マン・レイ

000■マン・レイ作品の運命

福のり子ジョン・ジェイコブ

 「なぜまたマン・レイ展なのか?」そう思う人がいても当然だろう。これほど知名度があり、すでにたくさんの展覧会が開催されてきたこの芸術家に、新たな何かを加える余地は残されているのだろうか?その生涯と作品が、多くの研究者や専門家のライフワークとなるほどの大作家であることを知っているからこそ、本展のキュレーションを務めた私たちは、ためらいがちにこの芸術家へのアプローチを始めた。マン・レイが生きていたら、彼の名前が視覚芸術史上、この業界における最も有名な「ブランド」のひとつになっていることに心を動かされたかもしれない。展覧会や出版物からオークションでの記録的な売り上げまで、あるいは雑誌や絵はがき、ポスター、コーヒーカップの図柄の使用許可、シュルレアリスムを紹介する教科書の序論から、コンピューターのスクリーンセーバーやマウス・パッドまで、そしてレストランから香水瓶に至るまで、マン・レイの名はあらゆる所に見ることができる。美術史においてのみならず、彼の作品はもはや、一般大衆の意識にしっかりと入り込んでしまっているのである。

 マン・レイという名を聞けば、パリを思い浮かべる人もいるだろう。アメリカ生まれのこの芸術家は、パリで人生の大半を過ごし、1976年にその地で亡くなった。あるいはボンピドゥ・センターを思い起こす人もいるかもしれない。マン・レイの妻ジュリエットが1991年に没した後、多くの重要な作品を寄贈されたこの美術館は、その作品を用いてマン・レイ展の「定番」とも言えるすばらしい個展を開催した。また人によっては、この芸術家の名前を聞いて、スキャンダルの数々を思い出すかもしれない。たとえば、マン・レイの死とジュリエットの死とのあいだの数年間に、アトリエから多数の作品カモ行方不明になったこと、その後、マン・レイの作品とは認められていない、あるいは故意に彼の作品とされた写真がアート市場に溢れ出たことなどである。これほど著名で、調査され尽し、かつ争議の渦中にある芸術家の展覧会を企画する話がもち込まれたキュレイターが、それを断ったとしても不思議ではない。

 こういう状況にもかかわらず企画された本展は、結果的に、これまでほとんど知られていなかった多くの平面作品やオブジェを紹介する機会を提供することとなった。出品作品はすべて、膨大なコレクションをもつボンピドゥ・センターの次に大きなマン・レイ・コレクションから選ばれた。しかもこのコレクションは、1990年代後半にパリからアメリカ合衆国に運び込まれて以来、ほとんど手つかずのまま、人目に触れることもなく眠っていたのだ。それは、ニューヨーク州ロングアイランドにある自動車修理工場内のマン・レイ財団の巨大金庫に収蔵されている。4,000点以上のドローイング、写真、絵画、オブジ工からなる同財団のコレクションは、たいへん希少で貴重なものであり、著名な作品から、ほとんど知られていない初期の作品や私生活の記録、重要な作品のためのスケッチやその記録を含む、マンレイの創作活動の全貌を網羅するものである。マン・レイが所有していたもの、たとえば山高帽や指輪、ブリーフケースや杖のほか、ジュリエットのために作った数々のアクセサリーなどもあり、その内容はじつに豊富だ。さらには私的な書簡、ドローイング、原稿(自伝の初期草稿を含む)、写真技法に関する化学式、マグネット式チェス・セットの特許出願書叛などの資料も含まれている。こういった品々のいくつかは、過去に何度か重要な展覧会に貸し出されたことはあった。しかし、希少で貴重な同財団のコレクションそのものに注目した展覧会は本展が初めてで、今日までその全貌が公開されることはなかったのである。

