イブ・クライン

■イブ・クライン

ピエール・レスタニー

 1928年にニースで生まれたイヴクラインは、柔道家として職業的に始まり、武道で最高の栄誉を得て、日本で15か月間過ごしました。1954年にパリに戻ったのは、彼が芸術に専念し、「モノクロームへの冒険」を始めたときです。

 「刑務所から色を解放する」という探求によってアニメーション化されたイヴクラインは、「絶対を目立たせる」ことができる唯一の絵画であるモノクロに注意を向けました。比喩的な形ではなく感情を表現することを選択することにより、イヴクラインは芸術的表現のアイデアを超えて、芸術作品を芸術家と世界の間のコミュニケーションの痕跡として考えました。見えない真実が見えるようになりました。彼の作品は「彼の芸術の灰」であり、目で見ることができなかった痕跡であると彼は言った。

 イヴクラインの実践は、芸術家としての彼の人生全体を考え、アーティストの役割を概念化する新しい方法を明らかにしました。「芸術は芸術家が行くところどこにでもある」と彼はかつて宣言した。彼によると、美しさはいたるところに存在していましたが、不可視の状態でした。彼の仕事は、それが見つかる可能性のある場所ならどこでも、空気中のように美しさを捉えることでした。

 アーティストは、無形と無限を捕らえるための探求の手段として青を使用しました。彼の有名な青よりも青みがかった色合いは、すぐに ‘IKB’(International Klein Blue)と名付けられ、カラフルな波を放射し、視聴者の目を魅了するだけでなく、実際に私たちの魂を見て、想像力で読むことができます。

 モノクロからボイドまで、彼の「生きているブラシのテクニック」や「人体測定」まで。創造的な生命力を発揮するための自然の要素の彼の展開によって。そして彼の金の絶対への入り口としての使用。イヴクラインは、コンセプチュアルアート、彫刻、絵画、パフォーマンスの境界を打ち破る革新的な手法を開発しました。

 死ぬ直前に、イヴクラインは友人に「私は世界最大のスタジオに行くつもりです。私は重要でない仕事だけをするつもりです」と語りました。

 1954年5月から1962年6月6日までの彼の死の日、イヴクラインは人生を燃やし、彼の時代を特徴づける今日も輝ける華やかな作品を作りました。

▶︎アートワークの始まり

 1928年にニースで生まれ、2人の画家であるフレッドクライン(1898-1990)とマリーレイモンド(1908-1989)に生まれたイヴクラインは、独学です。子供の頃、家族はパリとニースの間に住んでいます。非常に若い年齢で、イヴはニースの叔母の書店で働いており、そこで将来のアーティストであるアーマンと詩人のクロードパスカルと親しくなっています。

 1948年から1953年の間に旅行に傾倒し、彼は最初にイタリアに行き、次にイギリスに行きます-彼はフレームメーカーの学習金箔金メッキで働いており、アイルランド、スペイン、そして最後に日本に行きます。

 この数年間、彼は柔道に多くの時間を費やしています:有名な4段の階級を保持している彼は、定期的に教え、映画や文章でそれを文書化しています。40年代の終わりから彼の旅行日記は紙にモノクロを作成することについて言及していると同時に、彼はモノトーン-サイレンスシンフォニーアートに関する映画の脚本を執

 この展覧会はその後,1982年の6月から8月にかけて,シカゴの現代美術館に場所を移し,1982年11月から1983年1月にかけてのニューヨーク,ソロモン・R・グッゲンハイム美術館における展示で,アメリカでの巡回を終えた。展覧会はかなり内容を変えはしたものの,1983年3月−5月のパリ・ボンピドゥー・センターに受け継がれる。この巡回展の際に,2種類のカタログが出版されている。アメリカではヒューストンのライス大学美術研究所とニューヨークのアーツ・パブリッシャー社が共同で資料を刊行しており,フランスの方はボンピドゥー・センターの出版である。

 時を同じくして、1982年の春に,豊富な資料にもとづく最新の研究成果をまとめた,私自身のイブ・クラインに関する著書が,パリ,ニューヨーク,ミュンへンで同時に刊行されている。

 こうしてふんだんに資料を提供されることによって,アメリカやヨーロッパの人びとは,クライン現象をある程度の時間的距離をおいて考え直してみること,人物・作品の神話的関係を、当然のことながら80年代初頭という時代の社会一文化的風土の中に組み込んで分析することが可能になった。私自身もこうした反応について熱心に研究した。「20年後に」と題された文章はそれをよく示すものであり,この試論の第I部を構成している。このように年代を厳密にしておくのは,むだなことではない。われわれが生きているポストモダンの断絶の時代にあっては,時間の加速はすさまじいものである。その時その時が重要である。1985年の風土はもはや1982年のそれではない。

