霞ヶ浦の支配者

■霞ヶ浦の支配者

 古墳時代、霞ケ浦周辺の豪族たちは、恵まれた自然環境を生かした高い生産力と、水上交通を支配することによってもたらされた政治力、軍事力を背景に強大な力を持つようになる。豪族たちは権力の象徴として古墳と呼ばれ墓を築いた。霞ケ満周辺やその水系に、首長(さまざまな社会集団にあって,その指導者,支配者,あるいは代表者として社会的承認を得ている者の総称。なんらかの権威をもっている)クラスの古墳が多いのはこのような理由からであろう。

 4世紀後半の出現期の古墳としては桜川村の原1号墳などがあり、前方後方墳が多いという特徴がある。5世紀になると巨大な古墳が作られるようになる。石岡市の舟塚山古墳は全長182メートルを測り、東日本で2番目の大きさを有する。

 5世紀後半からは、豊富な副葬品を持つ古墳が増加する玉造町三昧塚古墳玉里村舟塚古墳からは金銀銅製の装身具太刀など大陸の影響を受けた副葬品が出土した。

 古墳時代も終わりになると小規模な古墳が多く造られ、鹿島市や潮来町には100墓を越す古墳群が現れる

 奈良時代になると、国家が人と土地を支配する律令体制が確立される。地方は国・郡・里に分かれ、それぞれの役所である国府や郡衛が置かれた。常陸国の国府は現在の石岡市に置かれ、国分寺や鹿の子遺跡のような官営の工房が作られた。また、霞ケ浦周辺には有力な層が支配していた集落が存在する。いずれも水上交通の要所に立地しており、霞ケ浦がもたらした繁栄である。

▶︎霞ケ浦沿岸の首長墳

 霞ケ浦沿岸は、常陸地域の中でも古墳が集中する所である。古墳時代前期 (4世紀)の首長墳は、霞ケ浦・北浦沿岸の要所要所に分散して分布している。前方後方墳が多いことが特徴で、次いで前方後円墳が築造される場合が多い。

 このような首長クラスの古墳の系列は、中期(5世紀)のある時期までは地域ごとに継続していたようである。この中で、5世紀中頃に、高浜入りを望む霞ケ浦北岸の地に、全長182mの大型前方後円墳舟塚山古墳が出現する。これを契機に、出島半島を含む北岸の地域には、後期(6世紀)にかけて100mクラスの大型古墳が継続して築造され、沿岸諸地域の中で突出した勢力となる。そして、この北岸の地には、後に国府、国分寺が置かれるのである。

 また、後期〜終末期(7世紀)にかけて、鹿島周辺の地域に大形の古墳や古墳群が目立つようになることも注目される。そして、この地には後に鹿島神宮が置かれることになる。

 古墳時代は首長墳の推移から見ると、前半期は沿岸各所に勢力が分散していたのに対し、後半期になると、沿岸地域の中でも北岸と鹿島の二地域が重視されていったことが窺える。そこには、ひとつの要因として、物資流通の港湾としての役割が浮かんでくる。北岸は内海と内陸とをつなぐ河口の港、鹿島の地は外洋と内海とをつなぐ出入口の港として適地であったのだろう。

▶︎原一号墳

 稲敷郡桜川村浮島に所在する前方後方墳である。全長は約30mである。埋葬施設は木棺と推測され、剣や斧などの鉄器や管玉が出土した。墳丘から出土した壷は底部が穿孔(せんこう・穴をあけること)され、破砕された状態で出土していることから葬送儀礼に使われたと思われる。この古墳は4世紀後半、茨城県における出現期に造られた古墳である。

▶︎勅使塚(ちょくしづか)古墳

 行方郡玉造町沖洲に所在する前方後方墳である。全長は64メートルを測る。埋葬施設は木棺で、重圏文鏡、ガラスの小玉、管玉などが出土した。墳丘からは底部を穿孔した壷が出土した。4世紀後半に造られた古墳である。

▶︎富士見壕古墳

 新治郡出島村柏崎に所在する前方後円墳である。霞ケ浦を眼下に臨む細長い尾根上に築かれ、全長は92mを測る。

 調査の結果、墳丘から円筒埴輪や形象埴輪(古墳の表面や周囲に立て並べられた焼き物のうち具象的な埴輪をいう)が出土した。形象埴輪には盾を持つ人物や鹿・犬などの動物、家等がある。5世紀後半の古墳である。


▶︎三昧塚古墳(さんまいづかこふん)

