自由・平等・博愛の芸術

自由・平等・博愛の芸術

山本和弘

■ボイスの原点

 ヨーゼフ・ボイスはドイツ出身のアーティストではあるが、一般的なイメージのドイツ的なアーティストではない。もちろん、「世界的な」などという形容をつける以前に、その出自をもう少し厳密に知る必要があるだろう。「ドイツ的」という言葉自体あいまいこのうえないが、つまり、プロテスタントで、享楽的で、軍国主義的で、お酒落で、預廃的で\アヴァンギャルドで、といった北のプロイセンのイメージでも、カトリックで、保守的で、陽気で、ダサイという南のバイエルンのイメージでもない、ということである。

 ボイスが生まれたクレーヴェはデュッセルドルフの隣町クレーフェルトから鈍行列車で約1時間ほど西に向かったほとんどオランダとの国境に近い町である。「白鳥の町」と呼ばれるこの町には、私たち極東の人間が抱くようなドイツ的なイメージは全くない。かといって、言語的にはかなりオランダ色が濃いが、町の雰囲気はけっしてオランダ的でもない。あえていうならば、ワーグナーの楽劇「ローエングリン」の一幕とはさもかくありなんと思わせるようなたたずまいの町である。しかし、ワーグナー作品の一場面を想起させるとはいっても、魔法の剣ノートウンクを持ったジークフリートやヴァルキューレのような英雄講の舞台になりそうな力強い雰囲気ではなく、やはり白鳥の騎士ローエングリンやその父の聖杯王パルジフアルのような敬虔で自然を畏怖する英雄の雰囲気に近い。ただただ、静謡な空気を湛えた穏やかな町なのである。

 おそらくこのイメージは他の大都市や森と泉だけの田舎に住むドイツ人にもなかなか捉えにくいものではないかと思う。この町にただよう雰囲気は、例えばボイスが精神的な師と仰ぎ続けたルいレフ・シュタイナーがゲーテアヌムを建立したスイスのドルナッハのように霊気を湛えているわけではない。それでもなお、この町は一見難解でとりつく島のないようなボイス作品が実はここから出発したことを納得させてくれる雰囲気をもっている。ドルナッハ的な霊気といえば、「(略)これはクレーヴ工のヨーゼフ・ボイスの最後の意志と遺言であり、その執行をウルスター美術館に委ねる(略)」とある重要な作品を北アイルランドの美術館に託したほどボイスが愛した極西の国アイルランドに似ているのかもしれない(1)。また、このクレーヴ工という町は田舎町というにはあまりに独特の雰囲気と伝説をもっている。一口に言えばニータ」ラインらしさ(ライン河下涜地方)ということなのであろうが、このニータ」ラインらしさをどう表現したらよいのかがまた難しい。

 ともかくクレーヴェっ子のボイスにとってクレーヴェとは英雄アナヒヤルシス・クローツの町であった。英雄とはいってもクローツは神話の登場人物ではなく、実在の人物である。クローツの町というのがクレーヴェに最もふさわしい形容なのかもしれない。今の私たちにとってはボイスの町なのであるが。ボイスは単に郷里の英雄に執心したわけではなく、そこには明確な理由がある。つまり、クローツはフランス革命に参加し、自由、平等、博愛のために殉じた英雄なのである。

