エル・リシツキー

エル・リシツキー(ロシア語:Эль Лисицкийエーリ・リスィーツキイ;El Lissitzky、1890年11月23日 スモレンスク近郊ポチノク – 1941年12月30日 モスクワ)は、ロシア出身のグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家である。本名はラーザリ・マールコヴィチ・リシツキーЛазарь Маркович Лисицкий)。

「プロウン」(新しいものの確立のプロジェクト)の提唱者。この「プロウン」と題された一連のシリーズは1919年から1921年にかけて制作する。これはフォルムと構成の建築様式的な実験モデルとして知られている。

1923年に国家主導でプロパガンダの為の「フォトモンタージュ研究所」をグスタフ・クルーツィス、ゼンキンと共にモスクワに設立。この研究所で、視覚言語としてのフォトモンタージュを効果的に利用するための方法を確立した。結果、フォトモンタージュはロシアでは政治改革を遂げるための集団的革命表現運動として結実した。

1920年代にかけての彼の活動は主に西ヨーロッパ、ドイツで展開する。その目的はソヴィエトロシアにおける芸術運動および政治状況を諸外国に伝達することであった。なかでも1928年ドイツケルンにおいて開催された「国際報道展(通称:プレッサ)」におけるソヴィエトパヴィリオンの設計は秀逸であり諸外国のメディアを大きく揺さぶるものとなった。

1924年から翌年にかけては、ヴォルケンビューゲルというモスクワ中心街を計画地にしたオフィスビル群建設プロジェクトを発表。

1930年に創刊されたソ連の対外宣伝グラフ雑誌『建設のソ連邦(ソ連邦建設、ソ連建設と訳されることもある)』は露英独仏西の5か国語で刊行された。その順にタイトルは、СССР НА СТРОЙКЕ(露)、USSR in conctruction(英)、USSR im Bau(独)、URSS en construction(L’URSS en construction、と仏語の冠詞がつく場合もある)、URSS en construcción(西)同誌の一部の号のデザインも手掛けた(1932年から、死の前年の1940年まで)。

詩集『声のために』は詩人で芸術家のマヤコフスキーとの共同編集。インデックスシステムを採用した書籍はおそらく世界初。———————

1890~1914
エル・リシツキー(本名Lazar Markovich Lissitzky)は1890年11月10日にロシア、スモレンスク州の田舎町に生まれた。父親は大地主の執事の職にあったが当時の帝政ロシアではユダ ヤ人の就ける職業には制限があり、リシツキーの生まれた翌年にアメリカへの移住を試みている。結局は断念するのであるがこの父親はロシア語、イディッシュ 語の他にドイツ語、英語に堪能で文学を愛す自由思想をもった人物であった。リシツキーの本好きは父親から受け継いだものだ。母親は敬虔なユダヤ教徒で大変 忍耐強い人物であった。父親はアメリカからの帰国後、陶磁工場の仲介の仕事についている。この両親のもと典型的なロシアのユダヤ人社会(零細商人と小作 農)のなかでリシツキーは育った。のちにこの田舎町での生活は彼の初期の絵本に色濃く反映されることになる。
子供のころから絵を描くことに才能を発揮した少年は13歳の時に初めてプロの画家であるイフェダ・ペンに出会う。彼はシャガールの先生でもあった。 15才で友人たちと芸術に関する同志のグループをつくりそこで初めてのブックデザインを行っている。このころはアール・ヌーボーの画家マイケル・ヴルーベ ルに影響を受けていた。
両親、祖父母そして親戚の多くの子供達と友人に囲まれて育ち芸術家の夢をもった少年に大きな転機となったのはペトログラードの芸術大学の受験であっ た。おそらくユダヤ人であるという理由で入学を拒否されたリシツキーは大きな打撃を受ける。画家になることを断念した彼は1909年にドイツのダルムシュ タット工科大学に入学し建築の勉強を始める。生活のためにレンガ職人の仕事をしたり、友人の課題を代わりにこなすアルバイトをしながら、休日には同郷の友 人オシップ・ザッキンのいるパリやイタリアを旅している。大学のあったダルムシュタットは当事アールヌーボーの砦でありそれは建築や家具、ビアズレーのイ ラストレーションに代表されるものであった。そのなかでリシツキーはパリ旅行の帰途、建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデをブリュッセルに訪問している。 このことは彼がすでに時代の風潮とは異なる、新しい建築の運動に敏感に反応していることを示している。リシツキーはこの留学時代にヴェルデの他ペーター・ ベーレンス、ワルター・グロピウスに大きな影響を受けている。これをリシツキーは「美しい純粋な線という新しい概念が、それまでの建築然としたまがいもの の装飾の混乱に止めをさした」と語っている。*3リシツキーは時代の大きな転換を目撃したのである。

