奈良原一高

■「人間の土地」再考・奈良原一高の1954−1956

蔦谷典子

▶︎はじめに

 それは「人間の土地」から始まった。ひとりの無名の青年が、写真の新時代を鮮やかに示して見せた。九州一巡旅行で、火山灰に埋もれる桜島の窯神村と長崎沖の人工炭鉱島・通称軍艦島で、極限状態のなかで生きる人々に出会い、生きる力を与えられた青年は、1956年5月、初めての個展「人間の土地」(松島ギャラリー、東京・銀座)を開いた。それは、戦前からつづく写真の流れを、閃光のように引き裂き、新たな時代へと導く導火線となった。たった1週間の展覧会の後、無名の大学院生は、新進気鋭の写真家と呼ばれていた。この展覧会を機に、新しい世代の写真家たちが集合し、「10人の眼」展から「ⅤⅠVO」への動きが形成される。戦後の新たな展開を告げるこの個展は、やがて神話となった。写真家・奈良原一高の鮮烈なデビューである。

 しかしなぜ、初めての個展が日本の写真を変えるほどの力をもち得たのだろうか。1956年の時点に立ち戻って、もう一度「人間の土地」を見直してみたい。当時、奈良原は前衛美術運動の渦中にあった。このことが、奈良原一高の登場を解き明かす重要な鍵となる。写真という視座と、前衛美術という視座の双方から、1954年から1956年までの奈良原一高を見つめなおすことで、「人間の土地」の意味をあらためて検討してみたい。「人間の土地」はその後、奈良原の重要な核となっていく。

▶︎第一章 写真の視座から

■生い立ち

 奈良原一高(ならはらいっこう)、本名・楢原一高(ならはらかずたか)は、1931(昭和6)年に福岡県大牟田市の母親の実家で生まれた。母方の祖父は、画家志望で美術学校進学を希望したが、家督を継がねばならず、書画骨董の収集にいそしむ美術愛好家として生涯を送った。母親は、祖父が生きていたら、自分が果たせなかった芸術家の夢を成し遂げている奈良原の姿を、さぞ喜んだだろうと繰り返した。久留米出身のは上京して税務署に勤めながら大学に通い、司法試験に合格して判事になった。奈良原は、度重なる父の転勤で、常に転校生として学童期を過ごしている。このことは、物事に処する独特の距離感を培ったといえる。

 3歳から6歳をすごした長崎は、奈良原の視覚を形成する原体験をもたらした。ザボンの実や芭蕉の薬など南国の楽園を思わせる庭や、造形的にもダイナミックで多国籍的な遊びの数々。ステンドグラスの透過光、赤い支那寺、ペーロン競漕など、西欧・中国・日本の文化を混合した長崎の街は、奈良原の眼に色鮮やかな祝祭の感覚となって焼きついた。そして、奈良原の写真との出会いは、アマチュア・カメラマンだった叔父・山本慶の被写体になることから始まる。叔父による幼少期のいきいきとしたポートレートが残されている。豆画伯といえるほど図画が得意だったが、奈良原自身は工作の方が好きで、グライダー作りに夢中になった少年期を過ごしている。

 しかし、戦局が悪化して、終戦直前には空襲が続き、当時住んでいた尾張一宮の街は壊滅した。その日、B29の扇状爆撃で次々と焼夷弾が落とされるなか、爆撃機のコースから直角に逃げ、最短距離で射程外へ走った。ふとんをかぶって身を伏せた目の前に爆弾が突き刺さるのを見ながら、郊外へ抜け生きた。やがて街は燃え上がり、ボッスの地獄絵そのものだったという。奈良原の少年期は、きらきらと輝く豊かで幸せな世界と戦争という惨禍が共存する

 15歳のとき、妹洋子(ひろこ)が誕生し、一家が購入したカメラ、セミ・ミノルタで撮影した幼い妹の記念写真が、自らの写真撮影のである。几帳面に巻き尺をとり出して距離を測る行為が語り草になった。1948年、父が検事正地方検察庁の長である検事に昇任して鳥取に転任、さらに松江に移った。鳥取では、現像・密着など写真の基礎を修得した。写真館の友人から、戦前の「アサヒカメラ』をまとめて借りて、カメラやメカニズムの知識も得る。松江高校3年生のとき、学校記念祭で校内写真展がひらかれ、母や妹の肖像や風どを四ツ切に伸ばして出品した。