 本展の構成は、ニューヨーク、パリ、ロサンゼルス、そして再びパリという、マン・レイの創作活動における4つの時代を年代順に追うものとなっている。このような区分が可能なのも、財団のコレクションがこの芸術家の全生涯に及′5てからである。出品作品のうち、古い時期や著名な作品の多くは、財団のコレクションの核となっているふたつのグループから選ばれた。マン・レイの自伝『セルフ・ポートレイト』を読んだことのある人は、本展に出品されている作品の多くが、彼が自伝の中で自らの生涯を語るために選んだ作品と一致することに気づくだろう。このような作品が、財団の所蔵品のひとつ目の核である。ふたつ目は、「ジュリエット・マン・レイ所蔵」と分類されている平面や立体作品である。マン・レイの作品を私的に、かつ恒久的に保護するために、ジュリエットが彼の遺産から選んだ作品群だ。本展覧会のために、この′3、たつのカテゴリーから景も重要だと思われる作品を選んだ。また、オリジナル作品を展示するか、あるいはマルティプルを展示するかの選別は、作品の保存状態などによって決定した。

 4つの時間軸に従い、彼の活動期ごとに重要な出来事を象徴する作品を選出すると同時に、これまでほとんど知られていない作品であっても、それを紹介することで既存のマン・レイ研究に重要で新たな貢献を果たすと思われる作品にも光を当てた。作品を創作するために用いられた素材や道具、有名な作品の実験的ヴァ1」エーション、また完成作品の記録なども出品の対象とした。こうした品々や制作途中の作品を、できる限り関連する完成作品とともに展示することも心がけた。

 作品を追いながら会場を巡っていると、マン・レイが熱心にいくつかのモティーフを、さまざまな素材や技法を用いて、異なった時期に異なった作品に仕立て上げているこ        1【コとに、鑑賞者は気づくだろう。まるで回転扉に入り込んだように、クルクル回りながら、また元の場所に戻ってきたような錯覚に陥るかもしれない(回転扉はマン・レイが繰り返し用いたモティーフのひとつでもある)。事実、マン・レイは自らが過去に制作した作品に立ち戻り、それに手を加えたり、新たに作り変えたりしたのである。彼にとって重要なのは、モノとしての作品ではなく、それを生み出すためのアイディアや概念であった。だからこそ彼は多くの作品を制作し、記録用の写真を撮り、その後はそれを紛失してしまったり、時には自らの手で破壊することすらあったのだ。作品に至るまでのアイディアや概念は、その「記録」の中にある。ひとつのオリジナル作品よりも、大量に複製することで、そのアイディアや概念をより広く流布することが可能となる。こういった考えは、20世紀美術におけるマン・レイの大きな功績のひとつである。

 本展はもともと、「フォトエスパーニヤ」10周年を記念して企画された展覧会で、2007年にマドリードのICO美術館で開幕した。2007年から2010年のあいだに、カイシヤ・ガリシア財団(ア・コルーニヤ、スペイン)、ピナコテーク・ド・パリ(フランス)、マルティン・グロピウス・バウ(ベルリン、ドイツ)、ハーグ写真美術館(オランダ)、ヌオーロ美術館(サルデーニヤ、イタリア)、そしてカーサ・ダス・ムーダス・アートセンター(マディラ、ポルトガル)を巡回した。各美術館の主催者と来館者に感謝したい。

 日本展を開催するにあたり、∃一口ツパ展では諸事情から展示できなかった作品、および日本の鑑賞者のために特別に選んだ作品を含む約70点を追加して内容をより充実させた。何より嬉しいのは、マン・レイによって制作され、彼自身によって選ばれた額に収められた写真作品を紹介できることだ。これらはパリのフ工ルー街2番地の2にあるスタジオの壁からはずされた後、ずっと財団の金庫に眠っていたものである。さらに、1950年代、マン・レイ自らが考案/開発した「色彩定着技法」によるカラー・ポジフィルムも初公開する。独創的で、これまでにほとんど知られていなかったこれらの作品は、マン・レイの写真への関心と実験が晩年に復活したことを示すもので、レイヨグラフを用いた若い頃の著名な作品にも匹敵する興味深い作品群である。今回、日本での開催を快諾していただいた国立新美術館と国立国際美術館、そして日本経済新聞社の協力と熱意に感謝の意を表したい。

