第2章 墓地空間

■第2章 墓地空間

■生者と死者の世界の分離

森 謙二

▶︎生者の世界から分離された死者

 墓地を都市や集落の周縁に設けるということ、つまり死者の世界を生者の世界から空間的に分離することは、それが普遍的であったとは言えないにしても、多くの社会でみいだすことができる。

 縄文時代の墓地は、集落の一部あるいは隣接地に設けられ、埋葬の場所を集落から分離するような意識は認められないとする見解が多い。しかし、弥生時代にはいると墓地は集落から分離されてくる。考古学者の白石太一郎によると、埋葬地の集落からの分離がはっきりするのは古墳時代であり、奈良時代から中世に至るまで、特殊な例を除くとするならば、一般に墓地は集落から隔離されていたようであるとする(「考古学からみた日本の墓地」『墓地」所収)。

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。

薄葬令(はくそうれい)とは、大化2年(646年)に発布された、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令。大化の改新の一環とされ、「大化の薄葬令」とも呼ばれる。墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。

 646(大化2)年三月のいわゆる「薄葬の詔(はくそうのみことのり)」は、(もがり・本葬の前に、一定の期間死者を安置すること。まはその施設)を禁止したものとして有名であるが、ここには「庶民亡(うし)なむ時には、地に収めがらわ埋めよ」とし、さらに「凡そ、畿内より諸の国等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢(けがわら)しく処々に散し埋むること得じ」と規定している。葬地を定めよというこの規定は、死の穢れの拡散を避けようとしたものと理解されるであろう。

 さらに、大宝の「喪葬令(そうそうりょう)」は、「凡そ、皇都及び道路の側近に、並びに葬り埋むる事を得ざれ」として、皇都(天皇のいるところ)とその延長としての道路に埋葬することを禁止していた。実際、平城京のなかでもその当時の墓地は発見されていないし、平安京のなかでも事情は同じである。墓地は都の周縁に設けられたのである。

 九世紀後半には鴨川や桂川近くと思われる河川二カ所が庶民の葬地として定められたことが知られているし、さらに洛西の化野(あだしの)や洛東の鳥辺野(とりべの)が二大墓地として形成された。都の周縁の山野や河川が墓地として設けられたのである。天皇陵もまた平安京の外に設けられていたし、さらに藤原氏も都の中心部から離れた宇治の木幡に墓地を定めている。

 このような事情は鎌倉時代に至っても変化はない。『徒然草』のなかで「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立(けぶりた)ち去らでのみ住みはつるならひ」(第七段)とか、「都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人、二人のみならむや。鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも送る数多かる日はあれども、送らぬ日はなし」(百三十七段)と述べるとき、京の都の埋葬地がなお化野・船(舟)岡・鳥辺(部)野にあったことがわかる。

 また、大規模な中世墓地として注目されている静岡県磐田市の「一の谷墓地」も都市周縁に設けられたものである。この地は平安中期以来の遠江国府の地であり、十世紀末にはこの「一の谷墓地」が設定されていたとされる。その後、鎌倉時代には守護所ともなった遠江見付という地方都市の外接付属墓地として、そして室町・戦国時代には見付自治宿町の町人たちの共同墓地へと展開してきたとされている。この墓地空間について、中世史家の義江彰夫は次のように論じている。

 当時の国府西端と考えられる蓮光寺辺から、死者葬送の道である化粧坂が北々西にのび、やがて西方向に折れ、三途の川と見立てられた水堀川を渡るところに墓地と来世を管理する護世寺(後世寺)が建ち、それをこえると無数の墳墓でおおわれた一の谷墓地の小丘陵に到達する。こう復元すると、当時同墓地は意図的に死者の住まう来世として、国府見付の外側に、両者を繋ぎ、 切断する道や川や寺院を介して設置されたものであることが鮮やかに浮かび上がってこよう。(「中世都市の共同墓地と親族構造試論1−静岡県磐田市一の谷遺跡の発掘を素材として」『比較家族史研究』3号所収) 

 集落の周縁に墓地を設けること、生者と死者の空間を分離することは、近世以降の両墓制の埋葬地(「ミバカ=埋墓」) のなかにもみられる現象である。なぜ墓地空間が生者の世界から分離されたのか、まずこの間題から考えてみることにしよう。

