村山知義-参考資料

村山知義-参考資料

■主観的基準への意識的構成主義の挑戦

佐々木純子

 大正の前衛大きな活力源になったのは、1920年にロシアの前衛画家タヴィト・ブル リュークが日本に亡命してきたことである。ブルリュークは帝政ロシアの裕福な地方代官の子として生まれ、ミュンヘン、パリで学んで早くから新しい前衛運動 に通じていて、特にドイツの若い芸術家とは、長く密接な関係を保ち続けた。中でも同じロシア出身のカンディンスキーとは特別親しい仲にあった。(注1)こ のように、豊かな人脈と広い視野を盛ったブルリュークのもたらした数百点にも上る様々な傾向の新しい作品は、日本の美術界に大きな衝撃を与えた。またそれ らの作品をまとめて展示した「ロシア未来派美術展」も開催された。さらにブルリュークは未来派美術協会の一員であった木下秀一郎と共著の形で、『未来派と は?答える』と題する解説書を刊行した。これは、立体派、表現派、未来派、幾何学派、構図派、形而上派、ダダイズム、シュプレマティズム、オルフィズム、 シンクロニズムなどの様々な前衛芸術運動について、日本に初めて正確な知識をもたらした。もともとロシアの未来派はイタリア未来派の落とし子であったが、 同時に他の様々な傾向を併せ持っていた。ロシアの前衛芸術は1910年に出発する。この年にモスクワで「ダイヤのジャック」展が開かれ、ここに参加したマ レーヴィチなどの画家は、一方でセザンヌやキュビスム、ドイツ表現主義などの西欧先端美術を吸収し他方では伝統的で土着的な文化を掘り起こす「ネオ・プリ ミティヴィズム」を追求した。ペテルブルグで世紀末以後展開されていた、雑誌『美術世界』を中心とした西洋移入の象徴主義を克服しようとしたのである。西 洋の影響の強い「ダイヤのジャック」展を嫌い、ネオ・プリミティヴィズムをよりロシアの独自性を強調する方向に展開させるため、1912年に、村山にも影 響を与えたウラジーミル・タトリンなども参加した「ろばの尻尾」展を組織した。このように、ヨーロッパ前衛芸術運動の影響が色濃いが、独自性を模索してい たロシアの前衛芸術を日本に伝えたことで、ブルリュークの来日は非常に時宜に叶っていたといえる。

意識的構成主義を唱えた村山知義は、ブルリューク来日の二年後、1922年にドイツ・ベルリンに留学した。村山は東京生まれで、東京帝国大学文学部で哲学を学んだがこれを中退し、本格的に絵画に転向した。留学以前にも絵本を出版するなど絵は達者であったが

