ダダ運動年表史-3-1922-1939

 ■1922

アムステルダム。市立美術館におけるピートモンドリアン回顧展

ワイマールファン・ドゥースブルフによる新造形主義の私的な講座。バウハウスの学生も聴講するが,同校の一員として加わるように誘われることはなかった。ファン・ドゥースブルフはドイツに「デ・ステイル」の思想を普及させる運動に精力を注ぎ,これと並行して,ダダへ傾倒する面での分身として選んだ仮名I.Kボンセットの名で雑誌「メカノ』を創刊する。1922年から1923年にかけて全部で4号が・・・号ごとに色分けされて・・・刊行された。

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デュッセルドルフ,5月。「進歩的」芸術家の国際「会議」開催。ダダイストと構成主義者との初めての出会い。この年の秋,ワイマールでも同じような会合がもたれ ファン・ドゥースブルフ,リシツキー,グレーフ,モホイ=ナジ等が出席。

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パリ,1月。アンデパンダン展組織委員会に対して,自分が送った作品のうち(典型的なダダの)2点の出品を会長ポール・シニャックが拒否したことに抗議するピカビアの宣言書。

・・・。マルセル・デュシャン,ニューヨークへ。

・・・,2月。ブルトンは2月初めレジェ,オザンファン,ドローネー,オーリック,ポーラン,ヴィトラック等から成る組織委貝会により「綱領決定と現代精神擁護のための会議」を開催すべく奔走する。委員として加わるように求められたツアラはこの大袈裟な目標を掲げた計画を拒んだ。憤慨したブルトンは「コメディア』紙に声明を載せて,ツアラを「チューリッヒからやってきた(…)宣伝に躍起になる山師」と決めつけた。当時サン=ラファエルにいたピカビア宛ての手紙でブルトンは「ダダがいくばくかキュビスムを始末したようにダダを始末する」という意向を漏らす。2月17日、カフェ「クロズリ・デ・リラでの抗議集会におけるブルトンに対する満場一致の非難動議。ツアラヘの個人攻撃の言辞とブルトンの姿勢を批判する共同決議は、サティ,マン・レイ,パンセール,ツアラ,ズダネーヴィッチ,コクトー,リブモン=デセーニュ,エリュアール,ウィドブロ,メッツアンジェ等によって起草され,採択された。一方,サン=ラファエルではピカビアが創刊号限りの雑誌「松かさ』を出版し,そこで国際会議を支持する旨を表明し,ツアラに鋭い舌鋒を浴びせかける。また,パリとサン=ラフアエルでピカビアとエルビエの「キュビスムはもうたくさん』というチラシが撒(ま)かれる。

・・・,4月。ツアラ,色紙に印刷した「ひげのはえた心臓 透明な新聞」を出版。問題の会議について「近代主義の会議の連中は信頼のならない山師たちの脅しに屈して,数日前,鎖に繋がれた犬のように著名な理論家たちの諸方針の間で跳ね回るというこの卓抜な着想を放棄することに決定した。会議はチョコレートの国家主義によって,ヴァニラの匂う虚栄によって,そしてなにごとにつけ細かい同胞のうちのある連中のほとんどスイス的といえる愚かさによって,息絶えたのである」。

・・・,11月。オレニーヌ・ダレーム夫人のアトリエにおけるイリヤ・ズダネーヴィッチ(イリアズ)とエリエアール,スーポー,ツァラの講演会。ズダネーヴィッチはパリでロシア未来派が提起した主張,なかんずく超意味言語による詩と斬新な構成主義のタイポグラフィーを知らしめようと努めた。

リヨン,7月。エミール・マルピーヌの雑誌「マノメートル(圧力計)』創刊(1928年1月までに9号)。国際的なダダならびに構成主義の動向に沿う雑誌となる。

ベルリン,1月。エレンプルク著「それでも地球は回っている」出版。「生産主義」へと展開したロシア構成主義が掲げた諸々の主張の大半が盛り込まれた。

・・・,3月。リシツキーとエレンブルクの雑誌「ヴュシチ/オブジェ/ゲーゲンシュダント(物)」ならびにセルジュ・シャルシューヌの「ダダ積かえ機」誌創刊

・・・,夏。フシャールとリートフェルト,大ベルリン美術展に「展示空間」を出品。

ユトレヒトリートフェルト、新造形主義建築の最初の成果となるシュレーダー邸の仕事に着手。

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ワイマール。バウハウスの演劇部門においてクルト・シュヴァートフェーガールートヴィッヒ・ヒルシュフェルト=マック抽象的形態から成る光のスペクタクルに取組む。buehne_schwerdtfeger

彼らの創造はその発想においてリヒターとエッゲリングの抽象映画にきわめて近い。

シュトゥットガルトオスカー・シュレンマーの「トリアディック・バレ」初演。その後,シュレンマーはバウハウスで抽象的な・・・機械的にして構成主義的な・・・演劇という思想を掘り下げ

パリマン・レイ最初のフォトグラムを制作し,トリスタン・ツアラの序文が付されたフォトグラム集「甘美なる場」を出版する。

ベルリン。シュトゥルム画廊におけるモホイ=ナジの最初の個展。リシツキーによる展評,雑誌「ヴェシチ」第3号(ベルリン,1922年5月)に掲載。

ウィーン,2月。雑誌「MA」プニー特集号。コッシャークの国際的で開放的な姿勢に同調できず,ベーラ・ウイツはハンガリーの共産主義作家とともに別の雑誌を創刊するために「MA」を脱退する。

・・・,5月もベーラ・ウイツとアラダール・コミャートによる雑誌「エジセーグ(単一)』創刊。

・・・,9月。モホイ=ナジとコシャークは一種の構成主義の年鑑誌である「新しい芸術家の書」を出版する。またコシャークは「MA」に構成主義宣言「絵画建築」を発表した。(フランスでエミール・マルピーヌの雑誌「マノメートル」に再掲)。

ローマ,9月。国際的なダダと構成主義の諸動向が十分に反映された雑誌「ブルーム」(発行地,ローマ,ベルリン,ニューヨーク)

バルセロナ,11月。ダルマウ画廊でのピカビア個展の前日,バルセロナ文芸協会でアンドレ・ブルトンによる講演「現代的発展の性格とそれを分つもの」。

ニューヨーク,3月。「リトル・レヴュー」誌ピカビア特集号。

・・・,12月。「ソシュテ・アノニム」の展示会場でジャック・ヴイヨン展。

ブラジル。サンパウロのモダニストの雑誌「クラクソン(警笛)」発刊。フランスの「エスプリ・ヌーヴオー」誌のオザンフアンとル・コルビュジェと交流。

モスクワ,1月。ステンべルク兄弟のアトリエにおけるⅤ.ステンべルク,G.ステンべルク,メドゥネッキーの「構成主義者」展。出品作の一覧とグループとしての宣言を載せた目録が出される。無対象の,二次元ならびに三次元の作品,つまり「構成」と「空間の装置」の展示。この年春,マルクス主義の批評家アレクセイ・ガンが小冊子「構成主義」を出版する。結局,これが「生産主義」の純然たるイデオロギー的綱領の武器を提供することになった。

・・・,3月−4月。「地方美術派」展において「ウノヴィス」グループの作品が展示される(目録なし)。美術家の会合で,マレーヴィッチのグループは公然と反生産主義の立場をとった。「我々の労働の材料,それは形である」とマレーヴィッチは記す。

・・・,4月。メイエルホリドの構成主義的な演出によるクロムランク作「堂々たるコキュ」上演。ポポーワによる「生産主義」の舞台装置。

ヴィテブスク(ベラルーシ),4月。マレーヴィッチ著「神は投げ棄てられていない」出版。彼の人間主義的,形而上学的な信念が再確認される。ヴィテブスクの美術学校のシュプレマティストの部門が閉鎖された。モスクワでのポストを得ようという努力も空しく,マレーヴィッチはベトログラードヘ移る。「ウノヴィス」の優秀な学生たち,スエーチン,チャーシュニク,ヒデーケリ,ユージン,エルモラーエワ,コーガンがマレーヴイツチにつき従った。

モスクワ,11月。メイエルホリド演出によるスホウオー=コブィリン作「タレールキンの死」上演。ステパーノワによる構成主義の舞台装置。以来,演劇における構成主義・・・生産主義的傾向の・・・は20年代ロシアの前衛的な劇場の支配的な様式として定着する

