オディロン・ルドン

■オディロン・ルドン 光と闇

本江邦夫

 アンドレ・ジッドの1904年の日記に,ルドンについての言及があるといったら,意外におもうひともいるかもしれない.

 オデイロン・ルドンのあの言葉を識ってからもう二年になるが,私はなおもあの底知れぬ言葉を掘り進めている.それは彼が青年に向かって忠言のように口にしている警 句であり,公理であり,彼の全美学がそこに依拠している ように思われる金言である.《自然とともに閉じこもること≫(新庄嘉章訳)

 「自然とともに閉じこもること」。これが当時の文芸に志す青年たちの関心を呼んでいたことは,モーリス・ドニの,やはり1904年の日記に,ほとんどおなじ表現がみられることからも分かる.

 ルドンの言葉(ある若い画家にむけて)「自然とともに閉じこもりなさい」.あらゆるものをその素材にしたがって描くこと.ごつごつした樹木,すべすべした肌を.イタリア旅行のあとで,ルドンは「自然しか見なかった.美術館にもいろいろといったが,ろくに見もしなかった」

 自然とともに閉じこもる−この表現が当時なぜそのように印象的だったのか,くわしいことは分からない.はっきりしているのは,ふつうは陰影にとんだ内面世界に対して,限りない広がりをもった明るさとしてとらえられがちな〈自然〉を前にして,オデイロン・ルドン,この幾分か風変りな画家は,それとともに「閉じこもる」ことを青年たちにすすめていたということだけだ.

 「閉じこもる」・・・このいい方のなかには,なにか身を固くして,それこそ殻のなかにでも隠れてしまうといった意味合いがこめられているようだ.たとえば印象派のように,自然の光のたわむれに身を投ずるのでも,あるいは世紀末のデカダン(退廃派)の反自然的美学−ユイスマンスの『さかしま』にその典型をみる−を実践するのでもない.ルドンがここでいっているのは,あくまでも自然に依拠しつつ,しかしながら,あたかも種子のように,自然そのものを自らの内面にとりこまねばならない,あえていうならば,自然のなかにもうひとつの自然を作り出す,ということなのだ.そして,おそらくルドン自身,それほど深い意味をこめて口にしたわけではないこの言葉は,はからずも画家自身の芸術の本質的な部分を言いあてていたのではないだろうか.少なくとも,ジッドとドニにはそのようにおもえ,そこに自分たちの制作の可能性をも感じとったのであろう.

 自然のなかの自然.いいかえれば二重の自然.このような二重性,そのさまざまなあらわれこそ,ルドンの芸術を根底から規定するものであった.それは具体的には,たとえば模倣と想像力との二重性である.1909年にかかれた「芸術家の打ち明け話」のなかで彼はいっている.

 だれも私から,もっとも非現実的な創造物に生命の幻影をあたえたという功績を奪うことはできません.私の独創性のすぺては,ありうるものの法則に従って,ありえない存在を人間らしく生かさしめる,つまり日にみえるものの論理を,みえないもののために,可能なかぎり役立たせる点にあるのです.私の芸術の展開にとってもっとも必要だったものは,しばしば言いましたが,現実のものを丸写しし,外界の事物を,そのごく微細で,特殊で,偶発的な点において注意深く再現することでした.小石,草の葉,腕,横顔など,さまざまな生命あるもの,生命ないものを細かく写しとるために苦労したあとで,私は頭が混乱してきたように感じます.そのときこそ,なにかを創造したい,つまり想像力のおもむくままに表現したいとおもうのです.自然はこのように調合され,煎じられて,私の源泉,酵母,パン種となります.おもうに,まさにこの 源から,私の本当の創意は生まれてくるのです.

 およそルドンの想像的世界にあっては,イメージのすぺてが両義性をはらんでいる.たとえば,球体.その具体的意味内容は明らかではか、が,おそらくはその図形としての完全性から,時に叡知の象徴となり,またそこだけで完結している別の世界を内包することになる(これはルドンにおいて、〈窓〉を通じてのイメージの出現とはやや異った趣きを呈している).

