第2期ウルループの”ユーモアと錯乱の祝祭

■第2期ウルループの”ユーモアと錯乱の祝祭

 これに続くデュビュッフェの作品を理解するために、少し歩みを戻そう。「ひげ」のテーマが汲み尽くされてしまうと、彼の画商となったダニエル・コルディエによって一冊の本が出版されるのを機に、デュビュッフェは1960年(59歳)の5月から9月にかけて、ヴァンスにて約150点ばかりの墨絵風のデッサンを長い間かけて制作する。コルディエは次のように記している。「デュビュッフェの人物たちは(略)私たちが通りすがりに出会い、目をとめることもしない無名の人物たちである。ぼんやりとした関心を引かない人物たち。他の人々にとっては、私たちもそうした人間の一人であるにすぎない」。〈三人の人物〉(下図上右)や、その背景とほとんど区別の付かない〈動く風景の中の人物〉(下図・下)、あるいは〈人物のいる風景〉(下図左)のような、孤りぽっちの、あるいは集団のシルエットは、新しいシリーズの到来を告げている。

 デュビュッフェが南仏から帰ってすぐ、1961年2月の絵画〈四人の人物〉(最上位の図)から始まる《パリ・サーカス≫が、「祝祭好きの人たちへの扉を開く」。ここでデンマークの画家アスガー・ヨルンとの「音楽実験」に触れておく必要がある。ヨルンはヴァイオリンとトランペットを演奏し、続いてデュビュッフェがピアノをソロで(図38)、そして演奏法を知らないまま自分流にあらゆる種類の楽器を演奏した。デュビュッフェはそれらをカセットテープに録音し、「カットされた断片からなるミキサージュ[混合]とアサンブラージュ[寄せ集め]」を作り出した。この実験は《素材学と緊密に結びついており、「私には密かに発せられる地中の生命のぎわめきのように思えた」。


 「ここ数年来の私の絵画は、扱われる主題の点においても制作方法の点においても、人間個有の人体構造から次第に遠ぎかってきたように思える。大地を描こうとすると、画家は大地になろうとして、人間であること・・・したがって画家であることを止めてしまおうとする。こうした人間としての画家が消え去ってしが傾向への反動として、今年(1961)の私の絵画には、あらゆる面で、過度に調整しようとしている。(略)画面は人物たちであふれかえり、集団をなして精気がみなぎっている」。

 パリの群衆が〈レストラン・ルージョⅠ〉(cat.no.69)に集まっている。「61年の3月28日火曜日の朝9時から10時半まで、私はレストラン・ルージョヘデッサンをしに出かけ、そして再び昼食を食べにそこへ戻って、食べながらまたデッサンをした。その後すぐに制作にとりかかって、13時から20時半まで作業をし、さらに翌日の午後の数時間を作業に費やした」。

 夏の間ヴァンスのアトリエに閉じこもり、「もはや山に足を向けることさえなく、あの懐かしいバスや自動車やファサード(建物の正面)のことばかり思っている」。そして「私はパリのことしか、北フランスの田園のことしか考えていない」。そうして、根っからの建築好きの彼は、リリの故郷、パ=ド=カレー県のトゥケに家を建てる。

 デンマークへ赴き、そこでヨルンに会い、シルケボア美術館でそのリトグラフ展を見た。それは「非常にめざましい大成功を収めている」。新たにパリへ戻ると、都会の演劇は、グァッシュ〈じろじろ見ながら追いかけっこ〉(下図左)、〈プチ=シャン通り(ボンバンス)〉(下図右)をもって最高潮に達した。1962年2月、近代美術館で回顧展が開催されるのを機にニューヨークへ旅行する。そこでは200点近い作品が展示された。

トゥケの家とアトリエ(パ=ド=カレー)し∂m∂■SOnetl′∂te帖「∂UTouquet(P∂S−de−⊂∂l∂is)

 2年前から一人の秘書を雇って、全作品を載せた膨大な写真カード目録を作ろうとしていたが、今やそれを分冊形式でカタログ・レゾネにしようと考え、さらに≪パリ・サーカス≫のグァッシュ数点(下図右)をその表紙にしようと考えた。

 トゥケの松林の真ん中に建てられたアトリエ(上図)では、以後夏の数カ月をそこで過ごすことになるが、そこで《ウルループ≫の大シリーズが生まれた。電話の最中、デュビュッフェは、小さな紙切れに機械的にボールペンを走らせる。そのデッサンは赤と青の縞模様を施されると、切り取られて黒い地の上に置かれ、白いインクで飾られた「思いつきの言葉からなる(略)全くの戯言(ざれごと)」によるテキストをそえられる。そのデッサンは「非現実的で、無軌道な性格」で、それをまとめた小冊子は途方もない発展をとげることになろう。「全くちがう解読による世界解釈を思いうかべてもかまわない」。