■クラインとは誰か?永遠の問い

 まず最初に,この最近の経験に照らして,基本的な問題に立ち返り,次に同じ思考の線にそって,その問題を当今の議論の核心へと投げ出してみよう。それはあなた方,私自身ばかりでなく,読者であるあなた方のためでもある。イブ・クラインとは誰か?誰がいるのか?誰が誰なのか?1955年にわれわれがはじめて出会ったときに,私が立てた問題がそれだった。彼が生きているあいだ中,1962年に彼が死んだとき,20年後の1982年,そして今日でもなお,私は同じ問いかけをしつづけている。今なおつねに,というのは,私はこの問いを実存の標識、存在論的指示対象として自分の身につけてしまっているからだ。永遠の問い・・・そのもっとも目立たぬ潜伏期においてさえ。はてしのない問いかけ。それは私が答を出せないからではなく(私が答を出せないとしたら,誰がその点についてなんらかの考えを抱くことができよう?)・・・まったく単純に,人間と作品との綜合が神話のレヴェルで行なわれているからである。それは多様な解釈を受け入れる日常的な生きた神話であり,客観的に自立したその軌道は一方からもう一方へと,とどまることなく進行する。死後まで生きのびた神話は,第2の現実,イブ・クラインの概念的な分身,モノクロームの存在に対する非・・・存在のクラインをつくりあげた。その変化する実体は,「他者」の転移による不安定な偶然の産物である。この他者とは,〈事例〉の模範性,その判然とした投影によって惹起されたあらゆる解釈,あらゆる註釈,あらゆる説明,あらゆる大げさな触媒反応の沸きかえるような一団である。

 クラインのコミュニケーションには非物質的なものがある。彼は合理的,精神的,または神秘的な面で説明をつけようとするすべての解釈体系の鍵,すべての指示記号に挑みかかる。そしてこの非物質的なものは類推と同じように超越をも相対化してしまうのである。

 近代性を信じるカトリックであり,秘教的な存在者/非・・・存在者であり,ポスト=モダンの技術文化の転換者であるクラインは,われわれの諸差異の差異をつねに示しつづけるだろう。

 モノクロームの冒険のいくつかの転回点の共犯,証人,書記・・・予言者として・・・なぜなら私はその命名者であり,クラインの文章にそのタイトル,つまりはその形式上の特異性を与えたからである・・・私は,1955年から1962年にいたる7年間の彼の歴史的発展の期間,〈作品〉における〈言葉〉の管理を引き受けてきた。私は彼の最初の註釈看であり,長い間私のはかにはいなかった。したがって私は,クラインの死後,歴史から伝説へ,論争から解釈へ,人間と作品との明白な矛盾から集合的想像力への神話の目ざましい投影へと電撃的に移り変るさまを,第一線で独占的に目撃することができたのである。

■近代の偉大と退廃 

 この移り変りは,近代性の旗印の下,1962年に一挙に行なわれた。前衛主義者として顰蹙(ひんしゅく)を買い,異議を申し立てられてきたイブ・クラインが,われわれの近代の伝説の人物となったのである。それは正当なことであった。クラインはその絶頂期に,近代の理想のすべてをまったく無邪気に信じて生きてきた。この1945−60年という戦後の15年間は・第2次産業革命が最高潮に達した時期であった。堅い素材を制御することによってエネルギーを支配し,われわれの惑星のハードゥェァの支配者となった西洋は,つかのま,自らの運命をも統御できるように感じた。そこでジュール・ヴェルヌの跡をたどって,宇宙空間の征服に乗り出していったのである。

 1955−60年の頃を思い出していただきたい。西洋全体がジュール・ヴュルヌのように考えていたものだ。どうしてそれがいけないことがあろう?未来学者たちは2000年まで地球がどっぷりエネルギーにつかっていると予言していた。手の届く範囲の全エネルギーをもってすれば、いかなる夢も気ちがいざたではなく,〈ユートピア〉とか〈キマイラ〉という言葉は辞書から抹消されてもよかった。イブ・クラインは進歩についての作戦上の神話を,〈技術のエデンの園〉における自然状態への回帰を,自然の広大なひろがりの空気調節を・空気の建築を,なんの留保もなしに,かぎりなく信じた。天国の入口はすぐそこにあった。もう一歩踏み出すだけでいい。イブリレ・モノクローム(単色者イブ)はむぞうさにそこを越えよぅとした。彼の周囲の人びとはほはえんでいた。あれは一種タラールの聖なる子,聖杯を探し求めるタンタンみたいなものだ。と人びとは言っていた。最後に彼はすさまじいまでに渦中の人 となった。それに感づいた人びと,とくに芸術家たちは,本能的に,寛容または賞賛のいずれかに傾いていった。