(図1)、本格的な美術教育は受けていなかった。医者の家に生まれた村山ではあったが、 容易なことではベルリンに行けるわけはなかった。それは『母が何百ぺんも頭を下げて借りてくれたお金』のおかげであった。ベルリンでは、友人の和達知男を 案内役とし、わずか一年足らずの期間に制作活動のみならず、交友や旅行など精力的に行動した。村山は後に、ベルリン時代の自分の姿を「馬の尻毛のように堅 い髪の毛をいやらしい風にオール・バックにし、それが素直に寝ていないので毎日ヘア・ネットをかぶり、腰の細いタキシードまがいの服を着、エナメルの靴 に、イキなつもりでスパッツなどをはいている」と、『演劇的自叙伝』で述べている。このようにやや自虐的に書いているのは、当時ドイツは恐慌の中にあり、 日増しに日本の円が強くなり、にわかに成金に成り下がった自分に矛盾を感じずにはいられなかったからであろう。しかしそのような悲惨な世相、そこで生まれ ては消えていく破壊と建設への意欲と、それを背景にして展開される先鋭な芸術運動に敏感でいるには、うってつけの状況だったと言える。とはいっても、和達 にカンディンスキーの名を初めて教えてもらうなど、村山の美術の知識にはかなり偏りがあったが、シュトゥルム画廊のヴァルデン、彼を通してアルキペンコ、 イタリア未来派のマリネッティやヴァザーリ(注2)に紹介された。また、三月にはノルマン画廊での国際未来派展に出品し、五月にデュッセルドルフの国際美 術展と芸術家会議(注3)に参加し、九月に画廊トワルディーで永野芳光との二人展を開催する。永野は東郷青児の義弟で、イタリア未来派の間では村山より評 価された。クレーやピカソ、ブラックなどの仕事に触れ、エンルスト・トラーの「機械破壊者」や「群集・人間」の上演に立会い、マックス・ラインハルトの演 劇運動と劇場建場を実際目にし、それらの知見を後に日本に精力的に持ち込んだ。またこの他にドイツの留学したのは、日本にバウハウスを紹介した仲田定之助 や、村山の挿絵によって長編「望郷」を時事新報に連載することになる池谷信三郎などであった。では、ドイツ・ベルリンは村山に何を与えたのであろうか。第 一次世界大戦の末期、混乱する社会を背景にドイツでもダダが生まれた。ベルリンにはダダ誕生の地チューリッヒからヒュルゼンベックが帰国し、1918年の 「ダダの夕べ」で本格的な活動の口火を切る。ベルリン・ダダは、ヨハンとヘルツフェルデ兄弟の左翼的な雑誌や出版物を中心にして展開され、印刷文字と印刷 物の写真などの組み合せによるフォトモンタージュが特徴で、政治的な関心が強いものだった。また、1921年~22年、ロシアでは新経済政策(ネップ)が 施行され、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。芸術を社会主義国家建設に役立たせようとする生産主義が台頭し、新しい芸術の展開を夢見ていた芸術家 の何人かは失望して西欧に亡命した。そのため、20年代のヨーロッパでは西と東から亡命芸術家も含めて構成的な美術家が交流し、構成的な美術は国際化の道 をたどっていった。このような流れをうけ、ベルリンでもダダと構成主義が展開し、多彩な作家が東西から訪れた。以上のような背景を持ったベルリンに、村山 が帰国後に唱える意識的構成主義に到達する必然を窺い知ることができる。また、1922年には、ワイマールでダダイストと構成主義者がはじめて会合を持ち (注4)、また、シュプレマティスム(注5)や構成主義などをはじめとする、ロシア美術の近況を報告する「第一回ロシア美術展」が大規模に開催された。こ のように構成主義は世界的な発展を遂げ変質して行くが、この過程で戦わされた様々な議論が村山の「意識的構成主義」にも多大な影響を与えた。

村山は1923年一月末に帰国し、その直後に意識的構成主義を唱え始め た。五月には、「意識的構成主義的小品展覧会」を開催した。のちに〈マヴォ〉の同人となる住谷磐根はその印象を次のように書いている。「理解に苦しむタイ トルで不可解なまま会場に入ると、画面に材木の片端や、布切れ、ブリキ缶のつぶれた物、ゴミ捨て場から拾い集めたのではないかと思われるも物質が縦横に組 み込まれ(中略)気が変になりそうであった。これ等の作品は、最近ドイツから帰朝した22歳の青年のものとは思われない、不思議な美しさで胸に迫るので あった。おかし難い品格の高い作風に襟を正した。」(「思い出の〝マヴォ〟」『〈マヴォ〉復刻版 別冊解説より』)さらに、永野芳光とともに「アウグス ト・グルッペ」という団体を結成して美術界に最初の印象づけを行った。意識的構成主義の出発となったのは、「客観的普遍妥当的な美の基準はない」という認 識である。自分の主観的基準に自分で意識的に矛盾を掻き出して、その相克によってさらに高い統一を求めなければならない。」つまり「最短時間のうちに、自 分の主観的な美と醜の対距点の間をペンデュラム〔振り子〕のように揺れ動くのでなければならない。」しかし、こうした弁証法的ともいえる意識の動きは非常 に苦しいことなので、「自分の意志を、努力によって構成する以外に道はないというのが村山の主張である。だからこそ用いる素材にしても、「触覚的効果」も あり、なおかつ自分の意識に働きかけてより一層「具体的な連想を喚起する」もの、たとえば「床屋の青、赤、白の『あめん棒』、各種の歯車、文字、鋳型の木 型、婦人靴、紙幣、写真、女の髪の毛」などが望ましい、ということになる。(「マヴォの思い出」より)見る側に強い連想作用を及ぼすそれらの事物を、あえて断片として作品に用いれば、全てはさらに暗示的になるが、そのためにはただの寄せ集めで