 行方郡玉造町沖洲に所在する前方後円墳である。霞ケ浦に近い低地に築かれ、全長は85mを測る。埋葬施設は箱形の石棺で、そばに副葬品を納める木櫃の痕跡が発見された。副葬品は鏡、金銅製の冠や耳飾り、馬具、甲青、太刀など多量に発見された。墳丘には円筒埴輪が三重に巡らされていた。この古墳は5世紀末に造られ、副葬品などから強大な力を持つ首長の墓と思われる。

 

▶︎舟塚古墳

 新治郡玉里村に所在する前方後円墳である。全長は88mを測る。埋葬施設は二重の箱式石棺である。副葬品として鏡、太刀、馬具、玉類、銅椀などが発見された。墳丘には円筒埴輪が三重に巡り、裾(すそ・物の下方の部分)から人物や家、動物などの形象埴輪が発見された。この古墳は6世紀・中葉に造かれたと思われる。

▶︎烏山遺跡

土浦市烏山町にある古墳時代から平安時代にかけての集落である。集落は丘陵上に広がっており。霞ケ浦にそそぐ河口付近にある。古墳時代前期の集落から、メノウや碧玉を材料とし、勾玉等の玉作居跡が発見された。

▶︎八幡脇遺跡

土浦市沖宿町の霞ケ浦を望む台地上にある集落で、田村沖宿(おきじゅく)遺跡群の一つである。古墳時代前期の集落からメノウ、碧玉、コハクを材料とした勾玉等の玉作工房跡が発見された。烏山遺跡とともに、メノウ勾玉の工房跡としては全国で最も古い遺跡である。

古墳時代前期に、霞ケ浦の南の入江、土浦入りにこれらの玉作遺跡があったことは重視される。メノウ勾玉は前期後半に王墓の副葬品に現われ、土浦入りの生産はこれと期を一にしており、現在前期の工房跡が発見された全国唯一の地域である。鳥山、八幡脇への玉作り工人の設置には、多分に大和王権の政治的意向によるところがあったのだろう。烏山遺跡は入江の南岸に、八幡脇遺跡はその北岸に面している。この内、北岸には、前期後半の首長墳と考えられる后壕王壕の二基の前方後方墳、前方後円墳がある。

つまり、この二つの事から、この地が前期の段階には、政治的に重要な役割を担っていたことが窺われる。ただ、玉作りは中期初頭には終わり、土浦入りの首長系列も、中期以降は途絶えてしまう。そして、政治勢力の中心は、もう一方の北の入江、高浜入りへと移っていくのである。

▶︎常陸国府

石岡市にあり、役所や国衙工房国分寺が存在する。また郡の役所である郡衝や郡寺の茨城廃寺も隣接している。

▶︎常陸国分寺

奈良時代、聖武天皇の命を受け各国に造られた寺院で石岡市にある。僧寺と尼寺があり、金堂や七重塔などの存在が確認されている。

▶︎長峰遺跡

 田村沖宿遺跡群の一つである。ここから「国厨(くにのくりや)」と書かれた墨書土器が発見された。これは国の台所という意味で、国衙以外から発見されることはまれである。この地は、国司が地方を巡幸するときに立ち寄った場所と考えられる。

▶︎鹿の子C遺跡

▶︎茨城廃寺

 石岡市貝地に所在する茨城郡の郡寺で、奈良時代の前期に造営された。金堂や塔の跡が発見され、法隆寺と同じ伽藍を持つことが確認された。また「茨木寺□」と書かれた墨書土器が発見され、郡名と同じ名の寺院であることがわかった。

▶︎神野向遺跡

 鹿嶋市神野向に所在する遺跡で、調査の結果官衙的な建物跡が発見されたことから鹿島都衝の可能性が考えられるようになった。また、「鹿嶋郡厨」墨書土器の出土も郡衙の存在を裏付けている。鹿島郡衙については、常陸国風土記位置が記載されている。

▶︎田村沖宿遺跡群

 霞ケ浦に注ぐ川尻川右岸に広がる遺跡で、平安時代の集落や寺、火葬墓群が発見された。遺物は土器の他、多数の墨書土器や灰粕陶器が出土した。また県内では発見例の少ない緑袖・二彩・彩陶器、皇朝十二銭、鍵などが出土している。寺跡の周辺からは鉄滓(鉄のスラッグ)や銅滓(銅の集塵灰)漆の入った土器が発見されていることから、工房の存在が考えられる。

 火葬墓は二十基発見された。そのうちの一基は、灰釉(かいゆう)と陶器の短頸壷(たんけいこ・原三国{げんさんごく}時代には、土器を焼く窯{かま}が発達し、ロクロも盛んに用いられるとともに、土器の表面を羽子板{はごいた}形の木材で叩{たた]き締{し}めて丸底にする技法が盛んに用いられる)が使われている。