ぺトログラード(ロシア),6月。新設の絵画文化館の展示室における「芸術における新傾向の展望展」開催。出品者・・・レーべジェフ,マレーヴィッチ,セニキン,タトリン,ドゥイムシッツ=トルストイ(タトリンの弟子),マンズーロフ,ユルケーヴイツチ,クラン。タトリンが出品した無対象の作品,とりわけモノクローム「単色の板」が新聞紙上で批判にさらされた。

・・・,6月28日。詩人ヴェリミール・フレーブニコフ,サンダロヴオで死去。

ベルリン,5月。リシツキー,大ベルリン展で「11月グノウープ」に充てられた会場に6点(内4点が「プロウン」)を出品。「デ・ステイル」誌が彼の「ブロウン」論を掲載。また,ヴィテブスクで制作したシュプレマティストの「童話」である「ふたつの正方形の物語」を出版する。

・・・,10月−11月。ファン・ディーメン画廊(ウンター・デン・リンデン21番地)での「第1回ロシア展」。目録には594点の記載がある。アリトマン,パラノフ=ロシネ,ドレーヴィン,エクステル,フィローノフ,カンディンスキー,クルツイス,リシツキーマレーヴィッチ,メドゥネッキー,マンスーロフ,ポポーワ,ロトチエンコ,ローザノワ,ウノゲイス,ステパーノワ,イオガンソン,ストシュミンスキ,タトリン,ステンペルク,G.ステンべルク,ガボ等の無対象の作品が初めてヨーロッパの公衆の目に触れた。この展覧会を機に講演会が催されるが,それに先だち雑誌「ヴュシチ」が創刊された。ベルリンに次いで,この展覧会は1923年初頭,アムステルダムの市立美術館へ巡回する。図版入りの目録が改版される。ベルリンで売却されたものがあったので,新しい出品作品が加えられる。ドライアーもこの機会に「ソシュテ・アノニム」の所蔵品として数点を購入。展覧会の開催はヨーロッパ中に鳴り響いた。

年末。シュヴイィッタースの肝入りで,リシツキーはハノーファに招かれる1923年にはケストナー協会が所有するアトリエに滞在することになった。フリードリッヒ・フォルデンベルゲ=ギルデヴァルトが1924年にこのアトリエを引き継ぎ,かくてこの都市における真の抽象の伝統が確立されることになった。

チェコスロヴァキア。構成主義を支持する傾向があった年鑑「ジヴォト(生活)2』の出版。

ブカレスト(ルーマニア)。「punct』誌刊行。この構成主義的な傾向の雑誌はその後「Comtimporanu」と改称。

ザグレブ(クロアチア共和国)。ドラガン・アレクシチ,ダダの雑誌「ダダ・ジャズ」と「ダダ・タンク」を発行。ヴァレリ・ポリャンスキ(「ツェニートZenit」の協力者),l号限りの雑誌「ダダ・ヨク」を刊行する。この時点で,ダダはヨーロッパにおいてもっとも広範な拡がりを達成した。180

ヤンボル(ブルガリア)。キリル・クリステフ,テオドル・ドラゴノフ,イワン・ミイレフ,「クレシエンドCrescendo」誌を刊行する。そこで取り上げられたのは,とくに,テオ・ファン・ドゥースブルフ,タイーロフ,セリーヌ・アルノー,トリスタン・ツアラ,バンジャマン・ベレ等の主張であった。同じようなテーマは2年後「プラマク(炎)」誌によって受け継がれた。編集は詩人のゲオ・ミイレフで,とくに,カレル・タイゲ,ヘルヴアルトヴァルデン,マリネッテイ,マヤコフスキー,テォ・ファン・ドゥースブルフ,ポール・デルメー,ミシェル・スフォール,イリヤ・エレンブルク等の文章が掲載された。ブルガリアの左翼に素早く襲いかかったファシストの圧力1923年9月ゲオ・ミイレフは暗殺されたによって近代主義的な思想の発展は長い間頓挫を余儀なくされた。二人

オランダ。年末からファン・ドゥースブルフ,クルト・シュヴィッタース,ネリー・フアン・ドゥースブルフ,各地に「ダダ行脚」。


■1923

アムステルダム,1月。ベルリンで催されたロシア美術展がアムステルダムの市立美術館で開かれる。

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ハノーファ(北ドイツ)クルトシュヴイツタースの「メルツ」誌創刊し「オランダ・ダダ」号刊行。

ハーグ(オランダ),3月。ファン・ドゥースブルフアルプ,シュペンガーマン,シュヴィッタース,ツアラの「プロレタリア芸術宣言」・・・「我々が求める芸術とは,プロレタリアのものでも,ブルジョワのものでもない。なぜなら,それが,社会的関係から生じるのでなく,文化全体を発展させるに十分な活力を発揮するからである。プロレタリアは克服されるべきひとつの状態である。しかし,プロレタリアは「プロレタリア文化」というかたちで「ブルジョワ文化」を模倣している限りは,まさにこのブルジョワのくさった文化を支えているのだ。そして,このことは意識されないままで,美術にとっての損失,文化にとっての損失となっている」。

パリ,2月−「サル・ビュリエ」での「ザーウミ」(超意味言語による詩)の詩人たちを称える「超理性的」仮装舞踏会(ロシア芸術家協会の救済資金のための慈善舞踏会)。このときツアラとエリュアールが反目したが,会は大成功をおさめる。「熱狂の時代」のパリはこの当時擬似ダダの異国情緒に夢中であったようにみえる。ダダイストの振舞いは純然たる気晴らしとして受け取られ創造的な攻撃性の牙を抜かれていた。

・・・,5月。モンドリアンに倣いファン・ドゥースブルフもこの地に居を定める。コルネーリス・ファン・エーステレンと建築モデルの仕事に着手。宣言「集団的な構築にむけて」を発表。ファン・ドゥースブルフの建築モデルにはエル・リシツキーの影響が反映する。

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・・・、7月。クラ出版社からツアラの旧作の詩を集めた詩「我々の鳥たちについて」出版。

・・・,7月7日。モンパルナスのロシア詩人・芸術家のグループである「チェレス」が主催した「ひげのはえた心臓」の夕べ。このグループはイリアズとツアラの交友に頼ってツアラに「ガスで動く心臓」を ミシェル劇場で上演することを求めた。J.バロン,R.クルヴェル,P.ド・マッソ等が舞台に立つ。グラノフスキーによる構成主義の舞台装置,そしてソニヤ・ドローネーの「同時的」な衣裳。この催しではマン・レイの短篇映画「理性への回帰」またチャールズ・シェーラーとポール・ストランドの「ニューヨークの煙」(この映由の原題はManaHatta)も上映された。将来のシュルレアリストたちが激しく反発したこの夕べはダダイストと(将来の)シュルレアリストとの文字通りの乱闘に変じた。アンドレ・ブルトンは舞台に上り,ステッキでド・マッソを一撃して,腕を骨折させエリュアールはツアラとクルヴェルの顔を殴るアラゴン,ランプール,ノル,モリーズ,ゴルはエリエアールの連行を阻止しようとして警察に腕力をふるった。翌日に予定された上演は劇場の支配人により延期される。

・・・,10月。レオンス・ローザンベールの「ギャルリー・ド・レフオール・モデルヌ」で「デ・ステイル」建築展リートフェルト,アウト,ウィルスによる新造形主義の建築模型,またミース・ファン・デル・ローエの摩天楼のプロジェクトも展示された。

・・・,10月。デュシャンパリに移住してきたロシアの構成主義者アントワーヌ・ペヴスナー(ナタン・ペヴズネル)をパリ北駅に出迎える。レーニンによる新経済政策(ネップ)が布告されてからモスクワを去ったペヴスナーは,ベルリンにしばらく滞在した後でパリにやってきた。

・・・,11月。イリアズ著「先導者ルダンチェ」出版。

ブリュッセル(ベルギー),3月。マルセル・デュシャン,6月まで滞在。

ワイマール,春。モホイ=ナジ,バウハウスの「親方」に迎えられるアルバースともども,予備課程を担当。その後,モホイ=ナジは金属工房と印刷工房でも教える。

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・・・,7月~9月。バウハウスの最初の大規模な展覧会の開催。この年の国際的な大事件となり,ヨーロッパの美術家が数多く足を運んだナウム・ガボもバウハウスと接触し,初めてワイマールを訪れたときに,ロシア構成主義に関する講演を行う。もっとも,学生たちはモホイ=ナジに教えられて,すでに聞き知っていた。

ベルリン,7月。ハンス・リヒターの「G(ゲシュタルトウング)」誌創刊。この雑誌は構成主義のフォーラムとなり,抽象映画,建築,シュプレマテイズム等に誌面を提供する。

