茨城の文化財

■茨城の仏像とわたくしの天心観

後藤道雄

▶︎はじめに

 久しい間仏教美術を観ることにかかわってきたが、わたくしの頭の中には若いころから岡倉天心に心惹かれるものがあった。父は東京美術学校で大村西崖の東洋美術史の講義を問いたが、内容はつまらなかったと言う。友人から借りて読んだ天心日本美術史講義筆記ノートの構想力の大きさには驚いたと。父はよく天心の生の声を聴きたかったと話していた。わたくしが中学に入って天心全集を読みはじめたころ、それは二年生の秋の初め、1947年の9月、五浦の、当時は荒れていた天心墓参と六角堂見学に連れて行ってくれたのも父であった。この時の五浦の風景は、いまも記憶に鮮明である。

 以来、わたくしはインドと中国の、思想と事物、歴史と美術、古代と近代との間を彷徨(さまよ)うてきた。後年再三再四、インドと中国を旅したのもそのためであった。

 わたくしは、天心の『日本美術史』と『泰東巧芸史』を、もっとも優れた通史と思っている。実証性という点で、今日の目で見れば、租さは目立つものの、視野の拡大と感覚、美意識の確かさでは類書をはるかに凌ぐ。

 また、天心の東大での『泰東巧芸史』を聴講した和辻哲郎の文章は、美術史家、教育者としての優れた姿を彷彿とさせる。

 岡倉覚三先生の美術史の講義で、先生がシナの鏡かなんかを持って来て聴講生に見せられた時、私がそれを無雑作に取り上げてながめようとしたので、先生が、そんな乱暴な見方をするものではない。こういうものはこうやって見るのだ、と言って、丁寧に品物の扱い方を教えられたというのである。それを当人の私の方が忘れていて、傍らで見ていた児島君の方が後まで覚えていたのであった。

 天心が、学生のために、漢鏡類を教室に持参して説明した、如何にも天心らしい美術品味解の仕方、同時に骨董、古物の取り扱いを丁寧に誨(おし)える姿を捉えることができる。

 前置きとしてのわたくしの天心観はこのくらいにして、茨城の仏像のうつり変りを小論として進めることにする。

 「古社寺保存法」に基づく天心の茨城での調査は、六角紫水の「千葉茨城古社寺巡礼記」によると、明治36年9月 4日から12日までである。

同行者は天心、紫水のほか中川忠順、片野四郎で、天心別荘のある北茨城市から水戸市、石岡市、土浦市をへて鹿嶋市から千葉県に入っているが、この調査では仏教美術には別段の物はない。むしろ注目されるのは、下村観山と木村武山による、県内古美術探訪である。斎藤隆三によると、城里町薬師寺薬師三尊像、同小松寺如意輪観音像の発見は両人であり、桜川市雨引山楽法寺観世音菩薩立像も発見は観山武山の往訪であった。写真を見て喜ばれた天心の手紙も紹介されている。

 これらは、当時文部省国宝調査室の国宝鑑査官であった天心の弟子中川忠順によって、常陸太田市西光寺薬師如来坐像とともに、明治44年8月、旧国宝に指定された。以来、大正11年4月まで、14件の仏像が指定される。この時期に、茨城の重要な作品は大方出現しているのである。

西光寺薬師如来坐像 西光寺蔵(常陸太田市管理)

西光寺は仁安年間(1166〜 69) に、佐竹昌義の妻となった奥州藤原清衡の娘が創建したとの寺伝があるが、明治時代には無住となり、大正12年(1913)の火災で本堂・薬師堂が焼失し、現在では仁王像(室町時代後半)を安置する仁王門が残るのみとなっている。

