村山知義-1

■村山知義-1

▶︎「すべての僕が沸騰する」という現象・村山知義の現在のために 

水沢勉

 村山知義(1901−1977)という存在は、今なおその全貌の捉えがたい複雑怪奇な才能である。本展覧会の準備に当たって、改めて厖大な資料を前にして、そう思わざるを得ない。 その複雑さは、まさに村山知義がそのとば口で生まれた、20世紀の近代日本に取り憑いている宿命が自ずと生み出さずにおかない性格のものであったかもしれない。ということは、ふたつの世界大戦、その間に東京を中心に1923年9月1日に発生した関東大震災という未曾有のカタストロフィー、1920年代に激化する左右のイデオロギーの対立と、1930年代の急速なファッショ化、そして、第二次世界大戦の二度の原爆投下と無差別爆撃による日本全土に及ぶ再びの壊滅、その後の驚異的な経済復興…それらをかいくぐってきた日本人の誰もが、政治的立場を越えて、多少とも共有するものであった。

 その意味では、20世紀の日本に生きる時、誰もが幾分かは「村山知義」を自分の中に分有していたのである。 しかし、歩きながらも手紙を書き、入浴中にも週刊誌を読み、必ず1日1冊以上の本を読んだというエピソードを残し、さらにそうした己の行動を200冊に達しようというスクラップブックに集積し、それらをリソースに、後半生の演劇人としての活動と並行しながら、長大な自叙伝も執筆し続けた底知れぬエネルギーは、多くの芸術的才能が、道半ばで倒れ、制作を断念し、夭折さえ余儀なくされたことも少なくない近代日本にあっては、きわめて例外的であり、際立った存在であったことは誰しも否定できないであろう。

 本展は、その村山知義というひとりの芸術家に体現されている日本近代を読み解いていくための端緒と言うべき読みであり、国公立美術館での初めての回顧展形式の展覧会である。美術館という場での展示であり、その生涯についての紹介も用意されているものの、基本的には「美術」の仕事に焦点が絞られている。厖大な仕事のうち、時代を先導する、当時の言葉で言えば「尖端的」であった1920年から31年のあいだの美術関係のものが重点的に選ばれている。マヴォ前夜からプロレタリア美術の終焉直前という、村山知義が、童画家としてデビューしてから、その制作の主力を演劇に注ぐように決定的になるまでの前半生の活動が、今回の展覧会が重点的に扱う時代である。

  しかし、既にその「美術」という枠組みの設定の時点で問題が発生する。「美術」というものの明確な定義、その常識的で了解しやすい輪郭を破壊した当人が村山知義であり、「美術」という概念が揺らいでいること、そして揺るがすこと自体の創造性を、日本近代において初めて明確に意識した表現者こそが村山知義であったからである。「村山知義」の「美術」というテーマそのものが矛盾を深刻に学んでいるのだ。

 近年、やなぎみわ(1967−)や太郎知恵蔵(1962−)といった現代の日本に生きて国際的に活躍するアーティストたちが、村山和義の存在に関心を抱き、まさしくジャンル横断的な村山知義にふさわしい演劇的なパフォーマンス作品や映像作品を制作しつつある。その一部の成果が、本展にも関連企画として組み込まれる予定である。註1)アーティストとしては、既に白川昌生(1948−)が日本のアヴァンギャルドの歴史性に注目し、1983年にデュッセルドルフで日本のアヴァンギャルドに関する展覧会を組織し、また、1995年には自作のインスタレーションの中で村山知義の存在に触れたことがあった。註2)しかし、そうした事例の数は、欧米で、たとえば、寄(く)しくも同年生まれのフランスとドイツを代表するダダイストたち、マルセル・デュシャン(1887−1968)や、クルト・シュヴイツタース(1887−1948)が、次世代のアーティストたちに、批判であれ、受容であれ、正面から挑まなければならない歴史的存在であることと比較することならば、決して多いとは言えない。村山知義は、その美術の分野に関して見ても、熱狂的な同調者が同時代に存在し、そして、その後の優れた研究者の努力の積み重ねにもかかわらず、彼らに比べるならば、創造的に共有されたと言えるほどには未だに充分に広く対象化されていないことは認めざるを得ないであろう。

