グラフィック・デザインの「原点」を求めて

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■グラフィック・デザインの「原点」を求めて

小川正隆

■亀倉雄策の果敢な追求

 微(かす)かな私の記憶によれば、亀倉雄策とはじめて出会ったのは、1950年代のはじめだったと思う。そうすると、もう30年の歳月がすぎ去ってしまったことになる。この間、亀倉という強烈な個性をもつたグラフィック・デザイナーに、そしてその作品に、ある時は深く共鳴し、またある時は無性に反発を感じながらも、とにかく間断ない刺激を受けながら、私は日本のグラフィック・デザインの展開を見詰めてきた。

 極言すれば、日本のグラフィック・デザインは、第二次大戦後にはじまると言つていい。さらに言うなら、その画期的な出発点をグラフィック・デザイナーたちの推進力としての集団となつた「日本宣伝美術会」(通称、日宣美)の結成の時点、つまり1951年とみるのが、一般的に定説のように考えられている。たしかにそうであろう。しかし、この集団が一夜にして生まれたわけではない。きびしい戦後の混乱期が続いていたころ、新しいデザイン活動への情熱に目ざめ、模索していたデザイナー、つまり、原弘、山名文夫、橋本徹郎、高橋錦吉ら約40人の人たちによつて「広告作家懇談会」が設けられ、熱心に会合が繰り返されながら「日宣美」への下準備が整えられていったのである。亀倉雄策も当然、ここに参加していたと参加していたばかりか、彼はその積極的なリーダーだつたのだ。

ADC1951

 当時を思い返してみると、「日宣美」の名称からもわかるように、彼らの活動は「宣伝美術」だった。また、同じころ亀倉たちが編集の中心になって刊行されたグラフィック・デザイン関係の作品集『商業デザイン全集』は、工業デザインにたいして「商業デザイン」という名称を使っていたわけだが、その当時としてはかなり新鮮な言葉であった。さらにもうひとつの例を挙げると、その後、「東京アートディレクターズクラブ(ADC)」が作られ、その事業として『年鑑広告美術』が出版されることになり、今日も続けられているものの、「グラフィック・デザイン」そのものへの意識は、当時はまだきわめて稀薄だったと言わなくてはならない。

年鑑広告美術1958

 日本の近代グラフィック・デザイン史は、明治からはじまつている。勿論、当時からポスターは作られているし、雑誌や図書などの表紙やイラストレーションといったたぐいも印刷にかけられている。しかも、その大部分が画家たちの余技的な仕事であり、創造的な行為としてみれば、デザインは絵画より格段に地位のひくい仕事として看做(みな)されていたわけである。勿論、戦前から美術学校にはデザインを教える部門がなかったわけではなく、「図案科」と言われるものが設けられていたが、しかし、ここに志してくる学生たちは、主として応用美術として装飾的なパターンを案出し、これらを染織を主に、器物にほとこすことに力を入れていた。つまり、美術的、装飾的なものの、生活の場への応用としての「応用美術」なのである。そんなわけでデザイン活動は、美術という創造的分野に完全に従属した、低俗な作業として社会的にも考えられていたものだ。

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 こうした状況のなかで亀倉は、中学時代、フランスのポスター・デザイナー、カッサンドルの仕事に接し、応用美術」などというあいまいさをまったく排除した、グラフィック・デザインとしての明快な主張に感動した(上図) 少年・亀倉は、そのころから自己主張の強い男だつた。だから、自分を表現することに関心をもった。文字で表現する作文も好きだったし、色彩や線で描き上げる図画も得意な科目だつた。

 1915年に亀倉雄策は、新潟の大地主の息子として生まれており、父親・亀太郎は絵や漢詩を愛する一方、当時としてはまだ珍らしかつた写実にも積極的な趣味をもつなと、地方としては目立った芸術的環境のなかで育て上げられた。しかし、幼年時代、家産は傾き、生家は破産に直面した。そして、新潟を離れて、家族とともに上京する。こんな体験が、少年・亀倉にたくましい独立心を植えつけたことは否定できない。人真似でない、自分だけの世界を確実に表現することによって生き抜いてゆこう、と彼がいちはやく決意したとしても、それは必然的な成りゆきだったとも言えるだろう。

