることが分かる。画面の中央右と左端中央には、「庭」というモティーフと対応するように、塀の形を思わせる方形が見出せる。この小世界では植物も、人も、大地の断片も、すべてのモティーフがジグゾーパズルのようにほぼ均等な大きさでとらえられ、それらは画中に疎密なく満遍なく配置される。陰影のハッチングも、一つ一つの形の立体感を確かめるように全体につけられているので、画面はまるで、奥行きの浅く形のしっかりした金工細工の浮き彫りが、無数の光源に照らされて鈍く陰鬱な光を放つかのような印象を形成する。

 こうした画面の特徴は、クレーが前年の1912年にパリを訪れて目の当たりにした、当時最先端の絵画様式であったキュビスムの影響を強く感じさせる。本作を手がけた13年はちょうど、詩人アポリネールが著した『キュビスムの画家たち』の独訳が刊行された年でもある。それがクレーにさらなる刺激を与えたことは想像に難くない。また裸人の存在やその背丈に届くほどの大きな植物、見通しの利かぬ空間は、アンリ・ルソーの描いた熱帯の楽園を想起もさせるが、クレーはやはりパリで、ルソー(1844−1910)の熱心な蒐集家だったヴイルヘルム・ウーデ(1874−1947)のコレクションも訪れている。裸人の頭部から上方に逆立って伸びるハッチング線は光線も連想させる。するとパリの影響以外に、本作はクレーが前年より交友を深めていた画家カンディンスキーの絵画とも関連するかもしれない。というのは、カンディンスキーは人々が逃げ惑う世界の終末の情景を繰り返し取り上げ、しばしばその中に光輪を戴く聖人の姿を描いているからである。

 庭はクレーが生涯興味を持ち続けた主題であった。それは通常、自然との密やかな交感を可能にする隠遁者のミクロコスモスという風情を湛えたが、ここでは狂熱的エネルギーとあからさまに激しい動き、終末の予感が錯綜するパセティックな世界を形作っている。(S.H.)65


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 菱形の蕾と先の丸まった葉をつけ、ジグザグと生長する植物。足元には建築的フォルムが描かれ、地は矩形に分節されている。黒の水彩の濃淡によって明暗の語調に変化がつけられている。明暗の表現法を研究する過程で制作された一点である。

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 本来、この《庭の植物》の左には画面が連続していたのだが、クレーは作品を縦に二分し、左側の画面を≪帯の花》という独立した作品としたことが明らかにされている。題名から推測されるように、《帯の花》の画面にも帯状にジグザグと生長する植物が描かかれ、それに教会や家らしき建築物が組み合わされていた。ただし《庭の植物》におけるのとは対照的に、《帯の花》にみられる花は開花し、しかも一旦描いた黒の水彩を洗い、刷毛をかけて画面全体の黒の濃淡を薄めることによって、インクで描かれた植物や建築的フォルムの線描を浮き立たせている。建築的フォルムと植物とを対比させるという関心は、《庭の植物》についても当てはまる。1901年から翌年にかけてイタリアに滞在したクレーは、そのときの体験をきっかけに、諸部分が数学的な比例に基づく有機的な構造体としての古典建築を、絵画の抽象化のための重要なアナロジーと捉えるようになる。絵画の抽象化と取り組む過程で制作された《庭の植物》や《旗のある風景》には、実際に建築モティーフと有機的植物とを画面内に並置することによって、有機体としての作品の抽象化をめぐる画家の思索が反映されている。(f.G.)


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 クレーは第一次世界大戦従軍中も制作に励み、自らの芸術を発展させた。《モミの木のある赤い風景》と《インテリア》は、その時期に手がけた中の2点である。半円アーチ、方形、円など、幾何学的な形を構成した空間は、キュビスム以後のヨーロッパの先端芸術の動向と足並みが揃っているが、クレーの描く形は常に、背後に魂を感じさせる。

 輪郭の明瞭な色彩をモザイクのように配列した《インテリア》は、各色の明度や彩度の違いが、絵画表面に複雑な凹凸の印象を生んでいる。その中にアーチ形という建築的なモティーフを繰り返し、さらに屈曲する手すりつき階段の図像を挿入したことによって、ここには迷路のように入り組んだ屋内空間のイメージがくっきりと形作られることとなった。

