漆器生産地

■岩手県

 主産地は二戸郡荒屋新町を中心に浅沢・赤坂田の両部落にして、赤坂田挽物業者多くブナ、トチ、ハソノキの横木の椀類である。塗は渋下地の花塗で何等の特色なきも、価格の低廉は他にその比を見ない。同地方は深き山間に介在して素材の豊富と長き冬期間の副業として起り、農村向きの実用漆器である。大正・昭和の初めは県の保護奨励により一時活況を呈したるも、製品は地方的にして都人士の嗜好に適せず且つ業者間には半副業なれば、積極的なる技術向上の意欲に乏しくまたその機関もなく、次第に他産地との競争に落伍し、今なお衰勢を辿りつつあるは遺憾である。元来当地方産漆器は多年浄法寺椀として世に知られたるも、古は浄法寺村において生産し、次第に原木を追うて浄法寺川を遡(さかのぼ)り現地に定住するに至ったのである。

 またその製品を浄法寺町の市日において販売したるをもって浄法寺椀とも称された。但し江刺郡黒石の正法寺椀とは形式も異なり地理的にもまた文献もなく関係ないようである。次に胆沢郡衣川村は板物漆器を主とし椀類も生産するが、いずれも日用品で地方の需要に応ずるに過ぎない。

・漆工の「花卉漆絵片口」は、朱漆で描かれた文様と、注ぎ口や高台の形状が安土桃山時代の特徴を示しており、中尊寺などの奥羽地方に伝わる、いわゆる秀衡椀の中では、時代の遡る作例である。

 昭和32年県営衣川ダムの建設により水没し業者は水沢市および平泉町に移住して斯業を継続している。盛岡市の秀衡塗は秀衡椀(図四)の意匠を復活して大正年間市の奨励により再興したるものである。


 種頬は椀類および小箱等にして、漆下地黒塗立の上に適宜の雲形を黄褐色の彩漆にて塗り潰しその上に黄漆にて平行の斜線を描き、黒塗の地には朱漆を基調とし緑と黄漆にて菊花その他任意の文様を描き、更に雲形の部分に菱形と細き短冊形の金切箔を置き明快にして温雅の趣きがある。これと類似品が山口市よりも産する。

▶︎ 沿 革

 浄法寺椀の起源は浄法寺町御山の天台寺において自家用の漆器を製造したるに始まり当時はこれを浄法寺御器または御山御器とも称した。後世の浄法寺椀はその遺制を踏襲したるものと思われる。別に正平年間(1346−70)創建の禅宗の大本山江刺郡黒石村の正法寺においては自家用の什器を製作し、椀ほ著しく大形にして黒漆塗であり糸底には正法寺と弁柄の赤漆にて草書してある。これは恰も紀州の根来寺における根来塗とその軌を一にしている。

 衣川村の漆器は明治初年に秋田県川連の漆工この地に移住した事に始まり次いで会津の漆工も来り漸次発達したるものである。盛岡市に復興したる秀衡塗は彼の有名なる藤原秀衡の意匠により製作したるものと伝えられている。これほ久しく中絶したる家法と意匠とを復活して現代に応用したるものである。各地の諸家に退存する秀衡椀の技巧は極めて簡単素朴である。昭和年間に盛岡市に光原社を創設して専ら彩漆絵漆器を製作し、工芸的価値に富み、現代の嗜好に投じ有名となった。本県は古来漆の産地として著名であり藤原氏の台記によっても明確であり、また現今国産漆の生産地として全国第一位である。

▶︎ 宮城県

 産地は仙台市および鳴子町であり時として盛衰を異にしている。仙台市は専ら板物漆器にして素地はホオ材を、塗は漆下地に根来塗および青貝塗を得意としたるも、今ほ有名無実となり代りて、新に玉虫塗が起り仙台の名産となった。これは中塗研ぎの上に摺接して消粉を蒔き乾かして、透漆にローダン(染料)を添加したる紅色透明漆を塗り蠟色仕上げしたるものである。玉虫の名称ほ最初青色染料を使用したるに基づく。近年は合成塗料を使用して発色は容易となった。これより先に圧搾の東華堆朱(とうかついしゅ)を発明し一時盛んとなり販路は全国に及び、輸出漆器として注意を喚起したるも輸出に適せず、また内需用としても改良の余地を存するので衰退の己むなきに至った。次に仙台木地蠟塗は簞笥に専用して特色あり、仙台箪笥としてまた民芸品として行われている。