 亀倉は、中学を卒(お)えたものの、それ以降、いわゆる正規の学校教育はほとんど受けていない。カッサンドルのポスターに強烈に心をゆさぶられたと言う、鋭い亀倉の直観力が、彼の青春のすべてを導いていったのである。型破りというなら、こんな型破りのひとも珍しいのではないか。

川喜田煉七郎 川喜田・キムラヤ

 学校教育的な環境としては、バウハウス流の造形教育を日本に熱心に紹介しようと志した川喜田煉七郎の新建築工芸学院に通つたことくらいであろう。亀倉は、このバウハウスの仕事を、中学を卒業したころたまたま神田の古本屋で見かけ、斬新な構成に目をみはっていたところ、川喜田の学院の存在を広告で目にとめ、即座にここで学ぶことを決心した。学院とは言え、20人ほとの生徒しかいなかった。亀倉のような若者から年輩者までまじつた、ここも型破りの塾といった方がよいだろう。当時の風潮としては、美術、あるいはその周辺での仕事を将来しようと考える若者たちは、東京美術学校などを志望するのが通例だが、彼はアカデミックな装飾的教育に終始する学校や、その学歴なとには目もくれないクリエーターとしての生き方を直感的に選択したのである。

 こうした選択は、さまざまな面で現われる。たとえば、交友について。彼は中学時代から(近所に住んでいたという理由もあって)、イタリア文学を専攻していた三浦逸雄と知り合い、さらに彼を通してロシア文学の中山省三郎と知り合い、フランス文学の小松清らと出会つた。

 中学を卒えてからはしばし太田英茂の広告事務所で働いていたが、当時から原弘、河野鷹思といった先輩デザイナーと接触する新建築工芸学院では、桑沢洋子、橋本徹郎、高井貞二らと出会うし、若い苦難の日々には海老原幸之助、滝口修造、土門拳、そして勝見勝たちとも密接な交流が生まれてきた

 このような交友関係が、実を言えば彼の学校だつたのである。ものを割り出してゆく者は、どうも生来の、本能的な、銘敏な嗅覚というものをもっているようだ。亀倉はこの持ち前の嗅覚機能を十二分に発揮して、ほんものとは何かを識別し、そのほんものを割り出すために、旧来の慣例を打ち破つて生きてゆく方法を手さぐりで求めたのだ。言ってみるなら、失礼な表現かもしれないが、亀倉はいわば魅力ある、個性ある先輩や友人たちからの「耳学問」によつて教えられ、学びとった。それは体系的な見かけ上の図案学や構成論を教室で学ぶよりは、もつと生きた体験的な要素がいっぱいにちりばめられている教材だったと思う。そして亀倉の目ざしたデザインについての考え方を、確かめ、より豊かなものにまとめあげてゆく過程で、これらの多彩な友人たちの助言は、欠かせないものとなったのではないか。

 亀倉の独断的なものの言い方、あまりにも個性的な直観力・・・これらは一見、他を容れないようにも考えられる。たしかに議論をしている時なと、彼は強引に自分の主張を押し通そうと懸命になる。頑固なほどだ。だから論敵ばかりが彼の周辺に出来あがってしまうのではないかと思われがちだが、を積み重ねてきた亀倉という男は、若いころから真の苦労(彼はそう思っていないかもしれないが)を積み重ねてきた亀倉という男は、闘う人間としてのすさまじい男性的性格のなかに、優しく他人の心を読みとり、泣かせる繊細さを持つている。(このことは後年の彼のデザインの仕事のなかにも明快に示される二元性である)。

