4.四天王寺とは

■四天王寺とは

 四天王寺は、推古天皇元年(593)今よりおよそ1400年前に日本最初の官寺として建立された。『日本書紀』によれば、物部守屋と蘇我馬子合戦の折、聖徳太子(574〜622)が、戦勝祈願の四天王像を祀る寺として建立したと伝えている。その伽藍配置は、「四天王寺式」、中門、五重塔、金堂、講堂を南北一直線に並べ、そのまわりを回廊で囲む日本でも最も古い形式である。

 聖徳太子は四箇院(しかいん)制度を取り入れ、四天王寺を、伽藍=敬田院(けいでんえん)のほか施薬院(せやくいん)、療病院、悲田院(ひでんいん)といった福祉事業施設も備えた寺院とした。奈良時代になると、朝廷庇護(ひご)のもと寺域の拡張と経済基盤の整備が行われた。これらは、太子信仰とともに四天王寺の信仰の大きな柱となり、天皇、貴族の四天王寺への参詣が頻繁に行われるようになった。また、西門周辺が極楽浄土の東門に当たるという浄土信仰は、一般庶民にも広がりをみせた。

▶︎四天王寺西門

 四天王寺の西門周辺は、極楽浄土の東門に当たるという伝説があり、また西に沈み行く夕陽を拝む聖地として平安時代以降、念仏行者や極楽往生を願う人びとの来集(らいしゅう)するところとなっていた。現在も、春秋の彼岸には多くの参詣者でにぎわう。石鳥居には、人は「釈迦如来 転法輪所(てんぽうりんしょ) 当極楽土 (とうごくらくど) 東門(とうもん)中心」の16文字が嵌(は)め込まれた扁額が掛けられている。

▶︎焼失・倒壊と再建の歴史

 鎌倉時代に入ると、天皇や貴族のほか、きえ将軍家をはじめとする武家の帰依も受けた。鎌倉時代後期には、太子の精神に深く共鳴した叡尊や忍性らの活躍が目立ち、忍性は、四箇院のうちの悲田、敬田の二院を再興、さらに、西門の木製鳥居を石の鳥居に改めた。現在の鳥居は、このときのものである。

 南北朝、室町時代には、後醍醐天皇、足利義満なども四天王寺に参詣した。応仁の乱(1467〜77年)以降、戦国時代を通じて、四天王寺はしばしば戦火のなかでも、織田信長の石山本願寺攻めの折にはほぼ全域が焼失した

 その直後、豊臣秀吉の寄進による再建慶長5年(1600)に行われたものの、同十九年の大坂冬の陣で大坂方の放火にあい炎上焼失した

  江戸時代の元和年間(1615〜24)に至り、六年にも及ぶ月日をかけて徳川幕府による再建が行われた。その後四天王寺は、幕府の保護と、特に西門を中心とした庶民信仰の場として活気をみせる。    

 しかし、享和元年(1801)12月5日、落雷により伽藍のほとんどが焼失した。この火災による損害は甚大なもので、再建は険しいものであったが、大坂の庶民たちの手により文化10年(1813)に再建落成をみた。

 明治維新の神仏分離令により厳しい状況に置かれた四天王寺は、昭和9年(1934)9月21日、近畿一円を襲った室戸台風や、同20年3月14日の大阪大空襲でも大きな被害を被った。しかし、38年には、鉄筋コンクリート造の伽藍再建を成し遂げ、その後も、主要な建造物を次々に再建。現在、約11万平方メートルを誇る寺域には多くの堂宇が点在する。

 このように四天王寺の1400年余の長い歴史は、戦火や天災による焼失・倒壊と再建の歴史であるが、それは、人びとの篤き信仰により再建を成就した、希有な歴史でもある。形や規模は変遷したとはいえ、飛鳥時代の伽藍を営々と伝えた先人たちの精進努力には、敬意を表さずにはいられない。(南谷恵敬)

▶︎切刃造、丸棟の直丙子椒林剣

○四天王寺・丙子椒林剣(へいししょうりんけん)  1952年3月指定 伝聖徳太子所持の剣

 飛鳥時代 刀、入念に鍛えられ腰元に「丙子椒林」の文字を金象嵌している。聖徳太子の佩用(はいよう・からだにつけて用いること)と伝える飛鳥時代の作品。長い間、錆身であったが、研磨の結果、制作当初の姿が取り戻された上古刀(じょうことう・奈良時代以前に作刀された刀 反りのない直刀 )中の最優品の一つ。四天王寺蔵 

 断面が野球のホームベースを縦に引き伸ばしたような形(切刃造・きりはづくり・切刃造は二六口に及んでおり、奈良には特に切刃造が流行したことがうかがえる)の直刀。『七星剣』(しちせいけん・中国の道教思想に基づき北斗七星が意匠された刀剣の呼称)とともに聖徳太子が所持したと伝える。