 全体が赤い色合いの中に溶け込んだ≪モミの木のある赤い風景》は、曖昧なニュアンスに富んだ世界を生み出しているが、やはり基本となる構成要素は図形的な形である。上下左右に連続する主要モティーフの半円アーチをはじめ、それらの形状は形の重なり合いや濃淡の差、画面上での位置関係などの諸要素が絡み合って、半透明の薄紙を重ねたような層空間の奥行きを眼に感知させる。ところどころに垂直に立つ多数の魚骨のような形は、題名にあるモミの木を示す。この場所は樹木生い茂る古代神殿の廃墟なのかもしれない。

 廃墟の傍らには誰か住むのか、画面右下に三角屋根の家が密かに輪郭を浮かばせている。正面アーチ門の下にぼんやり見える、赤い方形に灰色の円を載せた形は、キーストン部に戴いた紫の大円と視覚的に呼応して、視線を引き寄せるそれは人影とも見え、その先にはピラミッドがそびえ建つ。豊穣な色彩に満ちた世界は黄泉の国への入り口でもあり、戦争の惨禍で騒然としていた時代に、独り、制作という領域で死の観念に相対していた画家の静かな眼差しの存在を知らせる。(S.H.)


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 第一次世界大戦が勃発した年の開戦の近づきつつある春か夏に描かれた小さな線描である。分断された顔のようなフォルムの左半分には丸く見開いた小さな目が、右半分には閉じた目が描かれ、見る目と感じる目、いわば外なる世界の観察と内なる世界への内省とが対比的に主題化されている。「一方の目は見る。もう片方は感じる」。作品の題名とまったく同じこの一行を、クレーは大戦勃発直後の日記に「937番」として書き残してもいる。その記載箇所の直前の頁下の余白には「934番と935番の間で戦争が勃発した」という覚書が記されていることから、戦争という恐るべき出来事とこの作品に込める思いとが、クレーの中で分かち難く結び合っていることがわかる。続く1915年の日記951番には、「抽象化。パトスを欠いたこの様式は冷たい浪漫主義というべきだが、そのようなものなどありはしない。この世界が(ちょうど今日のように)恐ろしげになればなるほど、芸術はますます抽象的になる。その一方では、幸福な世界が此岸的な芸術を生み出しているというのに」と記され、戦争と芸術をめぐる葛藤のなかで芸術の抽象化について内省するクレーの姿が浮かび上がってくる。 こうしたクレーの言説と作品の背後には、自ら率先して従軍し、1916年3月に戦死する画友マルクとの間でその晩年に交わされた、戦争と芸術家の進むべき道をめぐる双方の考え方の相違という深刻な葛藤があった。《一方の目は見る。もう片方は感じる≫は、クレーがマルクの芸術観への応答として描いたもので、《円(より自由な、そしてより結び合った)》(1914)という線描画とともにマルクがクレーから受けとった、マルク旧蔵作品である。動物や植物を愛し、一貫してパトスを描き続けようとしたマルクと、パトスのない抽象化へと進むべきか否かについて依然として迷い、自問するクレー。この二人の画家における二項対立的な価値観と画家の姿とが、この小さな画面で造形化されている。(F,G.)


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 黒い十字架を掲げた教会の塔住人は一人残らず立ち去り、まるで深淵の入り口のような黒い窓の並ぶ廃墟と化した建物、灯火の消えた蝋燭、容赦なく照りつける赤い太陽苦悶、悲しみ、不安に満ちた象徴的な心象風景である。

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 この≪破壊の町≫と対をなす作品として知られる《破壊された場所》(1920,215、ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館所蔵)をはじめ、《破壊と希望》(cat皿0.34)にも共通する「破壊」という主題を、クレーは第一次世界大戦期、そして自ら兵役を体験して以降にしばしば取り上げている。クレ一における破壊の表現は、いずれも戦争の記憶と深く結びついている。しかも「希望」、あるいは「不安」や「恐怖」など彼の心の中にある主観的な思いがいつも切り離しがたく結びき、対置されている。 《破壊の町》も《破壊された場所》も、現実を離れた抽象ではない。あくまでも現実を見つめ続ける覚悟を決めた画家クレーの風景である。(F.G.)71


