バーネット・ニューマン

■バーネット・ニューマン (1905 −1970)

 ニューマンはニューヨークのマンハッタンに生まれた。高校の頃のニューマンは,授業中にメトロポリタン美術館に絵を見に通うような学生だったという。1923年(18歳)ニューヨーク市立大学に入学し哲学を専攻。卒業後2年間は父の仕事を手伝うが,1929年(24歳)の大恐慌の後は高校の代用教員をつとめ,その問,植物学や鳥類学なども学んだ。1943年にべテイ・パーソンズと出会い,彼女の画廊で開催したアドルフ・ゴットリーブの展覧会カタログに序文を寄せた。

 また同画廊でプレ・コロンビア彫刻やインディアン絵画の展覧会,自身の作品も含む「表意文字的絵画」展(1947年42歳)を企画し,これらの展覧会カタログへの執筆や雑誌での評論活動など,初期のニューマンはむしろ評論家として知られていた。1946年から47年(41~42歳)にかけて,クリフォード・ステイル,ジャクソン・ポロックに出会っている。

 1949年(44歳),抽象表現主義グループの活動とも言うべき自由な美術学校「芸術家の主題」の創立メンバーとなり,後の「ザ・クラブ」にも参加した。1950年,ニューヨークのベテイ・パーソンズ画廊で最初の個展を開き,色面のみの絵画を発表するが不評に終わった。翌年,同画廊で2回自の個展を開くがこの時の評判はさらに悪く,ニューマンが認められるようになったのは1950年代の末から60年代にかけてであった。

 1958年,バーモント州のベニントン大学で初の回顧展。ドロシー・ミラーの組織した「新しいアメリカ絵画」展(ニューヨーク近代美術館はじめヨーロッパ各国を巡回)に出品し,翌年ニューヨークのフレンチ・アンド・カンパニーで個展を開催した。1966年,ニューヨークのグッゲンハイム美術館で,<ザ・ステーションズ・オブ・ザ・クロス〉の展覧会。1969年(65歳),バーゼルの美術館で石版画の展覧会が開催された。翌年,心臓発作で死去。(66歳)この年にパサディナ美術館で,また1971年から72年にかけてトーマス・ヘスの組織した大規模な回顧展がニューヨーク近代美術館で開催され,1979年から81年にかけて,ドローイングの展覧会がボルティモア美術館ほかを巡回した。

 1940年代,プリミティヴ・アートの展覧会を企画することを通じてニューマンが提示したかっためは,西洋の伝統的な「美」とは異なった,生命の神秘や自然への畏怖などの素朴な感情だった。それは「崇高」の概念へとつながり,その可能性を芸術の中に探ろうとするニューマンの考え方は,論文「サプライム・イズ・ナウ」(『タイガーズ・アイ』1948年12月号)や,その他の論文で明らかにされた。具体的形象が全く無く,縦に直線のみが描かれたニューマンの特徴的な作品形式を持つ最初の作品《一なるもの Ⅰ≫が制作されたのも1948年である

 画面を分割する線条は「ジップ」と呼ばれるが画面の他の色彩を引き立て画面に活気を与えるものと作者は語っている。ニューマンの作品の色面は,ステイルやロスコらのものと較べて,より均一で平面性が強い。さらに壁のように大きな作品の前に立つ時,あたかも色彩に包み込まれるかのような錯覚を起こすが,それは作品に「反応」するのではなく,「参加」することを考えたニューマンの意図を,ある程度まで実現していると言えるだろう。(K.W.)


■追加資料(wikipedia)

 ニューマンはロシア系ユダヤ移民の子としてニューヨークに生まれた。ニューヨーク市立大学で哲学を学んだ後、父親の服飾業を手伝った。1930年代から絵を描き始めた。そのころの作品は表現主義風だったというが、後に彼はそれらをすべて処分した。

 1940年代には最初シュルレアリスムを試したが、やがて独自のスタイルを築きあげた。その画面は、ニューマンが「ジップ zip」と呼ぶ細い縦線で巨大な色面が区切られるのが特徴である。ジップを用い始めたころの作品では、色面はまだらになっていたが、やがて色面は単色で平坦なものになった。ニューマン自身は1948年以降の「ワンメント Onement」シリーズによって自己のスタイルが確立されたと考えていた。

 生涯を通じて、ジップは彼の作品の主役であった。1950年代の作品には、「ワイルド The Wild」(203cm×4cm、ニューヨーク近代美術館)のように、ジップそれ自体が作品となったものもある。ニューマンはまた、ジップの3次元版とでもいうべき彫刻もいくつか制作している。

 ニューマンの絵画は純粋に抽象的に見えるうえ、当初は「無題」とされた作品も多かった。彼はのちにそれらの作品に題名を与えたが、それらが示唆するものは、しばしばユダヤ的な主題であった。例えば1950年代に制作された「アダムとイヴ」がそうである。「ウリエル」(1954年)もそうだし、また「アブラハム」(1949年)というとても暗い絵画は、聖書の登場人物でありまたニューマンの父(1947年に没した)の名でもある題名を与えられている。

 「十字架の道行 The Stations of the Cross」シリーズ(1958年-1964年)はモノトーンの連作絵画である。この連作はニューマンが心臓発作から回復してすぐに制作されたもので、一般にはニューマンの画業の頂点を示すものとして認識されている。この連作は「レマ・サバクタニ(なぜ我を見捨て給う)」という副題がつけられている十字架上のキリストが叫んだ言葉である。ニューマンはこの言葉が、彼の時代にとって普遍的な重要性を備えていると感じていた。

 ニューマンの晩年の作品は「誰が赤、黄、青を恐れるのか Who’s Afraid of Red, Yellow and Blue」シリーズに見られるように、純粋で鮮やかで色を巨大なカンヴァスの上に用いるものが多くみられる。「アンナの光」(1968年)は幅7.1m、高さ2.3mあり、彼の作品中最も大きい。題名は1965年に没した彼の母の名に由来している。晩年は「シャルトル Chartres」(1969年)をはじめシェイプト・カンヴァス(四角形以外のカンヴァスを用いた絵画)や、滑らかな鉄片を用いた彫刻にも取り組んだ。初期の油彩と異なり、晩年の作品にはアクリル絵具が用いられた。

■ブロークン・オベリスク (ヒューストン、ロスコ・チャペル)

 彫刻作品では、ピラミッドの頂点にオベリスクを逆さに立てた「ブロークン・オベリスク」が良く知られている。リトグラフの作品には、連作「18 Cantos」(1963-64年)などがあり、また数は少ないがエッチングの作品もある。

 ニューマンは1950年代のニューヨークでの活動において、他の美術家と共に、ヨーロッパ絵画の様式に拠らない独自の抽象表現を築き上げたことで、一般的には抽象表現主義の美術家として認識されている。しかし、クリフォード・スティルやマーク・ロスコら他の抽象表現主義の美術家が用いたような表現主義的な筆触を拒絶し、はっきりした輪郭と平坦な色面を用いたことからすると、ニューマンの作品はポスト・ペインタリー・アブストラクションやミニマリズムの嚆矢と見ることができる
ジャクソン・ポロックのように話題性に満ちた人物と比べると、ニューマンの生前の評価は低かった。クレメント・グリーンバーグはニューマンを熱烈に支持したが、晩年になるまで彼の作品が真剣に取り上げられることは少なかった。しかし、彼はより若い世代の画家に対しては大きな影響を与えてきた。ニューマンは1970年、心臓発作のためニューヨークで没した。