 球体はまた天体にも通じる.ルドンの荒地を支配する天体とは,いうまでもなく〈黒い太陽〉である.ジャン=パウルのいかにもロマンチックな夢想に端を発する,この絶望的なイメージがジュラール・ド・ネルヴアルに及ばした深い影響,たとえば「廃嫡者」のなかの「私の唯一の星は死んだ-そして星ちりばめた私のリュートは/メランコリーの黒い太陽を帯びる」といった詩句については今更ふれるまでもない.ここでネルヴァルが想起しているメランコリーとはいうまでもなく,デューラーの《メランコリア》(1514年)のことであるが,それはまたルドンにとっても大きな意味をもつ作品であった.それは何よりも,「豊かさと広大さを開示してくれる,抽象的で深みのある美しい線を生みだす深々として常に新鮮な無尽蔵の源泉」であった.じっさい,(メランコリア》をつぶさにながめてみると,意外にルドンの〈男〉の道具立に関係するものが多いのである.中央のメランコリックな天使,足もとの球,壁にかけられた天秤,鐘,彼方の光を放射する天体・・・ネルヴァルにあって黒い太陽は,絶望ないし終末の表明であった.ルドンにあっては必ずしもそうではない.ヴィクトル・ユゴーのいう,「そこから夜が光りかがやく,不気味な黒い太陽」の方が,むしろルドンのそれに近いといえるかもしれない.〈黒い太陽〉という自己矛盾した形容はそのまま,光と闇が対立的に共存するしかないルドンの〈黒〉に結びつくともいえよう.                    

 ルドンはすでに1894年,ほとんどこれとおなじことを「ピカールへの手紙」のなかで,より素朴な表現をつかって書いている.ルドンの想像的空間が自然の観察,および分析に根ざしていることは強調しておかねばならない.しかしながら,ルドンの場合,こうした段階に苦もなく達したのではなかった.人一倍,幻視者的な性格の持ち主として生まれた彼に,事物を正確に,客観的に写すというのは,ふつう考える以上に苦痛であったろう.とりわけ初期の素描にみられる,不器用な石像のような生硬さは,なによりもまずそうした彼の苦労をおもわせる.しかし,逆説的にいえば,ルドンのそうした苦労,努力のうちにこそ,おおよそ人間が事物を写す,という至極あたりまえの事実のなかにひそむ,なにかかけがえのないもの,聖なるものが垣間みえるともいえるのである.

 騎馬隊の上にそびえたつ断崖絶壁は,ブレダンのそれよりも,はるかに威圧的であり,師の作品がつねになんらかの物語性に支配されているのに対し,弟子のそれはむしろ,人間と自然という,いかにもロマンチックな対比に力点をおいている.彼はのちに書いている.「おお山々よ,(……)汝のそそりたつ頂きは空をつらぬき,底知れぬ紺碧の中に没していく」「おお山よ,微細な人間は汝によじ菅り,その広大さのうちに見失われる.汝はけっして所有されないであろう.汝の領地はすべての人間のものである」.前景の騎馬隊のための習作とおもわれる鉛筆画がシカゴ美術研究所にあり,従来プレダンのものとされていたが,どうやらルドン自身のもののようである。このエッチングは,1867年(27歳)のサロン版画部門に《風景≫という題名で入選した.

 ルドンは〈黒〉の時代にあっても,一人前の画家となるために油彩画の習作を怠らなかった.こうした「画家となるための習作」は,しかしながら,ほとんど一般に公開されることはなかった.近年ルーヴル美術館に追贈されオルセー美術館に移管されたアリおよびシュザンヌ・ルドンのコレクションに含まれる50点弱の風景画習作により,はじめてその全貌がしられることになったのである.ルドンはのちに「芸術家の打ち明け話」のなかで書いている.「私はその頃,何点か習作をものしています.それらは,まちがいなく,文句のつけようもない絵画でした」.とはいえ,これらの風景画習作の制作年代,制作地の決定はそれほど容易なことではない.ロズリーヌ・バクーもいうように,それらはおよそ30年にまたがって描かれ,しかも,「外的な影響とは一切無縁の,画家と自然との飾りのない真筆な対話の産物」なのである.したがってこれら3点の制作年代,場所についても,おそらく同じ頃,同じ場所で描かれたこと以外にはっきりしたことは分からない.アリおよびシュザンヌ・ルドン・コレクション中の,ロワヤン(ジロンド河口に面した町)付近の絶壁のある海岸を描いたものと比較的よく似ているので,あるいはこの3点もそれに連なるものかもしれない.海はルドンにとって特別な意味をもっていた.