 このようにクレーウゝとクローツを持ち出してきたのは、なにもボイスのエピソードを紹介するためではない0クローツへの敬愛が最後までボイスの作品そのものに様々な形 で反映されていたからであり、そのことが難解と思われているボイス作品を鑑賞する場合、予備知識として益すること大だからである0まず、クローツヘの敬意は1976年のヴ工ネ、ルア乍エンナーレの出品作「市電停車場」(fjg.4)に間接的に反映されている0「市電停車場」は、植物学者であり、ルイ14世とも交遊のあったクレーヴェの伯爵ノヨハン・モーリッツ・フォン・ナッサウを諾えた市電停車場記念碑をヒントに作られた作品である(2)0が、やはりこの作品は伯爵の記念碑を借りて、クローツへの敬愛を表したものに他ならない。というのは、「ボイスは自分自身をヨーゼフ・アナヒヤルシス.クローツボイスと呼ぶことによって、ローエングリンと個人的な血統を結んだように、神話と芸術的王里想を新たに融合させたのである」(3)と生誕70周年の展覧会でも改めてふれられているように、神話の英雄(これはつねに軍事的なイメージがつきまとう)ではなく、近代社会にとっての英雄クローツこそ、ボイスにとっての英雄だったからである。さらに、ボイスの遺作といってもよいレヾラッツオ・レガーレ」(−985年、fig.1,2,3)には「市電停車場」で使われた彫刻の頭部がそっくりそのまま使われている。つまり、生涯を通じて、クレーヴェのタローツはボイスの中に生きていた。このクローツヘの敬愛は、そのままルドルフ・シュタイナーヘの敬意につながっている。クローツに象徴される自由、平等、、博愛の三原則は、シュタイナーの社会有機体の三分臥すなわち、精神システム、法システム、経済システムとそっくり重なり合うのである。この近代社会の三層体について、デュッセルドルフのノルトライン=ウゝストファーレン州立美術館館長のアルミン.ツヴァイテはいラヅソオ・レガーレ」を論じた文章の中に、次のように述べている。「ボイスは反対のイメージを作りだすだけでなく、オルタナティブな思考を実践に移すこと、美的行為の伝統的な境界を広げることを試みた。ボイスの綱領となる全てのスローガン、すなわち、自由、平等、博愛というフランス革命のスローガンは、学と理論、法、政治、経済を考慮し、それは理想的すぎ、ときおり単純すぎるきらいはあったが、ユートピアという考えに発展し、そのような信念から自分に活力を与え、拡張された芸術概念というモットーにおいて絶頂に達したのである」(4)。

■ボイス芸術の根本原理

 このことから、ボイスは政治にも参加したアーティストなどという表現が正しくないことがわかるだろう0議会にうって出ること、教育、フェミニズム、自然破壊への反対、都市の緑化、自然観察、討論、大学入試改革などは、ボイスにとって彫刻をつくること、挑発的なアクションをおこなうこと、ドロtイングをすることと全く等価なことなのである。すなわち、ボイスは次のような等式を作っている。

芸術=人間=創造性=自由

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           彫刻=思考

 さらに「芸術=資本」という等式をつけ加えれば、自由をめざすあらゆる活動が芸術なのであり、それをささえる「政治システム=平等をめざすもの」と「経済システム=博愛をめざすもの」もまた芸術という自由の基本原理となるのである。この点においてボイスの芸術は、マルセル・テゝシャンが問い続けた芸術を成立させる制度の探究とも、アンテン●ウォーホルが問いただした消費社会における意識のフォーマルな探究とも次元を根本的に異にしている0あらゆる活動を包み込むものへとボイスの芸術枚念は拡大されているのである。すなわち、人間社会の理想をめざす自由で創造的な活動すべてが芸術なのであり、ボイスのいう意味での「社会彫刻」なのである。

 このようにボイスの芸術観、人間観の基礎にあるのは、鉱物のような無機物と植物や動物のような有機物と人間もまた全く同等であり、人間は地球上の存在者の中で特権的な存在ではないという考えである。この点に関して、最も優れたボイス研究の一つである『ボイスとロマン主義』を著したテオドーラ・フィッシャーは次のように記している。「『ハインリッヒ・フォン・オフターテンンゲン(青い花)jの続編の構想には、黄金時代のための次のようなサージイオーン(Vision)があった。すなわち、く人間、動物、植物、石、そして星、炎、音、色はそれらの根底では一緒であらねばならない。ちょうど、ひとつの家族が“振る舞う”ように、あるいは一族のような社会が振る舞い、語るかのように〉。ノヴァーリスの詩の形態によるこのような意味における探究は、人間の位置をはつきりとロマンティックな位置に解釈したボイスの言葉を思い起こさせるのである」(6)。