 3つのアトリエの間の行き来は、根をつめた仕事を妨げはしない。しかし秋になって、10年来彼のもとを離れていた〈生の芸術〉コレクションがパリに戻ってくる。セーヴル通りの住まいに程近いビル内での設置に3カ月関わった後、アントワープへ旅行し、そこで「表現の精神病理学に関する会議に出席した

 とはいえ絵画探求が中断されることはなく、それは翌年の春の《ウルループ≫の決定的な変容から読みとれる。〈まぬけな張形(さまよい劇団Ⅱ〉(上図)はその一例であり、〈ムーション・ベルロック〉(cat.no.79)のような、もはや空虚と充満のいずれも持たない作品群を予告している。そこで生み出されるのは「普段私たちが抱いている観念の正当性をぐらつかせるあいまいな感情である。充満か空虚か、存在か非存在か、所与の実在の中に生きているのか、それとも想像力の投影の中を生きるのか。(略)画家は、目に見えるものを描きはしない。全く反対に、画家が意義を見出すのは、ただ、自分が見ておらず、しかも見たいと願っているものを描くことだけである」。

 アトリエからアトリエへと仕事は一貫したリズムをきざみ続ける。〈黒い道路に自動車〉(上図)は「パ=ド=カレーの風景」を横切ってゆく。ヴァンスの広いアトリエでカンヴァスのサイズも大きくなった・・・「私がここにやってきたのは(略)2カ月間脚立によじ登って大きなカンヴァスに描くためである。その作品は雑多に集められた未編集の文章のようなスタイルであり、反=生命(anti−Vie)にゆきついている。注意して欲しい。生の反対は死ではなく、全く別のものなのだ。私は12月15日までこれに専念し、その日にパリヘ帰るつもりだ。パリに戻ったら連絡します。」とレイモン・クノーに書き送っている。

 

 大きなサイズヘの挑戦は、1964年2月、ユバックでも続けられた。そこでは幅7メートルの絵画が制作され、油絵具よりも速く乾くビニール塗料がはじめて用いられた(上図左)。新しい主題が姿を現す。諸々の道具、諸々の事物であり、例えば、椅子、タイプライター、作品〈鱈漁〉(下図)のトゥケに近いユタープルの小さな港のボート、といったものである。

 《ウルループ≫の展覧会が、6月、ヴェネツィアのパラッツオ・グラッシで開かれ、デュビュッフェ夫妻はランプールとともに赴いた(上写真右)。事物から道具へ。「ユートピアの道具」が、1965年から、中心的なテーマとなる。そのシリーズの壮大な性格は想像をかき立てる。内的生命を授けられ、今にも枠から飛び出して空間の中で進化しそうなこの大きな人物達は、強く精神に働きかける。〈蛇口の作り話〉(下図)のように、それだけが黒い地から浮かび上がる時には、ますますそうである。

 芸術文化総局によるナンテールの[パリ大学]文学部エントランス・ホールのための委嘱は、大画面に取り組みたいと望んでいたデュビュッフェの興味を引いた。3メートルを超える二つの大きなグァッシュが陶板に転写されることとなるが、委嘱の認可が遅れたため、デュビュッフェは辛抱することが出来ず、この計画を放棄した。これに起因して、彼は4メートルの絵画〈振り子仕掛けの列車〉を描き、これは現在ジョルジュ・ボンピドゥー・センターに収蔵されている。続いて8メートルを超える絵画〈今立っている〉が描かれ、ニューヨークのグッゲンハイム美術館が購入した。

 大仕事から一息つこうと、夏の間は小さtけイズの作品に取りかかった。それは若い頃からほとんど取り組むことのなかった主題、静物である:〈コーヒー・ポット、カップと砂糖壷Ⅳ〉(下図)

 1966年(65歳)には新たに都市と田園がデュビュッフェの頭を占める。前者としては、小さなグアッシュ〈街と通行人〉(下図中)、続いて一連の〈住居〉、次に〈階段〉。後者としては、〈ウルループの庭〉と〈農婦のいる光景〉(下図右)。さらにいくつかの〈自画像〉(下図左)を仕上げた。しかし7月には、重大な出来事、発泡スチロールの発見があった。この素材によるパネルの白い表面が、今後、好都合なものとして、カンヴァスに取って代わることになる。彫り込まれると、この素材は生き生きとしてくる。「電熱線の助けを借りてあっという間に思いがけない形やカットを得ることが出来る。制作はとても機敏なものになる。(略)作業の速さはとても生き生きした切り口を生み、驚くべき方法でそこに手の衝動を感じさせる」。