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 緩やかな水平線が幾本も引かれた画面に、ロリーポップのような色かたちの樹々が立ち並ぶその中央を、1頭の二(こぶ)駱駝(らくだ)がゆっくりと横切ってゆく。丸い鼻面や尻尾の形状は、酪舵の特徴をよく捉えているが、大きな眼や耳、華奢(きゃしゃ)な脚は少し違う動物を連想もさせ、駱駝を見慣れぬ人が、その姿を捉えようとしてうまくゆかず、より身近な動物である猫に似てしまったようにさえ見える。

 題名の「リズミカル」という語は、クレーが音楽との類比においてこの作品を構想していたことを物語る。幼時より音楽に親しみ、オーケストラのヴァイオリン奏者まで務めたクレーは、しばしばクラシック音楽の曲名や、ポリフォニー、フーガといった音楽用語を作品タイトルに含めた。水平線とその上に行儀良く並ぶ樹のシルエットは、ヴエルナー・シュマーレンバッハが指摘したように、楽譜に記した音符のイメージにつながるであろう

 しかし駱駝の姿と下生(したば)えの見当たらない風景、そして褐色の混じった全体の色調は、この画面をかつて1914年にクレーが旅したチュニジアの地に近づける。クレーは同地で触れたアラブ音楽を「永遠の旋律」と日記に形容した。ここに立ち並ぶ樹の形は大きさも不揃いで、一見、極めて不規則で無作為なリズムを刻んでいるようにも見える。しかし水平線に沿って、画中の同じ高さに立ち並ぶ樹同士に注目すれば、それらがほぼ一定の間隔で配分されている事実に気づく。さすれば、ここに鳴り響く音楽は、西洋音楽のハーモニーというよりも、アラブヤアフリカ音楽の太鼓のリズムに近い構造を備えているのかもしれない


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 1920年代初頭、ヴァイマル・バウハウス時代のクレーは多くの機械的装置を描いている。当時、同僚のロタール・シュライヤー(1886-1966)やオスカー・シュレンマー(1888-1943)らは、人間とマリオネットや自動機械とを対比することによって人間の本質を追求する、E.T.A.ホフマン的な関心に立ち、《三組のバレエ》など舞台工房の実践と取り組んでいた。クレーがこの時期にしばしば描いている機械仕掛け人形のイメージには、そうしたバウハウスの同僚らの関心に対する共感が窺える。Ph博士の診察室装置と同じ1922年の素描で、人間の姿をした機械仕掛けの装置を描いた<自動機械>(1922)など、まさにそうした一点であるそれに対してこの<Ph博士の診察室装置>のように、機械仕掛けの人形は登場せず、むしろ何らかの診察や測定のための機械であることを連想させるイメージも描かれている。近年の研究は、そうした作例の中に、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユング(1875-1961)が心理テスト用として使用した実験装置と極めてよく似たイメージが含まれていることを明らかにしている。saezurikikai


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 「24年12月5日のためにカンディンスキーへK」という献呈の添えられたこの作品は、1924年12月のカンディンスキーの誕生日にクレーが献呈したものである。すでに1911年にミュンヘンで知り合い、「青騎士」サークルで交友を深めていた二人は、1913年から1937年までの間に少なくとも33点の作品を交換し合っていることが、美術史家ヨーゼフ・ヘルフェンシュタインの調査研究によって明らかにされている。1920年にクレーが、1922年にカンディンスキーがそれぞれバウハウスのマイスターとして招聘されると、ふたたび彼らは良き同僚となり、カンディンスキーの招聘の年には定期的な作品交換が始まる。1932年までの間に、二人は毎年いずれも12月の互いの誕生日に自作を贈答し合い、誕生日以外の機会にも作品を交換し合っている。この≪生け贄の獣》を贈ったクレーは、その2週間後にお返しとしてカンディンスキーから水彩画1点を受けとったことが知られている。