 鳴子漆器は従来会津漆器を範として発達したるをもって渋下地の花塗である。素地はこけし発祥の地として挽物業者多く挽物を主とし、隣郡田代部落より生産する大形挽物は鳴子漆器の名を高からしめたるも現今は転業して生産を中止している。板物素地は鬼首部落より殆んど農家の副業として生産しまた僅かにスギ、ホオ材の曲物も産する。田代部落の転業および鬼首地方の衰微は即ち鳴子漆器の不振を意味する。その主なる原因は仙台漆器の衰退と同一であり他産地の進出による。これは営業上の見地より生産にほ多くの資金を固定し且つ苦心研究を要するので、寧ろ他産の漆器を販売する方却(かえ)って有利なるをもって、多年生産の誇りを棄てて製造を閑却するに至ったのである。実際にこの関係は衰退したる他の産地とも共通しその軌を一にしている。

 然るに近年鳴子漆工株式会社(竜文堂)の創立以来着々として振興発展の機運を呈するに至った。それは従来の漆器製作法を革新して根本的なる改良を実施したる結果である。例えば素地の乾燥に基因して歪形する欠点は、真空処理によるビニールの注入法によりこれを防止し、同時に期せずして下地の必要はなくなり素地に直接漆を塗れは密着して剥離することなく堅牢となり、従って生産能率は倍加し且つ生産コストは著しく低廉となり他産地を凌駕するに至った。なお20種におよぶ発明特許を応用して大なる特色と効果を発揮して鳴子漆器の面目を一新し、また近年竜文塗の創作は一般の嗜好に適し特許法の実質の堅牢と相俟って益々その声価を挙げている。

▶︎ 沿 革

 仙台市は、伊達氏の居城となるヤ東北における文化の中心となり漆工芸も大いに発達し、伊達家には漆芸の逸品を多数所蔵して有名である。同家累代の廟所瑞鳳殿の栄飾は蒔絵を施し壮麗を極め畳下の床も黒塗である。

 三代綱吉の時代(1680~1709)には仙台の諸工芸は著しく発達して蒔絵の名工松立斎を出した。年代は明かでないが鳴子町医師武田氏所蔵の朱塗の小盆に雪中の南天を描き、その雪は透漆に銀消粉を多量に混合したる白漆であり、昇竜斎の落款が金粉で書いてある。この手法は越中城端の治五右衛門の白漆と同一である。

 殊に享保20年(1735)紀州徳川宗直の女利根姫は将軍吉宗の養女として、伊達六代の藩主宗村に入輿の際に持参した長持二百九六棹屏風二三双箪笥棚調度等四亘百六四箱にして厖大驚く可く、さらに伊達家においては永く記念するためにこれ等を全部精細に縮尺調製して雛道具となして現存することは、漆工芸上特筆すべき空前の壮挙である。

 多年門外不出として深く秘蔵したるも、仙台開府350年記念として昭和33年一部を展観した。廃藩後は甚だしく衰微したる漆工も明治中期より復活して後期には盛況を呈したるも、産業的内容に乏しく衰勢を示すに至った。県は明治34年には鳴子町より、翌年は仙台市より業者の子弟を撰抜して一年間東京に派遣して斯業を研修せしめた。大正2年仙台市に県立工業学校を創立して漆工科を置き、同十三年に工業試験場を設立して漆工部を置き、同11年に鳴子町に工業講習所を設置して漆工および木地工を養成したるも、同14年県工に合併して廃止した。昭和20年工業試験場をも遂に廃止したることは斯業のため遺憾である。