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 ところで、亀倉の形成期にあつて、もつとも意味ある出会いは、1938年の名取洋之助(上図)の場合であろう。名取はドイツに出かけて写真やレイ=アウトの新しい手法と哲学を学びとり、帰国してから日本工房を作って、『NIPPON』という雑誌を刊行していた。海外への日本紹介誌として、これはたしかに群を抜く質の高い仕事であった。友人の土門がここに亀倉を紹介して名取に会い、ここのスタッフに加わることができたわけだが、なにしろ戦時中のことだから、さまざまな紆余曲折があったろう。しかし、グラフィック・デザインにたいする名取の明快な考え方は、亀倉の意欲に拍車をかけ、執拗に試作への挑戦に彼を駆り立てた。

NIPPON_36 25376

 日本工房は一時、『NIPPON』のほかにもさまざまな雑誌の編集を手がけ、ことに亀倉は『カウパープ』というタイ国向けの宣伝誌の編集、制作をただひとりで担当した。レイ=アウトの論理と魅力をここで実際に鍛えあげたとも言えるであろう。亀倉の20代なかばの実戦的デザイン習得の時期なのである。このように、彼は自らの手で自分自身のグラフィック・デザインを追求し、日本の旧来からの装飾的図案ではなく、計り知れない未知の彼岸に向つて、果敢な独泳を試みたのだつた。

 この作品集には亀倉雄策のこの形成期の仕事はふくまれていない。しかし、土台として私は彼が模索した若き日の、独自の彼の生き方にふれないわけにはゆかなかつたのだ。こうしたプロセスを経過して、戦後、活躍の時代を迎える。

 無惨な戦争は終結したものの、荒廃した世相は、デザイン活動なと受けつける状況ではなかった。しかし、戦後復興のきざしとともに、まず繊維産業なとが盛りかえしてきた。

ミリオンテックス

 グラフィック・デザイナー亀倉の最初の仕事として注目されたもののひとつは、大同毛織の「ミリオンテックス」の一連のポスターである(上図) 作者はかつてこれらのポスターについて、当時としてはこれらが「商業デザイン」というもののギリギリの限界のようなものを示していたように思う……と語っていたことがある。そういえば、当時の毛織物業界の宣伝ポスターと言えば、ポーズした美男美女の登場や、華麗な花束などをあしらつて、意味のない装飾的な組み合せが発想の基点になつていたように思うが、亀倉は手仕事の良心を現代に生かそうとする高級紳士服地のメーカーとしての企業イメージを、羊や糸車それからシャトルなとを組み合せて、訴えかけようとしていたのである。

 しかし、いずれにせよ、亀倉はデザインに志したころから、コンパスと定規による表現で訴えかけていきたいと考えていた。つまり、そうした表現は、抽象的構成主義を志向したものと言えるかもしれない。だが、当時の状況としては、産業界でそうした考え方を理解し、採用したいと考える人は皆無であつたと言えるだろう。この「ミリオンテックス」のポスターをみていると、羊のイラストレーションや、その外郭綾上の配色に、あるいは写真で処理した織物の即物的構成に、亀倉のいう「ギリギリの限界」まで、自分の主張を押し通していった彼の姿勢がいじらしく思われてならない。

 誤解を慮(おもいはか)れずに敢えて言わせてもらうならば、亀倉は不器用なひとだと思う。ポスターや装本、スキーなどのデザインから、シンボル・マークの制作なと、今日にいたるまでの彼の幅ひろい制作活動からすると、不器用という言葉は当らないではないかと反論する者もいるかもしれないが、彼自身のイラストレーションなとをみていると、決して器用さや達者さは見られない。しかし、彼のデザイン哲学からすれば、そうした技術は枝葉的な要素にすぎない。そうしたうまさにとらわれることなく、表現すべき根幹にいかにギリギリまで肉迫しながら、それに真正面から取り組むかという点にかかわつてくるのである。

 だから、亀倉作品をみていると、凡作と思われるものもまじっている。考え方を凝縮しすぎて、逆におもしろさが消去されてしまうものも出てくるからだ。しかし、その明快なデザイン思想(あえて思想という言葉を使うが)・・・これが自然の定着を見出すときの彼の個性は輝きを放つ。その代表的な作例は、日本光学工業のポスターやバッケージ、ネオン・サインやマークに見る鮮烈なデザイン・ポリシーに示されているのだ。(下図)