 鋸歯のついた奇妙な機械仕掛けの台のような秤に取り付けられ、上から錘とともに宙吊りにされた獣。足元には矢をかざす人物がいる。この≪生け贅の獣》の制作された年、さらに前年の1923年にも、クレーはバウハウスの造形理論講義で「均衡」の問題を扱っている。秤は、二項間の緊張関係としての均衡を象徴するクレーの重要なモティーフである。《生け贅の獣》では、鋸歯のある支柱は僅かに右へ傾き、錘の付けられた獣の体は反対に左へと傾いている。均衡の崩れたこの不安定性を、足元の人物はなんとか正そうと矢の下に手を添えて持ち上げし必死に水平を保たせている。良き友への誕生日プレゼントは、諷刺的な眼差しを添えた緊張感に満ちている。


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 「フォルムの運動としての生成こそ、作品における本質的なものにほかならない。初めにモティーフが、エネルギーの挿入が、精液がある。物質的な意味でフォルムを造形する作品。これは原女性的。フォルムを規定する精液としての作品。これは原男性的。わたしの線描は男性的な領域に属している」(1914年)。《攻撃の素材・精神・象徴》は、クレーのこの発言を、つまり生成としての造形プロセスをそのまま絵画化したものと言える。攻撃は、フォルムを造形する原男性的な態度そのものである。

 そもそも油彩転写の技法を用いたこの作品には、先行する素描≪象徴・意志・遂行としての攻撃》(1922)が存在する。双方において三つの概念が並置されているが、そのうち素描における「意志」は油彩転写画の「精神」に、「遂行」は「素材(物質)」に相当し、画面上の三つのフォルムがそれぞれ左から物質/遂行、精神/意志、象徴を表している0物質/遂行は野獣の歯をもつ攻撃的な戦士の姿で登場し、フォルムを造形しようとする精神/意志は自ら失を伴う原動力となり、そして象徴・・・クレーの日記に「純粋な造形美術は(・‥)象徴である」(日記660番/1905年)と語られるように・・・を、すなわち純粋な造形を創造しようとしている。物質/遂行と精神/意志との間には、衣服の襞の数やフオルム、あるいは並行して置かれた足の角度などさまざまな反復がみとめられることから、質料と形相の関係性についても想起すべきであろう。そしてこれら素材(物質)と精神・象徴は、象徴=記号的フォルムとしての失の先端を頂点とする三角形の構図を形成しつつ、一つの連関のなかに結ばれている。


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 柔らかく透明な色彩のコンポジションは、ヨーロッパの石造りの橋と袂(たもと)の教会や、ルツェルンのカペル橋のような、給水塔に伴われたルネサンス期の木造の橋の光景を想起させる。空には星や月などの天体が浮かんで見える。クレーはバウハウス時代に体系的な色彩の理解に取り組み、さまざまな作品を描いている。ちょうど地球儀のような球体を想定し、赤道上に対置される補色(赤と緑、黄と紫など)を結ぶ水平軸と、地球儀の北極と南極に相当する白と黒を結ぶ垂直軸、そして色彩環の円周、それぞれの軌道上での色彩の運動を重視した○そして、赤道上、白黒両極間の垂直、色彩環の色彩が運動し、グラデーションをなして生まれる色彩の変化を「階層」と呼び、時間の経過をリズミカルに視覚化している。<蛾の踊り・下図>はその一例であり、肌色と青という色彩環上の二色間の階層を画面左右で線対称的に反復させている。

81 <橋の傍らの三軒の家>では、色彩の階層に基づきながら、そこに個別のフォルムの反復と差異が加えられることによってリズミカルな変化が生まれている。三軒の家それぞれにおいて、明るいオレンジから暗いオレンジへの階層的な変化が嶺やかに意識され、一軒一軒の家は闇に浮かび上ってみえる。ところどころの黄色、青がアクセントとなり、画面にリズムを与えている。