 鳴子漆器業の起源は明かでないが安永風土記に鳴子村の塗物、木地物と記載しあれば、それ以前に漆器業の存在したることが推察される。文化文政時代(1804~30)には温泉浴客の土産品として販売したるほか他の注文にも応じた。鳴子地方の藩主である伊達弾正は寛文年間(1661~73)塗師村田卯兵衛蒔絵師菊田三蔵を京都に達して修業せしめ帰来同地方の斯業に貢献したることは伊達家の『意得記』に明記してある。文政年間には尿前の関を守るために鳴子村に新屋敷を与え鉄砲組を置き、平素は漆工を内職せしめた。これが鳴子漆器業の大なる基盤となった。また宮崎村の田代にも羽前に通ずる間道守備のため六人の足軽を配置し、皆木地挽を内職としたるも遂に本業となった。明治23年沢口五左衛門は苦心の結果水力を利用して木地挽工場を設立し、東京方面の木地工内田久吉、流浪の木地工伊沢為次郎(盆為)を雇傭して手動式の大力事による大形盆類等を生産しかつ新しき技術を普及せしめた。鬼首部落の漆器業は文化3年(1804)大場藤右衛門の創業にして、天保年間(1830~44)には数十名の職工を有して盛んなりしも天保の大飢饉に際し事業を廃止した。現在鬼首の漆器関係業者はいずれも当時における業者の子孫である。

 著者は東京工業試験所技師とし多年漆工に関する試験研究に従事し、退官後は帰郷してさらに研究を続け漆工に関する各種の新方法を発明して、昭和30年に特許庁より繊維質系漆器素地の処理法の発明に対し実施化補助金を交付され、木胎漆器歪形防止に成功し、而して輸出漆器多年の懸案を遂に解決した。また同33年にほ曲面高蒔絵法の発明実施化補助金を科学技術庁より交付されて、高蒔絵法に画期的の進歩を示した。その他素地、髹漆法、蒔絵法に関する等各種の発明改良は鳴子漆器業に飛躍的進歩を与えた。例えは竜文塗の発明と生産は鳴子漆器を代表するに至った。

▶︎ 秋田県

 主産地は川連町にして全産額の大半を占め大館、久保、野村の部落は殆んど斯業(この分野の事業)に関係がある。大館市能代市、角館町および本庄市よりも生産する。川連漆器は椀類を中心として飯器、菓子器等の九物類および膳の各種、重、盆等の板物にして日用の実用漆器である。丸物の素地は殆んどブナ材にして板物はホオカツラである。下地は川連特有の油煙を使用しない渋地であり、また地塗付けと称する生漆の下塗は独得にして、頗る堅牢で川連漆器の特色である。蒔絵は概ね消粉蒔絵であり平極蒔絵および研出蒔絵も少いが行われている、沈金彫は加飾の大半を占め技術は洗練されて輪島沈金と異なる引掻法である。大館市の曲物漆器は現代に適せず今は餘影を存するに過ぎぬ。能代春慶塗飛騨春慶と並び称されているが、製造家は一戸で生産は極めて僅少である。その製法も一子相伝(学問や技芸などの秘伝や奥義を、自分の子供の一人だけに伝えて、他には秘密にして漏らさないこと)であり厳秘にして他の窺知(きち・うかがいしる)を許さず、無形文化財の指定を受けている。しかし飛騨春慶の如く発展性のないのは遺憾である。

 角館町は膳、盆、重等の渋下地花塗と渋下地黄春慶塗の農家向実用漆器を生産する。余りにも地方的にして販路は狭く産額も少い。工芸協同組合生産の合板圧搾盆は将来有望である。本庄市は技能者養成所の卒業者を基盤として漆器製造を開始して日浅く今後の努力と精励が望ましい。

▶︎ 沿 革

 川連漆器は建久四年(1193)稲庭城主小野寺重道の弟古四王館を野尻に築いたのが川連町の大館である。慶長年間(1594~1615)城下の士族が内職として漆器の製造が始まり万治年間に至り大いに奨励し、文化文政の頃には益々発達して盛大となった。当時高橋利兵衛は藩庁の許可を得て京都より絵具その他の材料を仕入れて業者の便宜を図った。天保年間(1830~44)会津の板物塗師桜田門兵衛来り塗法を伝え、嘉永元年(1848)にほ林香軒来り蒔絵法を教えた。素地原料のブナ材は藩政当時より皆瀬方面にて伐採し大館に流送し、相場所を置き代価を定めて業者に通知し月賦にて償却せしめた。この遺風は地塗付け(川連)は現今も行われ、組合員年間の需要額を一括して営林署より払下げて分配使用する。次に販売法ほ明治十年頃までは全村の製品を集荷して、高橋利兵衛、中野藤兵衛、佐藤七郎兵衛の三人がこれを販売せしという。