 ルドンにあっては,画家としてあたり前のことがあたり前ではなかった.たとえば彼はいっている.「私の場合,デッサンに熟練するのは後になってからのことで,それにしても意志的に,ゆっくりと,ほとんど苦痛の叫びをあげつつ呼びおこされたものです」.おそらく,この画家にあってはすべてがゆっくりとはじまり,展開していき,最終的にある結実をみることになったのであろう.それはまるで,大地に根ざしつつ,年月をかけて生長し,やがてたわわに果物を実らせる樹木の生そのもののようだ.

 たしかに,ルドンにとって大地は重要な意味をもっていた.1840年ボルドーに生まれた彼は,すぐに近郊のペイルルバードに里子にだされる.そこにルドン家の地所があり,いわば荘園のようになっていたのだ.ペイルルバード(上図左右),この広大な,甘美でもあり苦くもある自然の地はやがて,画家の想像力の母胎となる.画家の半生を特徴づける,さまざまな想像上の生き物が徘徊する,黄昏の木炭画の大部分はここで描かれた.それらの作品世界には,原初的な暗闇を宿すペイルルバードの大地との交感があるのだ.しかし,一方で,この暗闇の上方にはつねに光がある.重力に逆らいつつ聞から光へと伸びてゆく樹木,そのようにルルドンもまた閣と光,あるいは光と閣の両極に規定されつつ,長い年月をかけて,ゆっくりと光の方へ伸びてゆくのである.

 飛翔のイメージは,ルドンにあって,想像力と密接な関係にある.それは重力と拮抗し,そうすることで画家の想像力を制御し,そこにある種の均衡をもたらすのである.この鬼火をともなった地の霊はルドンの<黒>のなかでももっとも無気味で,生々しいものである.それはまだ地上にかかずらっている.しかし,これがリトグラフに移され,十分な飛翔のうちにおかれると,地上の薄暗さは消え,想像力もはばたくのである.

 周知のように,木炭画であれリトグラフであれ,ルドンの前半生の,色彩をほとんど欠いた,黒と 白の明暗表現のみの作品は,作者自身によってく黒〉と総称される.もしルドンが〈崇〉のままで終わっていたとしたら,その作品としての完成度にもかかわらず,彼はたんなるデカダン(退廃派)の画家のひとりとみなされるしかなかったであろう.今日のルドンをルドンたらしめているのは,いうまでもなくその〈色彩〉,闇にたいする光としての〈色彩〉であるが,それはつねに〈黒〉によって支えられているのである.このことはたんに時間の前後関係を意味するのではない.むしろルドンの円熟期にあっては,〈黒〉と〈色彩〉が同時にあり,前者は目にはみえない大地として,その上に繁茂する後者を維持しているのだ.

 ルドンにとって,「黒はもっとも本質的な色彩である」.しかし,その高揚と生命とを発現させるには,画家自身の「肉体的な力の豊かさ」が不可欠であり,もしこうしたものがなければ,「素材は結局のところ,その外観どおりの,無気力で生命をもたぬものにしか見えない」.それゆえ,こうした神秘的な黒を尊重せねばならない.何ものも男をけがすことはで きない.黒は白をよろこばせないし,いかなる官能も呼びおこさない.しかし,それはパレットやプリズムの美しい色彩よりもはるかにすぐれた,精神の代理人なのである.