 「人間の心の中と同じように空虚の中心には燃えさかる火がある」と,イブ・クラインは言っていた。われわれひとりひとりの終末にも,また終末そのものにも,今やもう,それを証明するものがないことを,彼は知っていたのである。われわれの世界は今日,あまりにも変更を受けてしまっているので,それを再解釈することが緊急に必要である。そして知覚状態のこの特性を試験することこそ,彼がその〈感性の学校〉でわれわれにすすめているものである。非物質的なものについての彼のヴィジョンが空気の建築に結晶したとき・つまり1958年12月から1959年3月にかけて,彼は事実上社会一文化的感性の変動という観点から未来を直視していたのである

 近代の個人主義の首伽(くびかせ・足手まといになって、自由を束縛するもの)を前もって打ち壊さずにおいて,どぅして空気建築の透明で〈ソフト〉な都市での天国のような生活を考えることができるだろうか?感性の非物質化には・意識の非人格化が対応している。知覚する個人に・われわれの技術文化の枠組を構成している新しい現実・技術のエデンの園との触れあいを通して,彼らの実存を「非問題化する」ことを緊急に教えなければならない。

 技術文化的な美学は,その発生論的な操作,数値イメージ,即時伝達,光速の光センサーによって,われわれの知の基盤とわれわれの経験の形を根底から変革し、それらをわれゎれの文化的獲得物から取り除いてしまう。われわれの感覚器官の今の受容能力は乗り越えられる。新しい現実がさまざまに適用されることによって,人間・技術という関係は根本的に修整される。人間はもはや技術のパトロンではなく、そのパートナーとなる。人間は今のところは技術的な仕掛けの精神的協力者にとどまっているが,やがてその生体パートナー となるだろう。こうした方向で行動するようにとわれわれを 駆りたてるすべてのものが,われわれの感覚限界の締めつけをゆるめるのに寄与し,知の新たな苦行において,ごくわずかではあるにしても,ひとつの進歩をつくりだすのである。

 イブ・クラインは、とくに1959年から1962年にいたる彼 の晩年に・・・感覚の限界という明白な事実を強烈に思い知った。1960年10月19日にパリ郊外のフォントネイ・オ・ローズで行なった,彼の有名な空中ジャンプのエピソードを思い起せ ば,そのことはよくわかるだろう。

 イブ・クラインは,自分がもうそのあかしをもたないひとつの現実の中で,断固として行動に出ようとした。この同じ直観を分けもった人は稀であった。だが今や、新しい聖杯騎士たちが結集すべき時がきていたのだ。

 彼は<新しい現実派・ヌーボーレアリスム〉・・・彼が自分のメッセージを把握するのにもっとも適すると見なした芸術家たち,その何人かほ彼のもっとも親しい友人であった(とくにアルマン,ティンゲリー,レイモン・アンス,マルシァル・レイス)・・・の結成集会を1960年10月27日に彼のパリの住居で開くことを強く望んだ。彼は私の冒頭演説に大喜びで署名した。「ヌーヴォーレアリスム=現実への新たなる知覚的なアプローチ」。すでに1958年4月28日に,イリス・クレール画廊で〈空虚〉(「その唯一の存在によって感受性を高められた」からっぽの画廊の壁面)を展示したとき,彼はこのような新しい知覚の現実にわれわれの注意をうながしていたのである。

 われわれは今や実際に日常生活の全般にわたって,情報・距離,速度といった非物質的なものにつかりきっている。こうした観念の変化は,進行中の変化が切迫していること、自然の秩序,性,金銭といった古い認識の記号の非物質化が差し迫っていることをあらわしている。

 伝統的な建築材料のかわりに,限に見えず透明な圧搾空気を用いることによって,空気建築家はまさに近代文明の2つの不変要素の破壊をもくろんでいたのである。その不変要素とは,ひとつは壁,仕切り,屋根による被覆で、それは今なお空間を隔離するはたらきをしている。もうひとつは個人的,家族的な親密さで,新しい関係の確定のためにはそれも破壊されねばならない。<青色革命宣言〉は,品質基準にてらして自動調整される一般化された物々交換システムのために,貨幣流通機構全体がそっくり廃止されると予想している。ますます増大するクレジット・カードの役割・われわれの現在の金融システムにおけるその情報および記憶の機能の発展のことを考えずにはいられない。