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 その最初期の仕事(1955年)として、この作品集に加えられているポスターをみると、彼が念願していた「コンパスと定規」の表現方法、その明快な規範が提示されているのではないか。黒の方形と円の取合せによる「ニコンカメラ」、円と線状の配色から構成された「ニッコールレンズ」・・・ここにはもっとも単純に幾何学図形化された構成が、カメラやレンズの精巧なメカニズムのクールな凱、イメージと合流して、当時の日本のグラフィック・デザインにさわやかな見を送りこんだものである。

原子エネルギー 草月

 この間、亀倉は前衛いけばなの先駆者と言われた親友のために「勅使河原昔風展」のポスター(1954年)を制作し、コラージュふうのイラストレーションを巧みに使つて独自の展開を試みたものだが、いずれにせよ、彼の名を決定的に位置づけしたものは、1956年の「日宣美展」の会場でだつた。そこには亀倉の自主制作になる「原子エネルギーを平和産業に」のポスター(上図)が、閃光を放つていたからである。中央に小さく配置された機械の歯車をのぞけば、先鋭な放射的線状図形のみごとな噛み合い。恐怖の原子爆弾の悲劇に見舞われた日本人にとって、きわめて印象的、感動的であると同時に、平和への悲願を訴えかける象徴図形が巧みに表現されていたのである。と同時にグラフィツク・デザイナー亀倉雄策は、「コンパスと定規」による表現によつて、そのデザイン思想をポスターに盛りこむことに成功した。

 ところで、こうしたデザイン思想を表現に反映してゆくために、企業のための仕事と取り組む場合、亀倉は不敵と思われるくらい大胆かつ強引に、その企業のトップに立つ経営者と討論をかわした。

 当時は(今日でも多くの場合は)、フリーランス・デザイナーが直接企業と交渉するときは、せいぜい宣伝部長クラスとの打ち合せで済まされることが多い。そして、彼らとの打ち合せの結果、納得してデザインしても、それが重役たちの意見でくつがえされ、改めてデザインを変更しなくてはならないことも、しばしば起きてくる。だが、そのようなことを続けていたら、責任ある企業のデザイン・ポリシーを貫くことは不可能になる。

 それは判り切ったことだが、グラフィック・デザイナーの役割がまだ十分に認識されなかった当時の状況(やはり今日でもかなり多くの場合そうであるが)では、トップの経営者とグラフィック・デザイナーが対等の立場に立つて論議するという事例は考えられないことであつた。しかし、亀倉はこうした過程を経ながら企業全体のイメージを把握し、相互に納得しない以上、デザインの仕事に参加することを拒否してきた。

 あるインタヴューに答えて、彼は次のように語つている(『グラフィックデザイン』帖.88)。「‥‥=デザイナーのモラルなんていう大ゲサなことじやあなくてですよ、私自身のことを話せば、いくらお金をつまれても、納得のゆかないものはやらないということですよ。具体的にはね、私は政党とか宗教団体とかの仕事はやりません。‥‥=その党の政治信条が気にいらなければ、やる気などまったく起らない」「要するに私に限っていえば、納得のできないものはデザインするうえで、その対象についてイメージがわかないということです」

 「持ち込まれた相談に正直につきあい、企業ならそのトップともつきあい、企業イメージについても検討しあう。逆に企業イメージなり、商品イメージを作つてあげる。そうしたプロセスを経て、はじめてデザイナーの仕事が成り立つといってよいのではないか。そこをあいまいにすると、ポスター一枚といえどもあいまいにならざるを得ないんじやないかな」