本像は、平安時代後期十世紀半ば仏師定朝によって完成された定朝様と呼ばれる様式に倣(なら)っており、半眼に見開いた伏し目がちな眼と小さい唇といった温雅な顔立ち、彫りの浅い線条的な衣文線などにその特徴が表れている。一方で、頭体の比が頭部が大きく、童顔に近い面貌、ずんぐりとした量感のある体躯など、明快な顔立ちと伸びやかで洗練された定朝様彫刻とは作風がやや異なっており、地方における中央様式流入の多様性を示している。また当初と思われる飛天を配した光背から蓮華九重台座まで一式が揃う点も非常に重要で、茨城に留まらず関東地方に残る定朝様彫刻の中でも出色の作例といえる。制作年代は寺伝にいう仁安年間の頃と考えられる。[美術院による修理]昭和元年度・昭和37年度・平成17〜18年度・平成23年度震災に伴う緊急修理

 これらは天心の先見の明で、明治31年に設立された日本美術院(のちに通称、奈良美術院)によって、昭和元年から 5年にかけて修理が行なわれ、西光寺像や薬師寺像は、今回の震災緊急修理を含め、四回の保存処理を経て、造像当初に近い姿をいまに伝えている。

▶︎ 平地の寺と山の寺

 仏教が、いつ茨城に伝わったのか、はっきりしない。しかし 7世紀後半には、その時代の瓦を出土する水戸市台渡里(だいわたり)廃寺、結城市結城廃寺、筑西市新治廃寺など、在地豪族による終末期古墳につながる寺の存在から次第に明らかになる。国府の地石岡市の国分寺や国分尼寺は、8世紀、奈良時代半ばに律令政治とともに、国家仏教がこの地方にもゆきわたり、7世紀に創建された寺も、官衛にともなう郡名寺院として定着する。このようななかで、現在まで遺(のこ)る仏像は、小金銅仏六躯と結城廃寺出土の噂仏、地方では例外的な存在である、八千代町仏性寺の薬師如来と考えられる木心乾漆像が知られている。このような遺存状況は、この期の東国では稀有な仏教文化の展開であり、当地の先進性を物語るものといえよう。

 一方、修行僧満願による鹿嶋社に対する神宮寺の建立や、法相宗徳一の筑波山中禅寺の開創もあって、9世紀までには、中央で盛んな薬師如来や観音菩薩への信仰も広まってゆく。

 この時代には、国分寺や郡名寺院などの平地の寺に対して、僧侶に不可欠な浄処での修行の場となる山の寺があった。雨引山は、筑波山から北に連なる山系の峰である。その南面山腹に桜川市楽法寺がある。旧真壁郡家は、山塊の西側平野部の中央に置かれたとされる。

 寺伝に延命観音像と称される本尊は、カヤ材、一木造り、内刳(く)りもない素地。左右各四皆のうち、左方上より第一、二皆の前脾より先、右方第一、二、四皆の前脾より先を各後補とする。本像の著衣に関して、体側に沿って下げられる左右第三腎がともに当初と見られ、その上面にもう一つの衣が確認できる。この衣を鹿皮とみ、さらに後補の白毫の上下に墨描で第三眼が表され、現在後補のものと代わっている左右第二腎前膊は、当初胸前で合掌していた可能性が高い。本像は不空羂索観音と考えられる。制作年代は、正面でW字状に絡み合う天衣、石帯の刻出、条帛や裙(すそ)折り返しの下線を下からの風にあおられるかのように翻らせる表現など、9世紀まで遡ると推察できる。不空羂索観音は、山の寺の本尊として相応しい。

条帛(じょうはく)とは、仏像の左肩から斜めに垂らし、左脇を通り背面から一周し左肩へかけて結ぶたすき状の布のことで、主に大日如来や菩薩、明王像でみられます。

 桜川市妙法寺の伝阿弥陀如来坐像、伝観音菩薩立像、伝虚空蔵菩薩立像はともにケヤキ材、一木造り。三尊像は、後補部分も多いが、9世紀末に遡る作例として注目される。10世紀に入ると思われる四天王像、カヤ材、一木造りが随侍する。

