乾山焼と光琳(江戸文化)

■乾山焼と光琳

荒川正明

▶︎はじめに

 美術史上たぐい稀な芸術家兄弟である光琳と乾山(けんざん・本名は深省)。今回の展観はその美的世界の競演にスポットを当てるもので、日本美術ファンならば誰しもが心躍る企画といえるだろう。そこで、この拙稿(せっこう)に課せられたテーマであるが、画家としての光琳ではなく、やきもののデザイナーとしての光琳の姿を焙り出すことにある。つまり、弟の経営する乾山窯で、そのセンスを活かした装飾意匠を光琳がいかに展開したかという点を、明らかにすることにある。

 私は乾山焼を多数所蔵する出光美術館の学芸員時代に、その作品に親しく触れる機会をもつことができ、展覧会も度々企画させていただいた。また、乾山焼のスタートを飾った京都・鳴滝窯跡の発掘調査にも参加し、乾山が惜しくも世に送り出すことが叶わなかった失敗作(陶片)にも、じっくり触れることができた。偉大な画師・光琳に関しては多く語る資格をもたないが、これまで乾山焼を眺めて抱いてきた私のデザイナー・光琳のイメージを、ここに少々記させていただきたいと思う。

▶︎ 1、『陶磁製方』解釈・・・「最初繪ハ皆々光琳自筆畫申侯」

 乾山焼における光琳の関与に関して語られてきた孟のなかでも、現在まで大きな影響力をもっているのが、琳派研究のパイオニアのお一人である山根有三先生の業績であろう。実証的な美術史的手法により、光琳画の編年を確立し、様式分析などを進められた。さらに、光琳画に向けたのと同じ問題意識から乾山焼を論じ、とくに光琳・乾山合作の作品に関する研究を飛躍的に深化させている。

山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年- 2001年)は、日本の美術史学者。東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授。近世初期の長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳など琳派の研究が専門。

編年(へんねん、Chronology)とは、日本では通常考古学において遺構及び遺物の前後関係や年代を配列すること、またはその配列自体を指す語として使われる。英語の”Chronology”は考古学以外の、例えば絵画や人物の年代、年譜についても使用される。

 私もかれこれ三十年余前、新米の学芸員の頃、出光美術館の理事であった山根先生に連れられ、京都のY家所蔵の乾山焼の調査に伺ったことがある。それが私の初めての本格的な乾山焼との出会いであり、先生よ乾山焼の見方を直接伝授していただいた。その後も折に触れてご指導をいただき、乾山の鳴滝窯跡の調査に関しては、美術館として参加することに大いに賛成していただき後押しをして下さった。私も山根先生門下の端くれに、置かせていただいているのかもしれない。

鳴滝乾山窯跡の立地
この地は文献史料から次のような変遷をたどったことがわかる。
1694年 二条家山屋敷を尾形深省に譲る。
1699年 尾形深省が窯跡を操業。
1712年 尾形深省が洛中に移転するとともに桑原空洞の山屋敷となる。
1731年 法蔵寺が建立される。
 京焼の多くは寺社や公家・禁裏と結びつきながら生産を行っていたことがすでに明らかにされているが、鳴滝乾山窯においても、それは同じであった。しかし、従来は「二条家の山荘」が如何なるものであるかという検討は、史料不足のためになされてこなかった。「庭」というものが果たす役割やその具体的性格についても今後検討してゆく必要があるが、重要な点は、乾山窯が二条家の優美な山荘のなかに作られ、視覚的にもそれが示しえたということである。すでに文献史料では明らかになっていたことだが、それを改めて実感させ、当時においても単なる政治的な繋がりのみならず、視覚的にも二条家との関連を示しうるような場所で生産を行っていたことが明確になった。御菩薩池焼、つづいて乾山焼が洛中に拠点を移すのは、そうした「意味のある場所」の意義が薄れたか、「粟田口」などの他の「意味のある場所」がそれらに打ち勝ったためであろう。ただし、それでも乾山二代目が聖護院門前で生産を継続するなど、政治的な繋がりが意味を無くすわけではない。

▶︎法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団を組織して、2000年より発掘調査を開始

 その後、私なりに多くの乾山焼を見てきて感じていることは、当時の山根先生は乾山焼のなかに、天才兄弟が残した至高の芸術のエッセンスを求めようとしていたのではないか、ということである。今の私には、その先生の眼差しは、やきものという造形を考える上に、ややストイック(禁欲的で、厳格に身を持するさま)に過ぎていたようにも思われる。

 乾山焼のなかで、光琳・乾山の合作以外、先生の認める光琳自筆の乾山作品はほんの数点しかない。デザイナーとしての光琳が、乾山工房のなかでやきもの制作にどのように関わっていたか、という点にはあま関心をもっておられなかったのかもしれない。

