村山知義-2

■村山知義-2

 谷磐根の言う「ドイツの少女像」は、おそらく、下宿の老婦人シュッテ夫人の姪ヘルタ・ハインツェを描いたもの であろう。口を半開きにして、少し放心したように描かれている表情は、クラナッハやパルドゥング=グノーンなどが描いたエロ ティックな女性像にどこか通じる不気味さを秘めている。それはミニアチュール的な小品とはいえ、「不思議な美しさで胸に迫るのであった。おかし難い品格の 高い作風に襟を正した」という住谷磐根の言葉を追体験させるのに充分な完成度と存在感を具え、今なお輝きを失っていない。

 そして、住谷磐根が圧倒されたのは、まさしく、個展会場に、正反対とも言うべき、ダダ的な作品と古典技法とが同居しているためでもあったに違いない。

  そればかりではない。パウル・クレー(1879−1940)を思わせる

「3窓に僑れる女友達」

現存せず。日掛こ図版掲 載)があるかと思えば、「40写真」の中には、原作は現存しないものの、現在写真で絵柄が確認できる「bアウクスブルガー・シュトラーセ」が含まれている ことが判明する。この記念すべきベルリン・デビュー作は、ワシリー・カンディンスキー(1866−1944)の初期を思わ せる表現主義的な作風であった。

 つまり、文房堂個展の会場には、複数のメディア(表現手段)やスタイルがひしめくように無秩序に混在 していたのである。そして、それは、表現主義と未来派とキュビスムが旧世代の表現として残存し、新たにダダが勃興し、急速に凋落し、そこにロシアからの構 成主義が交錯し、さらに、デュッセルドルフの「若いラインラント」グループが古典技法への回帰を模索し、ベルリン進出への機を窺っているという「1922 年のベルリン」の美術状況が、若き村山知義の作品群となって東京で一気に噴出していたと捉えることもできるであろう。

 さらに、この新 人は、当時としては驚くべきことに自らノイエ・タンツを踊る姿や「裸の私」の写真(おそらくはそれに関連するもの であろう)も会場に並べていた。また主題としては、「11我が勇の蓉人に捧ぐ」という倒錯的とも受け取られかねない作品もあったことが目録から推測でき る。

 こうした同性愛を含む、性的な奔放さを感じさせる作品や身体のプレゼンス(現前)は、やがてマヴオをはじめとする運動体を牽引さ せるカリスマ性を予告させるものであった

 

(マヴォにやがて加わる岡田龍夫〈生没年不詳〉の筋骨達しい明確な男性性に対して、小柄で痩身の村山知義はハイ ヒールを履き、化粧をするなど女性化した姿でも登場することになる。また、目録からは、「舞台装置」や「活動写真」と関連する作品や「詩」があったことも窺える。建築や童画にはっきりと関連する作品が含まれていないことを除けば、村山知義は、いきなり最初の個展で その多才な才能のほぼ全容を周囲に強烈に印象づけたと言ってよいであろう。それは70年近い歳月を隔ててもなお、目撃した住谷磐根の記憶にしっかり刻まれ ていたほどであったのだ。

 文房堂個展には、その後の、村山知義が展開する多くの要素が包含されていた。また、その準備中に執筆され、 雑誌『中央美術』1923年4月号に発表されたテキスト「過ぎゆく表現派一意識的構成主義への序論的導入」の結尾には「一九二三・三・七」という脱稿日が 記されている。「ダダイズムなどは僕に取ってはなんでもない」という文章に象徴されるように、現在の自分の創造性の総体を、周囲のすべてを否定することに よって、「無限なる没落」として肯定しようとする性急で、きわめて論争的なテキストであり、「如何にこの三ケ月來僕が豊穣になつたか。まあ見てくれ」とい うように帰国後、個展に向けて創作に没頭する高揚感をよく伝え、村山知義一流の機略に普んだ前触れでもあったのだ。既に、ここには言葉の人としての村山知義の、これもまた眩いまでの個性が厳然として存在する。

