大阪万博

000■大阪万博1970デザインプロジェクト

■「人類の進歩と調和」をめざして

木田拓也

■大阪万博の記憶

 1970(昭和45)年に開催された大阪万博(正式名称は日本万国博覧会)は、1964(昭和39)年の東京オリンピックに続いて、高度経済成長期の日本人が体験した国民的なイベントとして記憶されている。その後日本人はいくつかの万博を体験したが、いまだに「万博」といえば多くの日本人が大阪万博のことを思い浮かべるだろう。当時の日本国民の半数以上にあたる6,421万人が入場したとはいえ、すでに45年もの歳月が流れた現在でもいまだに大阪万博が国民的に「記憶」されているのは、やはり岡本太郎による《太陽の塔》の存在感が際立っているからなのかもしれない。

 《太陽の塔》やごく一部のパビリオンを除いてほとんどの建物が解体撤去された大阪万博の跡地は今では広大な記念公園になっており、当時の面影ははとんどない。だがかつて、《太陽の塔》を取り巻く約330㎡(北の丸公園の16倍)もの広大な敷地には仮設的に未来都市が建設され、そこでは美術家や映像作家や音楽家らによってジャンルの枠組みを超えるような新しいテクノロジーを駆使した実験的な試みが繰り広げられた。

 一方、大阪万博のデザインについてながめてみると、プロモーションのためのシンボルマークやポスターなどの印刷物はもちろんのこと、近未来都市のモデルとして建設された万博会場に設置する標識やサイトファニチャー、さらには、パビリオンの展示デザインなど、デザイナーは建築家や美術家たちと協力しながらその活動領域を大きく広げ、万博だからこそ実現可能となったスケールの大きな仕事に取り組むことになった。大阪万博は東京オリンピック以上の規模で日本のデザイン界が総力を挙げて取り組んだデザインプロジェクトだったといえるだろう。

■世界デザイン会議(1960)を起点として・・・デザイナーの社会的役割

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 大阪万博のためのデザインプロジェクトの起点をたどっていくと1960(昭和35)年5月に東京で開催された世界デザイン会議(ⅥbDeCo、1960.5.11-16、fig.1)にまでさかのぼることができる。世界デザイン会議は日本と海外のデザイン関係者の交流を促すために坂倉準三、浅田孝、原弘、丹下健三、柳宗理らが中心となって企画したもので、日本を含む27か国、227名のデザイン関係者が参加した。「新時代の全体像とデザインの役割」という総合テーマを掲げたその国際会議の開会式の基調演説で実行委員長の坂倉準三は、「わたくしたちは20世紀後半の原子力時代ともいうべき科学技術の革命期に、人間として、またデザイナーとして如何に新しい社会に協力していくべきかを討議しようというのであります」とその趣旨を語った。

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 世界デザイン会議では、「個性(個別性/地域性/世界性)」、「実際性(環境/生産/コミュニケーション)」、「可能性(社会/技術/哲学)」という三つのテーマのもとにセミナーが開かれ、グラフィック、工業デザイン、建築などさまざまなデザイン分野からの参加者によってデザインを取り巻く社会環境や思想など幅広い議論が展開された。

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 例えば、当時まだ20代だった向井周太郎は、世界デザイン会議でハーバートバイヤーが行った記念講演「デザインに関する考察」で、自然と人間との関係、固有の風景の崩壊、資源の枯渇と原子九伝統の美的価値に対する理解などが問題として提起され心を打たれたと回想しているが(註3)、この言葉からもうかがえるように、そこではデザインに関する実務的な話題というよりも、むしろデザイナーの社会的役割という理念的なテーマがとり上げられ議論された。世界デザイン会議を通じて日本のデザイン界において共有されることになったのは、デザイナーとはたんに産業社会の一員として企業や商品の広告宣伝を担う職業ではなく、その仕事を通じて社会の変革を促す力を備えた思想家のような存在でもあるという自覚だった。

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 高度経済成長期の日本において、企業の商品の宣伝のためだけでなく、公共の場、芸術や文化など、社会のさまざまな領域へとデザイナーが活躍の場を広げるなかで開催された世界デザイン会議をきっかけに、デザイナーの社会的役割という問題意識が共有されるようになり、それが大阪万博へといたる1960年代の日本のデザイン界の底流には流れていたことを念頭に置いておきたい。

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■シンボルマークとデザインポリシー 

 大阪万博におけるデザインプロジェクトの起点として世界デザイン会議を位置づけるのにはもう一つ理由がある。というのは世界デザイン会議の内容もさることながら、その運営のために制作されたポスターなどの印刷物において、一貫性のあるデ ザインポリシーの確立という課題が意識され、それが東京オリンピックへ、そして、大阪万博へと受け継がれていったからである。