 例えば、ボイスの作品では、烏の頭蓋骨、煤けた瓶、材木の切れ端、石のかけら、バッテリー、導線などが、整然とでもなく、雑然とでもなく並んでいる。これら無機物も有機物もエ業製品もその物質そのものという観点からみれば全て等価である。ただ、人間にとっての道具性という観点からみると、それらは有用性を蓄積したまま、そのエネルギーの放出のために待機しているのである。ボイスがインスクレーションやアクションに用いる日常から持ち出されてきた一見みすぼらしいオブジェは、もはや洗練された技術による美術(FineArt)でも、制度を問いかけるレティメイドでもなく、私たちの日常に潜在する社会彫刻を実現するためのエネルギー蓄積体なのである。

 社会彫刻の思想を直観する人々にとってこれらのみすぼらしいオブジェは輝きだす。問題はこれらのオブジ工がダイレクトに人々を社会彫刻をめざす思想へと喚起できるかということであろう。つまり、あらゆる先入観を排してボイスの作品に向かった場合にそのような思想が現象してくるか、ということである。答えは、ノーでもあり、イエスでもある。ノーというのは、ボイスの作品には異化効果や象徴作用は込められておらず、メッセージ性をもっていないからだ。ただ、機能性すら中断されたままの物質が横たわっているだけである。そして、そこにある瓶やエ具、植物、動物の毛皮などが何故そこにあるのかではなく、私たちは何故それらを作り、何のために利用するのか、また、それらは人間の手に触れられる以前はどこでどんな姿をしていたのかなどというように能動的に、より正確には反省的に対崎したとき、さらに換言すれば、自己を無にして観察したとき、私たちが慣れ親しんだ日常とはく反対のイメージ〉が現象する。それから先は個々の人間に委ねられており、ボイスは何ものも押しつけることはない。つまり、ボイスはこれらのオブジェを、死せる自然(物質)と、いつの日か死するかもしれない運命にあるものとの中間態として、見事に演出しているのである。そこでは自然も人間も混沌としたエネルギーの柑禍の只中におかれる。そして、このエネルギーの放射は観る人それぞれにかかっているのである。ゲッツ・アドリアーニらが述べるように、「ヨーゼフ・ボイスという個性における芸術と生活のこのような統合から、芸術と反芸術という概念のアンビヴアレントな使用も起こるのである。そのような概念は、芸術家に反対するものではなく、世界と人間との関係を構築するという目標をもつものであり、新たな意識を ̄、産出するという方法的機能をももったものなのである」(7)。

 ボイスが用いる素材は、絵の具や画布といった芸術のための特殊なものではけっしてなく、ましてや特権的な技術(絵の具を塗ったり、コンピュータを操作したり)を用いるものでもなく、徹底的に私たちの日常の生活の中にありふれたものである。商品棚、バスタスバッテリー、ピアノ、洗面器、ほうき、藁、鉛などなど数えあげればきりのない素材は、もちろん未使用のレディメイドでも、使い古しの廃棄物でもなく、有用性というエネルギーを蓄えたものである。これらの有用性は、当然のことながら日常の生活において消費され、打ち捨てられて終わる機能ではなく、それらの機能性の究極の目的で ある本来的な道具性、つまり、より良く生きることにかかわることの顕尉ヒが全てのボイスの作品で図られている0しかし、あるいは、当然ながら、ボイスの作品自体がそのような説教じみたメットジをもっているのではなく、与えられた道具の機能の使用や 消費に自己の能力を埋没させている人間を、エネルギーの潜在状態を始動させるきっ かけを与えようとしている0あくまでも、現実の姿をみせることによってその〈反対のイメージ〉を個々の人間自らが引き出さねばならないのである0そして、ボイスのアクション、 インスクレーション、オブジェ、彫刻、講演などの全てはこの反対のイメージを喚起するためのコミュニケーション手段なのである0そして、この押しつけがましさを排したく反対 の小一ジ〉lの顕尉ヒの方法こそ、ロマン的イロニーというドイツ的方法なのである。

