カンディンスキーの抽象絵画

カンディンスキーの抽象絵画

■キュビスムをめぐって

愛知県美術館学芸員・大島徹也

 ヴァシリー・カンディンスキーはピエト・モンドリアン、カジミール・マレーヴィチとともに、抽象絵画の最も偉大な創始者の「人として美術史において揺るぎない地位を築いている。

 この三者はいずれも1910年代半ばまでに、それぞれ独特の様式をもって抽象の次元へと入っていったが(上図左右)、その時モンドリアンとマレーヴィチが大きな拠り所とした一方で、カンディンスキーは依拠することのなかった主要な先行動向がある。それはキュビスムーとりわけ、対象を多視点からいくつもの断片的な面へと分析した段階のキュビスムである(下図)。

 

 このような観点からカンディンスキーの仕事を考察する時、興味深い一連の問題が見えてくる。この一文ではカンディンスキーの抽象絵画について、キュビスムをめぐっていくつか思うところを論じてみたい。

 モンドリアンの垂直線と水平線は、分析的キュビスムの断片的な面の縦の辺の垂直性と横の辺の水平性を反映している。また、マレーヴィチの正方形は、それらの面の一つの存在が拡大されて現れてきたものである。ジオメトリック・ずれも基本として強い幾何学性を備えることになり、しばしば「幾何学的抽象」とも称される。また、オリジナルのキュビスムのあとを受けた一展開として、特に成熟期に入ってからのモンドリアンの仕事は「後期キュビスム」という分類をされることもある。一方、キュビスムを回避したカンディンスキーの抽象は、幾何学的抽象に対して「表現的抽 象」、あるいは「表現主義的抽象」とでも呼びうるものであり、そこでは絵画的な筆致によって、時に宇宙をも想起させるような流動的ないし浮遊的で壮大な絵画空間が実現されている。第一次世界大戦前に生み出されたカンディンスキーの抽象は、第二次世界大戦中から直後にかけて、アーシル・ゴーキー(上図参照)を最たる例として、ニューヨークで活動していた若き日の「抽象表現主義」の画家たち幾人かに注目すべき影響を与えたが、それはすなわち、カンディンスキーの抽象絵画がキュビスムを経なかったがゆえに持ちえた解放的な空間性が、後期キュビスムの格子に捕われていた彼らにとって、個人差はあれ、その格子を解きほぐすーつのインスピレーションとなったのだった。1907年にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが創始し、初期、分析期、そしてパピェ・コレを介して総合期へと展開させていったキュビスムは、絵画芸術におけるあまりに根本的な変革であったため、キュビスム以後しばらくの間、キュビスムと何らかのかたちで真筆に関わることなくしては、メジャー・アートは生まれ難い状況であった。カンディンスキーはその貴重な例外だったわけであるが、たとえば、1905年にフォーヴィスムを創始し、その後《ダンスl≫(1909年)下図参照のような傑作を生み出したアンリ・マティスですら、1913年頃から、苦々しく感じながらもキュビスムを取り込み始めている。

 

 しかしながら、マティスがキュビスム受容期にも≪川辺の水浴着たち》(1909−10、1913、1916−17年)や≪ピアノのレッスン》(1916年)(上図右)など新たな種類の傑作を生み出し、極めて質の高い仕事を続けていったのに対し、カンディンスキーは第一次世界大戦後、1920年代はじめにキュビスム/幾何学的抽象をはっきりと受容し出した時、図式的、さらには製図的になり始め(下図)、第一線の画家としてのクオリティを失ってゆく

 ここに、キュビスムをめぐるカンディンスキーの皮肉がある(あるいは逆に、マティスの偉大さと言うべきか−)。

しかしながら実際のところ、第一次世界大戦までのカンディンスキーは、キュビスムとどう向き合っていたのだろうか。先に私は、その時までカンディンスキーはキュビスムに依拠することはなかったと述べた。それは本質的に間違いではないと考えている。しかし同時に、事はそれほど単純でもない。カンディンスキーのさまざまな発言、著作、そして作品そのものを検討することによって、その入り組んだ状況が見えてくる。 カンディンスキーは、1937年のカール・ニーレンドルフによるよく知られたインタビューの中で、次のように語っている。

一、最初の抽象絵画がつくられたのは何時のことでしょうか?

 一九一一年。従って二十六年前のことです。[…]

二、貴方が絵画において抽象的な意匠をつくりだされたいきさつは、如何なものでしたか?