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 世界デザイン会議の開催にあたってはデザイン評論家で雑誌『グラフィックデザイン』(1959年11月創刊)の編集長をつとめていた勝見勝によるディレクションのもと、河野鷹思、原弘、田中一光、珍浦康平、江島任、紳谷巌、永井一正、灘本唯人 らが参加してポスターなどの印刷物の制作が行われた。河野鷹思による世界デザイン会議のシンボルマークは会議を意味するConferenceの「c」とDesi卯の「d」を色違いで組み合わせて日本の「日」という漢字を連想させるものだったが、そのシンボルマークを基軸にポスター(田中一光)、レセプションカード(原弘)、会議報(細谷巌ら)、封筒・招待状(田中一光、杉浦康平)などの印刷物のデザインが展開された。

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 このようにシンボルマークをまず決定し、それを基軸としてそれぞれのデザイナーが持ち味を生かしながらポスターをはじめとする印刷物を制作し、全体として一貫性のある統制のとれたイメージを作りだすというこの世界デザイン会議でのデザインポリシーの手法は、東京オリンピックでも踏襲され、大きな成功をおさめることになる。

 東京オリンピックの開催が決定すると、1960(昭和35)年春、11名のデザイン関係者(新井静一郎、伊藤憲治、今泉武治、小川正隆、勝見勝、亀倉雄策、河野鷹思、浜口隆一、原弘、松江智寿、向秀男)が招集され、膠見勝を座長とするデザイン懇談会が発足した。勝見勝らは東京オリンピックのデザインポリシーを確立するため、

①シンボルマークを一貫して用いること、

②五輪マークの五色を重点的に用いること、

③書体を統一すること

をデザインワークの基本ルールとして決めた。そしてシンボルマークについては指名コンペで「日の丸」を連想させるシンプルで力強い亀倉雄策のデザイン案が選ばれた。

 東京オリンピックではデザイナーのいわば総力戦体制がとられ、亀倉雄策のシンボルマークを基軸としてポスター(亀倉雄策)、招待状(原弘)、会報(原弘)、表彰状(原弘)、入場券 (原弘)、識章バッジ(河野鷹思)、プログラム(勝井三雄)、トーチ(柳宗理)、トーチホルダーのパッケージ(杉浦康平)などさまざまなものが勝見膠の采配のもとに制作された。

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 原弘が東京オリンピックを振り返り、「単純明快、しかもきわめて新鮮な形でわが民族性が、このシンボルのデザインに提示されたことは、その後のデザインポリシーの展開に大きな寄与をしている」と述べて評価しているように、亀倉雄策によるシンボルマークを基軸としてデザインワークが展開されたことによって、大勢のデザイナーが参加したにもかかわらず、そこに一貫性のある共通したイメージを打ち出すことに成功した。

 このように世界デザイン会議と東京オリンピックで成功をおさめたデザインポリシーのモデル、すなわち、最初にシンボルマークを決定し、そのシンボルマークを基軸として指名を受けたデザイナーがそれぞれの持ち味を生かしながら統制のとれたデザインワークを展開すると、いうシステムは大阪万博でも踏襲されるはずだった、と思われる。

■大阪万博のシンボルマークをめぐって

 1965(昭和40)年9月に大阪万博の開催が正式に決まったことをうけ、11月18日、勝見勝を中心にデザイン関係者によるデザイン懇談会(デザイン小委員会とも呼ばれた)が結成された。デザイン懇談会のメンバーは、東京オリンピックのデザイン懇談会にも参加した勝見勝、原弘、河野鷹思、亀倉雄策の4人と、工業デザイナーの剣持勇、小池岩太郎、豊口克平の3人、そして、大阪在住の我妻栄(大阪デザインノ、ウス、関西デザイナー団体協議会委員長)、斎藤重孝(サントリーデザイン室、日本パッケージデザイン協会理事)、早川良雄(早川良雄デザイン事務所、日宣美中央委員)、樋口治(高島屋設計部、日本室内設計家協会委員)、真野善一(松下電器産業意匠部、JIDA理事)、宮島久七(宮島工業デザイン事務所、Jlm理事)の6人で、計13人だった。

