「人類の進歩と調和」を会場計画に

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 万博協会は、諸外国への参加招請の前提となる会場基本計画を1966(昭和41)年10月までに完成させてBIE(Bureau International des Expositions)の承認を受ければならなかった。会場基本計画を策定するため、万博協会は1965(昭和40)年12月21日、都市計画、土木、建築、造園の専門家15名からなる会場計画委員会(委員長:飯沼一省)を設置した。会場基本計画の原案については西山卯三グループ(京都大学)が前期(1966年2月〜6月)を担当し、後期(1966年6月〜10月)を丹下健三グループ(東京大学)が担当し作成をすすめた。

 西山卯三グループは大阪万博のテーマである「人類の進歩と調和」そのものが会場計画に表現されるべきという立場から、

「15万人のお祭り広場:人間と文化の交流の表現」(人間と人間)、

「人工頭脳:科学の偉大な前進への表現」(人間と技術)、

「環境:自然の正しいサイクル」(人間と自然)という3つのアイデア

を提示した。

 1966(昭和41)年6月、西山卯三から引き継ぎを受けた丹下健三は、西山グループの第2次案(1966.5.23)を踏まえ、お祭り広場に大屋根をかけること、お祭り広場やテーマ館や美術館などの基幹施設を中心部分に集めてシンボルゾーンとすること、そのシンボルゾーンから装置道路(動く歩道)を東西南北にのばすこと、そのシンボルゾーンの南端にランドマークとしてエキスポタワーを建設することなどを盛り込んだ第3次案(1966.8.22)を作成し、さらにそれに修正を加えて第4次案(1966.10.15)を完成させた。シンボルゾーンを木の幹にみたて、そこから動く歩道(装置道路)が木の枝のように会場にはりめぐらされ、その枝の先にはパビリオンが花のように咲きほこっている、というのが丹下健三の会場計画の基本的なコンセプトだった。

 会場計画はさまざまな要件を満たしながら、魅力ある出来事を休みなく発生させる都市の設計だった。会場計画の要件の一つは、多数の人々が主体的にこの万博に参加するための環境と施設をつくることにあった。来場した人々を非日常的な環境へ引き込み、これまでにない体験をさせる仕掛けが導入されていなければならなかったが、その一方で、会場計画には全体的な配置のわかりやすさも求められた。会場中心部の南北約1kmの細長いエリアに基幹施設を集めたシンボルゾーンを配し、東西軸に人工池を配置、さらに会場南端にシンボルタワーを配置することで、変化にとんだ万博会場の中で来場者が自分の位置を確かめられるようにした。

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お祭り広場模型写実 ㈮GAphotographers大屋根模型を前に打合せをする丹下健三と岡本太郎シンボルゾーン(模型写真)

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■太陽の塔

 1967(昭和42)年春、万博協会の新井真一事務総長からテーマ館プロデューサーヘの就任を打診された岡本太郎は、周囲の反対を押し切って承諾の意向を示し7月7日に会見を開いた。岡本太郎はその翌日から2か月間にわたって中南米を訪問し、さらにカナダのモントリオール博を視察しているが、この旅行中に《太陽の塔》のアイデアスケッチがはじまっている。帰国後、岡本太郎は丹下健三らが制作したお祭り広場の模型に合わせて1/50サイズで《太陽の塔》の石膏原型を制作し、10月18日にはそれが完成した。

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 鉄筋構造で建設された《太陽の塔》は避雷針を含めて高さ75mあり、地上30mに位置するお祭り広場の大屋根を突き抜けてそびえ立ち、中央口からお祭り広場へと向かう来場者を迎えた《太陽の塔》はたんにモニュメンタルなタワーとしてだけでなく、その内部にはテーマ展示の一部として「生命の樹」が展示されており、さらにテーマ展示の地下展示と大屋根の空中展示を結ぶ通路の役目もはたしていた。そして、その頂上部に取り付けられた直径11.6mの「黄金の顔」は、昼間は陽光を受けて輝き、夜間はその両目に設置されたキセノン投光器から2本の光を放射した。

 岡本太郎は《太陽の塔》について、「私の作ったものは、およそモダニーズムとは違う。気どった西欧的なかっこよさや、その逆の効果をねらった日本調の気分、ともども蹴っ飛ばして、ぽーんと、原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像をぶっ立てた。・・・日本人一般のただ二つの価値基準である西欧的近代主義と、その裏返しの伝統主義、その両方を蹴飛ばし《太陽の塔》を中心にべラボーなスペースを実現した」(岡本太郎「万国博に賭けたもの」『日本万国博 建築・造形』恒文社、1971年)と述べている。

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■テーマ展示

 岡本太郎はテーマ展示を三つの時代層

「過去根源の世界(地下)」、

「現在調和の世界(地上)」、

「進歩未来の世界(空中)」

に分けて展示する基本構想を示し、それを具体化するため、小松左京(地下)、千葉和彦(地上)、川添登(空中)、平野繁臣(運営)の4人をサブプロデューサーとして起用した。

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 地下展示の「過去根源の世界」は「いのち」「ひと」「こころ」の3部構成で、「いのち」では生命の誕生を、「ひと」では人類の未開の99万年を、「こころ」では人間が文化を作り出した1万年を「ちえ」「いのり」「であい」の三セクションで示した。そこには人類学者の泉靖一や梅樟忠夫らが組織した「日本万国博世界民族資料調査収集団」によつて収集された仮面や神像、生活用異などの民族資料(海外1.282点、日本124点)が展示された。

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 基底部(1階)に設けられた2つのカプセルから<太陽の塔》の内部へと入つた観客は、4台のエスカレーターを乗り継ぎながら、<太陽の塔》の内部に展示された「導入部」「地底の炎」「生命の樹」「太陽の空間」「生命の賛歌」の五っの要素が有機的に結びついて構成された展示をながめ、さらに《太陽の塔》の腕部分の中のエスカレーターで地上30mの大屋根の空中展示へと向かった。大屋根の中に設けられた空中展示の「進歩未来の世界」は、「宇宙」「人間」「世界」「生活」の4つのセクションに分かれていた。その後観客は地上展示の「現在 調和の世界」へと誘導され、「世界を支える無名の人々」の写真展示をながめるという流れでテーマ展示は構成された。テーマ館全体の所要時間は約1時間として計画され、総入場者は917万3・533人(1日平均約5万人)だった。