 「現代」「美術」「芸術」「アート」といった用語法が、流行としてではなく、歴史的な文脈において、しっかりと起動し、噛み合っていくためには、村山知義という存在は、決して無視することはできないし、また、してはならない。白川昌生が1983年にデュッセルドルフで執筆したテキスト「円環の彼方へ」の中の一文、「いまだに十分な評価がなされていないこの大正期の発酵的世界を再考する必要は、今日的課題である。その根底には現代日本美術の構造、年寺性、等々のすべてが元型のまま沈んでいると言える」という歴史認識は、註3)村山知養にのみそのまま重ねてみても、現在もなお、いよいよその重みを増している。こうした意識が、研究者ばかりでなく、創作する人間も含めて、今まさに生まれつつあるのではなかろうか。2012年の本展もまたそのような自覚の促しによって企画されたのである。

 今からほぼ90年前、1923年5月15日から19日まで、前年1922年の1年足らずのベルリン滞在を終えて帰国した村山知義は、神田の文房堂で個展「村山知者の意識的構成主義的小品展覧会ニイツデイー・イムペコーフエンと”押しつけがましき優美さ”とに捧ぐ」という当時としてはきわめて異例とも言うペき長い挑発的なタイトルを付して開催する。留学中の作品はまだ村山知義の手元に届いていなかったために比較的小型の作品が中心であったことが現存する目録こよって窺(うかが)える。

 開催当時、この展覧会は美術界で大きな話題になったとは言い難いものの、歴史的に振り返るならば、大正期新興美術運動を一気に加速させることになる画期的な出来事であった。

 その時のことを回想して、やがてマヴオの一員として村山と行動をともにすることになる住谷磐根(1902-1995)は、いかにもその時20歳過ぎの若い青年であった、若々しい感激をもって、こう書いている。「理解に苦しむタイトルで不可解のまま会場に入ると、画面に材木の片端が、布切れ、ブリキ雉のつぶれた物、ゴミ捨場から給し‘、集めたのではないかと思われる物質が縦横に組み込まれ、赤青黄色が簡になり、太細の線がそれらの中で不思議な構成で空間を造り、ドス黒い、焦茶色(褐色)の空間に物質が浮き出され、オーケストラが響き出る様な画面である。全くオクターブ異なった感覚の表現で、気が変になりそうであった。そう云う作品の隣に、17-18世紀のクラシックの写実力で、デュラーが描いたのかと思われる深い味わいのドイツの少女像、老婆肖像画が並んで居た。これ等の作品は、最近ドイツから帰朝した二十二歳の青年のものとは思われない、不思議な美しさで胸に迫るのであった。おかし難い品格の高い作風に襟を正した」。

 住谷磐根のテキストからは、それまでに見たことのない異様なものを目の当たりにした時の、高揚し矛盾した感情がよく伝わってくる。最初は「気が変になりそう」になるのだが、やがて「不思議な美しさ」に心揺さぶられ、ついには、その「品格」に「襟を正」すことになる。住谷の感激は、うそ偽りのないものであった。今日現存が確認されている村山知義の唯一のエッチングは、神奈川県立近代美術館の学芸員であった朝日晃の証言によ叫ゴ、住谷磐根の旧蔵作品であった(この作品は、1923年7月に浅草寺伝法堂で開催されたマヴォ第1国展に出品された出品番号157の「”[=黄なき少女の復讐]・3(エッチング)」に相当するものではないかと推定されている。文房堂個展の目録に最後に記載されている出品番号50の同名作品は、情報が不足しており、エッチングであることを断言することはできないが、目録の最後であることからその可能性も否定できないであろう)。

 住谷磐横の反応は、村山知義自身が抱える自己矛盾を反映したものであった。村山知義は、最初の自叙伝の読みである雑誌『テアトロ』に1939年から翌年にかけて発表した連載「演劇的自序伝」に、との帰国後間もない頃について次のように言及している。