 私がキュビスムと少しも関係がなかったことは、貴方も御承知の通りです。私が初めてピカソのキュビスムの作品を写真で見た(一九一二年)とき、既に私の最初の抽象画は描かれていました。

 これらのカンディンスキーの言葉に従えば、カンディンスキーは1912年になるまでピカソ/キュビスムを知らず、それゆえキュビスムとまったく関わることなく1911年に抽象と呼びうる絵画を実現するに至ったということになろう。しかし、少なくとも、彼が1912年になるまでピカソ/キュビスムを知らなかったということはありえない。たとえば最も入手しやすい証拠の一つとしては、カンディンスキー自身によれば1910年には大方書き上げられていたという彼の著書『芸術における精神的なもの』(1911年12月出版)がある。この本の中でカンディンスキーは、マティスとの対で「もう「人の偉大なパリジャン、そしてスペイン人であるパブロ・ピカソ」(傍点原文)を取り上状「マティス・・・色彩。ピカソ・・・形態。偉大な目標をさし示す二大指標」と述べている。

 

 そして、カンディンスキーはキュビスムを知っていただけでなく、彼によれば彼が抽象を実現したという1911年以後も含めて、第一次世界大戦前の彼の仕事は、わずかながらも恐らくキュビスムと関係があった。たとえば1909年に描かれた≪コッヘルーまっすぐな道》(上図左)では、山や家など各対象が太い輪郭線をもって幾何学的形体に極度に単純化されるとともに、空間構造も非常に平板化されている。この変化には、総合主義/クロワゾニスムを身に付けていたヤウレンスキーの仕事(上図右)が基本的に大きく作用していようが、同時期のヤウレンスキーに比べてそこまでの極端な幾何学的処理を見ると、ピカソ/ブラックの初期キュビスムの直接的な影響も考えられる。しかしながら、《コッヘルーまっすぐな道》はカンディンスキーの仕事の中ではむしろ孤立した作例の観が強く、彼はそこで見せた初期キュビスム的方向をさらに追求していくことはなかった。次に、それから3年後には、カンディンスキーは《即興28(第2ヴァージョン)》(1912年、下図左)のような作品を描いている。この絵に見られる黒い線のいくつもの交差は、今度は(特に亜流の)分析的キュビスムのファセッティング(切子面化)を思い起こさせる(下図右)。しかし、それらは表面的な構成要素として画面に加えられているだけで、その絵の空間構造にまで深く食い込んでいるものではない。

 こうして見てくると、カンディンスキー絵画の抽象化の過程で重要な働きをしたものとして、私はむしろセザンヌの芸術に注目したい。1908年夏のムルナウでの滞在制作の折、カンディンスキーのタッチはそれまでの印象派風のものから変わって、セザンヌを思わせる構築性を帯びるようになる。そうしてカンディンスキーは目の前の自然風景を支持体の上で再構成していった。<ムルナウ・家並み1908年> (下図左)。

 それは、セザンヌのように自然を「再構築」したとまでは言えず洗練されていない稚拙なものであるが、描こうとする世界を単に絵具で支持体上に移し変えるのではなく、その構造を自分なりに積極的に絵画として捉え直そうとする試みをそこでそのように行ったことは、彼のその後の抽象の探求にとって、地味ながらも大いに意味のあることだったように思われる。その後カンディンスキーの筆触はさらに変化し、構築的というよりは絵画的で表現的なものに変わってゆく。そしてその先に、カンディンスキー独特の絵画世界が生み出されてゆくのである。かくしてカンディンスキーが抽象を実現して以後も、第一次世界大戦に至るまで、その筆触にはエクスの巨匠のスピリットが多かれ少なかれ感じられる。

 話題をカンディンスキーとキュビスムの関係に戻そう。それではいったい、カンディンスキーはニーレンドルフの前でキュビスムとの関係をなぜああもきっぱりと全面否定したのだろうか。それはたとえば、「少しも関係がなかった」と言って問題ないほどにキュビスムの影響は自分にとって非本質的なものであった、とカンディンスキーは考えていたのかもしれない。あるいは、自身の達成の意義に対する自負から、主要な先行動向であったキュビスムとの絡みで自分の仕事を見られたくなかったのかもしれない。いずれにせよ言えることは、キュビスムはカンディンスキーの目指す方向ではなかったということである。1911年1月にカンディンスキーは、アーノルト・シェーンベルクに次のように述べている。

 私たちが求める現代的な調和は、「幾何学的」なやり方では得ることはできないと確信しています。そうではなくて、むしろまさに反幾何学的な、反論理的なやり方でなくてはなりません。

 カンディンスキーがここで「『幾何学的』なやり方」と言っているのは、1911年1月という時期から考えて、分析的キュビスムのことであろう。その頃、ピカソとブラックはますます対象の分析を押し進め、盛期分析的キュビスムに入りつつあった。また、サロン・キュビストたちは既にサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌでの活動を開始していた。