▶︎死穢(しえ)の忌避(きひ)

 なぜ死者は集落の外、周縁に葬られるのかという問題は、これまで、いくつかの説明が試みられてきた。その代表的なものは、遺体を埋葬(あるいは遺棄)する場は死によって穢れた場であり、その死穣を忌避するために埋葬地が集落から切り離されるとするものである。死穣を忌み恐れるのが古来の風習であるとしたのは柳田国男である。そして、この死穢とのかかわりでしばしば引用されるのがイザナギ・イザナミの神話である。

 イザナミが葬られたのは、出雲と伯耆(ほうき・鳥取)の国の境にある比婆の山である。この境界領域に黄泉(よみ・死者の世界)の国があり、イザナギはこの黄泉の国を訪れるのである。イザナギがそこでみたものは、イザナミの身体から膿がわき、岨虫(うじむし)がたかっているようすであった。このようすを「不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き国」と表現する。民俗学者の宮田登(みやたのぼる)によると、死の穢れは死そのもの、いわゆる「絶気」(「気」の消滅)からはじまるとしてもそれによって直ちに「汚穢(おわい)」あるいは「不浄」が生じるわけではなく、肉体の腐敗をつうじて「死穢不浄(しえふじょう)」という観念が生じるとする(『神と仏・・民俗宗教の基本的理解』日本民俗文化大系4)。

 死穢に触れたとき、不浄から逃れてその崇(たた)りに対抗する手段としてあるのが、一つが物忌みであり、もう一つがイザナギが河原でおこなつたような祓いである。近親者が死亡したとき私たちが喪に服するのは前者であり、葬式から帰ってきたとき塩をかけるなどさまざまな方法で清めるのは後者の例と言えるであろう。

 死穢が発生したときは、死穢の発生の源を現世から隔離し、絶縁しなければならない。したがって、遺体が置かれる空間(=墓地)もまた死穢の場として、現世から隔離・絶縁しなければならない。

 墓地は、しばしば「あの世」との境界といわれたり、「あの世」への入り口であるといわれる。このような、現世との隔離を前提とした枠組みのなかで墓地が形成される。

 そして、この世での死者の出現から死者の世界に定着するまでの間、それが遺体が腐敗し骨化するまでの期間であるとすれば、この移行・浮動期間こそが死穢のもっとも危険で脅威に満ちた状況であることになるだろう。

▶︎境界領域としての墓地

 しかし、「あの世」の世界が死穢の場としてのみ意識されていたわけではない。歴史学者の岡田重精によると、死者の世界が安定した状況に置かれたとき、その世界は、「聖なるもの」へ転化するという。

 岡田の言うように、「死の世界が隔絶され整序されて彼方にあるときそれは安定した世界と位置づけられる。それゆえ死者は聖なる座に安置されることが望まれる」 (『古代の斎忌(さいき・神を迎えるために心身を清浄にした生活を送ること)・・日本人の基層信仰」)とすれば、死穢は生者の世界と死の世界の境界領域において発生するのであり、墓地もまたその境界領域として、その二つの世界の交流がおこなわれる空間であるといえる。

 墓地を「穢(けが)れの場」とすることと「聖なるもの」とすることは、それ自体としては矛盾するものではない。死者にたいする畏怖は、その非日常的な力のゆえに、一方では忌避(きひ・きらって避けること)するものであるとしても、他方では崇拝の対象としても存在する。このような多義的な意味をもつ空間(つまり、両義的な空間)は、しばしば文化人類学のなかで論じられるように、境界領域の特徴なのである。

 もっとも、日本においては、墓地が不可侵の空間とみなされたとしても、それがただちに「聖なる空間」として、祭祀の対象とみなされたわけではなかった。歴史民俗学者の田中久夫によると、本来遺体は遺棄されるものであり、したがって墓地も遺体の置き場・捨て場であり、墓地で死者を祀る習俗はなかったという。

 また、高取正男も、大和朝廷以来の政治をもってまつりごととする、祭政一致の延長線上に律令政治を運用してきた平安貴族は、「死様にたいする過敏症」であり、死者や墓地を祭祀の対象にすることはなかった、としている (『民俗の日本史』)。