 1950(昭和25)年19歳、父に勧められるままに中央大学法学進んだ。父が奈良に転勤し、休暇のたびごとに奈良に帰省に魅了され、奈良と京都の寺の仏像をくまなく見て歩いた小川晴暘は、古美術写真家でもあったが、奈良原は写真の影響けなかったという。古寺巡礼を一年半続けた頃、法隆寺金釈迦三尊像の前で造型に開眼した。そして、法律から美術転向する決心をする。

 1954年3月、中央大学法学部を卒業した奈良原は、4月に早稲田大学大学院芸術専攻修士課程に入学した。奈良原にとって法科から文科方面への転向は容易ではなかった。美術を志しものの、あくまで法律家の道を進ませようとする父親と、祖父美術道楽を見てきた母親の強い反対を受け、承諾を得られなまま卒業を迎えようとしたが、意を決して早稲田に入ったのでる。

▶︎「人間の土地」展

 この春、父の転勤で実家は長崎に移った。九州で生まれていても九州を知らず、九州周遊の旅を思いついた。その旅で出会たのが、桜島・黒神村と人工鉱島・軍艦島であった。桜島で、基前に花をさしている若い娘の姿を見て、しっかりと大地に根ざしたその姿に強い感動を覚えた。そして、岩壁に囲まれた長崎の軍艦島をみて東京に帰った。しかし大地に生きる人びとのイメージが消えることはなく、旅から帰った後も深く心に残った。鮮明イメージがひとつのコンセプトにまで発展し、「二つの〈場〉を描くことで人間の存在という共通項を浮き彫りに出来るのではないか」と考えた。

 当時の奈良原は、「不安にせめさいなまれ、たえず動揺しつづける不安定な自分の世界」に埋没していた。そして、「自分が“生きる”という確証、それを前向きのかたちでみたかった。あの「人間の土地』の展覧会はいい作品をつくるためにつくったんじゃ絶対にない。自分が生きるために、生きていくために撮ったのです。・・・自分の中のカオス(混乱)を定着し有形化するつまり欲求を現実化する手段として写真をえらんだわけです」と記す。そして、1954年夏に自分のカメラを購入し、春・夏・冬の休みごとに九州に帰り撮影を進めた。

 「人間の土地」と同時期に、奈良原は「無国籍地」と名付けられたフォトポエムを撮影している。帰省の途中に立ち寄った大阪城の天守閣から砲兵工廠の廃墟が限に留まり、心惹かれて「人間の土地」に先んじて撮っている。東京でも王子の軍需工場の廃墟を彷徨(ほうこう・目あてもなく歩きまわること)って撮影した。詩的な発想による廃墟の連作「無国籍地」について、当初、奈良原自身多くは語らず、暗い青春の鎮魂歌とのみ記す。

 戦争中に思春期を迎えた奈良原にとって、戦争体験は決定的なものだった。戦争が「日常」であり、戦争が終結した「何もない空」に平和より真空と不毛を感じたという。少年時代、周囲の風景は、爆撃のあとの焼け野ヶ原で、「無国籍地」の中の光景はそのまま慣れ親しんだ原風景だったといえる。

 

 撮りためた写真を誰かに見てほしいと、奈良原は1年前に個展の会場を予約している。当初、第1部を「無国籍地」に、第2部を「人間の土地」にと考えていた。人間不在の「無国籍地」のネガティブな世界と、人間を真正面から捉えた「人間の土地」ポジティプな世界対比的に扱うつもりだった。「人間の土地」展案内状の試作では、「無国籍地」を「地帯」というタイトルで「人間の土地」の序章として組みこんでいる。

 また、当時の展覧会は、プリントもパネル粘りで大伸しにしなければならず、写真弘社に依頼する必要があった。必要経費を捻出するため、奈良原は富士フイルムに協力要請に行っている。自らのコンセプトを巻物仕立てにしてプレゼンテーションをし、印画紙の提供とポスター制作を引き受けてもらっている。焼付けもプリンターに意図を伝えるのが困難で、最初松竹映画のようなプリントになったため、洋画のような調子にと依頼したりした。何度かできないのではと思いながら、開幕にこぎ着けた。

 こうして、1956年5月5日、「奈良原一高鳥眞展 人間の土地」(東京・銀座・於島ギャラリー、11日まで)が開幕した。ポスター・案内状・パンフレットも整い、102点の作品で、第1部「火の山の麓」と第2部「緑なき鳥 人はこれを軍艦島と呼ぶ」の二部構成とした。さらに、第1部は「熔岩に埋もれた村 桜島黒神部落」と「沈みゆく島 燃島」に分けている。1946年の噴火によって埋没した桜島は、熔岩の大地のため地下水が出ず、天水に頼る生活だったが、この春にようやく共同水道が通ったばかりだった。