・・・、夏。リシツキー大ベルリン美術展に「プロウン空間(プロウンネンラウム)」を展示。西欧において初めて三次元のシュプレマテイズムが具現された

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・・・、 ヴィキング・エッゲリング,抽象映画「対角線のシンフォニー」の製作に着手。恋人エルナ・ニーマイアー(後のレ・ニーマイアー=ズーポー)の力を借りる。11月5日に行われたこの映画の最初の(私的な)上映は近代美術史における画期をなす。

ハノーファ,3月6日。現代ロシア美術に関するリシツキーの講演会。

ベルリン。リシツキー,マヤコフスキーの詩集「声のために」を出版。この本はリシツキーの「目で見る本」についてのシュプレマティスト的な概念を初めて具体化したもので,構想はマレーヴイツチの周辺で活動したヴィテブスク時代(1920年)の仕事に遡り,マレーヴィッチから霊感を吹き込まれた。今日に至るまで,この本は構成主義のタイポグラフィーの頂点を極めたものとしての地位を保持している。リシツキーはグーテンベルク協会からも論文を求められ名誉会員となる。

ハノーフア。ケストナー協会からリシツキーの石版画集「プロウン」が出版される。同じく石版画集「太陽の征服」も出版されたが,それはマレーヴイツチの有名な未来派のスペクタクルのテーマを構成主義的・機械論的に自由に翻案したもの。リシツキーはヴィテブスクでの上演によってこの作品に接していた。

ポツダム(ドイツ)。タイーロフ著「制約のない演劇」のドイツ語訳出版。ドイツ語版の表紙はリシツキーによるデザインであるのに対して,1921年モスクワで出た原著は画家で,タイーロフお気に入りの舞台美術家アレクサンドラ・エクステルによる表紙と挿絵。タイーロフの思想は20年代・30年代のドイツ演劇界の展開を大きく左右した。

モスクワのカーメルヌイ劇場は西欧に(ドイツとパリに)大公演旅行を行う。これを機にパリのポール・ギョーム画廊では,3月23日一目限りの「モスクワ・カーメルヌイ劇場の舞台模型展」が開催された。ウラジーミル・ステンべルクとゲオルギー・ステンべルクそしてコンスタンチン(カジミェシ)・メドゥネッキーの無対象の作品が同時に展示される。

モスクワ,5月。4回目にして最後の「オブモフ」展開催。イデオロギー上の理由から「純粋」な芸術品を排除し「実用的」な仕事,すなわちポスター,書り文字,タイポグラフィー等に絞った展覧会。ミトゥーリッチの個展が開催され「造形のアルファベット」(抽象的な構造の構想の総覧のごときもの〉などが展示された。フレープニコフの詩が三次元に転換され「空間的な表記法」・・・すなわち文字が彫刻的な物体となる・・・と命名された。この試みはラウル・ハウスマンの音響のポスター(ベルリン,1920年)の主張に比較されよう。

・・・,9月。大規模な「全ソ農業博覧会J計l巳構成主義者により設計され装飾されたバヴィリオンがあった・・・エクステルによる「イズヴェスチヤ」紙の塔と牧畜館,メリニコフによる「マホルカ」館など。

ぺトログラード(ロシア),3月1日。「熱烈な視覚」の理論に立脚した運動のスペクタクルがマチューシンの「ゾル=ヴェド」グループにより美術学校の「有機的文化」の工房で上演される。

・・・,春。芸術文化研究所,正式に発足。各部門をマレーヴィツチ,タトリン,フィローノフ,マチェーシン,マンズーロフが担当。批評家プーニンが「学術部長」となる。この「研究所」は,実際はほとんど名ばかりの「研究」の機関であり,社会的な影響力をもっていなかった。公式には1927年に閉鎖されるが,1926年以来すでに重大な危機に直面していた。

・・・。5月15日から夏いっばい,美術アカデミー内の展示会場で「ぺトログラード画家の全傾向の絵画」展が開催される。目録は1621点を記載。マチューシンの「ゾル=ヴュド」グループ,「ウノヴィス」(匿名で作品が出品されたが,マレーヴイツチ,チャーシュニク,ヒデーケリ,エルモラーエワ,スエーチンが識別できる),フィローノフ,タトリン,マンスーロフなどが参加。これを機にいくつかの宣言・・・マチューシン,フィローノフ,マレーヴィッチ(「ゼロ」,つまり「究極的な認識」の宣言)等の宣言、・・・が発せられる。これは美学上の検閲を免れた最後の大規模な展覧会であったが,新聞雑誌で激しい非難にさらされた。プーニンはこのとき無対象芸術を擁護した数少ない批評家のひとりであった。

パリ。ヴフテマス(高等芸術技術工房)に学び,少し前にパリに移住していたグラノフスキーはアンデパンダン展に金属とガラスの無対象の構成を出品する。批評家モーリス・レイナルが注目。それ以前にも,ダラノフスキーは動く作品を含む無対象の仕事を展示する一日だけの展覧会(1月1日)をモンパルナスのカフェ「ロトンダ」で開催していた。

ヴィリニュス(リトアニア),5月-6月。ストシュミンスキとカイルクシュティス(モスクワの自由芸術工房でマレーヴイツチに学んだ)によって組織された「新芸術展」開催。出品者はヴィトルトカイルクシュティス,カロル・クリンスキ,マリア・プチャティッカ,ミェチスワフ・シチュカ,へンルイク・スタジェフスキ,ワジスワフ・ストシェミンスキ,テレサ・ジャルノヴェル。ストシュミンスキのシュプレマティストのタイポグラフィーによるポーランド吾の目録が発行され複数の宣言が掲載された。この展覧会は未来のポーランド構成主義者の集団行動であり,またマレーヴイツチのシュプレマテイズム以後の独創的な展開・・・「ウニスム」がその結論である・・・を示す最初の動きとなる。

ベルリン,12月。シチュカとジャルノヴュル,シュトゥルム画廊で構成主義的な彫刻を展示。展覧会目録あり。

プラハ。「現代美術のバザール」(1920)年ベルリンでの「ダダ見本市」に触発された名称の)展覧会の開催。絵画,素描,汽船や飛行機や機械の写真等を貼りつけたコラージュが出品される。ダダ的な発想による展示で,構成主義的で「ポエティスム」的な(ダダそして後にシュルレアリスムから霊感を得た)前衛の活動が開始される。インジフ・スティルスキーは最初の構成主義の宣言を発したが,その「絵画」と題された宣言は「ディスク」誌に掲載される。テオ・ファン・ドゥースブルフ,エレンブルク,シュヴィッタースの講演会が催される

クラクフ(ポーランド南部),構成主義を擁護する雑誌「ズヴロトニツァ(転轍器・てんてつき)』創刊。これを主宰した作家タデウシ・ペイペルにはベルリンの芸術界やバウハウスと緊密な絆があった。

東京,2月。辻潤編,佐藤春夫讃序の高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩』が中央美術社から刊行される。


■1924

ワルシャワ,3月15日。へンルィク・ペルレウィ,アウストロ=ダイムラー杜の自動車ショールームで絵画展開催。これを機に小冊子「メカノ=ファクトゥーラ』を出版する。リシツキーを通じてロシア構成主義の思想に触れたおかげで,ベルレウィはテクスチュア(ファクトウーラ)という概念(元来は1914年にⅤ.マルコフが提唱した概念)のフォルマリズム的な解釈に夢中になった。ロシアにおいても20年代初めこのテーマが同じような展開(アルワートフによる)を遂げている。ベルレウィがこの美学に忠実であったのはほんのしばらくのことではあるが,この年,大ベルリン美術展にも「ファクトウーラ」の仕事を出品する。

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・・・,12月。構成主義者のグループ「プロク」に属すマリア・ニッチ=ボロヴィアク,スタジェフスキ,シチュカ,ジャルノヴェルはホテル・ポロニアの芸術クラブにおける展覧会に奉加。

オランダファン・ドゥースブルフ,宣言「造形的建築にむけて」を発表。リートフェルトはユトレヒトで新造形主義建築の最初の実現となるシュレーダー邸の建設作業に取りかかる。ファントンヘルローは数学的公式に基づく彫刻を排し.またフランス語で「芸術とその未来」を出版。

ハノーファ。ハンス・ニチュケ,フリードリッヒ・フォルデンベルゲ=ギルデヴァルト,構成主義を広めるためにグループ「K」を毛皮。シュヴィッタースを通じて,フォルデンベルゲ=ギルデヴァルトはハンス・アルプテオ・フアン・ドゥースブルフの知己を得る。

