野中 到

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 野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月22日) – 1955年(昭和30年)2月28日)は、日本の気象学者。妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである。墓所は東京文京区の「護国寺」にある。

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■略歴

 黒田藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる。富士山観測所の設立を思い立ち、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退。この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始している。当時はまだ高地測候所は信州にしかなく、高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した。

 1895年初頭の厳寒期に登頂し、富士山頂での越冬が可能であることを確信、同年夏に再び登頂して私財を投じて測候用の小屋(約6坪)を剣ヶ峰 (富士山)に新設、中央気象台の技師らも合流した。剣ヶ峰にした理由を「風が多いところは積雪が多いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と語っている。9月末に食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、閉山後の10月に再び登頂。妻・千代子も10月半ばに合流。高山病と栄養失調で歩行不能になる。12月に慰問に訪れた弟の野中清らによって夫妻の体調不良がわかり、中央気象台の和田雄治技師らの救援で月末に両者とも下山し、山麓の滝河原に逗留村人の手厚い保護を受けたのち、小石川原町の自邸に戻る。

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 野中夫妻のこの決死の冒険は評判をよび,小説や劇になった。越冬断念により十分な結果が得られなかったことから、1899年(明治32年)本格的な観測所の建設を目指し、富士観象会を設立、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけた。その後も絶えず登山し観測を続け、野中の事業はのちに中央気象台に引き継がれた

■新田次郎伝

 野中至と千代子は、1895年9月から開始した観測を12月22日で断念。瀕死の状態だった夫妻は、救援隊によって救出され、一命を取りとめる。現地に駆け付けた東京帝国大学医学部医学科第1内科学講座第2代教授の三浦勤之助の診断を見ると、凍傷と脚気(かっけ、英: beriberiビタミンB1不足)である。この年は、近代日本の遂行した初めての本格的な対外戦争である日清戦争が終結した年であり、野中夫妻の偉業も「国威発揚」のムーブメントのひとつとしてとらえられていた。

■年譜

1867年(慶応3年):筑前国早良郡鳥飼村(後の鳥飼村、現・福岡市)に生まれる。

1889年(明治22年):大学予備門東大教養学部の前身)中退。

1892年(明治25年):母方の従妹である福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子(戸籍名・チヨ)と結婚(到との間に早世した娘・園子を除き6人の子をなした)。

1895年(明治28年)1月・2月:富士山頂通年観測の準備のため2度の冬季登山を行う。1901年(明治34年)8月:春陽堂より観測記録を含む著書『富士案内』刊行。

8月30日:富士山頂に私財を投じて日本最初の富士気象観測所を建設。

10月1日:千代子と共に気象観測を開始。

12月22日:病気のため越年観測を断念し下山。

三浦謹之助脚気の研究をしていて、ベルツとの共著で「富士山頂の脚気」という論文を発表している。

1905年(明治38年):経営危機にあった御殿場馬車鉄道を買収し個人で運営(野中御殿場馬車軌道)。

1923年大正12年)2月22日千代子死去。

1955年(昭和30年)2月28日:死去。

■野中千代子(到の妻) 家系図・家族・子

実父:梅津只円(しえん)(江戸後期~明治時代の能楽師。福岡の士族)実母:糸子(夫・到の父勝良の姉)

■実家(福岡県那珂郡)の梅津家は代々黒田藩に喜多流の能楽謡曲の師範として仕えていた。邸内に能舞台も設けていた

■野中夫妻を題材とした作品で最も知られているのは新田次郎の小説『芙蓉の人』(1971年(昭和46年)刊)であり、テレビドラマ化されている。小説の題名は千代子の『芙蓉日記』からヒントを得たものである

■作家の新田次郎は小説『芙蓉の人』のあとがきで、千代子のことをこのように述べている「明治28年の12月の富士山頂においては、野中到よりむしろ、野中千代子の方が主役であったようにも思える。(中略)現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているであろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた」

関連サイト トップページ http://bit.ly/1hFgCsj 野中千代子語録 http://bit.ly/1tNBSB6

野中千代子(のなか・ちよこ)略歴

【1871年~1923年】明治期に夫の至(本名:到)に協力して富士山頂で気象観測を行い、『芙蓉日記』(『報知新聞』連載)を著す。観測の記録は、のちに落合直文の『高嶺の雪』、新田次郎の『芙蓉の人』などの小説のモデルともなった