 日本では古墳などから出土した直刀は多数あるが、制作当初のままで伝来した上古刀はごく少ない。また、一般に剣というのは刀身の両側に刃があってやや短めの刀剣を指すもので、この場合も大刀と呼ぶのが正しいが、古くから太子に対する敬意を込めて剣と呼んでいる。

 この剣は、おそらく砂鉄を精錬して作ったと思われる鉄をよく鍛え、しかも炭素量の少ない軟らかい鉄と、炭素量のやや多い硬い鉄の二種類を組み合わせて制作している。

 長い間、鞘(さや)もなく黒錆に覆われて四大王寺の宝庫に保管されていたが、昭和30年代に入って研磨を加えたところ、ほとんど無傷の状態であったというのは、原料となる鉄がよほど入念に折り返して鍛えられ、鉄の中の不純物がしっかり取り除かれていたためであろう。

▶︎日本刀誕生前の刀剣の逸品

 刀身表面をよく見ると小板目(こいため)といって、材木の表面のような模様になっており、その上を、(にえ)という光り輝くごく細かな鉄の結晶が一部を覆っている。また、刃文も柔らかい感じの直刃(すぐは)であるが、これは鍛えの状態と合わせて、平安中期以降に完成される日本刀と、技術的に完全に共通している。

 刀身に金で「丙子椒林 (へいししょうりん)」と四文字を象嵌しており、丙子は制作された年の干支(かんし)、椒林は現在のところ意味不明とされているが、刀身に文字を象嵌することは他の上古刀では類が少なく、そのためこの別の作者については、日本の刀工かあるいは大陸からの渡来工か、議論の分かれるところである。いずれにしても、反(そ)りと縞(しのぎ)のついた日本刀が誕生する以前の、最も優れた刀剣の遺品であることは論をまたない。(森口隆次)

四天王守縁起根本本/後醍醐天皇辰翰本1952年3月指定          

■後醍醐天皇辰翰本

▶︎平安期作、太子以来の寺歴

 寺社にとって、その歴史を述べた縁起が重要な存在であることはいうまでもない。四天王寺の場合、それが二本伝存する。一本は「根本本」、もう一本は「後醍醐天皇窟翰本」(以下「后翰本」)と呼ばれ、共に国宝に指定されている。       

 「根本本」は、奥書によれば「乙卯歳(きのとうのとし)」(推古天皇3年=595)に「皇太子仏子勝鬘(こうたいしぶっししょうまん)」(=聖徳太子)が撰(せん)し、金堂内に納入されたもの、とされる。寺伝では太子直筆と伝え、寛弘四年(1007) に、金堂内に安置されていた六重塔から発見されたという。内容は寺名の由来、寺域、寺歴、党宇(どうう)、寺領などの書き上げで、筆跡などから、実際に作成されたのは平安時代中期頃と推定されている。

 四天王寺は、天徳四年(960)火災により焼亡したが、復興に際し、太子以来の寺歴を述べるこの縁起は重要な役割を果たしたものと思われる。

 平安時代の数少ない寺社縁起として貴重であるとともに、寺領部分に「代」という田地をはかる古い単位が見られるなど、古代の土地関係史料としても重要である。

▶︎てがた手形に込められた思い 

 「根本本」を、後醍醐天皇自らが書写したものが「晨翰本」である。後醍醐天皇(1288〜1339)は南北朝時代の天皇で、鎌倉幕府を打倒し、天皇親政の建武新政を行ったことで知られる。天皇は「根本本」を丁寧に書写しており、改行についても忠実に原文にしたがっている。ただし、巻末に天皇自身による奥書が書き加えられている。「晨翰本」でとりわけ目を引くのが巻末に押された天皇の二つの手形共に左手)である。手形を押すという行為は、書いたものに自分の深い思いを乗り移らせようとする意図がある場合が多い。

 「晨翰本」の場合、深い思いとはどういったものだったのか。実はそれを考えることが、この「晨翰本」の意義を解明することになるのである。

 手がかりとなるのが、手形が押された部分の文章である。手形などの証判は、通常、文書の内容で最も重要な部分に置かれるからである。この観点から「晨翰本」を観察すると、手形は、「根本本」にはない「晨翰本」のみの文章、すなわち後醍醐天皇による奥書上にあることに気づく。

 まず第一の手形の部分には、建武二年(1335)の書写年月日と披閲、持ち出しを禁止する旨が記されているが、ここでの手形はその念押しの意味であろう。では、第二の手形はどうか。その下には、四天王寺が仏法最初の地であり王道を擁護する壇場であることから、四天王寺以外の寺に帰依(きえすぐれたものを頼みとして、その力にすがること)することはないとの主張や、王法(おうぼう)の興隆への願いなどが記されている。

 この縁起の書写が建武新政の時期に行われていることから推測すれば、四天王寺が古代より国家の祈祷寺院であったことを強く意識したうえで、自らが推し進めている新政の加護を四天王寺に求める目的で、この縁起を書写したということが考えられる。四天王寺の歴史上の性格と後醍醐天皇の思想を端的に語る重要な遺品であるといえよう。

現在の四天王寺の様子