興福寺阿修羅像

平城遷都1300年祭 平城宮跡会場<後編>
後編をまだ書いていませんでした
後編は「復元の怖さ」の話

まずはネタ振りとして
「興福寺阿修羅像」の話から
今 私たちが見ることができる阿修羅像は
KOSADSS2.jpg
このような姿をしていますが、
実はこの「阿修羅像」は明治時代に新納忠之介によって修理されたものです。
修理される前の様子はどうだったのか?

「日本精華」(工藤利三郎・撮影)を見ると

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ちょっと違います

現在の姿と比べてみましょう
KOSADSS1.jpg

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阿修羅像といえば合掌しているというイメージになっていますが、
これを見ると必ずしも制作された当時の像がそうだったとは言いきれないですね
手の角度を見ると両手の間に何かしらの持物があった可能性もあります

しかし、いったん「合掌していたであろう」と推測し、そう修理されてしまいますと
ものが「実物」であるだけに客観性を帯びてしまって その他の可能性を一切考えなく
なってしまう それが復元の怖さなんですね

とはいえ
阿修羅像の場合は原型を残している物の「修理」ではありますから
「復元」の問題としては大きなものではありません

問題は今回の平城宮のように 当時の建築遺構も史料も全くない状態で復元する場合です

1964年に採択された 歴史的建造物の保存・修復に関わるユネスコの憲章
「ヴェネツィア憲章」

第九条 修復は高度に専門的な作業である。修復の目的は、記念建造物の美的
価値と歴史的価値を保存し、明示することにあり、オリジナルな材料と確実な
資料を尊重することに基づく。推測による修復を行ってはならない。さらに、
推測による修復に際してどうしても必要な付加工事は、建築的構成から区別で
きるようにし、その部材に現代の後補を示すマークを記しておかなければならない。

第十条 伝統的な技術が不適切であることが明らかな場合には、科学的なデータ
によってその有効性が示され、経験的にも立証されている近代的な保全、構築
技術を用いて、記念建造物の補強をすることも許される。

平城京の歴史+平城遷都1300年記念事業の過程
http://kazuuun.blog79.fc2.com/blog-entry-1782.html

710年、藤原京から平城京へ遷都され、大極殿が建設されました
これが第一次大極殿 今回、復元されたものです
そして、藤原広嗣の乱の後、平城京から恭仁京に遷都され、その際に
大極殿の建物も解体され、恭仁京宮殿の建築資材になったようですね

その後、都は紫香楽宮 難波京へと遷され、再び平城京に戻ってきます
そして、戻ってきた際には、大極殿は移動して別の場所に再建されました
これが第二次大極殿ですね この建物も後に解体されることになります

では、現存する大極殿の遺構とは 結局、建物の基壇だけなんです
それによって建物の大きさ(もちろん平面)、柱、階段の位置などは
わかりますが 肝心な上部の建物については何も残っていないため、
全くわかりません

そもそも、奈良時代の宮殿建築の遺構は何一つ現存してはいないし、
当然のことながら設計図はおろか、それを描いた絵画の類すらない
史料が全くない状態なんです

でも、今回再現された大極殿を見て「当時の様子を忠実に再現した」などと
評する人も多いんですよ。
いったい何を以て「忠実に」なんて言うんでしょうか?
そもそも建物自体は忠実に再現しようなんてないですよ

今回の大極殿は専門家が想像、悪く言えば妄想したものです
もちろん「全く何の根拠もないというわけではないけれど・・・」というレベル

一つの仮説によって復元された建物が、実体があるだけに なまじ客観性を
おびてしまい、レプリカだという意識も薄く、「再現された過去」として
そのまま受け取られてしまいかねません
「これが平城京の大極殿だ」と、あたかも歴史的事実であるかのようにうけ
止められる その危険性があります

それは 当の奈良文化財研究所が懸念するとおり

大極殿遺構SB7200から得られる情報は限られていることから、上部構造に
ついては想像の域を出るものではなく、復原建物が既成事実として安易に
社会に受け容れられることは決して望ましいことではない。
http://www.nabunken.go.jp/site/daigoku_sekkei.html

ちなみ鴟尾が
germjlkHDSC04252.jpg
瓦ではなく金属製なのもあくまで想像ですよ

では、宮殿遺構がないのにどうやって上部建築を復元したのかと
いえば基本的には寺院建築を参考にしたのです
それ以外に参考にできるな奈良時代の建物は現存しませんからね

その他、
日本が参考にしたであろう中国の宮殿建築関係の史料
(702年派遣の遣唐使が長安を見てきたばかり)
時代は異なりますが、「年中行事絵巻」に描かれた平安京の大極殿の様子も
参考にしました

宮殿建築を復元するのに、寺院建築しか参考にできるものがなかったのですが、
検討の結果、第一次大極殿より前の建築ということで基本構造は法隆寺金堂を
モデルとし、入母屋造りを採用することになりました
(本当は大極殿という建物の格から言えば寄せ棟造りの可能性も高いんですけどね)
大極殿を二重と見なしたのは
「奈良時代の寺院では金堂が二重するものが少なくないという」程度の根拠
尚、細部のデザインはその薬師寺東塔がモデル

ちなみに、この大極殿 現行の建築基準法に則っているため
耐震壁も備えた免震工法が採用され、震度7以上の地震にも耐えられるのだそう
1300年前の建築じゃないでしょ

あと気になったのは 内部

天井周りと小壁の計36カ所に四神(白虎 青竜 朱雀 玄武)と十二支が
描かれているんですよ

確かに、法隆寺金堂などには内部に絵が描かれていますけどねぇ
いくら建物のモデルがそうだからといって
何で大極殿内部にそんな絵が描かれたことにするんでしょうか?

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建設途中の様子見学会
第一次大極殿正殿復原整備特別公開 <第6回>
http://kazuuun.blog79.fc2.com/blog-entry-787.html

(第7回・最終回)
http://kazuuun.blog79.fc2.com/blog-entry-1781.html

平城遷都1300年祭 平城宮跡会場<前編>
http://kazuuun.blog79.fc2.com/blog-entry-4089.html

平城遷都1300年祭 平城宮跡会場<中編>
http://kazuuun.blog79.fc2.com/blog-entry-4094.html

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