 明治24年輪島より沈金師を招き沈金彫伝習せしめて今日の基礎を作り、同30年には輪島の漆工佐藤斧吉を招き輪島塗を実習せしめた。同 41年より大正年間に及ぶ数年間にわたり継続して、県は意匠図案の改良にほ東京美術学校の島田教授を、髭漆および蒔絵は東京工業試験所の沢口技師を招聘して、川連町に講習会を開催して斯業の改良と発展に寄与する所が多かった。昭和4年には秋田県工業試験場川連分場を設け、専ら漆器の改良研究に従事して今日に至る。大館市の曲物漆器は古来俚謡(りよう・民間で歌い伝えた歌)大館曲わっぱとして有名である。

 しかし民芸品としては兎も角現代一般の噂好には適しない嫌いがある。優良なる杉材の木肌と色調や巧まざる技巧には親しみを感ぜざるを得ない。角館町の春慶塗は天明年間(1781~89)に生産されしことが伝えられている。最初は能代春慶を模したるも、簡易なる製作法に移行して渋を使用し声価を失墜した。一般漆器は文政年間藤田平助の創業以来次第に増加し板物輯の膳盆等の渋下地花塗にして素地に松村も使用する。

 能代春慶塗は『工芸志料』に延宝天和の頃( 1673~84)飛騨の工人山打三九郎此地に来り始めてこれを製す云々。他説には水戸佐竹侯秋田移封の際に春慶塗の工人も来り能代春慶塗の祖となると。また宝永年間(1704~11)石岡庄寿郎春慶塗を発明して藩主の殊遇を蒙(こうむ・いただく)り代々俸禄を受くとも伝えられている。能代塗は古来より今日も一子相伝にして製作法は極秘である。その真偽は別としても次の挿話により想像される。昔同家の徒弟等は春慶塗の秘法は知り難きを悟り互に相謀 (たばか・思案)り機の到るを待った。ある時師匠は秘中の秘とせる上塗の日であった。徒弟等は偽りて略画し自刃を抜い命を取るぞと叱呼しながら幾度も上塗室の前を過ぎた。この時師匠は事態の容易ならざるを知り上塗室より出で刀を持てる弟子を追うた。その間に他の弟子は上塗室に入り秘法を探ったとの伝説もある。また能代春慶の上塗は塵挨(じんあい)の付着を避けるため海上遥かに舟を泛 (うか)べて塗ると伝えられている。これは輪島漆器の上塗にも同様の伝説がある。

参照VTR(飛騨春慶塗)

参照VTR(伊勢春慶塗)

▶︎ 山形県

 主産地は明治大正時代には山形市を中心として鶴岡市、酒田市の順に各々特色ある漆器を生産したるも、販路は概ね県内にして積極性を欠き他産地の進出に己むなく後退して昔日の繁栄を失った。山形市の漆工ほ仏壇仏具の製造に転じ、その生産ほ倍加し漆器は益々消極的となった。しかし同市よりは結城、中川等の工芸作家を輩出して技術の向上に努力している。鶴岡市の漆器は元来武具の製作より出発して漆下地を用い堅実である。製品は専ら板物類にして膳、盆、菓子器等で素材はホオを使用し、塗は高級なる竹塗を得意とし他の追従を許さない。ブリキ製の茶筒に応用したるものは同市の特産である。酒田市は欅物と称ししてケヤキ材の指物製品に摺漆或は木地呂塗を応用し、或は輪島塗の家具類を生産するも産額は僅少である。

▶︎ 沿 革

 慶長年間(1568~1615)最上義光は山形の市区を改正して塗師を一区割に集め塗卸町と称し、また鞘町を置き刀鎗その他の武器を製作せしめた。宝永の頃(1704~11)一時漆工は衰微したるも安政年間(1854−60)には回復し朱座(中世・近世の日本において朱及び朱墨などの関連商品を扱う商人による同業者組合)も置かれた。大正時代には山形県産業十年計画を立案実施して漆器の講習会も度々開催し、講師は東京工業試験所より招聘した。山形名産紫檀塗の発達もその結果の一っであり、県下漆工業の進歩に寄与する所が少くなかった。大正7年県立工業試験場を設置し漆工部を置きたるも同十二年これを廃した。