1915~1921
大学を卒業した1914年に第一次大戦がはじまり、あらゆるものをダルムシュタットに残してリシツキーはロシアに戻る。ロシアではリガ工科大学で大学卒業 資格を取得し1916年から建築家フェリコフスキーのもとで仕事をはじめ、後に建築家クレインのアシスタントとなりプーシキン美術館の設計の手伝いをして いる。この経験が後に諸外国でリシツキーが多くの展覧会、博覧会プロジェクトの組織と構成において素晴らしい仕事を行う基礎になった。
画家になる夢も捨てきれず展覧会も行ったが、彼が作家としてその力を示すのはその後集中して携わったブックデザイン、イラストレーションの仕事であ る。1916年「落下する太陽、第二詩集」の装幀、1917年「プラハの伝説」、「子供」、1918年「ノアノア」、1919年「ウクライナの民話」や 「一匹のやぎ」(1924年ワルシャワで出版)、1920年「(シュプレマティストの六つの構成の中の)二つの正方形の物語」(p.44)などである。
1919年にヴィテブスクの美術学校の校長をしていたシャガールに招かれ建築科と版画工房の教師になっている。初期の絵本から「二つの正方形の物語」にい たる作品はこの作家のわずか3年間における成長、テーマへの興味、表現手法の変化などを明瞭に示している点で興味深い。「落下する太陽」(図1)における 表紙のリトグラフでは未来派、キュビズムの強い影響をみることができる。「プラハの伝説」(図2)はユダヤの巻物の体裁をもった凝った造本でテキストとイ ラストレーションは一体となって美しく構成され、リシツキー自身のアイデンティティを示している。中世の手稿本や留学時代にシナゴーク(古いユダヤ教会) でみたレリーフの影響もあるだろう。1918年には「ユダヤ人芸術家絵画・彫刻」展に参加しユダヤ文化の復興に尽くしていたことからも彼がユダヤ文化に傾 倒していたことが分る。次に「ウクライナの民話」(図3)や「一匹のやぎ」(図4)においてはロシアの伝統的な民衆版画からの影響が顕著である。ここでは テキストからイラストレーションが独立している。神秘主義的表現主義者であったシャガールの強い影響を見ることもできる。
さらにロシア革命が1917年10月に起こりそのことが26歳のリシツキーに強い影響を与えたことは想像に難くない。帝政ロシアがユダヤ人に課してい た厳しい制限から解放され、新しい体制において他の労働者と一緒に平等権を持てるようになった。革命の発生からリシツキーが自分は必要とされていると強く 意識し同時に革命に積極的に加わったのは以上の理由があったと考えられる。その熱狂の中で西側に亡命するなどは論外のことであった。
当時のアヴァンギャルドたちは革命における芸術は同時に芸術の革命でなくてはならないと考えていた。その急先鋒の一人にヴィテブスク美術学校のリシツ キーの同僚でもあるマレーヴィッチがいた。マレーヴィッチはリシツキーの10歳年長であった。自然の形の模倣はもとより意志の表象さえも排除し絵画の枠の 中に純粋に存在する抽象の概念にリシツキーは強い影響を受けた。しかし同時に建築家としての経験はリシツキーにマレーヴィッチとは異なる展開をもたらして いる。彼は平面上に三次元の宇宙的な空間を表現する手法をそこに見い出し、様々な実験を行った。これを彼は「プロウン(あたらしきものの[確立]プロジェ クト)」と名付けた。リシツキーの言葉でそれは「新しい形態の構築に至る中継駅」を意味していた。リシツキーはプロウンとは最終的にある決まった形態を指 すのではなく、彼によって作られる様々な試みにおける一種の造形思考装置としてとらえていた。それは1923年ハノーヴァーでの最初のプロウンルームにお いて単に二次元平面上の空間表現のための手法ではなく実空間や動的な形態の捉え方であることを示したことにまずは表れている。彼は全ての有効な視覚的表層 (サーフェイス)はひとつの「環境」へ統合されるべきと考えた。こういった思考の先駆としてはピカソやタトリンによる立体が存在するが、リシツキーは環境 と主体の動きによって構成される経験全体を明確に意識している点で際立っている。*4 これは40年後に登場する環境芸術や生態的知覚論を十分に予感させ る。またそれは「二つの正方形の物語」や「声のために」に見られる書物におけるタイポグラフィの構成とダイナミックなページネーションにおいても矛盾なく 展開している。さらに1924年以降にはじめた写真の多重露光やモンタージュによる構成や舞台装置、展覧会におけるディスプレイなどもプロウンの展開であ ると考えていたことは重要である。彼は生涯における様々な仕事を通してまさにプロウンを実践していったのである。*5
この時期リシツキーは学生と共に日常生活の必需品におけるデザインの新しい可能性の調査とそれらの改良を試みながら新たなフォルムの発見を試みている。例 えば1919年から1921年にかけて演説者のための演壇の様々なデザインが学生とともに作られた。後に触れるが、1924年にウィーンで開かれた国際演 劇展において、このレーニン演壇は大評判になったものである。このマレーヴィッチを中心とする学生と教師の共同体はウノヴィス(新芸術を肯定するもの)と 名付けられ彼等のシンボルマークは赤い正方形であった。その他この期間には後に革命のシンボルとも言いうるポスター「赤い楔で白を撃て」が作られた。(図 5)1923年にハノーヴァーでリトグラフ印刷される「パペットポートフォリオ」のための水彩画もこの創造的な時期に描かれたものである。これはクルチェ ンコの 電気機械仕掛けののぞきからくり「太陽の征服」のために作ったものである。
まもなくヴィテブスクではマレーヴィッチとシャガールが対立する。シャガールは結局ロシアを去りパリでの亡命生活を送ることになる。革命時に一時帰国 したカンディンスキーも結局はドイツへ去りワイマールでバウハウスの教師となる。1921年にリシツキーは新しく作られたモスクワのブフテマス(国立高等 芸術技術研究所)に教授として招聘される。そこでタトリンやクルチス、ロドチェンコ、ガボらと構成主義者のグループを形成することとなる。彼等の作品は 1922年のベルリンでのロシア芸術展において革命後初めて西側に登場し大評判となるのである。


図1 落下する太陽、第二詩集 1916年


図2 プラハの伝説 M・ブロダソン作
1917年


図3 上2点 ウクライナの民話 1919年


図4 一匹のやぎ 1919年


図5 赤い楔で白を撃て 1919年