神さま仏さまの復興

 東日本大震災により,宮城県内の文化財も甚大な被害を受けたものが少なくありません。現在,復興事業の一環として,これらの修復が進められています。 この特別展は,修復された文化財のうち神像や仏像などに特に焦点を当て,修復された姿を公開するとともに,文化財を修復することや未来へ引き継ぐ意義について考えていこうとするものです。

 文化財を未来へ引き継ぐ理由はいくつかありますが,この特別展で公開される神像や仏像などについて言えば,これらは永らく地域の心のよりどころであり,地域の歴史を背負った存在でもあります。作られた当時はもちろんのこと,今日まで伝えられてくる間には,さまざまな困難に直面しながらも積み重ねられた地域の歴史があったはずです。この特別展がその歴史をふり返り,復興へと歩む地域にあらためてまなざしを向けていきたい。

▶︎重要文化財 不動明王坐像平安時代 (12世紀)大徳寺

 木造漆箔  像高275.0 平安時代(12世紀大徳寺 登米市津山町横山
所在地を冠して横山不動尊と呼ばれ、多くの人々の信仰を集める巨大な不動明王像。像高は髪の生え際から立像で一丈六尺、坐像でその半分の八尺(約240㎝)という、東大寺大仏など特別な例を除き、仏像の大きさの基準では最大のものによる。

 後代の不動像が念怒の激情をあらわすのに比べて表情は穏和で、全身の肉付けや衣文線も穏やかなものであり、デザイン性の高い冠や腕輪なども平安時代(12世紀) の特徴がよくあらわれる。頭部がやや大きいのは見上げた時のインパクトを考慮してのことか。カツラ材製で、頭体幹部は真上からみて「田」字形に角材四材を並べ、下半身は横に並んだ二材からなる本格的な寄木造りであり、像内は前腕や掌を含め内到りによる軽量化が図られるなど、巨像制作のノウハウをよく理解したもの。また、両目を見開き、弁髪がねじれながら垂れ下がるさまなどは平安時代(9世紀以来、天台宗に伝統的な不動像のすがたの一つである。

 平安時代の保元年間(1156〜58)に近くの浜に漂着したとする寺伝は江戸時代のものだが、制作時期を暗示するものといえる。この度の震災により、寄木造りの材の継ぎ目が大きくゆるみ、崩壊の危機にあったが、3年度に及ぶ修復が去る10月に完了した。大徳寺に還座する。

▶︎新宮寺騎師文殊菩薩坐像及び四谷属立像の保存修理について 

明古堂(明珍素也) 

 大震災の大きな揺れにともない、中尊の文殊菩薩は獅子座から傾いて厨子側面にもたれ、光背周縁部など一部の部材が脱落した。脇侍のうち、仏陀波利三蔵は前方へ倒れ、その他は倒壊をまぬがれた。近年製作の厨子が文殊菩薩の倒壊を防いだのは幸運であった。獅子座と脇侍のすべては、各足底に設ける竹製丸柄を厨子基壇の丸大に挿込むことで自立する。しかし、これらの細工精度は低く、大きな振動に耐えられなかった。今回の保存修理における最優先事項のうち、

■  新宮寺  宗派 真言宗  (住所 宮城県名取市高舘熊野堂字岩口中)

 一つは自立安定のため足柄を適正な形状で作り替え、それを支える柩座を製作すること。もう一つは、獅子座の構造補強である。獅子とその背中に載せる蓮華座は、各部材の取付けが経年劣化による緩みを生じ、地付から約55㎝の高さで文殊菩薩とその光背を安置するには甚だ心もとない状態であった。

 解体をともなう修理作業では、内部を実見し、構造技法などの仔細な調査が可能である。これは修理技術者と関係者に限定される。ここからは、現在作業中である獅子座を含み、内部構造など通常ではうかがえない情報を公開しよう(図1、2)

 文殊菩薩は針葉樹割矧ぎ造り(わりはぎつくり・一木造りの像を造像過程で一旦二つに(たいがいは耳の後ろの線で)割り離し、内刳り<うちぐり>を施した後、くっつける技法。平安時代末期に流行しました。)である。脇侍のうち、三躯は針葉樹の一木造りであるが、優填王は頭部を針葉樹、体部を広葉樹からなる寄木造りとする。今回撮影したⅩ線透過画像によれば(図3)頭部は柾目を正面とし、体部に首を挿し込むかたちで固定する。

 体部は上半身の正中線を基準とする木取りを行い、木芯を籠める。左肩から股間を通して干割れ(ひわれ・ 乾きすぎて、ひびが入ったり、割れたりすること)が生じているが、後世に表面が補修され目立たない。獅子は大略を針葉樹三材からなる寄木造である。頭部は横木一材とし、体部の前方上面に載せ、内刳り(うちぐり・乾燥による干割れを防ぐために内部を刳り抜くこと)はない。矧目(はぎめ)マチ材(長さが短い場合は、切り部分にマチ(襠)材を入れ、長さ調整する。)を挟み、面を下方に向け、左にかしげる姿勢に調整する。体部二材は縦木とし、各部材を内刳りのうえ、割矧ぎを二工程おこなう。背面上に坐す文殊菩薩の技法に準じた本格的な工法である。なお、光背東光部に矧ぐ八葉蓮華の裏面墨書が記される(図4)。

 文化財の保存修理は構造補強を優先し、表面の荘厳を現状維持に留め、成果があらわれにくい地道な作業である。様々な機関の尽力により進む被災文化財の修理事業で、適切な保存処置により後世へ伝え、修理によりあきらかとなった新知見が文化財研究に活用され、それらが復興への助力となることが、われわれ修理技術者のささやかな願いである。