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 「構成的に絵画を造形すること以外にも、薄めた黒の水彩絵具を塗り重ねてゆくことによって自然のトナリテート(語調)を学んでいる。どの場所もよく乾かさなければならない。このようにして数学的な明暗のプロポーションが生まれる」(日記840番/1908年)。すでに1905年のパリ旅行でレオナルド・ダ・ヴインチらの作品を体験した頃より、クレーは明暗の語調(トナリテート)に強い関心を抱いていた。1908年から1910年にかけて黒の水彩による明暗表現を実験的に試みているが、冒頭に引用した日記からはその様子を知ることができる。

 クレーにおいて明暗の語調の問題は、<若い婦人(光のフォルム)>(cat.no.12)についてと同様、光の表現への関心に通じている白い紙に黒の水彩絵具を段階的に塗り重ねることによって、一番明るい場所に光が現れるクレーが、光の差し込む窓辺《窓辺の素描する人》1909,70)やランプ(<石油ランプの照明>1909,30、《アトリエの小さなランプ》1909,65)など、まさに光そのものをモティーフとして黒の水彩画を試みているのもそうした理由によっている。黒の水彩画の実験を通して、クレーは光を色価(ヴァルール)へと応用しようと試みてゆく。 〈明暗研究(画架のランプ)》は、色彩球としての色彩体系における各色彩間の運動、とりわけ「明暗としての色彩」とクレー自ら定義しているように、明度の変化が生み出す色彩の連続した運動を重視するクレーの態度を反映している。


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 大地、山岳、岩山は生涯を通じてクレーが繰り返し描いている重要なモティーフである。この作品の台紙左下にはクレー自身の手書きによる題名が記され、さらにその下方には、現在文字がかすれ判読が難しいものの、「結晶状の山岳」というまた別の題名も書き込まれている。そしてそうであればなおさらここに描かれた山岳は、1914年にケルンで開催されたドイツ工作連盟展における建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)の《ガラスの家》や「アルプス建築』(1919)、画家・工芸家ヴュンツェル・ハブリーク(1881-1934)の建築構想図≪海に浮かぶ結晶の城》(1914)など、1910年代のモダニストが共有していた山岳と建築との融合的な結晶イメージを想起させずにはおかない。「抽象化。パトス(外界を受容して内面に生まれる心的状態)を欠いたこの様式は冷たい浪漫主義というべきだが、そのようなものなどありはしない。この世界が(ちょうど今日のように)恐ろしげになればなるほど、芸術はますます抽象的になる。その一方では、幸福な世界が此岸的な芸術を生み出しているというのに。昨日から今日への過渡期、それが今日という時。形象の大きな墓穴には残骸が転がり、まだそれらに執着している輩もいる。残骸から抽象化のための素材をとるというわけだ。(‥・)いつだったか晶洞(岩石・鉱脈などの内部の空洞)から血が噴出した。私は死ぬかと思った。戦争と死。だが私、結晶の私に死ぬことなどできるのだろうか?結晶の私」(日記951番/1915年)。戦争という現実の最中に、クレーは現実から抽象への芸術的な飛翔を「結晶」というかたちで理念化している。この理念は生涯を通じて画家にとっての本質的な意味を担い続ける。この《山岳の厳格な形》のみならず、同じ年に制作された≪観相学的な結晶》、≪A》、そして第一次世界大戦期の《無題(反射する窓)》(cat.no.29)にも同様の関心を読み取ることができる。(F.G.)


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 透明で結晶のような格子構造に、ひときわ目をひく大きなアルファベット文字A黒い二つの十字形叢(そう・くさむらむら)から伸びる蕨のような植物、建物のある風景、その上には煙か雲のようなものがたなびいている。一見したところとりとめのない要素の集合体のようである。しかし、尖塔形をなす格子構造に、Aのフォルムがぴたりと合致することに目を向けると、記号としての文字Aがこの画面に及ぼしている力の大きさにあらためて気づくことになる。

 クレーは自筆の作品目録に、この作品のタイトルを「A(大災害の始まり)A(anfang einer Katastrophe)」と記載している。Aは、決して無意味な添え物としてのアルファベットではなく、「大災害の始まり」を暗示するA、きわめて予見的なAなのである。結晶状の画面は、具象的なものと非具象的なもの、自然と抽象、現実と観念との緊張に満ちている。