 三尊像中尊は、左手を後補とするほか、右手も指先を直しているとともに、左脚を外に結跏趺坐することから奈良時代以来の足組を踏襲する薬師如来、伝観音は薬師の脇侍であった可能性があり、伝虚空蔵は当初から袈裟を著した天部形と見られるため、奈良時代以来の形式を襲う梵天または帝釈天だったと考えられる。

 妙法寺現存像の当初の構成は、薬師三尊像、梵天・帝釈天像、四天王像の九躯によるものと想定できる。これは奈良時代以来の官寺としての機能をもつ平地の寺に備えられた尊種として重要である。

 妙法寺は、延暦年問(782−806)広智が創建し、天安年間(857−59)に弟子円仁が堂宇を改修したと伝える。寺は元亀年間(1570~73)に現在地に移ったが、原所在地は新治廃寺に近い。同寺は弘仁8年(817)10月の新治郡衛の火災に類焼し、再建されていない。妙法寺に伝来する諸像から、この寺の前身寺院は、新治廃寺廃絶後の郡寺的機能を担った寺と考えられる。

▶︎ 天台仏教のほとけたち

 最澄の弟子最仙が、常陸講師となって建立した行方市西蓮寺に対する山の寺、土浦市東城寺は筑波山東麓の峰に位置する。その境内から、保安3年(1122)と天治元年(1124)の経筒が出土している。ともに大壇越は平致幹で、延暦寺沙門明覚と径(けいせん)の勧めによるものである。致幹は、承平の乱の火付け役となった平国香から数えて五代目。当時常陸国権守。は比叡山内無動寺に住み、寛治 7年(1093)法橋、康和2年(1100)法印となる。弟子の仁源と寛慶が、第40代と43代の天台座主である。の孫弟子が明覚。保安3年に致幹の帰依を受けた明覚が、後年師匠筋に当たるに願って、二回目の経塚供養を行ったのであろう。

 このことは、平安時代後半、常陸の天台教団が、県南一帯に勢力のあった常陸平氏一門に外護され、延暦寺と結びついていたことを明らかにする。県北の佐竹氏もまた天台の外護者であった。

 このようななかで、11世紀末頃、大仏師定朝によって完成された仏像様式が県内におよんでくる行方市西蓮寺土浦市常福寺のともに薬師如来坐像(上図右)、守谷市大円寺の伝釈迦如来坐像が、大きく丸々とした頭部、童形の面貌表現や細かく刻み出す螺髪、彫りの浅い平行線状に流れる表文など、関東における平安未定朝様の特色を示している。この延長上に展開した本格的な定朝様式を示す作例が、仁安元年(1166)頃の道立と推定できる常陸太田市西光寺薬師如来坐像(上図左)である。笠間市岩谷寺薬師如来坐像(下図)は12世紀末、鎌倉に入ったころであろうか。木寄せ法も、前代からの一木造りから割矧造り、寄木造りへと変化、樹種も、この頃からヒノキ材が用いられるようになる。

割矧造(わりはぎづくり)作例:比叡山延暦寺 観音菩薩平安時代初期から後期

ほぼ完成した状態で、矢印の方向から楔~くさび~を打ち込み前後に割る。そして内刳りを施し、麦漆などの接着剤で楔での割れ目を合わせ直す。この場合、漆による合わせ目が黒く目立ち木肌を露わにする仕上げには向かないので漆箔仕上げ、または極彩色仕上げを施した。

 以上の像は、中央からの同心円的な広がりのなかで考えられる作例であるが、一方、県内には都ぶりの作風を示す繊細な定朝様の作品もある。坂東市西念寺、つくばみらい市大楽寺、桜川市祥光寺、常陸太田市来迎院などの、ともに阿弥陀如来坐像である。これらの造立背景に、久寿2年(1154)円派仏師円春の常陸配流を注目する必要があろう。円春は六条右大臣顕房の孫、皇后宮亮信雅の子。当代の仏師として異例の貴族出身である。久安5年(1149)法橋に叙せられたが、久寿2年、養父長円の舎弟を殺害するという数奇な運命をもった仏師であった。しかし、経歴からみて、常陸の造仏界になんの影響も与えなかったとは考えられないからである。