▶︎ はじかみの寺 地福禅寺(気仙沼市波路上)の仏像再修理                      

吉備文化財修復所代表・東北古典彫刻修復研究所所長 牧野隆夫

 「生きとるよ」住職は驚いたように私を見、ひとこと言った。震災後12日目。支援物資を積み、早朝にさいたま市を出たワゴン車は、寺脇の道に倒れた家屋や電柱に阻まれ、迂回路を見つけやっとたどり着いた。波路上といぅ風雅な名の土地は変わり果て、新築間もない本堂は全ての建具と壁を失い、海辺の青空を背景にポッリと立っていた。「余震があったらすぐ逃げて」津波が来るからと言い残し、鈴ひとつを携え住職は被災者の葬儀に出掛けた。


 本堂欄間には海藻が垂れ、内陣には漂着したトイレの便座まで。流木や仏具の下から二年前に直した仏像や台座を探す、一人だけの文化財レスキュー。

東北芸術工科大学在任中の平成15年、その直前の地震で半解体状態となつたご本尊ほか計6体のお像の修理のため、東北歴史博物館学芸員政次浩氏の案内で初めて地福寺に伺った。老朽化した本堂の再建まで「仏像を預かって欲しい」と依頼され、その後6年。像は、山形市の大学演習室、上山市とさいたま市の工房と場を移し、最終的に上山市の㈲東北古典彫刻修復研究所に戻り修理を完成した。平成19年、安置の打合せに何った新本堂には木の香が漂い、会館も併設されていた。21年6月、本尊台座に修理寄付者自筆の木簡を納め、お像の搬入、落慶が執り行なわれ、翌22年4月にはこの修理がきっかけで、ご本尊が気仙沼市指定文化財となった。

 

 震災当日(2011.3.11 昭和23)、さいたま市の仕事場で受けた強烈な揺れ。その夜、テレビは見覚えのある気仙沼港が炎に包まれる衝撃的な映像を流した。懇意にしているさいたま近隣の二ケ寺から物資を提供してもらい、運送会社の協力を得、仏像修理が縁で三陸唯一の知り合いとなっていた地福寺に向かったのは、そのような経緯からであった。

 修理した記憶をもとに幸いにも像と台座等全てと、散乱した寄付者の木簡80枚を見つけ出せた。この銘札に込められた想いが本堂を支え、一体も欠けることなく仏像を守ったのか、寄付者は皆無事だろうか。

 6月23日、あらためて仏像の損傷確認に訪れ、その年のうちにご本尊の修理事業助成が気仙沼市から決定された。指定外の像五体も含め、寺に負担をかけずなんとしても修理を一年忌に間に合わせたい。知り合いとそのつてで寄付者を募り前回と同様に木簡に名前を書いて頂いた、その数合計232名。12月8日搬入し、この方々の気持が末永く寺を守る力になると信じ、所員とともに台座に奉納した。3月8日、わずか2年も経たぬ間の仏像再修理は、文化遺産継承の意味と重さを、身をもって知る機会ともなった。

▶︎ 野蒜海津見神社昆沙門天立像のレスキューと応急処置について 

東北歴史博物館・政次浩

 毘沙門天立像(被災前)東松島市野蒜亀岡に所在する海津見神社に祀られる昆沙門天立像です。鎌倉時代(三一〜一四世紀)頃の作で、武神らしい堂々とした姿や、大きく後方にたなびく着衣が印象的です。

 あの日、野蒜(のびる)地区は想像を絶する津波被害を受けてしまいました。その後の人々の懸命な行動はよく知られているところです。

 そのようななか、5月中旬には毘沙門天像の救出もおこなわれました。直前に近所の方が、分解した状態の像を津波跡から拾い集めていました。当日は、「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会」を中心とした人名で部材を梱包した上で東北歴史博物館に移送しました。あわせて、見逃した部材がないか近辺を探し回りました。残念ながら、八百年近く連れ添った邪鬼は見つかりませんでした。

 その後、乾燥や経過観察を続け、七月初旬、財団法人美術院の四名の専門家によって砂やゴミ、塩分の除去、組み立てがおこなわれ、保存箱に収納されました。すべてボランティアによるものです。美術院とは明治以来、国宝や重要文化財など貴重な仏像の修復を主導してきた組織で、この度も本格修復ではありませんが、その高い技術が遺憾なく発揮されました。

▶︎ 神さま仏さまの輸送の準備 

東北歴史博物館 政次浩

 像の移動は特別展に不可欠です。ここでは、像の梱包と輸送作業に先立ち、担当学芸員と文化財輸送の専門家とでおこなう現地調査の一端を紹介します。ただし、文化財の梱包や輸送、その準備に対してはさまざまな考え方があるので、あくまでも一例に過ぎません。

 現地調査では、まず、像の安置場所や作業場所の注意事項を把握します。古くて薄暗いお堂も多いものです。つぎに、輸送具制作のための採寸、像の点検、取り扱う上での注意事項を確認し共有します。そして、両者の協議によって、輸送具の形状や像の固定方法など輸送仕様を確定させます。ここに両者の経験と技術、チームワークが活かされます。さらに、どの道路を利用して当館に搬入するか経路の確定なども重要です。

 忘れがちですが、休憩場所や手洗いの確保、食事の手配なども大切です。長時間作業を休憩なし栄養も水分も摂らず、暑さ寒さを我慢して進める根性論は排除されます。なぜなら、このような配慮が梱包と輸送作業の品質を保証するからです。