 ルドンがこう書きつけたのは,1913年,すなわちその死を数年後にひかえ,く黒〉からも遠ざかり,〈色彩〉のただ中にいた頃だということは注目に値する

 光と闇,色彩と黒.ルドンの場合,一方が輝けば輝くほど,他方もその深みをますのである.ここにルドンの芸術に特有の二重性をみることができよう.そしてこうした二重性は,ルドンにおけるイメージの出現・・・それはしばしば光の放射によって規定される・・・に,そのもっとも輝かしい姿をみせるのである.

 実際.〈光の放射〉あるいは,ボードレールのいう「暗闇のなかの爆発」は,本質的にルドンの芸術の出現的性格に根ざしている.たとえば,初期の代表作の一枚である木炭画《出現≫(1883年,ボルドー美術館)の本質をなすのは,題名が示すごとく,著しく内奥性をおびた薄暗い空間に,突如,光を放射しながら出現する首である.その際,それが浮遊する黒い球体−これまた〈黒〉に頻出するモチーフ−の向こうにわずかながら隠れていることを見逃してはならない.つまり,ここでは,〈出現するもの〉はまた,部分的に隠れてもいるのだが,これこそルドンの〈出現形式〉を規定する原理といえよう.なぜなら,真に出現するためには,何よりもまず遮られねばならず,またそれによって出現そのものがより強調されるからだ.むろん,ルドンにあって,遮るものといえば,まず第一に暗闇であった.いわばく黒〉それ自身がイメージの出現を保証していた.しかしながら,より複雑で効果的な表現を意図したとき,これだけではあまりに素朴すぎたであろう.もし,ルドンの芸術がこの段階,すなわち垂れこめる黄昏におけるイメージのたんなる出現だけで終わってしまったとしたら,のちの色彩の開花もありえなかったであろう.

 かくして,意識的にせよ無意識的にせよ,ルドンはその出現の原理を具現する<形式>に到達せぎるをえなかったのである.そして,この形式が,そうしたく原理〉の二重性・・・出現/遮蔽・・・を反映して,画面の二重構造化におちついたのはむしろ当然の成行であった.

 こうした二重構造の画面は,ルドンにあっては,基本的に二つの現われ方をしている.ひとつは,<枠取り〉であり,もうひとつは〈仕切り〉である.前者は画面内に,あたかも窓・・・そのむこうから絶対的なイメージがやってくる・・・のような,もうひとつの画面を枠取り,その周囲を暗くするやり方であり,どちらかといえば<黒〉に支配的である.これに対し,<仕切り〉は,前景におかれた障害物・・・それは時に水面であったり,なにかいい表わしようのない帯だったりする・・・のむこうに,主として謎めいた人物の上半身像が出現するといった格好をとり,この形式は<色彩〉における出現に特徴的なものである.

 とはいえ,こうした2つの基本構造はあくまでも図式に近いものであり,これらによってルドンの全作品が規定されるわけではない.事実,とりわけ〈黒〉においては,こうした図式とはまったく無縁なもの,たとえば怪物とか気球とか〈黒い太陽〉をモチーフとしたものが数多くある.にもかかわらず,なにゆえにルドンにおける二重性をおびた出現形式が問題になるかといえば,ルドンの場合,まさにこの二重の出現形式において,いわゆる象徴主義絵画の本質的な部分との接点が生じるからである.

 だれもがその存在を認めているにもかかわらず,象徴主義絵画にはいまだ妥当な定義がみいだされていないようだ.ロバートゴールドウオーターの遺著『象徴主義』(1979年)の書評でマーク・ロスキルが指摘した次のような事態から,いまだほとんど一歩も抜けだしえていないこと,これは残念ながら認めざるをえないだろう.

 基本的な問題は,一貫した,どれにもあてはまる象徴主義の様式といったものがないという事実である.たとえ,典型的なイメージがくり返されるにしろ,特別に象徴主義的なイコノグラフィーもない.また,文学,とりわけ詩に 適用されることが,かならずしも視覚芸術にあてはまるわけではないのだ.