 その中に次のような文章が散りばめられている。

 「僕のう ちにはあらゆるゲビート[衝動]が轟き込み轟き出し、魂は全く横溢(気力などがあふれる)し、知力と感性は人間力の絶頂にあるかと思われる」。「すべての僕の情熱と思索と小唄と 哲學と絶望と病気とは表現を求めようとして具象されようとして沸騰する」。「僕は全く歓喜の頂点にある」。 キリスト教信仰から脱却するために10代半ば から読み耽(ふけ)っていたというフリードリヒ・ニーチェ(1844−1900)の「超人思想」への傾倒が顕著であり、ほとんど誇大妄想的と言っても過言ではない 自己拡張の意志が表明されている。その過剰さによって、「すべての僕」を「沸騰」させ、アナーキズム的な無秩序へと撹絆させ、自らを奮い立たせ、鮮烈に個 展でデビューすることを希求していたのである。

 実際には、その意図するところは、5月の個展、そして6月のマヴオの結成、そして9月1日の関東大震災と、村山知義本人の意図したところをはるかに超えて、半年間ほどの短期間に、時代の変化と密接に関連し、相乗させながら、その影響を広範囲に及ぼすことになった。童画のテキストを制作し、前半生の伴侶となる、傑出した詩人・岡内薫子(1903−1946)とのその年の出会いにも決定的な意味がある。ふたりの代表作のひとつ「三匹の小熊さん」は、1931年には、岩崎瀬(1903−1981)監督によってアニメーション化されることになる(cat.no.1V−075)。線画アニメーションとして、世界的に見ても、当時の優れた業績に数えられるであろう。葉子の奔放喬抜なテキストと知義の簡潔明瞭で冴えた線描が絶妙のデュエットを奏でる絵本的な世界の素晴らしさは、本展の最も魅力的なパートであるが、そこに「アニマ(霊魂)」が吹き込まれ、「アニメーション(動画)」となるということは、若き日にニーチェ賛美者であった村山知義にいかにもふさわしい。しかし、1923年の時点では、さすがに村山知義であっても、そこまで予見することはできなかったであろう。村山知義は、帝都復興の時代を強引に先導すると同時に、その変化に後押しもされていたのである。

 デビューの個展カタログは、印刷物としては小規模であり、エフェメラ的(一過性的)な性格のものであった。多くのダダ的な作品は、完成した時点で既に崩壊を内包していて、事実、現存する作品は、本展に集められているものにほぼ限られると言っても過言でない。しかし、美術の分野で、村山知義が、版画を含む広い意味での「グラフィック」の表現を重要視し、生計のためもあったが、その生涯を通じて旺盛に挿絵や装幀の仕事に取り組んだのは、自身の仕事全体の本質が不可避的にエフエメラ的であることを自覚していたからに違いない。ダンスはもちろんのこと、築地小劇場のための「朝から夜中まで」といった

記念すべき舞台装置

も写真記鐘が残されているのみであり、関東大震災後のバラック建築の時代に「整術の究居」として情熱を注いだ建築もまた、結局、ひとつとして現存していない。それ以上に、1925年の「心座」結成以後、村山知義が最大限の労力を払うことになる演劇の世界は、美術を含む総合芸術でありながら、収集の対象となるものではなく、それこそ一過性のイベントの典型であろう。

 しかし、1989年の東西対立の崩壊以後、ようやくイデオロギー的な枠組みから自由になり、村山知義が残した彪大なエフェメラ的な資料類が、全体としての新たな解読を求めているように思える。2001年の「9.11」以後の21世紀の現在の混沌とした世界情勢は、むしろ、若き村山知義が希求した初発の「沸騰」する「すべての僕」の渾然たる様相が孕む可能性の豊かさを、現代的な視点から検証することこそを促しているのではなかろうか。それは、本展が示すように、同時代の世界を見渡してみても、稀なる「phenomenon」、すなわち、一回限りの「現象」であり、言い換えるならば、ひとつの「奇跡的な出来事」でもあったからである。

(神奈川県立近代美術館館長)