「一九二三年の一月、私は日本に帰って来た。錦舵の棺桶のやうな、長さ二間にあまり大きな木の箱の中に、滞在一年間の油絵、水彩、デッサンのたぐゐが二百點あまり詰め込んである。それから十あまりの木の箱の中に、マークの下落につけ込んだ買ひに買つた本が二千册ばかりはいってゐる。-ああ、あのたくさんの立派な絵の本たちはみんなどこへ行ってしまつたことだらう。もう私の手元には一冊も残ってゐない」。

 1940年の時点でベルリン滞在期の蔵書がほぼすべて喪失してしまったことが語られている。それは、やがて、太平洋戦争の戦火による主要作品の焼失を予言しているかのようである。こうした作品や蔵書の欠落もあって、若き日の村山知義は、戦後、美術史の一挿話として、デビュー当時の過熱した共感と反発の潮が引いた後に、ほとんど閑却され、あるいは、逆に一部の人間のあいだでのみ極端に神話化されてしまうことになる。作者自身がプロレタリア作家として、1920年代後半には、それ以前の作品を自ら否定したこと、さらには、その立場さえも1930年代前半には「転向」によって変節を余儀なくされる、という否定の否定も重なって、歴史の後背地へと退いていったのだ。戦後の演劇人として復活した村山知義の圧倒的な存在感、そして、文筆家としての餞舌とも言うべき自己劇化の過剰さ、そうしたことが、デビュー当時の「優美さ」を欠いた「押しつけがましさ」として、皮肉なことに、後半生に機能してしまったことも否めない。

 美術史における脱神話化の試みは、鎌倉と東京に1951年そして1952年と、1950年代初めに相次いで生まれたふたつの近代美術館によって着手されることになる。1962年には鎌倉の神奈川県立近代美術館での「大正期の洋画展」(11月3日-12月16日)に村山知義の左図≪コンストルクチオン〉右図<とくあるユダヤ人の少女像>が展示され、1968年の東京国立近代美術館(当時の建物は京橋にあった)での「ダダ展」(6月1日-7月14日)の際の特別展示・日本におけるダダイスムからシュルレアリスムヘ」に、村山作品は、上記2点のほかに〈あるユダヤ人の少女像〉の1953年の作者によるレプリカ、〈ニイッディーイムペコーフェンに依つて踊られたる‘御意のまま”》、<少女エルスベットの像>(、計6点が紹介されている。東京国立近代美術館発行のニュース『現代の眼』に、1970年1月から翌年の3月まで15回にわたって連載された「大正期の新興美術運動をめぐって」は、当時同館の学芸員であった本間正義が担当し、主要な作家たちの証言をもとに資料を掘り起こしていくための起点と言うべき作業であり、大正期新興美術の受容史を考える時、画期的な意義を具えている。そして、こうした再評価の流れを受けて、1975年に上記作品のうち≪コンストルクチオン》と≪あるユダヤ人の少女像》が当時の所蔵者である漬徳太郎(1901−1975)から東京国立近代美術館に寄贈されることになる。特に前者は、常設展示されることが多く、その後、大正期新興美術運動のメルクマール的な作品としての史的な位置を確定させることになる。

 しかし、調査研究が本格化するには、1977年に村山知義が没した後、1980年代を待たなければならない。前述の白川昌生の写真記録を中心とする資料集がドイツ語で1983年に刊行されると、1987年にはパリのボンピドー・センターで大規模な展覧会「前衛の日本」が開催され、大部のカタログが同時に出版された。こうした国外で盛り上がりを見せた村山知義再評価の機運は、1920年代の文化全般に対する見直しを日本の美術館にも迫ることになり、1988年に東京都美術館を皮切りに、愛知、山口、兵庫の県立美術館を巡回した「1920年代日本展」が開かれることになる。中心的な役割を果たした当時東京都美術館の学芸員であった萬木康博が、その後、柳瀬正夢(1900−1945)をはじめマヴオ周辺の調査研究に果たした功績は大きなものがある。また、この展妄会の後、柳瀬文庫なども含め、村山和義周辺の作品と資料が東京都美術館のコレクションとなり、現在は東京都現代美術館に管理されている。当時同館の司書であった野崎たみ子らによる文献調査も重要な基礎的研究である。