■物質とそのプレゼンテーション

 さて、先にみた三つの原則はボイス作品をみるときの大前提として非常に重要である。例えば、脂肪。脂肪はたいてい第二次大戦中に爆撃機の乗員をしていたボイスが不時着し、瀕死の重症を負ったときに助けてくれたタタール人が、ボイスの身体に塗った治療法がきっかけであると紹介されている0しかし、ボイスはこのような個人史をただ作品に組み入れたのではなく、脂肪は大理石やブロンズ、木など従来の古典的な彫刻素材二代わる新しい素材なのでもなく、熟によってフォルムを形成できる普遍的彫刻素材なのである0もちろん熱というエネルギーは金属でも木でも石でも形を変えることができるが、脂肪は膨大な熱量を必要とせず、体温でも形を変えることが容易に可能な素材なのである。そしてなによりも脂肪は網膜を楽しませるだけでなく、イザというときは食料にもなってしまう0さらに、私たち自身もまた脂肪でできた生きた彫刻ととらえられなくもないのである。この例でもわかるように芸術はボイスにとって特権的な領域のものでは全くない0私たちと全く同じ地平に立っているものなのである。ボイスが用いる素材は芸術と生活を平等にする物質なのである。

 同じくフェルトもタクーノ仏がボイスの体温を保つために用いたというのは、ひとつのエピソードにすぎない0フェルトは本来、羊の毛などを圧縮して作られたもので、植物性の布に対して、動物性布地ともいうペきものである0このフェルトは脂肪のように自立的素材というよりも、エネルギーを保存するための素材と解してよいだろう。ボイスが用いるバッテリーもこのエネルギー貯蔵の考えからきている。 さて、ボイスが作品において用いるのは非常に多岐にわたる素材であるが、この脂肪やフェルトをはじめそのほとんどが、繰り返しになるが、日常的なありふれた素材である0この素材のプレゼンテーションの仕方が、ボイス芸術の大きな特色のひとつである0つまり、素材の平等性、非特権性は展示というボイスのプレゼンテーションの才能によって作品としての意義を獲得するのである。

 ボイスの作品提示の代表的なものの一つにヴ什リーヌがある。鉄や真軋あるいは木製のフレームで、ガラスが組み込まれ、四方からぐるりと内部をみわたせるものや、一面が板で閉ざされ、その面が壁を背負うものなどいくつかのタイプがある。これは美術に親しい人ならば、日本画の巻子やエ芸の展示ケースを思いうかぺるかもしれない。だが、ボイスがこのような提示方法を用いるのは、彼の自然科学的な研究姿勢が反映されているからである。自然系の博物館で化石や動物の剥製などを展示しているあのガラス・ケースである0ボイスはこのようなヴ什リーヌの中に、自分のアクションの残りのオブジェや小さな彫刻などをさりげなく置く0一般にハプニングやパみ−マンスの記鍬ま写真やビデオなどの映像として残されるのが相場であるが、物質そのものをアクションを演じた人物自身やその場所と時間を離れたものであっても、その場で確かにアクションに参加したものたちを、証人のように、作品化するのである。あたかも鉱物や化石が人間の歴史を越えた出来事を証言するかのように。

 このようなヴィトリーヌの内容物とともに、ボイスの特質を端的に表しているのは、二のヴィトリーヌが、その枠組みの素材にかかわりなく、壁に組み込まれたり、床から立ち上がった台座のような形ではなく、全てが4つの脚で支えられていることだ。つまり、ボイスのヴィトリーヌは作品を提示するという機能をもった台ではなく、彼が用いる兎や馬、描くところの羊などと同じように動物のアレゴリーなのである。人間の営為の残骸が動物の背、そして鉱物や植物に支えられているのである。