ベルリン。ノイマン画廊におけるリシツキー個展。ウィーン。キースラー.コンツェルトハウスで大規模な「国際劇場技術展」を組織する。この展覧会は大戦後の現代演劇の集約点となった。ロシアの構成主義者の参加が評判を呼ぶ。

モスクワ。L.ポポーワの葬儀と遺作展が無対象芸術の公的な叙事詩の終末を告げる最後の公の出来事となる。図版を挿入した出品目録(ロトチエンコによるデザイン)には93点が記載され二篇の文章(うち一方はオシップ・ブリーク)を収める。

・・・,5月「行動的(原文通り)革命芸術協会交流展」開催。何篇かの論文を掲載した目録。構成主義の流れをくむことを強調するいくつもの集団,「構成主義者」,「具体主義者」,(A.ガン率いる)「構成主義者第一探求グループ」,あるいはチャイコフ,レージコ,トウイシュレル,プルサコフ,ヴイヤーロフなどが顔を合わせた。ロシア構成主義の分裂と破局であった。

・・・。プロトザーノフ監督,1923−24年冬,アレクサンドラ・エクステルの衣裳とセットによる映画「アユリータ」を製作。

ヴェネツィア,夏。「第14回ヴェネツィア国際美術展」(ヴェネツィア・ビエンナーレ)開催

第14回ヴェネツィア国際美術展

挿図入りの目録が発行される。ソヴイエト館では二室が無対象芸術に充てられ エクステル,ポポーワ,ロトチエンコマレーヴイツチ(20年代初頭に再制作した「黒い正方形」などの抽象的な作品が展示される。イタリアではロシアの参加作品は好評を博したようにはみえない。唯一それを専門的に撲った一書,パラデイーノ著「ソヴィエトロシアの芸術』(ローマ,1925年)も抽象的な仕事を足早に通りすぎる。マリネッティという個人の枠の内部にあったイタリア未来派は公衆の面前での数多くの示威行動には本腰をいれたが,ロシアの無対象芸術については知らぬ素振りをした

モスクワ,レニングラード。「第一回ドイツ美術展」開催。アドルフ・べ−ネとエリック・ヨガンゾーン(ベルリン)による二篇の論文を掲載した出品目録が発行された。展示品には,ハンス・アルプ,ヴィリ・バウマイスター,ニコラス・ブラウン(発光するレリーフ),ゲオルク・グロッス,ヴァルター・デクセル(抽象的な構成),オットー・ディックス,エトムントケスティング,パウル・クレーモホイ=ナジ(エナメル彩の電話による発注画),ネールリンガー,ラスロ・ペリ,クルトシュヴィッタース(メルツの仕事)などによる抽象の作品やダダの仕事も含まれていた。

レニングラード,6月。「芸術文化鮨〔実際は芸術文化研究所〕の活動概要」展が研究所内で開催される。目録は印刷されず。タトリン,フィローノフ,マンスーロフ,マレーヴィッチ,マチューシン,そして彼らの教え子たちが出品。この研究所の活動はほとんど公開されないままに留まる。

パリ,6月5日一7月5日。ペルシエ画廊(ラ・ボエシー街38番地)における「ロシア構成主義者 ガボとペヴスナー 絵画と構成」展。ワルドマール・ジョルジュ序の目録が印刷される。当時この企画はまったく反響を呼ばなかったので,結局パリにおけるこの種の最初にして最後の展覧会となる。(ガボはパリで自殺未遂をはかった。その一年前,リシツキーもパリで同じ振舞いに走った。社会的な活躍の場面が増えたにもかかわらず,抽象美術の第二世代はある人格的な弱さをみせ,最初の世代の「抽象の大家」,カンディンスキー,モンドリアン,マレーヴイツチの哲学的,精神的な遥しさとは対照的である。)

チューリッヒ。リシツキーとアルプ共著「諸芸術主義』出版。この本は斬新な傾向の簡潔な総覧のようなものであり,純然たる形式主義的な様式史タイプの美術史が枯渇したことを白日のもとに晒し,批判するものであった。驚嘆すべきレイアウトはリシツキーの手になるが,それはまた閉じられた−なぜなら歴史化されるべく評価に委ねられたから−ひとつの時代の総決算となった。

ブカレスト,12月。雑誌FContimporanuり,初めて国際展を主催。ポーランドやルーマニアの構成主義者が参加するが,これがルーマニアにおける近代主義の叙事詩の項点でもあり,また結末ともなった。

ベオグラード,4月9日−19日。ミチチ率いるグループ「Zenit」,最初の「国際新興美術美術展」を開催。ドローネー,グレーズ,モホイ=ナジ,アルキペンコ,カンディンスキー,リシツキーなどが参加する。−−−。プランコ・ヴェ・ポリャンスキ,詩集『太陽のもとの巌古u出版。副題は「バルカンのアルファベットの悲劇」。そこにダダイストの音響詩の探求の影,またベルリンのフアン・ディーメン画廊でのロシア美術展に触発された構成主義への関心が認められる。ポリャンスキーは同展について注目に値する評を書いていた。

バリーライデン。フアン・ドゥースプルフは「基本要素的」絵画の新理論を練りあげる。そのために,モンドリアン(「斜線的なもの」と呼んだ)と論争することになり,モンドリアンが「デ・ステイル」グループから脱退するという結果を招く。この時点から「デ・ステイル」はもはや様式的な統一性を保てなくなる。−。アンドレ・プルトン,「シュルレアリスム宣言」を発表。それはシュルレアリスムをとりわけオートマティスムという面から位置づけて,ダダとシュルレアリスムとの乱轢の終結を告げるものであった。そこヘビカビアは自分の雑誌F391」の終刊号を出して,シュルレアリスムへの対決姿勢を明らかにした。以後,パリにおける革新的な作家たちは互いに対立して,はっきりと色分けされ著しく党派的な各々の集団に組み込まれることになる。


■1925 

パリ,夏。「国際装飾産業美術展」開催。総合日録とは棚にパンフレット「ソ連邦の装飾産業美術」が刊行される。ソビエトの参加部門は人々の耳目を集め,演劇,建築,応用美術,印刷,芸術教育(モスクワの高等芸術技術工房)について紹介する展示が行われた。構成主義的なパヴィリオンの建築はメリニコフによる。ロトチエンコはそのなかの一室に(生産主義の)「労働者の読書クラブ」を設置した。

ハノーファ,3月。クヴァーダー画廊でテオ・ファン・ドゥースブルフ個展。ドゥースブルフはフォルデンベルゲ=ギルデヴァルトのアトリエを訪れ「デ・ステイル」の一員に加わるように誘う。またニチュケのアトリエを挺点として構成主義者のグループが形成される。一方,クルトシュヴイツタースは「原音のソナタ」と患する音声詩を「メルツ」誌第13号として発表した。

クルトシュビッタース音楽

ロッテルダム。アウト,カフェ=レストラン「デ・ウニ」の新造形主義的な内外装を具体化する。

ベルリン,6月訪日。マルモルハウスで抽象映画の♯し。エッグリング,リヒダー,ルットマンの作品が上牧される。ドイツ映画における抽象の探求の頂点であると同時に,終焉への第一歩となる。

パリ,12月。ポーランド人ポズナンスキが組織した同房的な現代美術展「今日の芸術」開催。抽象やダダの傾が参加して展覧会を盛り上げ,フランスでは初めて構成主義の斬新な諸傾向を一堂に展示する機会となる。展覧会としては若干の成功を収めたが,フランスの美術界に長くその痕跡を止めることはなかった。アルプ,バウマイスター,ビュシェ,カーン,カールスンド,ドローネー,∫デクセル,ドメラ,マックス・エルンスト,エクステル,フシヤール,カカバーゼ,ミロ,モホイ=ナジ,モンドリアン,ニコルソン,ニチュケ,坂田一男,セルヴランク,フアントンヘルローなどが出品。

パリ。ダヴイートカカバーゼ,「芸術と空間」という文章(1924−お年パリで執筆)をグルジア語で発表。彼はそこでレリーフとアッサンブラージュの仕事を公表した。彼の作品には電灯を組み込んだ作例(1926年)がある。

デッサウ。バウハウス移転。1926年にはグロピウス設計の新校舎の建設が始まる。1925年からはバウハウスの出版物としてグロピウス,クレー,シュレンマー,カンディンスキー,マレーヴイツチ,モンドリアン,テオ・ファン・ドゥースブルフ等が執筆した一連の「バウハウス叢書」がミュンへンの出版社から刊行され始める。