 1988年から翌年にかけて東京の西武美術館、尼崎の西武つかしんホール、鎌倉の神奈川県立近代美術館の3会場を巡回した「ダダと構成主義」展に際して、村山知義研究に関する、重要な里程標(物事の推移・発展の一過程)とも言うべきテキストが同展カタログで発表されることになる。展覧会そのものには、村山知義作品が含まれていたわけではなかった。しかし、全体をキュレーションしたアンドレ・ナーコフの、欧米のダダと構成主義を同質の精神の異なったアスペクト(重視される基本的な角度)として捉え、相互に交錯させようとする、まったく新しい美術史的な枠組みの中で、五十殿利治によって提出されたテキスト「すべての僕が沸騰するために一村山知義の意識的構成主義−」は、村山知義を、実証主義的な調査を拝まえ、脱神話化させ、歴史の現場へと召喚させるきっかけとなった。そのテキストは現在もなお瑞々(みずみず)しい輝きを放ち、その後の研究に決定的な影響を与えた。

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 とりわけ、1922年にべルリンに滞在した村山知義を含む、和達知男(ワダチ トモオ)(1900−1925)、永野芳光(1902−1968)の3人の日本人が、まさしくナーコフが注目するダダと構成主義の出会いの場であったデュッセルドルフでの国際革新芸術蒙連盟会議と展覧会に参加しているという事実(ただし、和達知男だけは作品を出品していない)を踏まえ、村山知義が帰国後、唱えることになる「意識的構成主義」を歴史的なパースペクティヴの中で捉えたことは、それまではおもに村山知義本人の言説の枠内に留まりがちであった調査研究を、世界美術史的と言っても大げさではないグローバルな広がりの中に解放させたのである。

 五十殿利治(おむかとしはる)が「日本の未来派」と呼んだ村山知義、和達知男、永野芳光の作品および資料が、その調査を踏まえて発見され、「1922年のベルリン」は、日本のモダニズムの展開にとって、山田耕搾(1886−1965)と斉藤佳三(1987−1955)らがヘアヴアルトヴァルデン(1879−1941)が主導するデア・シュトゥルムの運動に接した「1913年のベルリン」に劣らない歴史的意義があることが明らかになった。

 五十殿利治の研究に刺激を受けて、美術史研究の対象として、村山知義の存在は、より一層実像として浮かび上がるようになったのである。特に1995年に五十殿自身がそれまでの研究成果の集大成と言うペき大書『大正期新興美術の研究』(スカイドア、増補改訂版は同社から1998年に刊行)を上梓(じょうし・書物の出版)する。アメリカのジェニファー・ワイゼンフェルドは、マヴオを中心に、その成果を岨嘱(そしゃく)し、新知見も加えて、英語圏では初めての本格的な著述をまとめる。こうした研究動向に刺激を受けつつ、大正期の精神史の一断面を岸田劉生(1891−1929)と村山知義を含むアヴァンギャルドとの関係を通じて照射しようとする批評的な試み、北澤憲昭『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』(岩波書店、1993年)も、日本近代という問題圏で村山知義を考察する時に忘れてはならないヒントを多く秘めている。既に彪大な数となる関係文献資料については本カタログの参考文献に譲らなければならないが、筑波大学に研究拠点を置く五十殿利治を中心に、近代日本画の研究者である山口大学の菊屋吉生、滝沢恭司、長門佐季、筆者というそれぞれに大正期新興美術運動に関心を抱き調査を重ねて来た美術館の学芸員、そして、美術図書情報に関する専門家である野崎たみ子を加えた共同編集によって『大正期新興美術資料集成』(国書刊行会、2006年)が編まれている。文字だけではなく、画像も含めて、編集作業の時点で判明していたデータを、できるかぎり集積することを試みた浩(こうかん・書籍の巻数やページ数の多いこと)な書籍である。

 しかし、こうした情報の集積は、いみじくも執筆陣の中で若い世代に属する長門佐季が、同書に寄せたテキスト「大正期新興美術における空間意識について」の結尾で述べたように、村山知義やマヴオ周辺の作品が「生活空間」としての「都市空間」の中で姿を消したこと、すなわち「‥・むしろ現在の作品の『非在』こそが、彼らの活動とその意味についてもっとも明解に私たちに問いかけている・‥」ことを、改めて確認させることになったのである。