■ボイス作品収蔵アクション

 ボイス自身の作品のおもしろさと意義はある種の難解さと表裏一体となっていた。しかし、その難解さとは作品のもつ意味の難解さではなく、私たちの日常と同一地平にあるがゆえに、その物質性のみを押し出した作品のゆえ、芸術然としたきどりがないがゆえの皮肉な取りつきにくさであるにすぎない。それは日常の中、すなわち、私たちの生活の中に潜むイメージを顕在化させる単純明快なものであり、そのあまりの単純さは、生活と遊離した芸術に束の間の休息を求める意識には、そのアウラが欠如しているがゆえに難解と映るだけなのである。もはや私たちの時代の芸術にアウラなど必要ない。ボイスの作品は私たち自身の中、私たちの生活の中にある潜在能力を引き出すための挑発装置なのである。く反対のイメージ〉を喚起する力を秘めた造形物、それがボイスの作品であり、芸術なのである。したがって、歴史的に高級な造形言語のコードを解読しなければ意味が理解できない鼻持ちならないもの(その価値そのものをボイスは否定はしない)とは全く別の、私たち全てを揺さぶる造形こそをボイスは作りだした。

 このあまりに当たり前のことは、私たちがこれまで経てきた歴史的に積み重ねられてきたものとは無関係に万人の直観(ボイスのいう理性よりも高次の形式としての直観)を刺激するものがボイスの作品であるということば、実際にはボイス・ケナーと呼ばれるボイス学者たちの理解が初めにあり、それを受けて、やがて多くの人々に受け入れられるという経過をたどってきているようだ。そこで優れた美術館長は先ず英断を下すことから始めている。これらの先導する人々と後続する人々との理解の差は多くの場合、摩擦エネルギーを生み出すことになる。例えば、ミュンヘンのレーンバッハハウスの「汝の傷を見せよ」(fig.14)、オランタやクレーラー・ミュラー美術館の「市電停車場」、ベルリンの国立美術舘の「復元力」(1974年、fig.15)、バーゼル美術館の「炉辺」(fig.16)、そして、ドクメンタ7での「7000本の樫の木」(fig.17)、最近の例ではデュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館の「パラゾソオ・レガーレ」など、テ寸レククーが英断を下した数々のボイスの大作インスタレーションの所蔵をめぐっては、そのひとつひとつがボイスのアクションのようにセンセーショナルであり、まるでく作品所蔵〉というアクションのように人々のく反対のイメージ〉を強く喚起した。つまり、アウラのない日用品の残骸のような作品を所蔵することへの抗議が必ずといってよいほど、まるで麻疹のように起こっている。そこでボイス自身や館長たちが熟′い二、何度も公聴会や説明会を開く。そして、ボイス作品にいちはやく共鳴した人々が賛成の声をあげる、というようにして、ボイス作品は今日私たちが目にすることのできる美術館に収蔵されていったのである。この収蔵のドラマはおそらくボイスが予想した以上に人々の内に潜む能力を引き出すのに役立ったかもしれない。はじめに英断ありき、そして、けっして反自由、反平等、反博愛の圧力と権力に屈してはならないことをボイスの作品は教えている。


fig.14汝の傷を見せよ(全景)CompletevleWOf“Zeigedeine1974/75flg.15復元力RIChtkrafte(DけeCt10nalForce)1974flg,16炉辺Feuerst融te(Hearth)㈮KazuhlrO Yamamotof唱.177000本の樫の木7000EIChen(7(氾00aks)1983


 <反対のイメージ〉を喚起する挑発的な作品を、公開しようという美術館人の挑発があって初めて、観る側が挑発に応えてこそ、ボイス作品は蓄積したエネルギーを放出することができるのである。