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 こうした亀倉雄策の姿勢は、企業のデザイン認識が非常に乏しかつた時代からかたくななまでに徹底していた。日本光学工業の一連の仕事は、1955年ころから今日にいたるまで(一時的中断があつたにせよ)継続して手がけてきたが、カメラという精密機械のクールで精巧なメカニズム、さらには写真という光と影の造形的ドラマが、彼のデザイン意欲をなによりも刺激したからであろう。そして、この企業のための商品ポスターとして、文字だけの構成による「ニコンSP」(1957年)(上図)解かなX字構成を展開した「ニッコールレンズ」(1960年)(上図)など、あまりにも知れわたつた秀作を生み出す一方、驚くべきことに1954年にはすでに日本光学工業の海外向け企業ポスターの制作を手がけ、その清新にして明快な(目を暗示する)抽象的構成は、多くの注目をあつめたものである。30年以上を経過した今日でも、その訴えは古びてはいない。すがすがしさにあふれている。このことは、企業の本質を凝視したきびしい洞察力を基盤に、一切の英雄物を排除した造形としての純粋さが、不変の価値を生み出してきたからであろう。亀倉は日本光学工業の仕事で、数多くのパッケージ・デザインをシリーズとしてデザインしてきた。ここには彼のたくましい、男性的な、硬質の構成が展開され、日本のパッケージとしての堂々たる端正なレイ=アウトの美学を生み出しているのだ。私はこうした一連の日本光学工業のデザイン・ポリシーを思い浮べながら、ニコン、ニッコールという日本を代表するカメラ自体の優秀性もさることながら、亀倉の手になる海外向けのこれらのアピールが、日本のカメラの世界への進出に大きな力となつたのではないかとさえ考えている。亀倉が企業とタイ・アップして、そのイメージの向上を図つたものとしては、東洋レーヨン、明治製菓なとの仕事も注目されたものだが、とりわけ高い評価を受けてきたのはヤマギワと、この企業が設立、運営している山際照明造型美術振興会のものである。ヤマギワとの接触は、1966年にそのトレード・マークのデザインを依頼されたときにはじまる。照明器具なとを放つているこの企業の、光をイメージとして表現したと思われるマークを作り上げてから、「ヤマギワの事業は急速に進展した。したがつてマークも光り出した。デザイナーとして、こんな幸運なことはない」。亀倉自身、そう語つている。(下図)

ヤマギワ ヤマギワ1982

 だが、彼がこの企業のために制作したポスターの連作というと、企業そのもののための仕事というよりも、ここが主催してきた「国際照明デザインコンペ」の一連のデザインである。1968年の「コンペ入賞作品展」、73年の「指名コンペ作品展」、83年の「デザインコンペ展」なと、とくにその代表的な作例だが、いずれも照明の輝きを暗示させるかのように、オツプ・アート的な配色効果のもたらす幻惑感を土台に、格調高い色調で、いかにも日本的な清楚にして明快な表現を生み出している。いずれマークのデザインにふれて、亀倉が日本の伝統的な美意識をいかに今日的なものに再構成していつたか、という点について述べようと思うが、カッサンドルをはじめ、ことにハーバート・バイヤーらバウハウス系列のデザイナーの仕事の影響を受けながら、自分だけの仕事を生み出そうとした彼は、単に欧米のデザイン思想の追随者ではなく、日本の感性をここに十二分に甦(よみがえ)らせているのである。

 これまでにも述べてきたように、亀倉はまつたく企業に従属した広告デザイナーではない。企業のためのデザインを手がけるにしても、思想的にも、美学的にも、彼が「納得する」ものでなくては、妥協して制作することには我慢できなかった。そのような姿勢だから、亀倉の作品群のなかには、いわば公共的な役割をもつ仕事が多い。そのうちもつとも知られたものは、1964年の「東京オリンピック」に関連したものであり、さらにそれに引続き開催された「札幌オリンピック」のポスターなどである。