▶︎ 武士の造像

 桜川市五大力堂に、治承2年( 1178)の造像銘記がある五大力菩薩像五躯が安置される。仏師は走允である。いずれもサクラ材、中尊は寄木造り、他は一木造り、素地。定允の事績はほかに知られず、作風から在地仏師の制作と考えられる。だが、このような尊種が東国に出現したことは注目される。

 網野善彦氏が世に出した桐村家本「大中臣民略系図」(註15)(以下「略系図」とする)や、津田徹英氏の論考によると(註16)、当代、新治中郡を領有した中郡経高は、保元の乱では源義朝に従い、平治の乱では義朝と行動を別にして勝者側に立ち、軋ののち、中部を後白河院および平清盛との関わりを通じ、蓮華王院に寄進、中部荘の下司職となつた。しかし、平氏政権下での経高の立場は微妙であった。経高が熱田大神宮司季範の娘を妻に迎え、源義朝とは妻を通じて義兄弟であったからである。ちなみに源平の内乱にさいし、甥・源頼朝に与したであろうことは、経高の孫たちが、後述するように御家人として活動したことから確実視される。

 本五躯は、治承4年の頼朝旗揚げ前夜の在地造像であった可能性が高い。造像銘記に発願主が見えないことも、経高を取り巻く当時の動向のなかで解釈することができ、そのあたりに在地における稀有な五大力菩薩造像の目的が垣間見える。

 経高の孫の一人、那珂実久は「略系図」によると、頼朝から那珂東西両部を与えられる。建久六年(二九五)、頼朝が東大寺大仏殿供養結線のため上洛した時、頼朝の牛車を田む源氏一族と幕府宿老のなかに、実久の姿を見出すことができる。

 城里町薬師寺は、大中臣姓那珂氏の領域にあり、本尊薬師如来及両脇侍像造像に那珂実久が檀越であった可能性を想定してもよいであろう。本像は、堂々たる量感や先の尖った螺髪などは、常陸太田市西光寺像に通ずるが、西光寺像が、丸々とした童形のやさしげな面貌であるのに対し、本像は、面長な面部に、視線の鋭い眼尻の上った眼など、その年代差は、わずか三、四〇年であろうが、そこには明らかに平安と鎌倉という時代の差が感じられる。そして本像の頼の肉付けや両脇侍像には、西光寺像に見られなかった硬さが現れる。慶派の作例などとは異なる鎌倉彫刻の限界であろうか。

 茨城に慶派の作品が現れるのは、下野宇都宮氏の一族笠間時朝が、新治東都に入って関わった仏像がその作例である。

 時朝自身の造像である宝治元年(1247)の笠間市弥勤教会弥勤仏立像、建長4年(1254)の同塀厳寺千手観音立像同五年の同岩谷寺薬師如来立像、近年出現した建長4年の阿見町蔵福寺阿弥陀如来及右脇侍像である。これらの仏像は、知られているので、今回は笠間市に遣る宇都宮氏に問わると推察できる作品をとりあげる。

 近世の記録である『笠間城記』 によると、時朝は元文2年(1205)、笠間に攻入ったと伝える。しかし、網野善彦氏は、平安末の荘園、公領において新治東都は、宇都宮氏の勢力が浸透した地としている。先述した岩谷寺薬師如来坐像も宇都宮氏の寄進。時朝の居館が有った佐白山麓の正福寺千手観音菩薩坐像も12世紀末、鎌倉初めの制作と考えられ、宇都宮氏に関わる仏像ではないであろうか。一方、標厳寺本尊大日如来及二如来坐像は、ともに未見の受容を示す作例である。この像なども時朝常陸入りの前半、由緒ある楊厳寺の檀越として寄進したものと見て大過なかろゝつ。