 このことを考えると、自由、平等、博愛という三原則の中で、ボイス自身が芸術に与えた自由という役割よりも、まさに平等と博愛にもボイス作品の力は強く影響していったのではないかというように思われてくる。つまり、1キログラムの米の値段や、450グラムのマーガリンの値段については誰もが同時代のこととして日々気にかけている。同時代の経済の問題はいつも生活からは切っても切れない関心事なのであり、自分が生きていることを主張する権利が平等であることもまた生活上の最大の関心事である。ボイスの作品は、創造における自由よりも各人の能力の平等と博愛により多く寄与するように思われる。つまり、作品というものが等しく万人に享受されることが重要なのである。二のような芸術のあり方の先駆けとしてボイスは、まさに私たちの日常にありふれた素材を用いた。特権的ではない素材をボイスは苦心して用いたのである。そして、その商品的価値や機能ではなく、物質そのものを私たちの目の前に突きつけた。これはある意味では芸術く作品〉と日常とのギャップの差異を一気に無化する過激さに満ちていたのかもしれない。私たちの身体を包む布としてのフェルト、私たちの運動を継続させるための栄養分としての脂肪、個人の思いや意見を伝達するための電話、そのためのバッテリー、夜の生活を快適にするための電灯、メッセージや音楽を多数の人々に向けて伝えるためのテープレコーダー等々、ボイスの用いた身の回りの素材は、私たちにとって特別なものではなく、ごくありふれたものなのだ。クレーフェルトのカイザ叫ザイルヘルム美術館長のゲルハルト・シュトルクはこう述べている。「鑑賞者の前にはひとつの完結した世界が存在している。この世界は部分のための部分として鑑賞者の前に広がっているために、彼は多くの個々の事物を注視することができるのである。ただ、彼はこの芸術的に創造された世界が成立しており、それが保たれてあることを永いあいだ了解できないでいるだけなのだ」(8)。このような道具性の意味、なぜそのような道具を私たちが生み出したのかということの根源、私たちの生活をよりよくするための道具の意味を改めてボイスは私たちに問いかける。それらは自由と平等と博愛のための道具なのである。

■アフター・ボイス

 このような社会有機体の三層構造にわたる包括的なボイスの活動を、既存の芸術用素材を使ってわかりやすくかみ砕き、それぞれの問題意識を表明したのが、ボイス・シューラー(ボイスの学生)たちの作品である。

 絵画や写真、そして印刷メディアの私たちの生活における意義を、布や情報伝達などへと数行させ展開させたのが、ゲルハルト・リヒクー、ジグマール・ポルケ、プリンキー・バレルモであり、ヨルク・イメンいレフ、アンゼルム・キーファーといった画家たちであり、それに無機的立体的な形態を加味して展開したのがライナー・ルーテンペック、ライハルト・ムハ、イミ・クネーベルらである。彼らはその間題意識、例えば、消費社会における絵画や写真の対応、写真と建築、色彩と形態などの問題をそれぞれの視点から展開した作品を作っている。それはボイスの写真への先見の明や、シュタイナーの蜜蜂の生活に人間共同生活の理想形をみたこと、色彩におけるゲーテの王里論、ナチズムという近代史の事件、環境保護への訴え等々、無限の広がりと連鎖している。彼らがそれぞれ今日高く評価される作品を生み出しえたのは、彼らが師ボイスの壮大な活動の中に、あらゆる面において多忙なボイスが作品化することのできなかった問題をそれぞれが見いだしたこととともに、ボイスの方法の根底に今日の社会にも有効と思われるロマン的イロニーという方法を見抜いていたからであろう。

 そして、いま私たちが極東の国でボイスやボイス・シューラーの仕事を受容するのは、それらがドイツの美術を知るためとか、西洋の美術に親しむためなどではない。彼らが立てた問題は民族や国家や地理的条件を越えて等しく当てはまる。ボイスがめざしたのは理想的な近代社会の実現であり、そこにはもはや人間と動物、植物、鉱物の差がないのと同じように、人種、宗教、国家体制などの差異は一切ない。なおかつ、私たちはボイスがとなえたユーラシアの一員であることを肝に命じ、そして「汝の傷を見せよ」というボイスの悲痛な命題に答えなければならないときにきいてるのかもしれない。(栃木県立美術館学芸員)