シンボル受賞

 デザイン懇談会は日本万国博覧会協会(以下、万博協会)に対して建議書「日本万国博覧会におけるデザイン政策について」(1965.12.10)を提出して、大阪万博におけるデザインの重要性とともに、一貫性のあるデザインポリシーの確立を訴えた(註8)。デザイン懇談会はあくまでも自主的に結成された団体だったが、12月16日にはデザイン懇談会と万博協会との間でシンボルマークの選定方法に関する打合せが行われ、デザイン懇談会の提案に基づいて公式シンボルマークの指名コンペが行われることになった。

 万博協会はデザイン急談会の推挙を受けた17名(15名と2グループ)のデザイナー忙対して1966(昭和41)年1月31日〆切でシンボルマークの提出を依頼し指名コンペを行った。2月9日に勝見勝(委員長)、河野鷹思、桑原武夫、丹下健三、原弘、真野善一、新井真一(万博協会事務総長)の7人で選考が行われ、48点の出品作品の中から選ばれたのは、東西の二つの世界や対立する人間関係を表しながら、両側から互いに手を差し伸べ、対立のない平和な世界を作るという理想を表現した西島伊佐雄の作品だった(下図)。

コンペ

 ところが、2月23日に行われた第3回常任理事会において勝見膠から西島伊佐雄のシンボルマークの説明を受けた万博協会会長の石坂泰三は、「これはだれが見たって、上のやつは日の丸だよ(…)日本はいばってやがるという批判を受けるかもしれぬよ」と酷評したため、シンボルマークの決定は先送りとなった。万博協会は寄り合い所帯の組織で、シンボルマークのコンペに関しても決定プロセスが不明確だった。その後、万博協会役員も審査委員に加わってコンペのやり直しが行われることになり17名のデザイナーにシンボルマーク案の再提出を依頼した。そして、4月4日に2回目の指名コンペが行われ、桜の花をモチーフにした大高猛の作品が公式シンボルマークに決定した。

シンボル受賞シンボルマークマーク製図

 大高猛のシンボルマークについて勝見勝は、「地元大阪のデザイナーの作品で、いかにも大阪らしく、大味で、陽気で、万国博のマークにふさわしい象徴性を備えている」と称賛した。しかし、審査委員会によっていったん選定された西島伊三雄の作品が、石坂泰三会長の一言によって却下されることになったシンボルマークの選定をめぐる紆余曲折をジャーナリズムはさわぎたて、審査委員長をつとめた勝見勝は批判の矢面に立たされた。例えば川添登は、「いったん決定した当選案を、あっさり捨てさり、当選者の名誉をどのように保持するかという基本的な問題がいっこうに考えられていない(…)本来ならば審査委員は全員辞職すべきであり、少なくとも勝見勝委員長は、委員長を辞任すべきであった」とその責任を追及した。さらに、デザイナーの側からもシンボルマークの選考プロセスに関する批判がおこった。なかでも粟津潔は、シンボルマークが決まったからといって万博のデザインポリシーが確立されるわけではない、協会内にデザイン組織を設けるとともに、デザインポリシーの再検討から出発すべきではないか、と訴えている。

 こうした批判に対して勝見勝は、「日本万国博のデザインポリシーを一貫させる強力な体制を確立させるためには、協会組織の全般に関係してくるデザイン委員長に事務総長相当の権限を与えない限り、十分なコントロールは不可能である」と述べてシンボルマークの審査委員会の権限があいまいな万博協会の体制を批判した。

 デザイン懇談会とはあくまでも万博協会の外部の自主的な団体であり、その位置づけはあいまいで、諮問機関として十分な機能を果たせていなかった。その後も例えば、シンボルマークをあしらった最初の公式ポスターや外国向けカレンダーや伊丹空港の看板などが制作されたが、それらについてはデザイン懇談会を素通りし、民間企業の入札によって進められたためデザインに一貫性がみられず、水準にもばらつきがあった。

 公式シンボルマークをデザインした大高猛はデザインポリシーの統制がとれていない事態を憂慮し、大阪万博におけるデザインの課題を「広報関係デザインについての提案」(1967.5.4)にまとめている。この提案で大高猛は万博協会内にデザインに関するディレクター的立場の最高相談機関を設置すること、そして、その下に大阪万博のデザインワークに専従するデザイン制作室を設け、そこに全体に責任を持つチーフデザイナーとその実働部隊をおき、デザインポリシーの統一を図ることを提案した。この大高猛の提言が反映されたのかどうか定かではないが、1967(昭和42)年7月、万博協会の常任理事会は勝見勝、小池岩太郎、真野善一、服飾デザイナーの田中千代、建築評論家の浜口隆一の5人で構成されるデザイン顧問を新たに設置し、さらに1968(昭和43)年4月には大高猛が万博協会のアートディレクターとなり、広報のための印刷物のデザインを監督した。