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 ≪再構築》の画面には、建築に関連したモティーフが散りばめられている。右上には四角い輪郭の近代建築。その下のふたつの柱身と柱頭は「ドーリス式の円柱」、すなわちギリシア建築をあらわす。さらに下のモティーフについては、階段状の形のほかは特定が困難だが、茶色のなかにあらわされていることから土中に埋もれた、あるいは地下から発掘された遺跡と見て取ることができよう。すると明るい黄色や黄土色は、太陽の光や光に照らされた地表の表現と考えられる。シュマーレンバッハは上部の円を「地中海の太陽」と見ているが、乾燥した大地と強い光を思わせる色彩はその言葉をうなずかせよう。画面の上と下という構図上の位置関係に、地上と地下という空間的な上下と、時代の新旧とを重ね合わせて時の流れのなかで朽ちてはまた積み重ねられる人間の営為を描き出しているのだが、画題には諷刺的な意図が込められているのではないだろうか。

 個々のモティーフは円や方形など幾何学的な形に単純化されており、濃い色で輪郭を縁取るようにして形態を浮かび上がらせるその表現は、東洋絵画の“隈(くま)’’を思わせる。グローマンはこうした輪郭表現と平面的な形態は、「考古学的な題材」を扱ったクレー作品の多くに認められると指摘している。シンプルな形の点々とした配置が生む空間的なリズムが、その場所に流れるゆったりとした時間、あるいはそれぞれの建築の間にある時間的な距離を強く感じさせる。(S.N.)91


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 パヴィリオンは庭園に置かれることも多い装飾的な建物を指す。暗い色の地に細い線で建物と木々があらわされていることから、月夜の庭園の情景と見てよいであろう。制作の前年にあたる1926年にクレーはイタリアへ旅行し、また1927年には南フランスを旅している。この作品をはじめ、同じ時期の作品にしばしばあらわれるドームや都市風景は、南欧の風景に接したことが直接的に反映していると考えられるが、それらに描かれた月のモティーフについて、グローマンが「カイルアンの銀色の月」と呼んでいるように、1914年の北アフリカ旅行にまでさかのぼるオリエントの夢幻的なイメージとも言えよう。


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 規則的でリズミカルな帯状の面が続いて延びてゆく。それぞれの区画は色とりどりに彩色され、さながら雄大な春の大地である。1925年にブラウンシュヴァイクの蒐集家オットー・ラルフス(1892-1955)が中心となって設立した画家の支援団体〈クレー協会〉の資金的援助を得て、クレーは1928年12月から翌年1月にかけて初めてエジプトヘ旅した。ルクソール、アスワン、カイロ、アレクサンドリアなどを巡るこのときの旅行から帰国すると、まもなく≪測量された区画》と同様のコンポジションによる彩色画や線描が数多く制作され始める。よく知られる油彩の大作≪大通りと脇道》(1929,90、ルートヴィヒ美術館所蔵)も、一連の作品の一点としてエジプト旅行との関連で成立している。

大通りと脇道

 《大通りと脇道》はもとより、≪測量された区画》の画面からもとりわけ「規則正しさ」の印象を受けるのは、これらの作品が数学の比例法則に基づいて描かれているためである。≪測量された区画》をよく見ると、画面を規則的な等間隔に分節する水平方向の帯が一つ、二つ、四つ、八つの面に分節され、結果的に全体の画面はこの規則の反復によって組み立てられていることに気づく。クレーはここに、1:2:4:8:16…と等しい比率で数が乗じ、彼自ら「基礎的な級数 Cardinal-Progression」と呼んだ等比数列の法則を応用しているのである。 しかし、クレーは数学的な秩序を造形化したくてエジプトの雄大で肥沃な大地を「測量」したわけではない。むしろ眼に見える対象に潜む普遍的な法則性を雄大な大地に学び、そこに造形的な秩序を見出しているのである。クレーの言葉を思い出したい。「現象する世界と抽象の世界とが出会う。すると自然からは遠くかけ離れた絵が生まれる。しかし現実には立ち返って推論している。こうした場面に我われは直面することになる」