モスクワ。画架芸術家協会の第一回展開催。目録が印刷される。ヴイヤーロフ,クリューン,シュテレンベルクなどが参加。展示作品には無対象の作例も見受けられたが,協会の主要な目標は具象絵画の復権であった。

・・・,4月21日−5月2日。国立芸術学アカデミー(芸術文化研究所に代わる機関)での「第一回映酉ポスター展」開催。ロトチエンコ,ガン,ラヴインスキー,ポポーワ等の作品を展示。

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ドレスデン。「キュール・ウントキューン」画廊でエル・リシツキー個展。ニューヨーク。「ソシエテ・アノニム」,アルフレッド・′シーの勧めでルイス・ロゾウイク著F現代ロシア美術jを上梓。そこでアメリカでは初めて無対象芸術と構成主義が取り上げられる。

プラハ。チェコの構成主義者カレル・タイゲとインジフ・ホンズルはモスクワヘ調査旅行を行い,ロシア構成主義者と交流する。プラハに舞い戻ると,ふたりは盛んにロシア構成主義について文章を発表し,タイゲはFソヴイエト文化(1927年)に,ホンズルはF現代ロシア演劇‖1928年)にまとめることになった。20年代を通じてチェコの美術家のなかに構成主義に同調する者たちがいた。この方面でもっとも注目される成功例はタイゲのタイポグラフィーの仕事(たとえばビエペルの文章のレイアウトと挿図)である。こうした彼の才能は1927年に出版されたF現代デザインjに浮彫りになっている。ラディスラフ・ストナルはこの流れに国際的な評価を与えた人物である。この他チェコの作家の達成として見逃すことができないのは,ヤロスラフ・ロスレル(フォトグラム)とエヴゼン・マイカロウズ(フォトモンタージュ)の写真の仕事である。雑誌FRed⊥ともども,グループ「デヴェツイル」は却年代におけるチェコスロヴァキアにおける構成主義的な思想を代表するものであった。

ワルシャワ。この年初頭から構成主義者のシチュカとジャルノヴェルと(後に)ウニスムを主張するストシュミンスキとコプロとのイデオロギー上の確執が表面化する。「プロク」グループは解散することになる。けロクj誌第11号は全誌面を使って建築と演劇を特集した。

ぺオグラード。ミチチ,反ヨーロッパの詩「エンジンのない飛行機」を発表。デュシャン,1934年の「ロトレリーフ」を予告する「回転半球」を構想するが,しだいに芸術制作から遠ぎかり,もっぱらチェスのゲームに打ち込む。


■1926

パリーストラスブール。ファン・ドゥースブルフ,ゾフィー・トイバー=アルプ,ジャン・アルプ,ストラスブールのカフェ「オーベット」の新造形主義的な改装の仕事に着手。ドゥースプルフはFデ・ステイルj誌に「エレメンタリスム」理論に関する文章を何篇か掲載する。

モンドリアン,ドレスデンのピーナート夫人のために新造形主義の寄間,またミシェル・スフォールの戯曲「瞬間的なものは永遠である」の新造形主義的な装置,それぞれの構想を練る。


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ニューヨーク,11月。「ソシエテ・アノニム」の最初の所蔵品展が,キャサリン・ドライアlによって組織され ブルックリン美術館で開催される。セルヴランク,フランシスカ・クラウセン,マルセル・カーン,マルセル・デュシャン,ピカビア,ヴアルミエ,カカバーゼ,バウマイスター,プープハイスター,マックス・エルンスト,ケスティング,クルト・シュヴイツタース,モンドリアン,フアントンヘルロー,モホイ=ナジ,ペリ,アルキペンコ,プルリューク,カンディンスキー,リシツキー,ペヴスナー,パウル・クレーなどの訓7点が展示された。1926年12月8日の展覧会開会式でダヴイートプルリュークがロシア語で現代美術に関する「簡潔さ,色彩,線の啓示」と題する講演を行う(ドライアーが同時通訳し,未来派的な演出をする)。

ベルリン,夏。大ベルリン美術展で抽象美術に広い会場が充てられた。アルキペンコ,バウマイスクー,プープハイスター,ドローネー,マックス・エルンスト,イッテン,カンディンスキー,クレー,モホイ=ナジ,モンドリアン,シュヴイツタース,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルトなどの作品が展示された。

モスクワ。画架芸術家協会第二回展開催。日録が印刷された。シュプレマティストのクドリヤショーフは唯ひとり抽象的な作品(宇宙を主題にした)を出品。一。第二回目の「映画ポスター」展開催。日録が発行された。アリトマン,ラヴインスキー,メドゥネッキー,ナウーモフ,プルスサコフ,ロトチエンコ,㈸.ステンペルク,G.ステンペルク等の出品。

レニングラード,6月。「芸術文化館〔実際は芸術文化研究所=ギンフク〕の活動概要」展,同研究所で開催。目録なし。無対象表現の諸傾向が一堂に集められたこの最後の展観は新聞雑誌で激しい攻撃を浴びた。レニングラードの芸術文化研究所が消滅へと到る端緒であった。マレーヴイツチのグループ「ウノヴイス」は一連の三次元の建築構造のプロジェクトを出品する。

ワルシャワ,3月。展示場「ザヘンタ」を会場にしたf第一回国際建築展」開催。ソヴイエトや西欧の建築家が参加−ブルジョワ,アウト,フアン・ラーフェンスティン,リートフェルト,フアン・デル・プルーフト,メンデルゾーン,ペレ,ル・コルビュジェ,リュルサ,マレ=ステヴァン,メリニコフ,マレーヴイツチ(ソ連邦以外で初めて建築構造のプロジェクトー素描4貞一を展示)。ポーランドからの参加者ではシチュカ,ジャルノヴュル,シルクス,シヤナイツア,ラヘルト,コジンスキ,カルチェフスキが注目される。

・・・,9月。「ブレザンス」グループの第一回展開催。ブルカルスキ,ラヘルト,シルクス,シャナイツア,コプロ,クルインスキ,ニッチ=ボロゲイアク,スタジェフスキ,ストシェミンスキ,ポッサデツキ,ラファオフスキが参加。このグループの中核は現代建築家たちであった。雑誌Fブレザンスjを創刊し,展覧会の開催に漕ぎつけたが,グループとしての最初の主体的行動はストシュミンスキを通して伝えたマレーヴイツチの招待である。

ザグレブ。ミチチの詩「反ヨーロッパ」発表。12月にはFツェニート』誌が終刊し(43号),ミチチは以降,第二次大戦まで,パリに居を定める。


■1927

ハノーフア,7月。シュヴイツタースの家(ヴアルトハウンゼン街5番地)で「ハノーファ抽象派」が結成される。創立会員はカール・プープハイスター,ルドルフ・ヤールス,クルトシュヴイツタース,ニチュケ,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルト。パルメンのルーメスハレでグループ展。モホイ=ナジも「ハノーファ抽象派」を訪ねる。−,8月。州立美術館長アレクサンダー・ドルナーの依頼でエル・リシツキー「抽象の展示室」を製作する。美鰍こ恒久的な施設として設置された,最初の抽象的な環境となる。無対象芸術と構成主義はこうして美術鮨という制度のなかで文化的な認知を得た。

ボーフム(ドイツ),4月。「ハノーファ抽象派」展が市の美術協会で開催される。

ベルリン,6月。セザール・ドメラ,「ハノーファ抽象派」に参加。

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マンハイム(ドイツ),夏。「ヨーロッパにおける抽象絵画の道程と進路」と銘打って,加年代の西欧で組織された抽象美術のもっとも重要な展覧会が催される。G.Fノヽルートラウプの企南で,マンハイムの美術鮨で開催。アルキペンコ,バウマイスター,ドローネー,カンディンスキー,クレー,レジェ。,リシツキー,モホイ=ナジ,モンドリアン,シュレンマー,シュヴイ.ツタース,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルト等が出品。

トリエステ(イタリア)。アウグストツェルニゴイ,構成主義の展覧会を組織。リシツキーの「プロウン空間」(1鎚3年)に霊感を受けた「抽象の展示室」も出品される。これを機にツェルニゴイは「トリエステ構成派」の宣言を発した(「タンク』誌,1号)。

ニューヨーク。「リトル・レヴュー」主催の「マシン・エイジ・エクスポジション」開催。

レニングラード。「芸術における新しい孟傾向」展用催。批評家ブーニンが企画した稔臨的な展覧会。立体一未来派と舞対象芸術という高市の主流が,これが最後の機会となったが,同時に,また歴史的に展示される。それは「討議をする」ための展覧会,つま り作品の芸術的書値をひとまずカツコに入れた提示法であった。