 村山知義が鮮烈なデビューを飾った個展に触れた住谷磐根の興奮を今私たちが追体験する術はないものであろうか。

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創造の息吹に直接触れたいという所詮不可能な夢を見続けるのが、その時、その場にいることのできなかった者の切ない願望である。歴史を知れば知るほど、そこに埋められない時間の狭間が存在することをはっきり教えられる。歴史の根源的なアポリアと言うべきであろう。人間の認識能力が時間に規定されている以上、いかに有能な歴史家であっても、また、華麗な文体を駆使する歴史小説家であっても、このタンタロスの渇きを完全に癒すことはできない。

 試みに、住谷磐根を感激させた文房堂での村山知義の個展カタログを手に取ってみよう。 縦19センチ、横12.5センチ。ノンブルは付されていない。表紙を入れて僅か20ページの中綴じの小冊子である。全ページ、当時としては珍しいことに、アート紙が使用されている。

 ささやかな印刷物とはいえ、しかし、表紙からして既に異様である。住谷磐根に倣(なら)って「気が変になりそう」と言ってもよいかもしれない。「村山知義個展目鐘」と日本語で麗々しく書いてあるわけではない。上部に「KATALO」とあり、その右隣には、おそらく「村山」という名前を暗示するためのローマ字のエムが、大小さまざまなポイントを使用し、しかも、上下左右を無視して、10個、長方形のブロックになるように組まれている。そして、少し離れてその右に「G」が置かれている。それらの途切れた文字の連なりが、ドイツ語の「KATALOG」であることにすぐに気づいた人は当時あまりいなかったのではなかろうか。

 文字の意味性は一部剥奪され、意図的に脱臼されている。さらに完全に判読することのできないように切り抜かれた三種類ほどのドイツ語テキストの断片が縦になったり、斜めになったり、ついには真っ逆様になったりして、貼り込まれている(「劇場」、「公演」などを意味する単語から劇場関係のパンフレットがそれらの原テキストであったのではないかと推測できる)。はっきりと可読性が保持されているのは、「6.Was Ihrwollt[お気に召すまま】」「7.Das Leben der Blume[花の命】」「8.Erna Pinner -Puppe【エルナ・ピナーの人形]」だけである。これらは、ベルリン滞在記後半に、村山知義にとっての文字どおりアイドル(偶像)となる、当時18歳のドイツ人の女性ダンサー、ニッディー・インペコーフェン(1904−2002)のダンス公演の代表的な演目であった(「エルナ・ピナーの人形」を演じるインペコーフェンの写真を見るならば、村山知義が個展カタログに掲載したダンサーとして自分を冶介した姿、「フンメルのワルツアを踊つている私」がいかにインペコーフェンのダンスに類似しており、村山知義が当時、どれほど彼女に同化したいと願っていたかが、一目瞭然であろう)。こうした事実関係が、1923年の東京でこのカタログを手にしてわかる人は、おそらくまったくと言ってよいほど、いなかったであろう。意味不明の数字が散らばり、かろうじて年号であることがわかる「1923」も「3」だけがポイントが大きく、しかも「192」とは別の紙として切り取られ貼られている。原画は、おそらく木版を使用とした(リノリウムである可能性も完全には否定できないが)と思われる版画による絵柄も、金属の刃を連想させたり、櫛に似ていたり、気味悪い毛を思わせ、あるいは、やがて1923年6月の「マヴオ」結成以後、急速に村山知義の一種のトレードマークとなる豚の尻尾のような有機的な形象が、機械的イメージに脈絡なく接続されていて(しかも、その周囲の版面を完全に浚(さら・ごみを取り除く)っていないために、そこだけ画面ががさつき、何かが蠢(うごめ)いているような効果を生み出している。きわめて意図的なものであろう)、全体として寄怪であり、まさしく住谷磐根のいう「不思議な構成」である。