あってはならない。そこには意図的な配置、つまり構成感覚といったものが必ず要求され る。このようにして村山の意識的構成主義の作品は結果としてどこかしら構成主義風の作品にならざるをえなかった。村山は、意識的構成主義を「ダダと構成派 に時間的にも理論的にも次ぐもの」と規定し、したがってロシア構成主義とは全く異なると一貫して主張した。さらに著書では構成派批判に終始し、意識的構成 主義の独自性については積極的にはほとんど言及しなかった。このため、意識的構成主義は思想として明確な骨格を持たないまま消滅することになる。村山の展 開した構成主義批判は、ロシア語の壁のためにロシア構成主義の著作をほとんど直接的に参照できず、村山の構成主義論はもっぱらロシア以外の国の国際的な前 衛雑誌、MA、BROOM、MECANO、MERZなど(注6)の記事を土台としていた。しかし、これらの海外の文献に加え、ブルリュークと入れ替わるようにして来日したワルワーラ・ブブノワ(注7)の論文などに触れ、ロシア構成主義への理解は深まっていった。

村山の意識的構成主義の仕事として残された作例の中に、わずかではあるが、幾何学的要素からなる絵画の系列が見られ(図2)、やシュヴィタース(図3)やドゥースブルフ(図4)(注8)の多元的な表現 形式と並行しているといえる。当時のドイツの作家たちと同じく、村山もまた天文学的の数字のインフレを引き起こしながら自滅していく資本主義の惨状を目の 当たりにし、そこから創造した。ダダや構成主義を自由に操作して表現できることが村山にとって意識的構成主義の根幹となった。しかしそれは意識的構成主義 が明確なスタイルを持たなかった原因にもなっている。表現派など様々な流派を実際にドイツで見聞した村山は、

対象と形式の関わり方が 多様化し、対象が視覚的なものに縛られなくなった以上、いたずらに唯一の形式に自らを限定することを戒めて、無限の対象に対する無限の形式があるべきであ ると考えるようになった。それが立体派や構成派などが抗っていた表現の「マンネリズムと無意識」から逃れるために採るべき方途であった。要するに「表現の 可能如何」に意識的ないし自覚的であり「全人生的なすべてのものを視覚的形成に表現しよう」とするもので「観照者の側に於ける全的理解を要求する」のが、 いうところの意識的構成主義である。

(「過ぎゆく表現派――意識的構成主義への序論的導入」『中央美術』一九二三年四月) (日本のアヴァンギャルド芸術より)

このように、造形理論としての意識的構成主義は、アナーキーな気分を背景に、市民社会の 文化や倫理、合理性などを攻撃し、市民社会に支えられた近代の芸術も批判の対象とするような、ダダの方法に近いような印象を受ける。村山と交流があった シュヴィタースから、雑誌『マヴォ』に〈メルツ標準舞台〉についての一文を掲載するように頼む手紙が送られてきたと村山自身が述べている。また、チュー リッヒ・ダダのアルプ(注9)とロシア構成主義のリシツキー(注10)は、『諸芸術主義』(1925年)で誤って『マヴォ』創刊号の表紙に図版として用い られた山里栄吉の構成(図5)を村山作として〈メルツ〉(注11)に分類した。これらの点からも、村山の意識的構成主義がどのように位置付けられていたのか窺い知ることができる。