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 「東京オリンピック」についていうなら、この組織委員会のなかにデザイン小委員会が設けられ、勝見勝を中心に、ここのデザイン・ポリシーが検討された。私もその末席についていたが、ここでの仕事の第一歩は、当然シンボル・マークをどうするかと言うことであつた。結局、指名コンペということになり、杉浦康平、永井一正、田中一光ら六人のデザイナーの応募作晶のなかから選び出すことになつた。その選考会はきわめて緊張したものだつたが、つぎつぎに提示してくる作品の最後に、亀倉案が登場してきた。周知のように「日の丸」をテーマにした、実に単純、簡潔そのものの表現だった。それでいて力強く新鮮だ。私たちはその魅力に圧倒された。満場一致でこの亀倉のシンボル・マークが、あっという間に採用に決まったのである。私たちにとつて、長い間、見なれた「日の丸」に、五輪のマークとTOKYO 1964 の文字と数字を加えて構成したにすぎない、この清澄な構成。バランスの美しさ。ことに「日の丸」の赤の量感がなんとゆったりと大らかで、力強い美しさを示していたことか。このシンボル・マークが出発点となつたことから、「東京オリンピック」のシリーズのポスターは、ダイナミックな展開をみせることに成功したのだと私は思つている。

 それと同じように、「札幌オリンピック」の場合も、(シンボル・マークは永井の作品であつたけれと)、同じ発想か亀倉はここのポスターに激しい動きのドラマを演じてみせたものだ。

フィギア五輪 水泳五輪

 亀倉は、こうしたオリンピックのポスターにおいて、積極的に写真をデザインの要素として採用している。そして、1970年に開催された「EXPO’70」の場合においても、日本の祭を主題にした明るい、たくましい動感あふれた票の写実を前面に押し出して、活力のみなぎるポスターを割り出している。「東京オリンピック」のときもそうだつたが、(つまり、シンボル・マークをそのままポスター化した構成的、抽象的な仕事を写真主体のものと鮮やかに対比させているわけだが)、この万国博の例をみても、祭の写真にたいして、もう一点のポスターは、黒地に日本的な文様ふうの発想を示し、しかも堂々とした拡がりをもつた表現として、現代の息吹きを感じさせた。

 このように、亀倉は日本で開かれた代表的な行事には、積極的に参加して、そのデザイン活動を展開した。こうした彼の考えのなかには、グラフィック・デザインそのものを社会的に高く認知させようという念(おも)いがひそんでいたのではないかと思う

 自治省選挙管理委員会から依頼された「衆議院議員選挙」や「参議院選挙」のポスターにしても、また日本産業デザイン振興会による「デザインイヤー」(1973年)のポスターなどにしても、グラフィック・デザインの社会的機能の重要性を、この根底において啓発しようとしていたのではないか。彼は常によりひろい舞台を求め、満身の力をこめて、おびただしい観衆を相手に、大芝居を打つてきたのである。

 しかし、だからと言つて、私は亀倉がスタンド・プレーを好む目立ちたがり屋であると言つているわけではない。彼は根っからのデザイナーであり、自分の愛する人たちのために喜んでデザインする素朴な明るさをもっている。この作品集の巻頭を飾る「勅使河原蒼風展」のポスターにしても、親しい友への友情をひめた愛すべき表現なのだ。勅使河原蒼風なきあと、彼を偲ぶ「勅使河原蒼風の眼展」(1981年)が開かれたときにも、亀倉はそのポスターを手がけている。そば、勅使河原の傘下にあつた草月出版の仕事は、数多く彼の手になるものが多いが、その機関誌「草月」のためのイラストレーションをみていると、近年になるにしたがつて、鮮麗な優しさ、愛らしさの濃度が高まり、人間・亀倉勇策の素顔の一面をのぞかせているように思えて、私はほほえましく思えてならない。こうした優しさの反面、彼は言うまでもなく豪快さが好きである。ひところ、趣味としてモーターボートに熱中した。夏は勿論、湘南の海で愛艇をふっとばして、我をわすれた。スピード感を愛する彼は、冬はスキーのとりこになった。スキーの季節がやつてくると、本業であるデザインヘの意慾がわかなくて困る、と冗談を言うほど夢中になつた。