 ならば,象徴主義絵画という分類そのものが無意味ではないのか.むしろ,19世紀末にみられる多様で豊かな様式の展開について近年もちいられるStilkunst(独),Stylist(英)といったおおざっぱな呼び方で満足すべきではないかということにもなる.たしかに様式ないしモチーフにこだわるかぎり,こうした指摘は一面の真実をついている.しかしながら,象徴主義というのはもっと深い次元でとらえられるべき問題ではないだろうか.それはむしろ,表現されたものではなく,表現のあり方にかかわる問題であり,そうすることによって表現そのものを問いつめようというひとつの態度なり姿勢ではないだろうか(それを極端にすすめたのはいうまでもなくマラルメであり,その最高の成果ともいえるの挿絵のためにルドンが指名されたことは,両者のたんなる友情いじょうに,深い精神的一致を感じさせる).

 このとき,象徴主義とは,あえていえば,すでにある表現体系に差異を生産する技術ということができるだろう.こうした差異を,たとえばキューゲルのいうstrangeness(“異化”とでも訳すべきか)という言葉で置きかえてもかまわない.いずれにしろ,象徴主義の要素とされる暗示性にしても,それは差異そのものを呈示することによって,読者の目を彼方へとそらすことに他ならない.また,核心となる<象徴〉という概念にしても,それに対するあらゆる安易な接近を拒絶することによって,無数の差異を演じつづけることになる.それはたとえばアレゴリーのように,確定された,あるいはそのようにみなされた意味内容を有するわけではけっしてないのだ.

 こうした事情は,すでにみたルドンの《出現≫を,おそらくそれに深い影響をあたえたとおもわれる,ギュスターヴ・モローの≪出現≫(1876年)と比較するとき,より明白なものとなるだろう.つまり,モローにおけるく出現〉はさまざまな約束ごとから,洗礼者ヨハネの首であらねばならないのに対し,ルドンのそれは,もはや限定しようのない浮かぶ首であり,しかも,いまにも意義ぶかいことに,それは隠れつつ現われている,つまり画面に差異を生みだしているのだ.こうしてルドンはその〈出現〉の二重性によって,意識するにせよしないにせよ,象徴主義と深く関わっているのである.

 ルドンの芸術のなかにある本質的に象徴主義的な性格,すなわち〈二重性〉は,しかしながら,当時の美術の流れからすれば異端以外のなにものでもなかった.市民社会における美術というのは,今日もなお,つねに一元的な価値観をもつて眺められる.良いか悪いか,売れるか売れないか。そこには,美術なり絵画そのものに対する根底的な批判といったものは生じにくい.印象派にしても,外的な自然との交感によってもたらされたイメージに対する疑いは皆無である.そうでなければ,目の前にあるモチーフをひたすら描きつづける〈連作〉といった着想には考え及ばなかったであろう.ルドンは人並はずれて不器用な画家であった.しかし,すでに仄(ほの)めかしたように,不器用であるだけに,ひたすら描くことの本質に直面せざるをえなかったのである.彼自身のイメージに関するきわめて示唆的な言葉がある.

 神秘の意味,それはつねに曖昧さのうちに,二重,三重の 外観,つまり外観というものに対するさまざまの疑い(イメージのなかのイメージ)のうちにあることである.生まれてくる,あるいは観客の精神状態に応じてそのようになるさまざまな形態.あらゆるものは,それらが現われでるものであるだけに,よりいっそう暗示的である(1902 年)

 これはルドンがいちおう画家として名声を確立した頃に書きつけられたものであるが,こうしたイメージ論そのものに,彼はすでに早くから到達していたものとおもわれる.あれら黄昏の怪物たちを,ルドンがなにゆえに描きえたかといえば,それはとりもなおさず,彼自身のなかに,イメージそのものに対する疑い,世に認められた画題,すなわち公認された絵画に対する根探い反発があったからではないだろうか.いずれにしろ,ルドンは長いあいだまともな画家として扱われることはなかった.それはたんに無名であることを意味するのではない.たとえばゴーギャンなどと比べれば,ルドンははるかに論評される機会に恵まれていた.しかし,そうした論評のなかにはつねに偏見予見が入りこんでおり,画家が期待するようにはなかなか論じてもらえなかったのである

 1882年,木炭画とリトグラフからなるルドンの2回目の個展が「ル・ゴーロワ」社で開かれた際,若手の批評家エミーナレ・エヌキャン(1858-88)は興奮して次のように書いた.