 意識的構成主義は理論としての輪郭をはっきり持たないままであったが、村山自身の中に は最終的にどこに到達すべきかについて目標地点が見据えられていた。それは、「芸術の究極としての建築」であった。(ドゥースブルフも、全ての芸術は建築 と都市に結晶すると考え、諸芸術家が共同する建築を目指した。)結果的に前衛芸術にも大きな転機を与えることとなった、一九二三年の関東大震災をきっかけ に、〈アクション〉グループのバラック装飾社などが新しい建築に取り組んだ。〈マヴォ〉も、村山が後に『演劇的自叙伝』に書いたように、「震災後の復旧が 進むにつれて、マヴォに装飾や看板や建物の外装や壁面装飾や、ついには建築設計までも頼んでくるところが増えてきた」ことで、建築の占める部分は増えて いった。また、村山自身も「三角の家」(図6)を設計するなどしてそのような方向に向かっていた。しかも、1924年春には、上野で帝都復興創案展が開催 され、創宇社、メテオール社、分離派など先鋭的な建築家のグループとともに、〈マヴォ〉は会場の二室を与えられ、構想を表現することとなった。その展示室 は、髪の毛、新聞の切り抜き、首なし人形などを組み合わせたアンサンブラージュで当時も、その奇妙さで話題になった。建築的要素を含んだかどうかは判断し がたいが、〈マヴォ〉にとって「建築」が主要な仕事となったことはいえる。では村山が持っていた建築の概念とはどんなものだったのか。「建築と、無限の形 と材料と実用性との解決である。まことにいかに建築という出来事が無限の形と材料と感覚と思想とを抱きこんでいるかを思うと驚嘆するばかりである」『建築 の原理は「必要かつ充分」である』(「構成派研究」『中央美術』1926年2月)『「来るべき時代の幻」を体現する「純粋芸術である」と主張した』(「芸術の究極としての建築」『国民美術』1924年7月)また、また、リシツキ―の「要素と発見」(シュワイツの雑誌「建築研究」所載)の訳文を『マヴォ』に掲載し、『ブルーム』誌掲載のタトリンの第三インターナショナル記念塔に関する記事を訳出(「構成派批判」)していることなどから、建築的思考を未来への明確なビジョンとして認識していたといえる。このように、意識的構成主義は最終的な問題設定を超えて、造形思想としての終局を迎えた。

 一方、構成主義については、1925年に村山が打ち込んできた〈三科〉の芸術運動が内 部分裂から事実上の消滅を迎えた後、1926年2月に出版された『構成派研究』では、それまでの構成主義についての論考が謝りの多いものだったとして論調 を逆転させた。ここでは、構成主義を社会性、アメリカニズム、機械、機械化、建築をテーマに挙げて肯定的に検証している。この変化の最大の原因は、三科運 動の総括とプロレタリア芸術運動への参加だと考えられる。このようにして、村山にとって最も重要であった意識的構成主義と構成主義は、彼自身の中でも結末 を迎えたのであった。

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(注1)カンディンスキーは1911年「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)編集部主宰第一回展を開催した。ここにブルリュークも参加した。第二回展にはピカソやブラック、マレーヴィチらが参加し、多様な前衛的傾向の作品315点が並べられた。

(注2)ヴァルデン ベルリンの芸術運動主催者で雑誌『嵐』(デア・シュトゥルウム)を編集し、シュトゥルム画廊を主宰した。

 アルキペンコ ウクライナ出身。ピカソに次いでキュビスム彫刻を手がけ他の彫刻家にも影響を与えた。1923年以後アメリカに渡った。

 マリネッティ 詩人。1909年「未来派宣言」を発表し、芸術運動の中心地パリから世界に呼びかけるという政治的な方法をとった。芸術に必要なのは勇気、大胆、反乱だとし、軍国・愛国主義・アナーキストの破壊的行動を称え、女性および女性賛美主義軽蔑した。

(注3)「進歩的芸術(プログレッシブ・アート)国際会議」は、戦争で分断されたヨーロッパの前衛芸術運動の一体性を再構築することを目指した会議だったが、実際にはそのような企てが不可能なことが確認される結果となった。

(注4)シュプレマティスム 1915年ペトログラードで、零(ゼロ)を目指す10人の『最後の 未来派展0‐10』が開催される。マレーヴィチはここで「シュプレマティスム」(絶対主義)と呼ぶ39点の無対象絵画を展示した。マレーヴィチはそれを、 「創造的な芸術における純粋な感覚の絶対性」と定義した。

(注5)ドゥースブルク、リシツキー、リヒターは独立した集団「構成主義者国際派」を結成したが、これはダダ的な傾向をもつグループであった。シュヴィッタース、アルプ、ハウスマン、リヒターは、ワイマールの「ダダ・構成主義者会議」に出席した。

(注6)MA  「今日」の意。1916年に画家で作家のラヨス・カサックによって ブダペストで創刊された。「デア・シュトゥルーム」誌とも交流したが、1919年半ば、ハンガリー・ソヴィエトが成立すると、ブルジョア的であるという理 由で発禁になったため、ウィーンに拠点を移した。以後、ダダの自然発生性を構成主義の政治参加と調和させる努力を通じて「MA」が果たした役割は中央ヨーロッパの多くの場所で大きな影響力をもった。

BROOM  「箒」の意。ベルリンを基盤とした雑誌で、ジョセフソンが編集。1922年にローマからベルリンに移ってきたもので、ダダのテクストをアメリカに紹介する重要な基盤となった。また、ロシアと西欧の新しい芸術の興味深い接近の場となった。