 驚くほどの軽さと非物質的な白さを備えた塊まりが(図42)、そのすべての面に処置を施されると、「記念碑になった絵画」のシリーズが生まれた。そこでは、人物や事物が「無軌道で非現実的で心的な」様相を失うことなく、「身体」と「リアリティー」を備えている。

 発泡スチロールは最ほらかく最ももろい物質であり、ちょっとした衝撃によっても取り返しのつかないほどに破損したり壊れたりする恐れがあるので、こうした彫刻をもっと頑丈な素材で作る方法を練る必要がある。それゆえ新しい人工の素材を求めて探求を重ねなければならない。樹脂に移し替える方法が探られ、慎重かつ長い時間をかけて試みられた。それはフレスコ壁画を壁以外の支持体に移し替える方法に似ている。オリジナルの絵画を別の刷りものに転写する型取り技術も試みられた。こうした仕事はかなりの時間を必要とするので、デュビュッフェはまもなくアシスタント・チームを雇った。何種かの回顧展が、ダラスとミネアポリス、アムステルダムとロンドンで開催される一方で、グッゲンハイム美術館は《ウルループ≫を展示し、日本の長岡の美術館がリトグラフ展を行った。

 1967年1月(66歳)、デュビュッフェは黒い一連のデッサン、〈言語論理学のテキスト〉(下図左)を描き、それを一冊の本にまとめた。『シャルル・エティエンヌのための葬列』である。これは、デュビュッフェの作品に熱烈な愛情を寄せてくれた批評家の死にささげたものである。この一連のデッサンの中で、人物たちは増殖し続けながらも互いに孤立している(下図右)

 あるいは〈都会の日曜日、〉(cat・no.92)のカンヴァスの上で熱狂的に踊っていたかと思うと、やがて〈黒と白のエレメント〉(cat・n93)の樹脂にからめとられる。こうして、既に述べてきたように、ちょうど1年を経て絵画は彫刻になっていた。

 ≪ウルループ≫の書法は、大きな壁面をなす「分化されていない連続体」状に広がっており、一度それ らが寄せ集められると〈言語論理学の部屋〉を形成する。「哲学演習室、(略)事物がまとう多様な様相への讃歌、それについて私たちが自由に行う多様な読解への讃歌」・・・その一方で椅子や座る人物たち・・・〈打ち解けて話をする人Ⅱ〉(下図左)と、テーブルー〈言語論理学のテーブル〉(下図右)が空間を満たしている。

 「私は対象と造形の間の混乱からくる居心地の悪さに苦しんだ。つまり、それは対象の造形がみずから対象へと移行する変化のことだ。平らなカンヴァス上に椅子を描いている画家は、椅子の造形が椅子になってしまうという恐れをまったく感じていない。言い換えれば、画家が椅子を想い描いたとしても、想い描いたものの世界が実在する事物の世界を転覆させてしまうとか、想い描かれるものを引き出してくれる知覚可能な事物がひっくりかえってしまうとか、そうした恐れを抱くことは全くない。

 画家によってカンヴァスに作り出された椅子の造形に腰掛けようなどと考えることはありえない。もっとも、この椅子の造形が彫刻家によって三次元として制作され、その結果一つの物体を授けられているときには、それに腰掛けようと考えもしよう。(略)彫刻におけるこの二重性は、もはや精神世界にではなく物体の世界に属しているので、(略)建物のマケット(小型模型)や建築物制作の場合に私はそれをことに強く感じるのである。」

 1968年(67歳)の春に整備された、彼の住所からさほど遠くない新しい部屋で、〈ババ城〉(上図)の数多くのマケットを彫刻する。これはアメリカの建築家ゴードン・バンシャフトの尽力により、ニューヨークのチェイス・マンハッタン銀行前に設置される記念彫刻の委嘱を受けるまで続く。パリには充分な広い場所がどこにもなかったので、はるかに遠いところ、ペリニー=シュル=イエールのヴァル=ド=マルンに身を落ちつけ、そこに広いアトリエを建築し、アシスタント・チームを雇わねばならなかった。

 〈四つの面のあるモニュメント〉(上図)を一部とする計画全体においては、1970年(69歳)の10月に〈四本の木の集まり〉が最終決定される。この作品の制作は、その年の初めから動き出していた彼のアトリエに委ねられる(下図43、44、45、46、47)。記念すべき作品はさらに2年後に除幕されることになる。