 表紙を繰(く・めくる)ると長い展覧会名がその裏に、会期会場とともに記載され、その対向ページに作品リストの活字が日本語で組まれている。出品番号「50」まで目録化されているが、作品名は注目すべきことにすべてドイツ語でもページを変えて反復され、このカタログが日独の完全バイリンガルであることが判明する(前述の住谷磐根旧蔵のエッチングは、最後に記載されている「黄なき少女の復讐」である可能性については既に述べたが、この日本語として意味不明の題名は、当カタログのドイツ語表記では「Rache des gelben Madchens」となっている。「黄色の少女の復讐」の意味である。それでも意味は判然としないが、何らかの先行するドイツ語で表記される別作者による類似した題名の作品があったのかもしれない)。

 リストのうち、「美しき少女等に捧ぐ」は、「ニイツデーイムペコーフエンに依つて踊られたる“御意のまま’」とともに、現存することが確認できる希少な作品である。しかも、前者については、カタログにモノクロ図版も掲載されている。その写真と現在、神奈川県立近代美術館所蔵となっている現存作品とを比較するならば、画面左上に、小さな花柄を散らした布地がカーテン状にコラージュされていたことや、画面の右端にはもうすこしカンヴァスがあって、そこに村山知義が初期から晩年まで童画で多用し、やがて舞台美術にも応用するビルなどの建築の奥行きを表現する遠近法的な処理が施されていたことが判明する。また、画面右下隅は、おそらく作者自身によってのちに補彩されているように見える。

 現在は、一度、画面が折られて保存されていたこともあり(かつて作品を所蔵されていた濱素紀氏の証言)、中央部に様に折れた痕跡があり、絵具も画面全体で細かく剥落している。色彩は、おそらく≪サディステイツシュな空間》に通じる対比を発表時には見せていたに違いない。この作品は、まさしく住谷磐根の回想にあるように「赤青黄色が書」になっていたのだ。さらに奇妙なのは、「少女」の腕部(あるいは脚部)を暗示すると思われる袋状の、半立体的な「筒」が付加されていることである(この独特のフォルムは、〈サディステイツシュな空間〉の画面右下の四肢の一部のように描かれている表現に通じているばかりでなく、1924年の葵館鍛帳の上部に描かれ、客席から眺めた特長も印象的に見えたであろう女性の「太もも」も想起させる)。そして、セ展カタログの表紙同様、ここでも一見意味不明の数字が幾つか書き込まれている。

 後者の<ニイツデーイムペコーフエンに依つて踊られたる”御意のまま”>は、カタログに図版は掲載されていないために、発表時の状態を推測することが困難であるが、長いあいだその所在が不明であった。数年前、村山知義の開成中学と第一高等学校の同級生であり、のちに生物学者として知られるようになる内田昇三(1901−1994)のコレクションとして大切に保管されていたことが判明したこともあり、かなり原形を守めていると考えてよかろう。額縁がある程度の深さを備えたボックスとして一能している作品であり、通常の額縁の裏板をそのまま支持体にして、そこに紙が貼られ、さらにそのうえに印刷物や素描の断片がコラージュされ、全体として少女のプロフィールのようになって立ち現われてくるように構成されている。右上に付着されている紐が少女のポニーテールのように見え、この不思議な「肖像」のジェンダーを暗示する。さらに舌面下部のドイツ語の書込み「りWas lhr wollt【getanzt von Niddyh Impekoven」が作品の題名を明示し、同時に、カタログの表紙こあった実際の演目「6.Was lhr wollt」とも符合する。さらに大きく画面に描かれている文字の断片「TRASSE12 DY」の意味は、五十殿利治がドイツ人研究者の協力を得て「STRASSE12 TWARDY」の一部であることを明らかにしているように、1922年9月にべルリンの書店兼画廊のトワルディーでの永野芳光との連続個展の広報的情報(会場と会期)の断片であった。額縁が一種の「舞台」であるとするならば、下の枠に、「murayama」と書き入れる村山知義は、インペコーフェンのダンスを模擬する自作コラージュに拍手する「観客」とも言えよう。