 イブ・クラインは正しく見通していた。近代主義的な条件づけから解放された明日の知覚する個人は,唯一の,しかしひじょうに大きな義務しか負わないことになるだろう。それは,自分が直面するまったく新しい状況のすべてに対してゲームの規則を案出しなければならない,ということである。そして宇宙エネルギーのメッカともいうべきモノクローム空間においては,われわれは孤独でほないし,主人でもない。技術的な仕掛けはますますわれわれの感性と知の構成要素をなすものとして要請されている。「地球は平らで四角である」という衝撃的なタイトルをもつ,もっとも名高い著作のひとつの結論部で,イブ・クラインは,この主題に関してはこれ以上は望めないほどはっきりと自分の考えを表明している。「今日、私が将来を予測しているところでは,われわれの太陽系やその他の宇宙からずっと離れた,無限に遠い空間を訪れるための現実的な手段は,ロケットやスプートニクではなく,浸透によるものだろう。人間は第一物質の〈空間の感性〉がしみこむにまかせ,それからこうして調整された感性,人間の新しい交通手段であり,われわれの身体にっいての新しい非物質的な感覚である自分の感性・・・それは今のところはわれわれのうちで潜在的な状態にあるが,そのときまでにははっきりと見きわめられ,科学的に研究されているだろう・・・を浸透させて,計りしれないはどの広大な空間を,それを横切るのではなく,そこに住みつくことによって,旅行していくだろう」。クラインの思想の基本となっている浸透という観念は,技術文化的なメタファーである。それは,人間・技術という関係の変化に介入しうる生物学的な仕掛けの総体をカヴァーするものである。

 イブ・クラインが行なったすべての空中浮遊の実験・・・それがソヴィエトの宇宙飛行士ガガーリンによる最初の宇宙飛行と時を同じくすることを忘れないでおこう・・・は,未来の技術文化的仕掛けを先取りしたシミュレーションと見なされるべきである。

 空間の冒険がもてはやされたのは1960年のことでギリシアの彫刻家タキスのような他の芸術家たちも当時,同じような関心を表明していた。空中にはさまざまなアイディアがあった。しかしイブ・クラインはただちに自分の選択を明らかにする。個人的な空中飛行の問題の解決策としては,彼は近代主義的なハードウェアの路線(ロケット,スプートニク)を拒絶し,〈ソフト〉な路線,浸透や生物発生論的な仕掛けの方をとる。パリ郊外の家の3階の窓から空虚に向かって身をおどらせたとき,彼はあるやり口,来るべき生物学的仕掛けの調整を,すっかりそれをシミュレーションしながら(地面では柔道家仲間がシートを広げて待ちうけていた),先取りしてやってみせたのである。

 来るべき技術・・・生物学的な仕掛けの〈ソフト〉なシミュレーションの別な例は,「火の絵画」であり,「コスモゴニー」(草むらで紙の上にとった雨や風の色のついた痕跡による)であり,いわんや「人体測定プリント」(あらかじめ青く塗ったヌード・モデルの体を紙またはカンヴァスに押しつけた跡)である。この最後の仕掛けはそのうえ〈生きた絵筆〉という意味深い名称をもっている

 イブ・クラインの生物発生論的な仕掛けのソフトな路線は彼の深層の本能がおもむく方向に従っている。この路線は人間主義的ではなく,〈人間化する〉ものである。人間・・・クラインはその本質において人間的なものを分かちもっており,それによって人間化されている。非物質的なものの譲渡は,感性の再・人間化の手ごたえ確かな経験を構成する。基本素材は空虚な空間,その本性からしても用途からしても非物質的ゾーンなものである。それは〈非物質的絵画的感性領域〉として高度に象徴的な儀式にのっとって小売りされ,第三者に譲渡,名ゾーン儀変更可能である。〈領域〉は全体とみなされた部分を具現している。

 この〈領域〉には値段がない。そして〈それらの〉重さに見あった金をセーヌ河に投棄することによって行なわれるその譲渡は,それを動機づけている意識現象の触知できない価値を有している。この作業の痕跡として残されるのは,小切手帳の控とクラインが署名したうえで買い手に渡す受領証だけである。だが買い手は,参加と宇宙的交換の儀式を閉じるために,その受領証を燃してしまうように示唆される。

 非物質的なものの譲渡は,クラインのメッセージの射程をもっともよくあらわす象徴的な仕掛けをあらわしている。それで私も,1962年10月に東京に滞在していたときに,1グラムの純金の小さな塊を東京湾へ投げこむのと引きかえに,非物質的なものを象徴的に譲渡すること,ぜひともやってみたかったのである。この行為は,美術評論家の瀬木慎一氏が東京画廊で開いたイブ・クラインをたたえる夕べの締めくくりとなった。瀬木氏はその少し前に日本で最初のクライン展を同じ画廊で開いている。それは1962年の7月,クラインがパリで没した1カ月後であった。

 イブ・クラインの日本でもっとも古く,またおそらくもっとも親しい友人であった瀬木氏は,当時の日本の美術界にこのモノクローム画家を紹介するのに,明らかに最適任者であった。