(注7)ワルワーラ・ブブノワ  「現代におけるロシア絵画の帰趨 について」という論文が雑誌 『思想』の1922年10月号に掲載された。(村山もこれを目にしたと思われる)その影響を反映してブブノワに「三科インデペンデント」から出品の誘いが あった。ブブノワはインフーク(芸術文化研究所)の日本における代表を自認しており、モスクワの友人が悩んでいる問題についてこの論文で語り、構成主義に 対する彼らの見解をまとめようとした。この雑誌にはロドチェンコ、ステパーノワ、ポポーワの作品と、彼らの写真が掲載されていた。ブブノワの論文は「未来 派美術協会」出身の画家、木下秀一郎、尾形亀之助、隅や磐根らの関心を引いた。ブブノワは初めての展覧会を上野の青陽楼で開催し、「sun urb」という油絵を出品した。また、1923年5月、ブブノワは神田の文房堂で開かれた展覧会で村山の作品を見た。まもなくブブノワと村山は知り合いとなり、ブブノワは自作のリトグラフ数点をかかえて、村山の家に立ち寄った。二人は意気投合して様々な話し合いが持たれた。

(注8)シュヴィタース 1915年に最初のメルツ絵画を発表。1922年のワイマールのダダ構成主義者会議にも出席した。1923年には雑誌『MERZ』創刊の中心となった。ドゥースブルフ モンドリアンの「新造形主義」への返答として、重力に従うのを嫌い、より力動間を出すために画面の中に対角線を導入する「エレメンタリスム」を唱える。

(注9)チューリッヒ・ダダ 1916年ドイツのフーゴ・バルが開設した「キャバレー・ヴォル テール」の夜会に、社会や政治、倫理や文化などに不満を抱く若い芸術家達が国境を越えて集まった。独仏辞典で偶然拾った、フランス語で木馬、ルーマニア語 で「そうだ、そうだ」を意味する「ダダ」という言葉が活動の名称に選ばれた。アルザス生まれのアルプは出来るだけ偶然に配置したコラージュなど、キュビス ムと違って、構成的な意図よりも材料と行為との原初的な関係に焦点を当てた。
(注10)リシツキー ドイツに留学してロシアに帰国し、マレーヴィチと出会い「プロウン」を着想する。これは新しい芸術を支えるプロジェクトの頭文字 で、無対象の抽象的幾何学形態を三次元的空間の中に和させて、動きのある空間を作り出そうとした。彼は幾何学を駆使た絵本やフォトモンタージュ、建築やデ ザインの分野でも多様な才を発揮した。

(注11)〈メルツ〉(様式)ボール紙、木、針金、電車の切符、新聞紙、空き缶など、家にあるものや、街路に落ちているあらゆる種類のガラクタを集めて組み合わせた一種のコラージュ。

(参考文献)

「日本のアヴァンギャルド芸術 〈マヴォ〉とその時代」 五十殿利治 青土社 二〇〇一・七・三〇

「芸術の革命と革命の芸術」 栗原幸夫 社会評論社 一九九〇・三・一五

「未来派とは?答へる」 デ・ブルリュック 木下秀一郎 近代文芸評論業書 一九九〇・一〇・二五

「世界の美術 ダダとシュルレアリスム」 巌谷國士 塚原史 岩波書店 二〇〇〇・九・二八

「現代美術・展覧会 美術館」 本間正義 美術出版社 一九八八・七・二五

「ブブノワさんというひと 日本に住んだロシア人画家」 I・コジューヴニコワ著 三浦みどり訳 群像社 一九八八・一・三一

「村山知義の美術の仕事」 村山知義の美術の仕事刊行委員会編 未来社 一九八五・二・二八

「ベルリン 芸術と社会 1910~1933」E・ロータース編 多木浩二 持田季未子 梅本洋一 訳 岩波書店 一九九五.七・二六

(資料)

(図1)三人のなまけものの女の子のはなし

(図2)村山知義<親愛なるヴァン・デスブルク(図3)クルト・シュヴッタース<コラージュ>1923
に捧げるコンストルクチオン・2>

図4)デオ・ファン・ドゥースブルク      (図5)<マヴォ>創刊号表紙より
<ダダ・ポスター>1922

(図6)村山知義<三角の家>