デザイン展1983 万座スキー

 そうして自分の趣味をも反映して、亀倉にはスキーに関してのポスターが多い。国土計画からの依頼によるスキー場のためのポスターが1967年以降、近作まで十点あまりこの作品集に登場してくるが、「万座」、「苗場」なと にみる豪快にして革靴イメージは、北井三郎、細島進といったカメラマンのスピード感にあふれる写真を素材に、スキーを愛する目が輝いてみえる表現となつている。こうしたスキーヘの愛情は、さらに深くすすんで、スキーそのものへのグラフィック・デザインの仕事を加えている。スキーを嗜まない私にとつては、スキートの心理が判らないけれど、”Silica”(1980年)、“Trium”(1982年)などのデザインに、いかにも亀倉らしい簡約、個性にあふれたレタリングのレイ=アウトの美しさを感じ、スキー ヘの神経の行き届いた愛情を私は読みとる。

 ポスターをはじめ、さきにも述べたように、亀倉はさまざまな領域でグラフィック・デザインの仕事を展開してきた。だが、彼の造形の本領がどこにもっとも顕著に示されているかと言うなら、私はシンボル・マークに在るのではないかと確信する。

 彼は若き日、日本工房で仕事をしていたとき、名取洋之助の夫人、エルナ・メクレンブルグからアルファベットのレタリングの美しさなどについて教えられたが、とりわけ彼女が指摘したのは、日本の伝統的な紋様の蜘であつた。亀倉がマークのもつ簡潔にして、ふかい意味を内包する美しさにひかれ、開眼したのはその時からであったといえよう。

 亀倉は、その長い制作歴から考えてみると、著作は少ないほうである。その少ない著作のなかで、彼が熱意的に取り組んだものとして、『世界のトレードマーク』(1956年)、『世界のトレドマークとシンボル』(1965年)の二冊が重要な地位を占めている。このことからも判るように、亀倉のマークにたいする探求心は強烈なものがある。

 と、言うのは、マークという記号は、まず第一にシンプルでなくてはならない。あまり意味のない装飾性など、余分なものはすべて削りとり、真の骨格が主張する表現である。しかも、マークはさまざまな形で使用される。たとえば企業のシンボル・マークであるなら、社章やレター・ヘッドように小さなものから、巨きな社旗シンボル・タワーのようなものにたいしてまで拡大して用いられることが多い。縮小しても、拡大しても、ビクともしない構成の生命が要求されるし、さまざまな表現(ポスターや′パンフレツト、シンボル・タワーに使われたときには周囲の環境といったぐあいに)のなかに投げこまれても、生きいきとその存在を明確にした記号でなくてはならない。

 そればがノか、こうした単純な形体のなかに、複雑な意味が凝縮される。企業や団体のもつ社会的目的、あるいはその歴史や未来像・・・・。そうしたものの象徴として、マークは存在するのである。

 ポスターは多くの情報をゆたかな表現で伝達することが可能だが、マークは寡黙な形式を通じて、より多くのことを暗示しなくてはならない。その意味で、このマークのデザインは、グラフィック・デザインの「原点」としての意味をもつ。

グッドデザイン  35

 東京オリンピックのデザイン・ポリシーの推進力となつた勝見は、この亀倉の個性的なシンボル・マークのデザインが存在していなかったら、オリンピックのデザイン・ポリシーが成功したかどうか判らない、と語つていたことがあったが、事実、マークこそ一貫したデザイン行動を起す場合の、もつとも重大な、そしてむずかしい出発点なのである。だからこそ亀倉雄策はマークに全力投球する。マークには成功か、失敗かしかない。

 ここにはデザイナーの思想が要求され、知的結晶がきびしい集中力によつて生れでてこなくてはならない。しかし、だからといって緊張しきった表情だつたら、そのマークに長い間、付き合ってゆくわけにはゆかないだろう。