モスクワ,6月18日。ヴフテマスを会場にして「新建築官位会ASNOVA」と雑誌F現代建築SA』が主催した最初の国際建築展が開会する。ロシアの作家たちに加えて,′くウハウスの建築家たちや,ブルジョワ,フアン・ドゥースプルフ,ゲヴルキアン,リユルサ,マレ=ステヴァン,クレイチャル(プラハ)㌻マイヤー(バーゼル),リートフェルト,シルクス,シチュカ,ジャルノヴュルなどが参加した。

ワルシャワ,3月-4月。カジミール・マレーヴイツチのソ連邦以外での最初の嘩展がホテル「ポロニア」で開催される。主催はワルシャワの「芸術クラ列。同じ内容の展観が5月から9月まで大ベルリン美術展の一環として併催される。現代建築家たちに招待されたシュプマテイズムの創出者は157点を展示した。独自の目鍬まない。作品に付き添ってマレーヴイツチはワルシャワ,さらにべルリンに足を運ぶ(ベルリンには6月初めまで滞在)。マレーヴイツチは先鋭的な画家や建築家と個人的な交際を蜘る。6月末,展示作品と私的な草稿の重要な#分をドイツに残したまま,慌ただしくレニングラードに帰国する。バウハウスから,モホイ=ナジのデザインしたタイポグラフィーと表紙により,マレーヴイツチの著作F無対象の世刑が出版される。

ベルリン。シュトゥルム画廊でアレクサンドラ・エクステルの舞台装置と舞台構成の展覧会陶催。出品一覧表価点)を掲載した目録あり。

モンテ=カルロ。ガボとペヴスナ一による搬主義の舞台装邑 プロコフィエフ音楽によるディアギレフのバレエ「牝猥」上演。

ワルシャワ,4月。ポーランド芸術クラブにおけるワジスワフ・ストシェミンスキ個展。ストシェミンスキは「ウニスム」,彼の無対象芸術論について講演を行う。その理論はマレーヴイツチのシュプレマテイズムから発展したもっとも豊かな成果となる。「ウニスム」理論は翌1928年に活字になって発表される。この展覧会はストシェミンスキのマレーヴイツチへの回答であり,また「生産主義」からの非難(シチュカ)への回答でもあるように見受けられる。

・・・,秋。シチュカ,登山中に事故死。これによりポーランドの生産主義は第一の先導者を失った。彼が発刊した雑誌「ジヴィグニヤ(挺子)jは,彼の伴侶であったテレサ・ジャルノヴュルによって編集された追悼の一号をもって廃刊する。


■1928

ストラスブール。カフェ「オーベット」完成。ダダと構成主義が共通の目的として実現のために協同した最初の建築物であった。

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デッサウ。バウハウスにおけるガボの講演会。その後,論文「ゲシュタルトウング?」として雑誌「バウハウス』(2巻4号)で公表された。ベルリン,1928年春−1935年夏。モホイ=ナジはベルリンで商業デザインの事務所を経営する。1930年からはジョルジ・ケペシュ(後にマサチューセッツ工科大学のアトリエを主宰する)が助手を務める。

ベルリン。大ベルリン美術展の建築部門にマレーヴィッチアルヒテクトン(建築構造体)が1点展示される。

アルヒテクトン1928

ケルン。現代の印刷技術の博覧会「プレッサ」開催。リシツキー(目覚しい活躍),クルツイス,エルミーロフなど,多数のロシア作家が関与する。きわめて独創的な目録が発行された。

ワルシャワ,3月。「近代主義者サロン」展開催。目録が印刷される。構成主義の前衛が初めてもれなく参加した・・・ベルレウィ,ヒルレル,コブロ,ニッチ=ボロヴィアク,カイルクシュティス,スタジェフスキ,ストシェミンスキ,さらに建築家のプルカルスキ,ラヘルト,シルクス,シャナイツァという陣容である。同時に1927年マレーヴイツチがポーランドに残していった諸作も展示された(2点のシュプレマテイズムの絵画と1点の建築構造体)。

パリ,10月。サロン・ドートンヌの一室がポーランドの「ブレザンス」に充てられる。マリツキ,ニッチ=ボロヴイアク,スタジェフスキ,ストシュミンスキなどが出品。この展示はパリの芸術ジャーナリズムに批評的波紋を接げかけたようにはみえない。


■1929

ムードン(フランス)テオ・ファン・ドゥースブルフはムードンの自宅とアトリエ(アルプ宅の近所)の設計を終えて,実際の建設に取りかかる。モンドリアンとの友好的な交際が復活。

パリ。ギャルリー・ポヴオロスキでフォルデンベルゲ=ギルデヴアルト個展。

シュトゥットガルト,5月。ドイツ工作連盟主催の大規模な国際展「映商と孝莫」開催。近代写真を芸術として承認したこの展覧会はその後チューリッヒ,ベルリン,ウィーン,ザグレブ.ダンツイヒ(グダニスク)を巡回する。

ベルリン,6月。シュトゥルム画廊でプープハイスター個展。チューリッヒ,10月。「抽象とシュルレアリスムの絵画と彫刻」展開催。「デ・ステイル」やハノーファのグループ(フォルデンベルゲ=ギルデヴアルト,シュヴィッタース)が大挙して参加した。187

バルセロナ。ミース・フアン・デア・ローエ,バルセ ロナ万国博覧会でドイツ館の建築を手掛ける。この 時代の構成主義的な様式の近代建築におけるひとつ の頂点をなして,国際的な反響を呼ぷ(建物はその 後取り壊されたが,近年再建された)。

パリ,3月。ミシェル・スフォールとホアキン・トー レス=ガルシアにより「円と正方形」岩成。国家的な 抽象美術の擁護を日清すこのグループは1珊年4月 後半パリの「ギャルリーB」で既会を離し,雑誌r円と正方形jを計3号刊行(1930年4月15日から6月151]まで)。会員はアルプ,バウマイスダートエクステル,オットー・フロイントリッヒ,ゴラン,モンドリアン,ペヴスナー,クルトシュヴイツタース,スタジェフスキ,フアントンヘルロー,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルトなど。独話の刊行により抽象的,無対象的,構成主義的な芸術の「甘占」の季節の到来が告げられた。新しIl展望をもてないまま,「英雄」時代に帰属する西安たち比象美術の記憶だけは新鮮なままに保持しようと軸た。このたぐいの不描いなアンソロジーがこれ以徒(第二次大戦まで)抽象美術の存在を伝える唯一の記録となる。

モスクワ。国立トレチャコフ美術館でカジミlル・マレーヴイツチ回顧展開催。これを横にヒヨードロフ=ダヴイドフの文章を掲載した12頁の小冊子が発行されたが,一点もシュプレマテイズムの作品は複襲されない。意図的に彼の仕事に「民衆派」的なイメージを装わせようという狙いがあった。マレーヴイツチは1910−1911年の「農民」の主顛の作品を何点か再制作する。この展覧会はまた象徴的な具象表現におけるポストシュプレマテイズムの新しい絵画へと移行するマレーヴイツチの原動機の役目を果たす。何十年も,その新たなる芸術は軽んじられ真価を認められなかった。

タトリンは「レタトリン」と呼ぷ滑空機め製作に着手する。この仕事に関わることによって,彼はそれまでの自らの立場であった生産主義の方針から転じて,より非合理的な,そのうえ形而上的でも_ある創造を探求する方向に進むことになる。

ポズナン(ポーランド),5月。国が主催する展覧会が開催される。内装と同様,いくつかの展示館は「ブレザンス」の会員の手になるものであった。一方,「ブレザンス」も独自の展示会場でその成果を披露した。抽象の前衛が多数参加した、マリツキ,ニッチ=ボロヴイアク,スタジェフスキ,ストシェミンスキ,コプロ。さらに同グループの建築家たちも大多数が関与した。雑誌Fブレザンス』第2号の刊行が進められていた。建築に大きな紙幅を割いて,ワルシャワで19訓年初めに出ることになる。ストシュミンスキとコプロは「ブレザンス」を脱退する。


■1930

パリ,4月。テオ・ファン・ドゥースブルフ,「具体美術」宣言を発表。カールスンド,エリオン,ヴァンツ,トウタンジャンが連署。これが掲載された小冊子にはいまひとつの宣言「白い絵画にむけて」(1929年12月に草された)が収められた。ギャルリー・ゴーマンでコラージュの展覧会が催され,この機会にルイ・アラゴンの一文「侮蔑の絵画」が発表される。