 薩摩藷やひえが作れる程度の原野では、「『たくましい』と云う言葉の表現を遠く超えてしまった」ような生活が強いられた。一方、高さ10mの岩壁(ベトン)に閉まれ、長さ480m、幅160mのまさに軍艦のような島、三菱鉱山高島鉱業所端島砿は、地下880mの日本最深の竪坑をもつ「炭礁と云う現代社会の必需生産部門のために崎形に作り上げられた島」であった。全島民4700名の住む高層アパートが連立し、日本最高の人口密度を持つ。線といえば植木鉢の中だけで、時化になれば岩壁に打ち上げた水しぶきがアパートの上を越す汐降りとなる。この2つの島の苛酷な状況を対比させ、そこに生きる人間の姿を提示した。大小のパネルを構成的に配置した会場を作り上げている。

 この展覧会は、新鮮な映像表現が大きな反響を巻き起こし、奈良原は、この一作で一躍新進写真家として注目を浴びる。若い批評家や写真家たちからは、絶賛の声が上がった。福島辰夫は「青白い火花」の中で、次のように語っている。

「今年五月にひらかれた彼の個展“人間の土地”の記憶はいまだにぼくたちのなかで新しい。なぜ新しいのか。ぼくはいままでにあんなに時代のいぶきを全身に受けて、いきづいている写真を見たことがなかったからである。自分の世代と人生を誠実に生きている写真を見たことがなかったからである。批評家の重森君がある日、突然、ぼくに言ったのだ。“奈良原一高という若い写真家の個展を見たか”“まだ見ていない”〝すばらしい、ぜひ見にいくべきだ、ぜひ”彼はひどく感動していたようだった。日ごろ、ほとんどものに動じた様子を見せない彼が、そのときだけは、頬を赤らめ、たくさんの言葉で、別れるときまで“ぜひ、見るべきだ”とくり返した。」

 重森弘淹(こうえん)も、

「奈良原の仕事の質をどのようなかたちで評価するかは、これからの写真批評においてもきわめて重要な課題であり、したがってぼくもこの評価の仕事に自分自身を賭けた」

と記している。

 しかし、批判の方が大勢であった。写真界の重鎮・木村伊兵衛と土門拳の対談では、木村は「なにか弱いんじゃないですか。おまけに非常に神経質ですよ。」と苦言を呈し、さらに土門は「ノイローゼが若い人のもっているユニークなものかもしれないけれど、少し借り物くさいんです。‥・どうも、日本、という感じがしないね。写真が無国籍ですよ。・・・生活から遊離した抽象化はやりきれないな。・・・人間を無視してる感じだな、はじめから。人間疎外。・・・ほんとは人間疎外に対する抗議のカメラアイを向けなきゃいけないですよ、疎外しっぱなしじゃダメです。」と言い放つ。名取洋之助は、「非常にアート的」で「お芸術的にレイアウトしてある」といった調子だった。リアリズム写真を提唱してきた土門と、写真はメッセージを伝達する素材であり、個々の写真を組み合わせストーリーとして構成する編集者の意図を視覚化するのが写真家の役割という名取。木村伊兵衛・土門挙らの巨匠が審査員である写真雑誌の月例懸貴に応募して頭角を現していく、という当時の多くの写真家が辿る道筋とは、そもそも奈良原は全く違う世界にいた。そしていかなる賛辞にも批判にも動じない姿勢を、奈良原はすでに身につけていた

 福島辰夫は、「人間の土地」展を見て、写真の新時代創成に参画したいと写真評論の道に専念していく。それほど「人間の土地」は、新しい時代が始まるという予感に満ちていた。この「人間の土地」展を契機として、福島が主導となり、新進気鋭の写真家たちを集めて展覧会を開催する計画が進み、1957年5月「10人の眼」展が開催された。その第3回展直後の1959年5月に、奈良原、細江英公、東於照明、川田喜久治、丹野章、佐藤明の6名は、セルヴィヴォフ・エイジェンシーⅤⅠVO(キスベラント語で“生命ガの意味)」を結成した。

 共同事務所を設けて、写真家の社会的な立場を確立しようとする新たな読みであった。そして、奈良原は《王国》を、東松照明≪占領》を、細江英公≪男と女》を、川田喜久≪地図》を、と話題作を次々と発表し、戦後の写真史を塗り替える新鮮な映像群で、まさに新時代を築いていった。