 しかしながらカンディンスキーは、その慧眼(けいがん・物事の本質を鋭く見抜く力)によってキュビスムの偉大さは理解し、認めていた。彼がマルクとともに編集した『青騎士』年鑑(1912年5月刊行)には、古今東西の多数の作品の図版が含まれているが、最も部数が多く刷られたその普及版では、西洋のモダンアートとしてはピカソの分析的キュビスムの絵画が、1ページ全面を使って一番最初に掲載されている。そして、同誌に掲載されたカンディンスキーの論文「フォルムの問題について」では、彼が創造の原理とする「内的必然性」から生まれてきているものである限りにおいてあらゆる表現形式を肯定し、キュビスムについては、「『キュビストたち』が向かうコンポジションの努力は純粋に絵画的な存在を創造する必然性と直接関連して」いるとすることで、カンディンスキーはキュビスムを承認している

 カンディンスキーが抽象化の道を進む中で、彼を本質的にキュビスムに向かわせなかったそもそもの要因としては、よく知られたモネにまつわるエピソードが頭に浮かぶ。画家を志す前の1896年、カンディンスキーはモスクワで開かれたフランス美術展でモネの〈積み藁〉の連作の1点(下図)を目にした。その時の衝撃を、カンディンスキーは1913年に次のように回想している。

クロード・モネ1913積み藁

 それのまえには私は、ただ写実的な美術、厳密にいえばもっぱらロシヤの画家たちしか見たことがなく、レーピンの描いた肖像画のフランツ・リストの手を前にしてしぼしば立ち尽したぐらいのものであった。ところが突然、私は初めて絵というものを見たわけだ。その絵が積藁を描いたものということを私に教えてくれたのは、カタログであった。私は、積藁であることが識別できなかった。この識別できぬという点、私は困った。これほど不明確に描く権利は画家にはない、とも思った。私は漠然と、この絵の中には対象が欠けている、と感じた。そしてその絵が私を捉えて離さぬばかりか、消し難いまでに記憶に刻み込まれ、いつでもまったく思いがけず、微に入り細に入り(非常に細かいところまで入りこむさま)ありありと眼前に浮んでくるのに気づき、驚きもし、また当惑もした。これらのことがすべてどうして起るのか私には判然とせず、したがってこの体験から生ずる簡単な結論すら抽き出すことができなかった。それでも徹底的に明らかになったこと・・・それは、私のありとあらゆる夢を超えてゆく、以前は私に隠されていた、予想だにせぬパレットの力であった

 幾何学性とは相容れない漠とした曖昧さに満ちたモネの絵がカンディンスキーに与えた衝撃は、その時こそ理解を超えていたがゆえに彼の心に困惑と反発を引き起こしもしたが、画家カンディンスキーの原体験となり、第一次世界大戦前まで、潜在意識下から彼の仕事に作用を及ぼし続けたように思われる。

 最後に、本展の主要出品作である《印象‖(コンサート)》(1911年、下図左)《「コンポジションVll」のための習作2》(1913年、下図右)を見ておこう。カンディンスキーは『芸術における精神的なもの』において」自分の三種類の仕事について次のような定義をしている。

 

 一、「外面的な自然」から受けた直接の印象。これが素描的・色彩的な形態をとって現われるもの。この種の絵を、私は「印象 [インプレッション]」と名づける。

 二、主に無意識的な、大部分は突然に成立した、内面的性格をもつ精神過程の表現、つまり「内面的な自然」の印象。この種のものを、私は「即興[インプロヴィゼーション]」と呼ぶ。

 三、これと似た仕方で(しかし、きわめて徐々に)私の内面で形づくられるが、時間をかけ、ほとんどペダンチックなまでに、最初の構想に従って私により検討され練り上げられる表現。この種の絵を、私は「作曲[コンポジション]」と呼んでいるここでは、理性、意識、意図、目的が、支配的な役割を演じる。ただそのさい、最後の決定を下すのは、計算ではなく、つねに感情である。

 カンディンスキーはこれら〈印象〉、〈即興〉、〈コンポジション〉の間に序列を付けており、今挙げた順にランクが高くなっていく。そして彼はその後別のところで、〈コンポジション〉を描くことこそは「自分の生涯の目標」であると述べている。

 