 考えてみれば、「売れてなんぼ」の商品としてつくられた乾山焼である。おそらくは極上の逸品もあれば、お手頃値段の富もあったであろう。光琳と乾山にしてもそのあたりのことは十分承知し、作品によってカの入れ具合にも多少の強弱があったことだろう。とはいうものの、型紙摺りなどで装飾された比較的量産タイプの製品においても、この二人の兄弟は、大衆の目を十分くぎ付けにする魅力をうつわにまとわせていたのだ。

 ところで、すでに研究者の間では常識になっているが、山根先生は乾山が元文2年(1737)に書き残した『陶磁製方』の「内窯焼陶器之事」に続く次の記載に問し、新たな解釈を試みられた。

其薬方ヲ用侯テ道具ノ形、模掌を私、其1同名光琳二相談侯テ、最初之静ハ皆々光琳自筆董申侯、爾今檜之風準規模ハ光琳‥のミ置侯通ヲ用、又ハ私新意ヲも相交、愚子猪八二停…

(意訳)

 その要や顔料を用いるなどして、うつわのかたちや模様は票決めましたが、兄の光琳に相談しながら初期の頃の絵模様はほとんど光琳が描いたもので、今でもうつわに描かれた意匠は光琳が好んだものを用いており、そ‥に私の新たな創意も加え、愚息の猪八に伝えたものです…

 『陶磁薬方』は書誌的な検証が未だ十分とは言い難い史料ながらも、乾山自身が記した可能性のある貴重な史料で、光琳が乾山工房において絵付け師兼デザイナーとしての役割を担っていた様子を伝えている。

江戸時代を代表する陶工、尾形乾山(けんざん)(1663~1743年)が晩年、栃木県佐野市で残したとされる自筆伝書「陶磁製方(佐野伝書)」と「素焼きの皿」3点など、計6点が同県内の旧家で発見されたことが25日、分かった。

 ただし、「最初之檜ハ皆々光琳自筆書中侯」という箇所に関して、山根先生がその文脈に沿って解釈されてきたそれまでの説を覆され、銹絵(さびえ)角皿などの光琳・乾山の合作は、乾山の記述とは異なり、そのすべては光琳が江戸から帰郷して以降の作、つまり宝永6年(1709)から光琳が没した正徳6年(1716)までとされた。すなわち、鳴滝時代末期から二条丁子屋町時代のはじめまでに渡る、という説を提示されたのだった。以後、この山根説は現在までほぼ定説化され、「乾山窯初期の作品の絵模様はほとんど光琳が描いた」という乾山の記述自体を、改めて検討しなければならない状況になっている。

銹絵(さびえ)鉄絵(てつえ)ともいい、絵付けの一種。釉薬(ゆうやく)の下に描く下絵、上に描く色絵の上絵とあり、茶色から黒褐色の色合い。

そして、山根説の登場以来、乾山窯が開始された元禄12年(1699)から、光琳が江戸より帰洛する宝永6年(1709)までの十年間、乾山工房における光琳の足跡が、作品からは追えない状況になったわけである。山根先生ご自身も「無署名ながら、ほとんど琳派風の草花図とみられるものがある。・・確実に光琳筆と考え得るものはなく、光琳の彩色画本による弟子の絵付作品と思われる」とされ、‥の十年間における、乾山焼における光琳絵付けの問題に関して、きわめて慎重に対処されていた。

繻子織(しゅしおり・サテンのようでなめらかでつやがある)は、経糸・緯糸五本以上から構成される、織物組織の一つである。経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸または緯糸のみが表に表れているように見える。密度が高く地は厚いが、斜文織よりも柔軟性に長け、光沢が強い。ただし、摩擦や引っかかりには弱い。

この空白の十年間であるが、じつは光琳はとくに染織の分野で評価を得ていた。鳴滝窯が開窯された同じ元禄十二年に刊行された『好色文伝授』には「白繻子、いよいよすみ絵の松、光琳に書せ申し侯、何共なふおとなしきよふと申、一入うれしく侯」という一節があるが、これは光琳に光沢のある白繻子の小袖に直接墨で於を描かせたもので、その出来映えの素晴らしかったことを述べたものである。光琳の描いた、この世に唯一の墨絵描き小袖は、この頃、世間の評判をとっていたのであろう。

また、宝永3年(1706)には、「光琳ひいながた」が刊行され、光琳が描いたモチーフをデザイン化した、いわゆる「光琳模様」が誕生していたのである。

じつは光琳乾山鳴滝開窯前から、工芸品の請負いデザイナー兼絵付けを行なっていたのである。元禄8年(1695)には二条親平から絵扇子五本を注文され、元禄十年には蒔絵や屏風絵の制作、元禄十三年には同じく二条鮪平から扇子や菓子箱の注文を受けていた。

おそらくこの頃から、光琳は小西家伝来の画稿にあるような嵯峨本観世流謡本の表紙絵や、宗達の金銀泥料紙装飾、あるいは伊年印草花図屏風の模写など、後の琳派意匠と呼ばれるようなデザインカの修練を積んでいたに違いあるまい。