 「人間の土地」展以降、事態は急展開し、奈良原の周りには「ロツコール』誌の編集室を根城に若い写真仲間たちが集まった。しかし、1956年5月に「人間の土地」を発表するまでの時点で、奈良原を取り巻いていたのは、全く別の世界だった。

▶︎第2章 前衛美術の視座から(1)グループ「実在者」のなかで

 1954年4月、大学院にはいると現代美術に対する関心が急激に高まり、この2,3年のうちに、多くの生渡の友に出会う。「美術こそが自分のすすむべき道だと思っていました。美術のタブロー的な在り方に対しては否定的だったし、学校で教わる考証的な美術史に反撥を感じて、モダンアートへひかれていき、そこで今日の芸術家の在り方を真剣に考えるよ.うになっていました。」と記している。「新しい時代が世界中からたちあがりつつあるのだ。そのことを話す彼の静かな、知的な日は熱気にうるんで燃えていた。新しい時代を新しい態度で生きぬいている世界の画家たちの仕事について、その緊迫した気がまえと激しい姿勢」を福島は感じ取っている。

 この頃、奈良原は小川晴暘の紹介で、画家の真鍋博に出会い、次いで真鍋から、池田満寿夫、堀内康司、靉嘔を細介された。そして、1955年4月、真鍋・池田・靉嘔・堀内の4人によってグループ「実在者」が結成され、この既成の美術団体否定を掲げる新鋭画家グループに、奈良原は客員として参加する。もともとこの集まりは、フォルム画廊主・福島栄太郎に認められた堀内が、街で見かけた池田の作品に魅了され、池田を訪ねたところから始まった。ふたりで真鍋に声をかけ、今度は三人で、靉嘔を訪ねた。こうして4人のメンバーが揃った。1955年6月にグループ「実在者」第1回展がフォルム画廊で開催された(6月28日−7月2日)。皆の意見が一致してテーマは「戦争」。真鍋は<包帯〉など5点、靉嘔は≪花》2点、堀内康司は<戦争の風景》A・B・C、池田浦寿夫は<真昼の共同墓地》などを出品した。

 ここで、奈良原が「無国籍地」を撮影した同じ王子の軍需工場跡から、堀内と池田の作品が生まれていることに注目したい。王子の軍需工場跡は、もともと堀内のテリトリーだった。既に大阪砲兵工廠跡地で廃墟を撮っていた奈良原をはじめ、グループ「実在者」の仲間たちを、堀内がそこへ案内したのだった。奈良原はその日、真鍋・堀内のポートレートを撮っている。堀内は次のように記している。「北区王子から赤羽寄りに15分ぐらい行ったところに工場跡の廃墟があった。夕暮れになると廃塔の周囲を煽煽が旋回し、一種異様な雰囲気が醸し出された。ぼくはこの現場から取材して”戦争”展の絵を描いたし、池田は、地上を這うようにして散在する瓦礫やレンガの破片の中で造形した『真昼の共同墓地』や「不安な反響』などの干割れた線が地平線の彼方まで続く、明るい色調の作品をものにしたように思った。戦争の爪跡を残す廃墟が共通の出発点となる。

 そして、パリを中心としてヨーロッパに三年問滞在し、写真集「ヨーロッパ・静止した時間』(1967)を上梓した。「ヨーロッパについての私語」と自ら評し詩集を編むように纏めた初めての写真集は、日本写真批評家協会作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞した。スペインでは、生と死が鮮烈にぶつかり合う闘牛や、バンプロナの牛追いの祭、白い壁と青い空と歌の国アングルシア、村の原型を見るようなグラナダの穴居など、曇りのない眼差しで生の輝きを全身で受け止め、2冊目の写真集Fスペイン・偉大なる午後』(1969)に結晶した。

 さらに、ニューヨークを中心にアメリカに4年間滞在し、広漠としたアメリカ大陸に対時したF消滅した時間』(1975)を刊行している。「人間の土地」以降、奈良原は、ヨーロッパ、アメリカとその〟場”を移しながら、人間の作り上げた文明の光景を撮り続けてきた。詩人の感性で捉えるそれら“人間の土地”は、まるで宇宙の果てから、人間の営みを見つめているような巨視的な視野をもつとともに、その創りだす空間のなかに、自給と惹き込まれて行くような親密さを兼ね備えている。それは、「手のなかの空」を透かしてみたときのような、不思議な感覚に満たされている。 奈良原の核となる「人問の土地」を再考すると、その原型がみえてくる。しかし、出発点である「人間の土地」のみでさえも、まだ多くの謎に溝ち、容易に解き明かすことはできない。

(島根県立美術館学芸グループ課長)