 高取正男は、そもそも庶民階層では死穢(しえ)についての意識が希薄であり、穢れそのものが天皇制支配のもとで強化され、秩序づけられ、体系化されたものであることを指摘する。したがって、墓地が祭祀の対象となるためには、まつりごとの枠組みから切り離され、私的な領域に組み込まれる必要があった。

 墓地が「死穢の場」であるにせよ、「聖なる場」であるにせよ、その空間(=墓地)は、生者の世界から干渉されない空間であることを意味した。したがって、墓地は、生者の世界から触れることができない空間として、生者の世界から切り離されたのである。つまり、死者は生者の世界から遠く離れた空間に葬られたのである。

▶︎無所有の空間としての墓地

 墓地が都市の周縁に設けられたのはキリスト教受容以前のヨーロッパでも同じである。古代ローマの「十二表法」は「死者は都市内部に埋葬または火葬してはならない」と規定したし、実際ローマのアッピア街道沿いのチェチェリア・メテルラやポンペイのイチェラの門外にある埋葬地のように、死者は都市の城壁の外に葬られ、特に名もない人々は都市の外に捨てられるように埋葬されたという。

 死者の世界と生者の世界が分離し、墓地が設けられた都市の城壁の外の状況を、アリエスは「一種の半野蛮状態が支配していた」と述べている (『図説・死の文化史』)。

 このアリエスの指摘は重要である。ここで「半野蛮状態」というのは生きた人間の支配が及ばないワイルドネス(wildness)な世界であり、そのワイルドネスな空間に死者は埋葬されたのである。このアリエスの指摘は、柳田国男の次のような指摘とも関連する。

 今日の語でいう共同墓地、以前には三昧(さんまい)とも乱塔場とも呼ばれていたものの主たる特徴は、土地が公用公有であって、何人の管理にも属しなかったことである。(「葬制の沿革について」)

 墓地空間が「誰の管理にも属しない」という理解は、いわば無所有の状況にあり、自然状態であるがゆえに、そこでは野蛮状態が支配することになる。このような無所有の状態からその(場)に特殊な意味づけをおこない、「無縁」の概念を提示したのは、中世史家である網野善彦である。

 網野は、鳥辺山・蓮台野などのように、古代以来、墓所は山中あるいは山麓に設定されるのが常であるとしたうえで、この場もまた「無縁」の場であるとしている。ここでいう「無縁」とは、中世社会の一定の権力体系の存在を前提とし、そこから切り離された、あるいはその権力が及ばない(場)である。その意味では、未開社会の「無所有」の状態(彼のいう「原無縁」)とは区別された社会での「無縁」であり、未開の状況とは区別された「アジール(避難所)」としての墓地である。

 さらに、この無縁の場と「穢」との関連について次のような指摘をしている。

「穣」と「無縁」の場、あるいは「無縁」の人々との間に、なんらかの関係があったことは事実であり、それを意識的に結びつけようとする見方が、当時の社会の上層部の中に、強く働いていたことは、間違いないことといえよう。(『無縁・公界・楽・・・日本中世の自由と平和』)

 ここでは、網野は、「穢」という観念が権力体系のなかに組み込まれてきたとき、境界領域にある混沌とした秩序を純化あるいは分化させ、まつりごとから穢れあるいは穢れに携わる人々を排除する新たな区別、あるいは差別が形成されることを暗示している。

 もっとも、彼が「無縁という概念によって強調したことは、権力体系から離れて存在する「場」と「人」であり、そこに形成された(自由)な空間である。墓地もまたこのような空間であった。

 「無縁」の空間が権力体系から(自由)であること、まつりごとから排除され、誰の管理にも属さない空間であったこと、それゆえに、無縁の(場)は租税が免除されるのである。現在でも、墓地には課税されていない。なぜ墓地が無税地であるかという問題は、この文脈のなかで考えなければならない問題である。

民法896条 相続の一般的効力
相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。但し、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

民法897条 祭祀供用物の承継
系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する。ただし、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が承継する。
二 前項本文の場合において慣習が明らかでないときは、前項の権利を承継すべき者は、家庭裁判所がこれを定める。

第12条 相続税の非課税財産次に掲げる財産の価額は、相続税の課税価格に算入しない。二 墓所、霊びよう及び祭具並びにこれらに準ずるもの