 マン・レイ財団のエリック・ブラウナー、ステファニー・ブラウナー、グレツグ・ブラウナー、そしてジェフリー・ブラウナ一にも謝意を表したい。彼らはこの展覧会実現のために、長期にわたって献身的に力を尽してくれた。ロジャー・ブラウナーは財団のコレクションを調査することを可能にし、ステファニー・ブラウナーはそこでの案内役を務めてくれた。マン・レイ財団の弁護士であるリチャード・ハムリンは、すばらしいマネージャー兼アドヴァイザーであった。アートスター社のデイヴイッド・スタークは、私たちをマン・レイ財団に紹介してくれた人物だ。財団の元レジストラーのローラ・モークリーのコレクションに関する豊かな知識はたいへん有用であった。ジェニファー・ラーセン、高橋葉子、青木健はアシスタントとして調査や翻訳を手伝ってくれた。グレツグ・イリクラはカタログのために、全作品の撮影を担当した。そして最後に、本展の基礎となり、励みとなる研究を成し遂げてきた多くの著者や研究者に感謝したい。とりわけメリー・フォレスタ、ジュディ・アニアー、ケイト・ウェアー、そしてアンディ・グルンバーグは専門的なアドヴアイスを私たちに惜しみなく提供してくれた。(以上、敬称略)

 本展に用いられている英文のタイトル、U〃CO/1Ce「nedβuf〃or/〃dげね佗nH「無頓着、しかし無関心ではなく」)という言葉は、マン・レイ作品のひとつからとられたものであり、同時に、ジュリエット・マン・レイがふたりの墓の墓碑銘に選んだ言葉でもある。この言葉は、マン・レイと作品/鑑賞者/そして彼が残したものとの複雑な関係性を表わしている。マン・レイ財団のコレクションは、この芸術家の人を煙に巻くような(あるいはアンビヴアレントな)姿勢の結果として生み出された興味深い副産物であり、何より本展は、作家の命とコントロールが終焉した後の、作品の運命をめぐる瞑想でもある。本展で紹介する作品は、アート市場と切り離された来歴をもつ財団の収蔵品のみで成り立ち、かつ財団が真作と認めるものである。註2)きわめて多岐にわたるマン・レイの創作活動を鑑賞者に追体験してもらいながら見てもらうという展覧会のコンセプトを遂行するために、作品だけではなく、彼がインスピレーションを得たモノやイメージと関連づけて展示することを私たちは試みた。これまでにほとんど知られていないオブジ工や記録を、有名な作品や貴重な関連資料や素材と結び付けて展示することによって、マン・レイの作品に対するより広い知識と、彼の生涯、思考、創作の過程をより深く洞察してもらう機会を鑑賞者に提供できれば幸いである。

 マン・レイは、いやマン・レイだからこそ、彼を巡る巷のさまざまな活動や反応を、皮肉っぼい笑いを浮かべながら、今もどこかで楽しんで見ているかもしれない。彼は生来ぬえ「鶴」のような人間で、そして自ら進んでダダイストとなった芸術家だ。「新発見」や「真実」など、どうでもいいのかもしれない。ただし、この展覧会がマン・レイにまつわるこのような伝説を裏づけ、彼の驚嘆すべき作品の謎をさらに深める一端を担うことは確かだと思う。                       (小林明子訳)註1)2)財団所蔵の一部主要作品のみを展示した展覧会に、1994年にノートン美術館で開催された〃∂∩斤∂γ七肋〃舶γSがある。マン・レイ財団のコレクションの所蔵品リストは、2000年から作成が始まった。そこには、1920年代から50年代までのあいだに制作された1,028点のヴィンテージ・プリントが記載されている。写真がマン・レイ自身の作品であるかどうかは、マン・レイが使用していたスタンプと印画紙の制作年代を合わせて判断された。本展もこれを基準として、ヴィンテージ・プリントを展示した。ただし展覧会のコンセプトを明確にするために、彼の生存中の写真(lifetimeprjnt)と死後に焼かれた写真(posthumousp「int)も数点加えている。その場合には、写真が焼かれた年代を記している。マン・レイのごく初期の作品は、破棄されたり個人で所蔵されていたりするものが多い。そのような作品については、マン・レイ自身が後年に制作したマルティプルや、リトグラフなどによって再制作された作品を展示した。                                           11