▶︎ 新しい仏教の広まりのなかで

 時朝が宇都宮氏の勢力を背景に常陸に入り、館を構えた笠間は、また親鸞が赴いた土地でもあった。親鸞は建保二年(一二一四)から帰洛するまで二十年余りの歳月、常陸に住んで、『数行信証』草稿の筆記を行うとともに、おのれの信仰を広めてゆく。

 奈良西大寺流の律僧忍性もまた、建長四年(一二五二)常陸に入り、小田時知の外護を受け、筑波山東麓三村山に、清涼院極楽寺を創めて止住。北条時頼の帰依を得て、鎌倉に移るまで十年間、布教に努めている。

 真宗に問わる聖徳太子彫像と、律における清涼寺式釈迦の作例をとりあげる。

 像内墨書銘から正安三年(一三〇一)、仏師法印祐弁によって道立された常総市無量寺聖徳太子立像は、造像環境からみて、親鸞高弟性倍にひきいられた横曽根門徒の造像であろう。現存する中世真宗門徒が制作した太子彫像のなかで、年紀をともなう最古の作例である。

 水戸市善重寺聖徳太子立像は、常陸奥郡に展開した親鸞の門弟善明を核とし形成された粟門徒が伝持したものである。緑青盛り上げ地を多用した賦彩ともども、その被綻のない作行は、京都正覚院の三条仏師法印朝円作毘沙門天立像との親近性が指摘されている。当代円派の中心仏師で、東三条の地に仏所を構えた朝円の作と推定できよう。このような当代一流の京仏師に造像を依頼できる財力と接点を、粟門徒の活動だけに求められるものではない。むしろ、当地を領掌した那珂氏あるいは佐竹氏の庇護、介在を注目する必要があろう。

 鉾田市福泉寺釈迦如来立像は、京都清涼寺釈迦如来立像の模刻像である。本像と作風の近い千葉永輿寺像は、像内納入の結線交名の断簡に、文永十10年(1273)の年紀が記され、さらに一紙中にある伊輿房が、善慶・善春の系統に属する仏師の可能性もある。本像も永輿寺像道立に関わった仏師の手になる制作と考えられる。

 文末に天心の 『日本美術史』 の言葉を記させていただく。天心は、鎌倉時代の彫刻について「此の時代に方りて彫刻には運慶の一派を出だせりと錐ども、鎌倉末路の彫刻は自身独立の性を失ひ、絵画に支配せられて漸を以て衰頚す」(以下、天心の文章は、すべて、平凡社版『岡倉天心全集』による)と。この見方に納得できないとの意見もあるが、わたくしは天心の美意識に納得する。

 茨城でも、鎌倉未頃から院派仏師制作の仏像が数多く見られるようになる。しかし、この期の院派の作品などは、彫刻史の対象にはなっても、果して美術史の対象になるのであろうか。

 「鎌倉末路の彫刻」に対して、渡辺千代次の家から菩提寺に納められた両肩も、両脚もない菩薩像。天心の所持と考えられる平安末のこの像にうかがえる静寂な雰囲気と美しさ(註哲。天心は言う。「真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる」 (『茶の本』)と。

■おわりに・・わたくしの天心観

 すでに与えられた紙数は超えてしまったが、わたくしの天心に触れさせていただく。『茶の本』に、『老子』第二十五章の引用にはじまる、次の文章がある。

「万物を蔵する物が存在していて、『天』と『地』の存在以前に生じた。何たる静寂!何たる寂蓼!それは独りで立ち、不変である。自転するがみずからに危険を招くことがなく、宇宙の母である。私はその名を知らない。

 そこでそれを『各酔』と呼ぶ。不本意ながら私はそれを『無限』と呼ぶ。『無限』は『迅速』であり、『迅速』は霊であり、露は『郎椀』である。」「轡は「掛野というよりはむしろ「巌彷」にある。それは「宇宙的変化」の精神−新しい形を生むために自身に回帰するところの永遠の生成である。「道」は道教徒の愛好する象徴龍のようにおのれに返る。「道」は雲のごとく巻きたち、解け去る。「道」は「大推移」と言うこともできよう。主観的には「宇宙」の「気」である。その「絶対」は「相対」である。