 ≪印象Ⅲ(コンサート)》は<印象>シリーズ(全6点)の1点である。カンディンスキーは1911年1月2日にシェーンベルクのコンサートに出かけ、彼の音楽に大きな感銘を受けた。この作品は、その直後に描かれたものである。カンディンスキーはこの作品のために、素描習作を2点描いている。1点目(上図左)はある程度写実性を留めており、奇妙な縁遠近法的空間表現の中、グランドピアノといくつかの弦楽器らしきもの、そしてそれぞれの奏者が描かれていることが読み取れる。それが2点目(上図右参照)になると極端に抽象性が増し、もはやその素描を見るだけでは、それがコンサートの様子を描いたものであることはほとんど判読できない。視線はぐっとピアノ奏者に迫るようになるとともに、奥行きを表していた床の線は消え、画面は非常に平板化している。その中で、1点目ではおそらく描かれていなかった聴衆たちが、画面向かってグランドピアノの手前から左脇にかけて登場するとともに、弦楽器奏者たちは消去されたか、あるいは円や弧による単純な表現上、聴衆たちと区別できなくなっている。天井から吊り下がっていたシャンデリアも消え、代わりに、2本の平行線によって表されるコンサートホールの柱が、左側と右側の2箇所に加えられている。その後完成作では、画家は2点目の習作で出した構図を基本としながらも、それを油絵具の力で別次元へと昇華させている。鳴り響くような強い黄色が画面全体を支配する中、グランドピアノの黒がその黄と弓垂烈なコントラストをなし、互いを引き立てあっている。さらに青、紫、赤、茶など他のさまざまな色も負けじと自らを主張し、全体として、鮮やかで強度の高いハーモニーが実現されている。画面右側に大胆に広がる黄色のフィールドは、とりわけ印象的で美しい。それはまるで黄色い色彩の海であり、画面右上コーナーからグランドピアノの周りを日寺計回りに、流れるようなムーヴメントが生み出されている。そして2本の柱が、その白色によって画面に新鮮な息を吹き込むとともに、そのフォルムと配置は画面を過度に動的にさせず、絵をほどよく引き締めている。こうしてこの《印象Ill(コンサート)》は、シェーンベルクの音楽芸術と関わるその制作の経緯から、カンディンスキーの画業における記念碑的作品となっているのみならず、この画家の傑作の一つと呼ぶに実にふさわしい。

 

 《「コンポジションVll」のための習作2》は、《コンポジションⅦ》(1913年、上図参照)という作品の油彩習作の一つであり、《コンポジションVll》はカンディンスキー本人によって彼の仕事の最高位に置かれた〈コンポジション〉シリーズ(全10点、現存7点)の1点である。《コンポジションVll》はカンディンスキーが第一次世界大戦までに描いた全作品の中で最大のサイズを誇り、また、3点の戦後作を含む〈コンポジション〉シリーズ全体で見ても、同シリーズの中で最も大きな作品である。1995年にニューヨーク近代美術館で、現存するカンディンスキーの7点の〈コンポジション〉すべてを初めて一堂に集めた「カンディンスキーーコンポジション」展が開催された時、この歴史的な展覧会のキュレ一夕ーを務めたマググレーナ・ダブロウスキーは同展カタログのためのその詳細な研究論文において、≪コンポジションVll》を「カンディンスキーの1914年以前の時期の全仕事における最もモニュメンタルで複雑な絵画」にして「抽象的形式に向かうカンディンスキーの芸術的展開の絶頂」、カンディンスキーのミュンヘン時代の概念的および様式的頂点」であると宣言した。確かに《コンポジションVll》は、ダブロウスキーの言うように圧倒的なモニュメンタリティを湛えており、何十もの 習作を経て仕上げられた極めて完成度の高い作品である。しかしながら、 そこからこの作品をクオリティの面でもカンディンスキーの最高傑作のように みなそうとする向きには抵抗を感じる。というのは《コンポジションVll》で は、ロベール・ドローネーの色彩豊かなファセッティングを思わせる処理が 顕著になる中、画面は固くなり、諸々の要素が詰め込まれ過ぎて、カンディ ンスキー独特の解放性ある空間構造が害されてしまっているからである。一 方《「コンポジションⅦ」のための習作2》の方は、習作ゆえの気軽さからか、 動性に富んだ筆致によってカンディンスキーの抽象の長所が大いに発揮さ れている。

 我々はカンディンスキーのヒエラルキーを絶対的なものとして受け入れる 必要はなく、私のような者にとっては、《コンポジションVll》よりは《印象Ill(コ ンサート)》の方が絵画そのものとして心を惹く。また、《「コンポジションⅦのための習作2》は習作ではあるが、自立した一つの絵画作品として十分に 見ごたえのあるものであり、皮肉にも完成作より1枚の絵として質的に優れ ているように見える。こういった価値判断は僭越(せんえつ)にして錯誤も甚だしいと、 カンディンスキー研究者たちから非難されるかもしれない。しかし、この一 文で述べてきた他のことも含め、それが差し当たり、私が自身の「内的必然 性」に導かれて確かに感じていることである。一多くのことにおいて私は己 を厳しく批判せねばならないが、しかし、一つのことに対しては常に誠実で 来た。芸術における私の目標を規定してきている内なる声には。そして私は、 その声に最後の時まで従ってゆきたい。