 しかし、大高猛は2年間にわたって取り組んだアートディレクターとしての自らの仕事をデザインポリシーという観点から振り返り、万博はオリンピックとは全然比較の対象にならないほど無性格な得体のしれない事業としたうえで、「予算の枠と平等性を重視した広報活動がベストであったかという点では、私はずっと未解決の課題としてこの問題を持ち続けるつもりだ」と述べ、万博協会のアートディレクターという立場にありながらもさまざまな制約を受け、デザインポリシーを確立できなかったことに対する不満とも反省ともとれるコメントを残している。

 一方、勝見勝はデザイン顧問として大阪万博のデザインワークを監督する立場にあったとはいえ、東京オリンピックの時のように積極的な働きかけを試みず、むしろ、国際イベントにおける視覚伝達システムの確立、つまり、会場の案内標識に使用するピクトグラムの整備と、絵地図を使ったガイドマップの制作に意欲を注いだと回想している)。このように大阪万博ではデザインポリシーの要となるシンボルマークの選定段階から波乱の幕開けとなり、シンボルマークを基軸とするデザインポリシーの確立という、世界デザイン会議と東京オリンピックでは成功したシステムがうまく機能しなかった。

■「人類の進歩と調和」・・・モダニズムに抗って

  大阪万博はデザインポリシーの確立という面では、うまくいかなかったデザインプロジェクトだったかもしれない。しかし、世界デザイン会議を起点と捉え、大阪万博をめぐるデザインワークを振り返ってみるならば、そこにはデザインポリシーの確立  以上に、1960年代のデザイン界の底流に流れていた重要な課題が含まれていたことが浮かび上がってくる。

 ここで再び世界デザイン会議に立ち返り、坂倉準三の基調演説にもう一度目を向けておきたい。坂倉は、「わたくしたちは20世紀のはじめ第1次大戦直後、戦争をふたたび繰り返さないという世界の人たちのせつなる非望に結びついて、欧州におこった建築を主体とした新しい機能主義の上に立った、世界主義の近代デザイン運動を知っております。そのデザイン運動の先駆者たちは不幸にして第2次世界大戦を経験することになりました。(…)わたくしたちは新しい時代に対して正しく責任を負おうとしていられるここに集まられた世界のあらゆる国の人たちと、国籍をこえた<新時代のデザインの役割>についての話しあいを通じて、人間的交流をなしたいのであります」と述べている。

 ここで坂倉が言わんとしているのは、  世界デザイン会議がめざすのは単なるデザイナー同士のネット  ワークづくりではなく、第一次世界大戦に対する反省から生ま  れたインターナショナルなものを志向する西欧のモダニズムの  理想、それが結果的には第二次世界大戦を回避できなかった  という反省に立ち、モダニズムにかわる新しい時代のデザイン  を模索していこう、そしてそうした課題に対して、非西欧圏に  位置する日本だからこそ貢献できることがあるに違いない、と いうことだったと思われる。

 こうしてみると、1960年代の日本のデザイン界が総力をあげて取り組んだ世界デザイン会議、東京オリンピック、大阪万博という三つの国際イベントのためのデザインプロジェクトとは、たんにデザインポリシーのモデルケースとして、あるいは、日本スタイルのデザインのプレゼンテーションの場としてだけでなく、第二次世界大戦を回避することができなかったモダニズムにかわりうる次の時代のデザインを生み出そうとする日本のデザイン界の意気込みを対外的に示すデモンストレーションの場としての意義も備えていたと捉えることができそうである人類社会の「調和」に日本のデザインがいかに貢献できるかという課題は、大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」の理念とも重なるものだった。

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 「人類の進歩と調和」というテーマが示すように、大阪万博がめざしたのは、西欧近代が先導した科学文明の進歩を無邪気に礼賛するのではなく、その負の側面にも目を向け、多様な異文化との相互理解をはかり、調和のとれたよりよい社会のあり方について人々に考えることを促すことだった。「進歩と調和」というまるで背反するかのようなテーマを掲げた大阪万博に参加したデザイナーはさまざまな摩擦に遭遇することになったが、それは「現代社会のなかであるべきデザイナー像というものを真剣に考えるデザイナーが登場した」ことを反映するものだったともいえる。大阪万博というデザインプロジェクトからは、華やかな人類の祭典の舞台裏で理想と現実のはぎまで葛藤していたデザイナーの姿が浮かび上がってくる。(東京国立近代美術館 工芸課主任研究員)