 これは、天心の思想を理解する重要な言葉である。老荘思想にはじまり、『港南子』天文訓などが説く中国固有の観念、生成と推移とを顕在化する宇宙的な活力を「」として捉える解釈を、ここに提示しているのである。

 いまそれに深入りする紙数はないが、中国古代の美術には、形の定まらない雲のようなものが盛んに登場する。時には小さい煙のように、あるいはのたうつ竜蛇のように、常に流転旋動をくり返し、静止することを知らない。これらは「雲気」の名で稔称され、六世紀まで美術全般を掩っている(註㌘。しかし七世紀以降、新しいインド、西域美術の様式を摂り入れた中国は、「気」を目に見えるようには現さなくなる。物自体に内在するものとして、形象の真に迫る把握を通して表現するようになる。末代の絵画や陶磁器の見事な造形は、まさに不可視の「気」の表現なのである。

 天心の中国美術に関する鑑識眼は、非常に鋭敏なものがあった。天心のク空気を描け″という言葉は、わたくしは不可視の「気」を措けといったと解釈している。横山大観が牧硲の《観音猿鶴図》の模写を行った時、聡明な大観が、天心の真意を悟らなかったはずはない(註嬰。板倉聖哲氏がいわれるように(註苧、腰鹿体の新しさばかりでなく、むしろ東洋古典とのかかわりに関心を向けるべきであろう。 中国の神仙に「気」がつきまとうように、インドの仏には「蓮華化生」があった。蓮華が、創造主を生み出す根本神の象徴であるという考えは、インドでは仏教以前からあった。『マハーパーラタ』 や『リグ・ヴューダ讃歌』にはじまり、仏教に入って 『大智反論』や『華厳経』で、化生という「無から忽然と有を生ずるような出生」として、天の蓮華、天の宝蓮華、浮遊する蓮華、光明の蓮華などが、仏教世界に満開の華を咲かせるのである。天心の「暗黒ではなく、驚異的な光にみちた空虚」(「プリヤンバグ宛書簡」)も、光明の蓮華にみちた空虚と読むことも可能であろう。中国の「気」の思想とインドの「蓮華化生」の観念は、ともに万物を生成する根源的なものとして、仏教の中国伝来とともに融合する。天心の「観潤亭」から見る、岩に砕ける大波は、まさに「気」と「蓮華化生」の生成と循環をくり返す風景だったろう。天心が、五浦を発見したことは健倖であった。五浦の地に立った時、福永光司氏が書かれているように、天心は唐代の書聖顔真卿が撰文した張志和の碑文「復た昏情無つりいとただよく、遂に扁舟に輪を垂れて三江に浮び五湖に泣い、自ら姻波の釣徒と号す」を思い出したのではないかと思われる。

 さらに六角堂は、「一生の最快事なり」(『日本美術史』)といわしめた救世観音立像を安置する夢殿が念頭にあったであろう。六角堂の狭い土地では、八角は多面体過ぎる。天心の言葉を思い出す。「物の真の本質は空虚にのみ存すると彼〔老子・筆者注〕は主張した。部屋の実質は屋根と壁で囲まれた空虚な空間に見いだされるのであって、屋根と壁そのものではない。」(『茶の本』)。

 しかし、屋上には救世観音が奉拝し、夢殿にもある宝珠を置く。宝珠は『大智度論』巻第十(註挙が説く、舎利が宝珠に変化して人びとを救済するとあるように、救済力の象徴である。

 五浦の地、そして六角堂は、まさに天心が、老荘思想の徒であると同時に、仏教徒であることの何よりも確かな証しであったと、わたくしには思われる。

(茨城大学五浦美術文化研究所客員所員)