 オデイロン・ルドン氏は,われわれの持つ巨匠のひとりと見なされるにちがいない.それも,バイロン卿が,それなくしては完全な美はないと語ったあの怪奇性を何よりも高く評価する人々によって,比類のない巨匠と見なされるにちがいない.この巨匠は,ゴヤを別にすれば,かつても今も,他に類例を見ない.彼は,現実と幻想との境界にある荒涼たる地域を征服することができた.そして,その地域を,おそるべき亡霊や,怪物や,浸滴虫類や,いっさいの人間的邪悪といっさいの動物的低劣と無力有害な物の持ついっさいの恐怖とで作った複合的存在によってみたしたのだ.ボードレールと同様,ルドン氏は,新たなる戦慄を創造したというすばらしい賞賛に値する(粟津則雄訳).

 エヌキャンによるこの論評は,ルドンに対するはじめての本格的評価であり,それも「おどろくべき洞察力」(「ピカールへの手紙」)によってなされたものであった.実際,ルドンの目には,「そのあとにつづいた多くの作家たちはみな,エヌキャンが要約して示したものをただ展開させただけにすぎなかった」のである.そして,このエメキヤンははっきりいえばデカダンの陣営に与する批評家であり,これによって,ルドンはデカダンの画家であるという通念ができあがってしまうのである.彼はすでに冒頭部分を引用した,当時としては異例ともおもえる熱狂的な論評の末尾を次のようにしめくくっている.

 彼[ルドン]のみが,いくつかの象徴,巧妙な綜合によって,腐敗,頑廃,策略に関する,そしてまた一方で,崇高さと美に関する,われわれの現代の思想をもっとも深遠なものにすることができたのである.たしかに,オディロン・ルドン氏は特異な画家である.彼はまたたしかに,大衆をよろこばせもしないし,現代の話題を描いたりもしない.しかし,たしかに彼は巨匠であり,あの精神の階級,すなわち芸術のなかに,科学的確信ではなく,さまざまな未知の美しさ,新奇で気取った直接的な表現手段の奇妙さ,創意,夢といったものを熱烈に求める精神の階級の代理人としてみなされねばならないのである.そしてこれら,いわゆる“デカダン”の精神は今日,かなり大きな勢力となっているのだ.

 当時の文学者,批評家たちが見ていたルドンは,「怪物」に象徴される奇怪な趣味の画家であった.これにユイスマンスのあの一時期を画したデカダン小説の傑作『さかしま』(1884年)において描かれた病的なルドン像が大いに寄与したことはいうまでもない.こうしたデカダンの画家ルドンという固定観念が思いのほか根強かったことは,次の奇妙な例からも分かる.

 1885年,アドレ・フルペットという偽名で発表されたデカダン的なパロディー詩集『退廃』は一部で大変な反響をまきおこしたが,それには序文としてこのフルペットという架空の人物の評伝(これもパロディー)が付されていた.ここに引用するのはその室内の描写・・・『さかしま』のデ・ゼッサントへのほのめかし・・・である.

 鏡には偉大な画家パンクラス・ビュレの手になる見事なデッサンが映っていた.それは巨大な蜘妹を描いたもので,各触手の先端にはユーカリの花束をたずさえ,その胴体はあきれるほどに夢想的な大きな目でできていた.それは一目みるだけで身震いするほどだった.