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・・・,5月14日−7月13日。装飾美術家協会の展覧会で,ドイツ工作連盟はバウハウスの仕事を紹介。出品者はミース・ファン・デル・ローエ,ブロイアー,モホイ=ナジはか。モホイ=ナジは「リヒト=レクヴィジート(光の器具)」を初めて公開する。この時期におけるバウハウスの最初の,唯一の大規模な展示はやがて発足するフランスのUAM(現代美術家連盟)に決定的な影響を与え,30年代における装飾芸術に方向づけた。

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ハノーファ,4月11日。ナウム・ガボ,ケストナー協会で「構成主義の理論と実践」と題し講演,

・・・、11月。ケストナー協会におけるユズトゥス・ゼーア企画による,ナウム・ガボの最初の構成の個展。ガボの講演「芸術における合理的なものと非合理的なもの」がヘルマン・ボーデ邸でケストナー協会の会員を対象に催される。

ガボ1930

エッセン,デュッセルドルフ,デッサウ,ブレスラウ,6月−9月。国際写其展「ダス・リヒトビルト(光画)」開催。構成主義的な傾向としてはドメラ, シュヴイツタース,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルトが出品。

パリ,2月。「抽象−−一別造」結成。抽象美術のあらゆる傾向の大同団鼠,組織委貝会はオーギエストエ・ルパン,ジョルジュ・フアンネンヘルロー,ジャン・エリオン,アルプ,グレーズ,クプカ,トウタンジャン,ヴアルミエから成る。ワグラム大通りに常設の展示室を運営し,さらに機関誌F抽象−一別造,非具象芸術Jを発行した(1932年から19溺年までに全5号が出ることになる)。

チューリッヒ,6月−7月。芸術会館における「スイスの絵画と彫刻における目下の問題」展開催。構成主義の傾向としてはマックスゼル,フリッツ・グラルナー,ロース,トイバー=アルプなどが出品。ニューヨーク。「アメリカ抽象美術家協会」結成。イリア・ボロトウスキー,ガラティン,ハリー・ホルツマンなどが参加。

レニングラード。ロシア美術館におけるフィローノフ回顧展,検閲により開催直前に禁じられる。S.イサーコフの「批判的な序文」を掲載した目録だけが印刷される。

・・・。芸術家会館においてマチューシンの「ゾル=ヴェド」グループの展覧会開催。目録は発行されず(?)。2年後に400部限定出版される「色彩便覧」が初めて公開される。これはマチューシンの方法論の到達点であり,また建築的な色彩構成の領域への人口となる。

パリ。15点のステンシルによる「舞台図案集」(A.タイーロフ序)の刊行を記念して,ギャルリー・デ・カトル・シュマンでアレクサンドラ・エクステル個展。12月には同じ内容の展覧会がベルリンのフレヒトハイム画廊でも開催される。

キエフ。芸術会館(現在のレーニン博術館)でカジミール・マレーヴイツチの大規模な回顧展開催。

プラハ。ズデネク・ぺシャネック,エジソンの事務所の屋根に光=力学的彫刻を据えつける。この装置はモホイ=ナジの「光の器具に触発されたもの。ペシャネックは運動表現の宣言を草した。この宣言は後にモホイ=ナジの提起した問題を掘り下げた彼の著書「キネティスムKinetismus』,「線描・色彩の音楽の動力学」(プラハ,1941年刊)に収められた。

コルシュキ,チェシュイン(ポーランド),パリ,2月。書簡をやり取りしてグループ「a.r.」(アール・レエル)がストシュミンスキ,コプロ,詩人プシボス,批評家プジュンコフスキ(パリ在住)により結成される。集団としての活動は二つの宣言の発表と数冊の小冊子の刊行に尽きる0物理的に自己主張(展覧会,建築の内装,雑誌)をしようと腐心した後で,無対象芸術は文通による宣言という私的な領域に安住の地を求める…・‥コプロとストシュミンスキはウッジで三次元におけるウニスムの理論的な帰結を示す著作陛間のコンポジション 空間・時間的律動の算定(ポーランド語による)を出版する。


■1931

テオ・ファン・ドゥースブルフ,スイスのダヴオスで急死。彼の作品であった雑誌Fデ・ステイルはファン・ドゥースブルフに捧げられた未亡人ネリー・ベトロ=ファン・ドゥースプルフ編集の「追悼号」の発行を最後に廃刊する。

ベルリン,4月25日−5月31日。フォトモンタージュの国際展開催。ドメラ,ハウスマン,ハートフィールド・ハンナ・へッヒ,モホイ=ナジ,シュヴイツタース,タイゲ,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルト,ズヴアールト,クルツイス,リシツキー,ロトチエンコ,セニキン,ステンペルク等が出品。

チューリッヒ,7月−9月。「国際造形彫刻展」開催(クンストハウスと市街で)。ペヴスナーやフアントンヘルローなど145作家が出品。パリ。ギャルリ叫ペルシュでカルダー個展。


■1932

モスクワ。プーシキン美術館で「功労芸術家㈸.E.タトリン展」開催。タトリンの一文を収録した目録が発行される。展覧会は滑空機「レタトリン」の展示を主とし,この作家の生産主義者としての活動を写真資料により紹介。

レニングラード。ロシア美術館で「最近15年間におけるロシア共和国の画家」展開胤357作家の翁24点が展示される。マレーヴイツチはシュプレマテイズムの絵画と建築モデルを出品。同じくアリトマン,ドレーヴィン,エルモラーエワ,クリューン,スエーチン・タトリン,ウダリツオーワ,フィローノフ,チャーシュニクなどが展示される。この展覧会はひとつの時代(1917−1932)の収支決算を試みたものであると同時に,美に対する麗容が失われたことを告知するものであった。(追記)

モスクワ,4月23日−一文学と芸術の領域についての覚の決議が発表される。その結果,直ちに個々の芸術団体が解散し,官製の団体(画家同盟)が創設された。前衛芸術運動の公式上の終焉。

ハノーフア,3月−4月。クルトシュヴイツタースの雑誌「メルツ」の最後の号が出る。ウッジ。造形芸術家協会による展覧会で構成主義者ヒルレルの展示。初めて「ヘリオグラフイ」の作品が公表された。きわめて独創的なテクスチュアの表現が写真と融合した。

・・・。ウッジの美術館に現代美術の展示室が開設される。「a.r.」グループ(ストシェミンスキ,コプロ)の活動の所産。トーレス=ガルシア,プランポリーニ,アルシューヌ,アルプ,シュヴイツタース,トイバー=アルプ,ピカソ,マックス・エルンスト,マルクーシス,フアン・ドゥースプルフなどの作品21点の展示はポーランドにおける初めての現代美術の常陳であった。その後,ウッジの美術館に所蔵された「a.r.」グループの現代美術の収集作品は75点に達していた。このコレクションは正式に市に寄贈される。社会主義系の市当局は「年次芸術賞」をワジスワフ・ストシュミンスキに授与したが,大方が現代美術に敵対するジャーナリズムの激しい反発を招いた。


■1933

ナチの弾圧によりバウハウスの教授の大半が職を追われドイツを去る。ヨーゼフ・アル′シースは米国に渡り,ブラックマウンテン・カレッジで教鞭をとる。彼の教育のおかげで,米国でも′†ウハウスの考え方に接することができるようになった。カンディンスキーはパリ(ヌイイ=シュル=セーヌ)に腰を据え,クレーはスイスに帰国する。セザール・ドメラはベルリンを去り,パリに居を定める。ハウスマンはドイツを離れ イピサ島に移住し,とくに写真と執筆活動に没頭する。さらにスペインからプラハ,パリヘ巡った後で,1939年彼はリモージュ近郊に落ち着いた。ハンナ・へッヒだけがベルリン郊外の自宅で大戦の殺戟を生き延びる。

ロンドン。構成主義に共鳴する抽象のグループ「ユニット・ワン」結成。

ニューヨーク。「現代美術館」と命名されたガラティンの抽象美術の収集品の初公開。目録の序文をエリオンが書く。

ウッジまたはウッチ(ポーランド)。ストシェミンスキ企西によるタイポグラフィーの展覧会開催。この分野では当時もっとも重要な出来事のひとつ。チホールト,シュヴイツタース,モホイ=ナジなどが参加する。この時期のストシュミンスキのタイポグラフィーの仕事は(とくにプシボスの詩のレイアウり文句なしにこのジャンルにおけるひとつの頂点をなす。ストシェミンスキはタイポグラフィーを紛れもなく一個の芸術作品とみなし,絵画制作と同じ比重をかけていた。