 鶴岡市の漆工は藩政当時より武器の製作に従事したもの多く、廃藩後ほ普通の塗工となり一般漆器を製作するに至った。竹塗は明治の初年漆工阿部八右衛門江戸にあり竹塗の名工橋市に学び、これを郷里の子弟に伝授養成して多くの工人を出し鶴岡の竹塗として名声を高からしめた。現今竹塗に従事する者は何れも阿部氏の門より出でたるものである。

 酒田市の漆工業は多くは指物業に従属したるをもってこれと盛衰を共にし、また生活様式の変遷に伴い家具類の形式も変り塗装法も異なった。なおケヤキ材の欠乏は木地呂塗の衰微を一層甚だしくした。明治年間にほ一般漆器の生産も盛んにして円山工場を設け各地の漆工を糾合したることもあった。然るに現在は僅かに余喘を保つに過ぎない。

▶︎ 福島県

 主産地は若松市にして喜多方市これに次ぎ、若松市の漆器は古来会津塗としてその名全国に高く屈指の大産地である。生産の状況ほ整然と各部に分類されて規格あり、漆器商がその中心となり能く統制され、大量の注文に応ずる用意と訓練がある。而して木地、塗師、蒔絵の三部に大別し更に木地は宗和師(板物木地工)と挽物師(木地挽)とに、塗は板物塗師と九物塗師との区別がある。なお別にこれに従属する下地師(渋下地専門)がある。素地九物ほ椀類を主とし素材はブナ、トチにして南会津郡と耶麻郡より生産し、中には木取りのままの荒形を若松市にて仕上挽も行われている。近年は荒形を廃し方形に製材し直ちに荒挽する傾向が次第に多くなった。椀類は常挽と枯挽(からしひき)の二種あり常挽はブナ材を主とし荒形より仕上挽する。枯挽はトチ材にして荒挽して乾燥したる後仕上挽する。

 

 木材は会津の特産にしてトチの枯挽であり、鈴木式轆轤を使用して形状ほ一定しまた量産も容易である。板物素地は渋下地の関係で専らホオ、カツラを使用して種類は膳、盆、二段重、菓子界、硯箱等が多い。

 塗は殆んど渋下地で上塗は洗練されたる美麗の花塗である。特産朱塗の木杯に至っては漆下地にして独得の発達を遂げ熟練の技術は他の模倣を許さない。蒔絵は消粉蒔絵、平極蒔絵、九粉蒔絵の三種に自然と分れ専門的に発達し、殊に伝統を誇る消粉蒔絵および金地は独得にして他の模範となり、会津漆器の大なる特徴である。平極蒔絵も明治年間に伝習以来色粉を併用して新しき作風を起した。九粉蒔絵は一部少数の人に限られて産業方面には未だ微力である。終戦直後に軽金属鋳造の金胎漆器は勃興し、工場組織の一貫作業により大量生産を行い、輸出を目標としての発展は一時業界の注意を浴び大いに期待されたるも、製作法に欠陥がありまた経営上の事情により解散は惜まれている。衣桁(いこう)は機械力を応用して大量生産し工場は増加し喜多方市よりも産して盛んである。

 喜多方市は従来挽物頬の実用漆器を生産してかつては若松市に従属の感ありしも、現在は独自の立場より喜多方漆器として大いに精進し、中には若松市にも見ざる一貫作業の工場もある。両市を通じて素材の欠乏に伴い挽物に代る合成樹脂素地の使用が目立つ。若松市にはコンパウンドの製造より成形塗装まで工場で経営している会社もある。