 並行して、隣の敷地では、〈言語論理学の部屋〉を収容するために構想された〈ヴィラ・ファルバラ〉の巨大な建築作業が進められている。大きなマケットがつくり直され、その周囲を、彫刻を施された巨大な土地が取りまき、さらに全体が波打つ壁で囲われることになろう。これが〈タロズリー・ファルバラ〉(下図48、49、50、51)をかたちづくる。数々の技術的な困難にもかかわらず建築作業は完了し、アトリエのマケットでは〈言語論理学の部屋〉へといたる〈控え室〉が付け加わった。

 300点を越える彩色彫刻とマケット制作と並行して、デュビュッフェは建築に関する極めて数多くのデッサンを制作しているが、それ以外にも、(曲線状の)切り抜き絵画へと発展させられるためのデッサンも作っている彼はそれらを「生きた絵画」の装飾に使えるだろうと考えたのである。ヴァンセンヌの弾薬製造所にしつらえられた新しいアトリエで、第二のアシスタントチームが雇われる。樹脂製の大きなパネルに投影されたこれらのデッサンのスライドが《プラテイカブル≫を構成した。同時に、絵画を作りあげている紙を、方眼におとして《コスチューム≫を作り出す

 アシスタントたちはもっばら、こうした「型紙にもとづく様々な断片を、「エポキシ製ブリストル紙」、糊付けされた薄地モスリン、軟質ポリウレタンといった多様な素材で具体化するだけでよかったのだ。かくして〈クク・バザール〉(下図)が誕生する。

 デュビュッフェは、スペクタル〈クク・バザール〉(図53)のリハーサルに立ち会うため、ニューヨークに赴いた。このスペクタルは、大回顧展の際、グッゲンハイム美術館で初めて上演されることとなった。この大回顧展は、秋には、グラン・バレで開催され、いわば第二幕が上演されたわけである。第三幕目には、新たに作家自身が積極的に参加し、1978年にトリノで、フィアット社の主導のもとで舞台の幕が上がったのである。

 「おそらく私のスペクタクルの上演を見当違いなものと非難する人もいるだろう。(略)このスペクタクルの作家は画家であって、演出家でも舞踊作家でもない。絵画だけが唯一の源なのだ。この上演はちょうど絵画の発展のようなもの、生きた絵画の活動なのだ。眺められるイメージだけであることを止めてしまった絵画、実在を獲得し、あなたがたをその内側に迎え入れる絵画なのである。(略)≪クク・バザール≫は哲学演習とみなされねばならない」。

 オランダで、〈七宝の庭〉がオッテルローのクレラー=ミュラー美術館の庭に(上図左)建築された、1973年(72歳)のこの春、デュビュッフェは〈クク・バザール〉のコスチュームを発展させ、一連の彩色彫刻〈仮装美踏会〉(下図)〈クロシュボッシュ〉(cat・nO・111)を制作した。この〈クロシュボッシュ〉は、2年後とうかいに箱根の彫刻の森美術館のエントランス・ホールに置かれる〈大使たち〉(上図右)の三人の人物の内の一人である。

 ブリュッセルの〈物語の塔〉(下絵)のために塔の形をしたマケットを制作し、パリのデフアンス地区のための大きなモニュメントのマケットを制作する。この二つの計画は実現されなかった。 1972年3月ヴァンスにごく短いあいだ滞在した際、かつて抱いていた情熱に再びとりつかれ、植物研究に関連したデッサンを制作していた。その時と同じ≪ウルループ≫から自由になりたいという想いは、ぉそらく1973年10月5日(72歳)に描かれた小品、〈田舎の風景〉(下図左・右)においても明らかである。

 しかし翌月になると、ルノー公団からサロン装飾の依頼があってデュビュッフェは再び動きはじめる。彩色されたカットは、〈クク・バザール〉の≪プラテイカプル≫に似たものであるが、ここでは壁に取付けられることになって、作業が始まった。この作品は1975年2月(74歳)に除幕されることになる。それに対して、ルノー公団ビルの一階に設置されるはずだったモニュメントのマケット[〈夏のサロン〉]は1974年春から着手されていたが、半分建設されたところで次の年には中断された。訴訟が起きたが、デュビュッフェは7年後に勝訴することになる。

 巨大な彫刻はジャン・デュビュッフェの死後、合衆国のいくつかの都市やデンマークのルイジアナ美術館の庭園に設置されることとなる。これは、フランス国内においてアルプスやパリあるいはその近郊に設置されるよりも早い。

 《ウルループ≫シリーズは、12年間の高揚した生活の果てに、カンヴァスへの「投影絵画」シリーズ、〈座った男のいる光景〉(下図)をもって完了する。