 これが『さかしま』のパロディーであり,巨大な蜘味といい,大きな目といい,このビュレという画家がほとんどルドンのカリカチュア(戯画。漫画。風刺画。),少なくともルドン的要素にほんのわずか,ルドンのかつての師,レダン(師匠ロドルフ・ブレダン)の要素を混ぜたカリカチュアであることはまちがいない.プレダン的要素というのは花束を指し,これはおそらく『さかしま』でユイスマンスが紹介したレダン作《死の喜劇≫の,骸骨どもが空中に打ちふる花束を揶揄しているのであろう.そしてこれはこの『退廃』だけに限ったことではなかった.

 こうしてルドンは,彼としては不本意な評判を一部の文学者,デカダンなり象徴主義者からかちえる.「私はオデイロン・ルドンの仕事の中に怪物をみない.(・・・)彼にあっては,さまざまな夢が,彼があたえる本当らしさによって現実のものとなるのだ.彼の描く植物,萌芽的な生物はみな本質的に人間的であり,私たちとともに生きるものだ」(ゴーギャン,1889年)と言ってくれる人はごく稀だったのである.

 とはいえ,文学者のあいだでの評判が,無名な素描家であり版画家にすぎなかったルドンを世に出すのに役立ったことは否定できない.そして,それとともにルドンは〈黒〉,そのロマン主義的な苦悩を脱して,く色彩〉へ次第に踏みこんでゆくのである.その移行は1890年代・(50歳代)にほぼ完了する.

 しかしながら,たんにルドンのまわりに名声がついてきたというだけの理由で,〈黒〉との訣別がなされたというわけではないだろう.まず,外的な理由がある.ふつう真先にあげられるのは,く黒〉の母胎ともいうべきペイルルバードの喪失,オディロンの反対にもかかわらずなされたルドン家によるその売却である.実際,「慣れ親しんだ場所を離れることはいつも私においては一種の死であった」.しかしペイルルバードが売却されたのは1897年であり,その後も新しい持主の好意によって,彼はしばしば滞在することを許されている.その一方で,〈黒〉との離別はすでに1890年頃からはじまっているのである内的な理由はどうだろうか.老年による体力の衰えというのはもっともらしい理由であろうが,創造の本質にかかわる問題が,こんなに簡単にすむわけがない.いずれにしろ,ルドンはく黒〉の素材,すなわち木炭にたいする興味をしだいに失ってゆく.

 私は昔のように木炭画を描こうとおもいましたが,だめでした.それは木炭と決裂したということです.実をいえば,私たちが生きながらえるのは,ただただ新しい素材によってなのです.それ以来,私は色彩と結婚しました.も うそれなしで過ごすことはできません(モーリス・ファブル,1902年7月21日)

 1895年のべイルルバードでは〈黒〉はまだ死んではいなかった.私は,聖アントワーヌの誘惑の新しいシリーズに取りかかるつもりでここにやって来たのですが,自然に逆らわないためにふたたび木炭を取りあげました.ここはその源泉です.だから私は譲歩するのです」(ボンゲル宛,1895年8月7日).しかし,こうしたなにげない表現のなかに,〈黒〉との,木炭との訣別の意志がはっきりと姿をあらわしているといえないだろうか.そして,木炭にとってかわったものこそ,他ならぬパステルであり油絵具であった.ボンゲル宛の手紙の数カ月前に,ルドンはエミール・ベルナールに書きおくっている.

 私が少しずっ〈黒〉を見捨てているというのは本当です.ここだけの話ですが,それは私をくたくたにさせるので す.おもうにそれはその源泉を私たちの肉体の奥深いところからとっている,要するに,それはもっとも本質的な 色彩なのではないでしょうか.むかし,デッサン(もちろん,不完全なものですが)を描きましたが,そのやり方だと,描きおわってみると,まるで力を出しすぎたあとのようでした.色彩はこれとはまったく別のものです.いまパ ステルに手をつけています.それに,サンギーヌも.この 柔和な素材のおかげで私はくつろぎ,楽しい気分になります(1895年4月14日).