▶︎ 沿 革

 会津漆器の起源ほ遠く室町時代声名氏の領主時代既に椀頬とその他の漆器を生産し、これ等の挽物は会津地方の山中に深く隠れたる平家の落人によりて製作されしと伝えられる。天正1年(1590)蒲生氏郷江州より会津に封ぜらるるや、大いに漆器業を奨励し家臣吉川和泉守以下四六人を、若松、小荒井、喜多方に分任せしめて日野椀の製法を伝習せしめ、文禄元年(1592)には漆工練習所を創立して技術の進歩を計り世人これを塗大屋敷と称した。『工芸志料』には「蒲生氏は浄法寺椀を参考して会津漆器の改良を企て云々」とも記載されてある。蒲生氏の後に上杉景勝、越後より移封されて漆器は重要なる物産なれば、その発達を期するには先ず漆樹の栽培にありとなし、慶長4年(1599)漆樹の栽培に閲し種々の制度を設けられた。

 寛永4年(1627)加藤嘉明上杉氏に代りて領主となるや鋭意漆器業の発達と漆樹の栽培を奨励した。当時海東五兵衛は工場を設立して大量生産を行いその製品全部を江戸に移出した。寛永20年(1643)保科正之の会津に移封せらるるや、産業政策を樹立し特に漆器業の改良に力を尽し制度の上にも種々の改廃を行い、蒔絵は京都より木村藤蔵を招碑して伝習せしめ、同時に金箔および金粉の製法も習わしめた。次に山田右膳を漆器奉行として斯業を監督せしめ、また定時検査して粗製濫造を防止した。なお技術優秀にして着実篤行なるものには稟米を与えてこれを奨励した。また漆液に就いても検査して粗悪品の使用を禁止し、さらに漆樹の栽培を大いに保護奨励したる結果空前の多数に達した。

 享保二年(1717)7月田中玄宰は幕府の勘定奉行中川飛騨守に謀り許可を得て、長崎在留の中国人および和蘭人に漆器を販売海外に輸出した。その後戊辰の役に際し産業は一時中止され漆工も四散して衰微の極に達した。然るに戦雲収まりて明治維新となるや漆工の帰来して職を求むるもの次第に多くなり、漆器商等相謀り業を起し漸次衰勢を挽回して旧態に復することを得た。幸に輸出漆器も好評を博して明治10年頃には高潮に達した。これを見たる業者は輸出漆器の製造に従事するもの次第に多く、自然価格の競争となり遂に粗製濫造の通弊に陥ち海外の信用を失墜するに至った。産額は激減して業者の打撃ほ甚だしく失業者を出し或は転業し、同十五年頃に至り業者の自粛と努力により誠実なる製品は信用を漸次回復するに至った。

 17年には会津漆器に特筆すべき時機が到来した。それは褒賞条令による木材の製作を漆器南新城猪之告が新たに開始し、従来の方法と異なるので非常の苦心と困難に遭遇した。殊に御紋章の焼金蒔絵(平極蒔絵)は会津においては経験者なく、よって東京より渡辺仙之助等五人の蒔絵師を招致してこれに当らしめた。また同時に一方においては将来を慮り優秀なる青年蒔絵師を募集してこれに伝習せしめた。然るに金粉の磨きは東京の蒔絵師の如く光沢を発せしむることは出来なかった。当時は行燈を使用する遺風があり、偶々工人がこれを倒し油の掃除中若干指頭に油の残れるを忘れて引砥粉をつけ磨きたるに、俄然金色ほ燦然と光輝を発したので喜び極まって泣いたという。渡辺等は金粉の磨きに油の使用を故意に教えなかったのである。これ等の青年蒔絵師の奮起により木杯の蒔絵を完成して東京を凌駕するに至った。さらに色粉を交えたる会津式の平極蒔絵を創作した。

 三十年には耶麻郡の鈴木治三郎は木地挽暁鐘に大改良を加え型板を使用して形状を均一となしまた多大の能率を増進することに成功特許を得た。本棟は鈴木式轆轤と称し全国に普及して斯業を益する所甚大である。二十七年若松市立漆器徒弟学校を設立し、三十七年これを廃し同時に新設の県立工業学校の漆工科に合併した。昭和四年県立会津工業学校と改称した。昭和三年同校内に漆器工芸研究所を設置し同五年にこれを廃し県立工業試験場を設置し独立して専ら塗器の試験研究に従事して今日に至る。

 

▶︎昭和46年に会津漆器技術後継者養成所として発足、平成15年度に福島県認定会津漆器技術後継者訓練校に改組されました