 矛盾するような課題をかかえながら、マークを制作することは、実はもつとも大きな仕事なのだ。この作品集にはマークのデザインが集中的に収録されている。多くの企業や団体のマークの群は、亀倉の造形論理(あるいは思考)によつて、新鮮な、節度ある記号化を見せながらも、それぞれが特色ある表情を示して、ページを繰るごとに新しい友を紹介されるパーティーのような雰囲気をもっている。「コンパスと定規」で生み出されるのはごく表面的な技術のことで、ここには亀倉という人間のあたたかさ、おもしろさが記号の底からにじみ出ており、課題と対応しながら、生きいきと呼吸しているようだ。

伝統工芸シンボル  日本建築協会

 亀倉の一連のマークを通覧しながら、私がとりわけ興味をもったものは・・・通産省の「グッドデザイン」(1959年)をはじめとして、高坂カントリークラブの「シンボルマーク」(63年)、現代芸術研究所の「シンボルマーク」(65年)、沖縄海洋博の「ペットマーク」(72年)、そして伝統的工芸品産業振興協会の「トレードマーク」(75年・上図左)ということになる。

 これらの作品をみていると、日本古来の紋章に通ずる記号化の伝統の血筋を感じながら、その単なる継承ではなく、時代の歩みのなかで、その精神をいかに個性的なものに飛躍させてゆくか、というさわやかな決断を読みとることができるのである。

 私は以前、亀倉のマークのデザインに寄せて、次のように記したことがある(『アイデア』No.81)。このデザインは「現代的な鋭い構成感覚を土台に、日本の伝統的な家紋から受けついだ単純化の方法と西欧的 知的な造形力学の駆使とを強靭に組み合せながら、すべてのむだを消去してゆく大胆さが根幹となつている」と。

 この私の見方は、今日なお少しも変わつていない。

プリンスホテル

 亀倉雄策は、1915年4月6日、新潟の生まれである。ことし(当時1983年)、68歳となつている。彼と同時代の欧米のグラフィック・デザイナーは、功なり名を遂げて第一線から身を引き、悠悠自適の生活を送つているにもかかわらず亀倉は、青年のような気力で、頑固にも第一線にどっかと腰を落ち着けて一向に退こうという気配もない。最近作として挙げられるのは、プリンスホテル系列のデザイン・ポリシーをはじめ、安比総合開発の「安比高原」のシリーズの作品を手がけたわけだが、とくに私が注目したいのは、4年がかりで取り組んだ講談社の『李朝の民画』(1982年)である。亀倉は、これまであまり顧みられることもなかつた李朝の大衆絵画のフイルム四千枚を目の前にして、つぎつぎに現われる「奇想天外な着想、新鮮な色彩、美事な構成、デザイン的明快さ……」などに興奮、「宝の山に分け入る気持になつた……」と、その本の「編集ノート」で記している。この深し1感銘をもとに、エディトリアル・デザインから装本まで、丹念に自らの手でまとめ上げた。「単なるレイアウトというものでなく、編集・構成といった重いものになつた。私の思想、私の美意識が、どうしてもそのままこの仕事に反映している」とも述べている。彼にとつてはブック・デザインにたいする集大成的仕事であつた。

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 また、亀倉は注目すべき一枚のポスターをデザインした。それは‘‘HiroshimaAppeals”(1983年)である。原爆投下によつて世紀の大惨事を生んだヒロシマからの核戦争の危機にたいするアピールである。平和の声を切なく訴えている。燃えて舞いおちる蝶か蛾か、その悲劇的イラストレーション(横山明)を駆使して、亀倉はここで静かな、それだけにいっそう鮮烈な怒りを、戦争を用意しようとしている者たちにたいしてぶちまけているのである。彼はこれまでにない表現方法をとった。イメージの大転換を図つた。“Hiroshima Appeals” は、ポスターによる世界への平和のための祈りなのだ。その厳粛さが胸を打つ。

 このように彼のデザインの可能性を求める挑戦は、いまなお果敢に続いている。それは当時の68歳の若者としての懸命な生きざまではないか。(美術評論家)111