 ところで,こうした〈黒〉から〈色彩〉への移行を,作品における二重性の観点からみてみるとどうなるだろうか.1890年を境として登場してくる,ルドンの華麗で幻想的な〈色彩〉にかつての〈枠取り〉と〈仕切りの〉をみることは,むろん可能である.しかしながら,〈色彩〉による新しい局面であり,またルドンの最高の成果ともいうべき,く花と乙女〉の主題による作品は一見したところ,こうした基本構造とは無縁のようにおもえる.とはいえ,これはふたつの基本構造が無効であることを意味するのではない.むしろ,〈花と乙女〉という真に夢幻的な主題においては,〈枠取り〉と〈仕切り〉といった区別が発展的に解消され,両者はこの世のものならぬ聖なる内面空間へと綜合されていると考えるぺきなのだ.

 こう考えてこそはじめて,ほとんどが横顔の乙女と虚空に咲きにおう超自然的な夢幻花との,霊的ともいうべき対話の理由がほぼ明らかになるのだ.そこはあくまでも,画面という〈仕切り〉のむこうの想像空間であり,ある〈枠取り〉によって花々が乙女であり,乙女が花々であることが保証されている秘密の領域なのだ.そして,その際,たとえば≪ヴァイオレット・ハイマンの肖像≫(1909年,パステル,クリーグランド美術館)の場合に端的にみてとれるように,乙女がけっして花々を見ているわけではないことは,強調しておかねばならない.花々と乙女は別々に,まったく独自に,ある神秘的な世界を共有することで共に聖化されているのだ.こうした「両極としての婦人と花々」(サントシュトレーム),これこそが晩年のルドンが到達した,天上的なまでに清浄な境地を支えているのである.むろん,このルドン独自の主題にいくつかの先行例はあるであろう.しかし,たとえばサントシュトレームの指摘する,ラファエル前派なりピサネロの,花々に装飾された肖像画がルドンに決定的な影響を及ぼしたとは考えにくい.それよりむしろ,ルドンにおけるく花と乙女〉の主題およびその聖なる内面空間は,〈黒〉を規定していた〈枠取り〉とく仕切り〉の必然的かつ,内面的な発展として考える方が,オデイロン・ルドン,この樹木のように生きた画家にはふさわしいのではないだろうか.

 ルドンの花々はたんなる装飾ではないし,だからといって,ゴーギャンの場合のように背景(壁紙の花模様)として画面の意味内容に参加する類のものでもない.それらはまさに,自らの色彩をまとって自立する花々であり,「再現と想起という二つの岸の合流点にやってきた花々」,現実的であると同時に非現実的な花々なのである.つまり,ここにおいてはじめて「長年彼が希求していたく精神的なもの〉〈現実的なもの〉の綜合」は達成され,ルドンは心ゆくまで夢想を楽しむことになるのだ.ルドンの〈色彩〉についての最初の本格的な論評をものしたルブロン兄弟の言葉をかりれば,く黒〉のなかにいたルドンは,「光の必要性を感じ,あたかも天国にむかうがごとく色彩めざして上っていったのである」.

 ルドンのまさに天上的なパステルによる花々について,当時の批評家フォンテナスは書いている.

 花がパステルになったのか,パステルが花に変容したの か誰もしらない。それは手つかずで現われでる.それは控え目だが変わることのない匂いがする.それは妖精だろうか.女神だろうか,いや,それ自身である。オーロラの微笑のように,愛の喜びのように。それはひとりで,晴れ晴れとしてそこにいる,つまり自ずから生じたのだ.

 しかしよくみれば,そうした天上的とも彼岸的ともいえる色彩の乱舞のうちにも,あたかも深淵のように,鉱脈のように,あるいは水脈のように,あの深々とした〈黒〉が反響しているのである.いまいちど,ルドンが語ったという金言をおもいおこそう.「自然とともに閉じこもること」・・・これはある意味で光のうちに闇を取りこむことであり,色彩のうちに黒をひそませることではないだろうか.いずれにしろ,「自然とともに閉じこもること」・・・このおどろくほど単純な表現のなかには,ルドンの本質ばかりか19世紀末芸術における<二重性〉のすべてが言いつくされているといっても過言ではないのである.


■ルドンの作品