 このような文字や数字には、他人には理解できなくても、作者本人にとっては、重要な個人的な意味合いに染められたものであったに違いないのだ。ベルリンのダダイストたち、たとえば、ラウール・ハウスマン(1886−1971)の代表作である、実在する文学者の印象をコラージュで表現した<ミュノーナ>(1919年、メリル・C・バーマン・コレクション、アメリカ)に見られるような印刷物を多用したダダ的な「肖像画」や、ハノーヴァ一に拠点を置き、デア・シュトゥルムを通じてベルリンとの関係も密接であったクルトシュヴィッタースの一連のコラージュ作品を村山知義らの「ベルリンの日本未来派」が知らなかったとは考えにくい。和達知男が1922年頃に制作したと思われる、きわめて興味深いコラージュ作品<謎>を村山知義が直接知っていた証拠はないものの、そこに貼り込まれているドイツ語のテキストや数字には、やはり和達知男のきわめて個人的なメッセージが隠されていることは疑いえない(たとえば、画面中央の自画像の口の部分に貼られている「lch liebe sie,Weil sie so stark ist.[強い女だから、あいつが好き。]」という印刷物の断片)。そして、こうしたダダ的な手法は、1922年10月に創刊された雑誌『エポック』に紹介されている、和達知男から山内神斧(1886−1966)宛に送られた絵葉書の中に「Das Und bild クルト・シュヰツテルス」が含まれていることからも、彼らにとってその年夏以前には親しいものであったことが傍証できる。

 村山知義の文房堂個展カタログの表紙に散りばめられている数字は、インペコーフェンヘの熱狂を暗示し、≪美しき少女等に捧ぐ》の数字は、「ゲルダ・マヨロウヰツツ」という名前を村山知義自身が明かしている、ベルリン時代の恋人であったユダヤ人の少女とおそらく関連している(複数形の「少女等」の中にはインペコーフェンも含まれていたのかもしれない)。一見、客観的あるいは機械的なものに見える、数字や部品のような、それまでの常識では非美術的と見なされるような形象を、脈絡を無視して、いきなり濃密に個人的でエロティックなものと併存させ、観る者を挑発するのは、ベルリン・ダダの常套句であった。村山知義は、日本での本格的デビューを、ベルリン・ダダ以後の潮流に身を置いていることを嵩らかに宣言するために、戦略を練って作品を制作し、カタログを編集し、表紙をダダ的にデザインしたのだ。

 住谷磐根が回想する「デュラーが描いたのかと思われる深い味わいのドイツの少女像」が、目録掲載のどの作品に相当するのかは残念ながら確定できない。1923年7月28日から8月3日まで浅草寺伝法院で開かれた第1回マヴォ展の出品作「ウヰスパーデンのヘルタ・ハインツェ」が記憶遣いで最初の個展に展示されたように思っていたのか、それとも、目録にはなくても同種の作品が展示されていたのかもしれない。いずれにせよ、村山知義がルーカス・クラナッハ、アルブレヒト・デューラーらドイツ・ルネサンスの板絵の細密描写に現地で心惹かれていたことは文献的にも、現存作品からも明らかであり、また留学以前に、既に岸田劉生の作品などに触れて、北方ルネサンス風の肖像画への愛好も絵に関心をもち始めた頃に明確に萌(も・心の中に考えなどが生ずる)していたと思われる。

 ヨーロッパに向かう船中で描かれたことが判明している。つまり、現存する最初期の油彩画くヴオロージャ・ヴオローギンの肖像〉が板絵であり、薄塗りの、いわゆる「おつゆ描き」の仕上げであることも、ヨーロッパの現地で実物に触れ、さらに親炙(しんしゃ・親しく接してその感化を受ける)の度合をさらに深めていくことになる油彩画の古典技法に憧れと関心を、生涯を通して抱き続けていた村山知義の画家としての体質を既にかなり明瞭に物語っている(結局、肖像画家としての最重要の資質、人間の姿や表情への並々ならぬ関心が村山知義の全生涯を貫いて持続するものとなった。1944年以後、戦後を通じて描かれた一連の肖像画(1>2>3>)がそれを証明している。また、擬人化された動物や植物や器物などの人間的な表情こそが童画家・村山知義の才能が躍動する、その真骨頂であったことも忘れてはならならない。