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ワルシャワ,6月。ヒルレル,スタジェフスキ,ストシェミンスキは「現代造形グループ」展に出品。この時点からストシェミンスキはウニスムの作品を公に展示しなくなる。現代美術への反発に直面し,前衛作家たちは永年にわたり一歩退いたところに留まったようにみえる。彼らはまずもって教育の仕事に専念することになる。別言すれば,それだけが社会的に得ることのできる職であった。(ドイツのファシズムは直ちにこうした可能性を断ち切り,ベルリンのバウハウスやイッテンの学校を閉鎖した。)


■1934

アムステルダム,9月14日−12月9日。市立美術館においてデンマーク工芸協会VANK主催によるモホイ=ナジの個展。ナチの弾圧を逃れてヴァルター・グロピウスはロンド.ンに移り,1937年まで同地に留まる。

ワルシャワ,2月。スタジェフスキとストシェミンスキの展覧会が開催されるが,両作家ともウニスムの仕事も,抽象の仕事も展示しなかった。


■1935

レニングラード,5月。マレーヴイツチ,癌で死去。西欧との一切の交流を断たれ晩年の彼はベルリンの友人たちの手に残してきた作品が失われたと信じて疑わなかった。教え子のスエーチンが中心になって進められた葬儀は感動的なシュプレマテイズムの示威行動となる。

モホイ=ナジとマルセル・プロイアー,ロンドンに移る。

バーゼル(スイス)。チホール卜著「タイポグラフィーの造形」出版。ウッジ。ストシュミンスキの教え子によるウニスムの作為の展覧会が突発的に開催される。理論的な議論が「フォルマ」誌で繰り広げられる。


■1936

パリ。C.H.シラト,「ディマンショナリスト」(次元主義)の宣言を発表。アルプ,カルダー,ソニヤードローネー,ロペール・ドローネー,デュシャン,カカバーゼ,カンディンスキー,コプロ,ミロ,モホイ=ナジ,プランポリーニ,トイバー=アルプなどが署名する。場合によって水と油のように異なる方向を目指す抽象美術家たちが,抽象の創造という根本的な理念を擁護するだけの目的のために結集する。創造的な対立の時代は遠い過去のこととなった。

ロンドン,2月 コーダ監督の映画「来たりくるもの」封切り。モホイ=ナジの構想した若干のシークエンスが挿入された。

・・・。「抽象と具体」展がルフェーヴル・ギャラリーにおいて開催。ニコレットグレイが「アクシス」グループと協力して企画し,オックスフォード大学,リヴァプール,ニューキャッスル,ケンブリッジに巡回。モホイ=ナジ,カルダー,カンディンスキー,ドメラ,モンドリアン,ニコルソン,ガボ,ヘップワースなどが出品。

・・・。12月31日−1937年1月21日。ロンドン・ギャラリーでの最初のラースロー・モホイ=ナジ個展。

アムステルダム,4月。市立美術館で「抽象美術」展が催される。アルプ,ビル,カルダー,ドローネ,テオ・フアン・ドゥースブルフ.Fメラ,オットー・フロイントリッヒ,ヘップワース,カンディンスキー,クプカ,リシツキー,モホイ=ナジ,モンドリアン,ペヴスナー,トイバー=アルプ,フアントンヘルロー,フォルデンベルゲ=ギルデヴアルトなどの展示。

バーゼル(スイス),1月−2月。クンストハレにおいてきわめて重要な展覧会「構成主義者」開催。ファン・ドゥースプルフ,リシツキー,タトリン,マレーヴイツチ・ファン・デルルック,クリューン,ロトチエンコ,モンドリアン,フアントンヘルロー,マーロウ・モス,エリオン,ゴラン,カルダー,エッゲリング・リヒター,デクセル,バウマイスター,カンディンスキー,ピカソ,シュヴイツタース,スタジェフスキ,フロイトリッヒ,クレー,ストシュミンスキ・フォルデンベルゲ=ギルデヴアルト,ドメラ,ペヴスナー,ガボ,モホイ=ナジ,トイ′ト=アルプの出品。

ニューヨーク。ニューヨーク近代美術館でアルフレッド・バー企画の「キュビスムと抽象美術」展開催。この展覧会ならびに同展目録は最初の歴史的な解釈を当該の問題について提示する。バーの厳密さは,彼の分析的な考察力とあいまって,この仕事を近代美術史全体の要石とする。さらに,バーは「幻想美術 ダダとシュルレアリスム」展の企画も実現する(1936年12月〜1937年1月)。数十年にわたり両展は今世紀の美術史の概念的な骨格を成した。

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ブルノ(チェコスロヴァキア)。フランチシェク・カリヴォダ,全誌面でモホイ=ナジの仕事を特集した雑誌「テレホルTelehor』(一号限り)の創刊号を刊行。彼を中心に結成された構成主義のグループはダダにも関心を示す(カリヴォダはハンナ・へッヒ展を開催すべく準備を進めた)。抽象とくに構成主義の展覧会がヨーロッパで数回開催されこの運動への認識の高まりと国際的な普及を明らかにした。


■1937

ロンドン,7月。ガポ,モンドリアン,ニコルソン,ハーバート・リード,ギーディオンなどが寄稿した構成主義のアンソロジー「サークル」出版。時を同じくして「構成の芸術」展がロンドン・ギャラリーで開催される。カルダー,デイカー(ウイニフレッド・ニコルソン),ガポ,ジャコメッティ,エリオン,ヘップワース,ホールディング,ジャクソン,モホイ=ナジ,ムーア,ニコルソン,ステイーヴンソンが出品。

ムードン(フランス)。雑誌「プラスティック」創刊。構成主義とエレメンタリスムの最後の回覧的なフォーラムとなる。この年の春から1939年の春まで全5号が刊行されることになる。創刊号の冒頭をマレーヴィッチに関する一文が飾る。

パリ。ドローネー,・万国博覧会の航空館および鉄道館を非対象的な創造(抽象的レリーフ)の様式で装飾。

ハノーファ(ドイツ)シュヴイツタース,ノルウェーに移住新たな「メルツバウ」の構築に着手(1951年に解体された)。またハノーファの美術館の「抽象の展示室」はナチにより撤去された。その設置に尽力したアレクサンダー・ドルナーは館員としての地位を追われほどなくしてアメリカヘ移住する。

ミュンへンのドイツ美術会館でナチのイデオローグたちが企画した「退廃美術」展によって浮彫りになった,現代美術への中傷の趨勢に抗議して,自由ヨーロッパでは抽象美術,とりわけ,構成主義を前面に押し出した展覧会が数回開催される。

パリ,7月−10月。ジュ・ド・ポーム美術館において「国際的な自立する芸術の源泉と発展」展が催される。ダダ,構成主義,抽象美術の部門が設けられる。

ロンドン,8月。ニュー・バーリントン・ギャラリーズで「20世紀ドイツ美術」と銘打たれた大展覧会が開催。マサチューセッツ州ケンブリッジ,、3月12日。グロピウスはハーヴァード大学の建築部長に招かれ米国にバウハウスの同僚を招き寄せようと尽力する。

シカゴ,10月18日。モホイ=ナジの新しいデザイン学校「ニューバウハウス」開校。

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■1938

ロンドン,1月−5月。ロンドン・ギャラリーで「空間における構成」と銘打つナウム・ガボの個展。その後,展覧会はコネチカット州ハートフォードのワズワース・アサニーアムで,さらにニューヨークのジュリアン・レヴイ・ギャラリーで催された。

−−−,9月。モンドリアン,ロンドンに到着。1940年10月まで同地に留まった後,ニューヨークヘ発つ。ワルシャワ,1月。芸術普及研究所におけるカロル・ヒルレルの回顧展開催。目録が発行される。多数の絵画作品に加えて「ヘリオグラフイ」を展示。


■1939

パリ。抽象の傾向も十分に包摂した「サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル」結成。この「レアリテ・ヌーヴェル」は第二次大戦後になって活動を再開する。

ロンドン,5月。グッゲンハイム・ジューヌ画廊で「抽象と具体の美術」展開催。(追記)第二次世界大戦の勃発は芸術家たちの国境を越えた交流に終止符を打つ。多数の作家が戦乱により命を落とした。またアトリエもことごとく姿を消した。スイスは構成主義者が活動する唯一の国となり,1942年にはチューリッヒに「アリアンツ」グループが結成される。

<太田素人(おおた やすと、1951年 – ),五十殿利治(おむか としはる、1951年 – )訳>