おそらく世間への「光琳模様(下左右)」の浸透ぶりなどを目にした乾山は、「‥の人気を利用しない手はない」と即断し、乾山工房ではすでに宝永年間前半には琳派意匠導入を計り、準備を進め、実行に移していたのではないだろうか。

▶︎  2、鳴滝窯の時代

2000年から5年に渡った鳴滝窯跡の発掘で明らかになった点は、乾山窯がきわめて野心的で意欲的な作陶活動を展開した点である。乾山京都・嵯峨野の直指庵(黄檗宗)の高僧・独照性円(どくしょうしょうえん)のもとに参禅、「深省」や「豊海」などの号、さらには悟りに至るための「戒」を授けられる。その「」こそが、作陶を趣味的なものとしてではなく、生業として正面から取り組むことであった。二代目仁清押小路焼孫兵衛らを雇い、旺盛なチャレンジ精神で、たくさんの種類のうつわを焼成していた。『陶工必用』を読むと、乾山がいかに作陶技術に詳しく、しかも新しく開発した技術による装飾表現に、強い自負をもっていたことがうかがえるのである。

とくに、鳴滝窯の最初期の乾山焼を見ると、どうやらその文様意匠に関しては、「光琳模様」を使用した形跡はほとんどなかったようだ。初期の乾山焼には、いわゆる琳派風意匠は姿を見せない。いわば伝統的な狩野派や土佐派の王朝風の意匠、あるいは異国趣味の漢画が採用されていた。

王朝趣味あふれる藤原定家の詩をもとにした「色絵定家詠二ケ月和歌花鳥図角皿」(図22)は、元禄15年(1702)の年記をもつことから、鳴滝窯の初期作とされている。これは狩野探幽の画帖をそのまま模倣したような、いわゆる狩野派風の繊細な画風である。

 また、同じ角皿でも漢画調の銹絵(さびえ・図版23.24)も、「乾山銘」から、鳴滝窯初期(元禄時代末期)にさかのぼる可能性のある水墨画風の意匠である。この銹絵角皿の山水人物画が、光琳の筆になる可能性はないのだろうか。気になるところではあるが、いずれにせよこの鳴滝窯初期には、デザインを光琳に委ねるような方向の意匠ではなく、すでに評価の高い狩野派や土佐派、あるいは漢画系の意匠が採用されていた。

 しかしながら、琳派風意匠が採用されなかったからといって、光琳が乾山窯に出入りしていなかったわけでは決してない。元来、生活感のない光琳は、乾山に元禄6年に四貫目、その後元禄八年末までに八貫目近くと、度々借金を頼み元禄9年に乾山から直接借金の催促と財産整理の厳しい勧告を受けていた。その窮地から脱しょうと、乾山が鳴滝に窯を築く前後、光琳も絵筆に拠って自活する道を歩み始めており、乾山工房での仕事も当然視野に入れられていただろう。ところで、本格的な製品化には至らなかったが、乾山窯では京焼としては最初の磁器にも挑戦していた

 鳴滝窯跡からは、中国の「青花雲堂手茶碗」[挿図1]をモデルとした、筒茶碗の磁器片が見つかっている。大変興味深いことに、小西家旧蔵の光琳関係の画稿の中に、光琳筆の可能性がある「青花雲堂手茶碗」の模様の写し[挿図2]が残されている。おそらく魅力的な製品の開発に勤しむ乾山は、図案を練るヒントとして、古今東西のうつわを参考作品として収集していたと推定される。それらを光琳にも見せ、そのモデルの活かし方、光琳ならではの意表を突くよう至芸なデザインのアイデアも、得ていたのではないだろうか。光琳も(挿図2)のように、時にはうつわの意匠を写生して残し、自らのデザインのストックとして蓄えていたのであろう。

宝永2年(1705)西村正郁宛ての光琳書状は、乾山工房と光琳の大変興味深い関係を語る史料である。このなかで、光琳は以下のような内容を記している。乾山の酒器(水注)が出来上がりましたので、お納めいたします。十一屋殿へあなた(西村)からご相談なさって、外箱などもあなたの手元で御誂(ちょう・あつらえ)製頂き、輸送する船の中で壊れないようにお運び頂けますようにお願い致します。どの様に輸送されるか存じませんので、このままの状態でお届けいたします。このやきものは、藁をよく詰めてくださいますように。藁以外のもので詰物にしますと割れてしまいます。他の物よりも取り分けて藁の詰物が安全な輸送には良いと言われています。お世話を掛けますがお頼みいたします。注文主への書状と、注文(目録)を添えてお送りします。御手数をお掛けしますが宜しくお願い致します。

挿図4 図案小品集(小西家文書) 部分    大阪市立美術館蔵

挿図5 誘絵楼閣山水図八角皿 尾形乾山作    出光美術館鼓

 この書状が語るのは、乾山の製品が輸送中に割れることを心配し、きちんと藁で梱包するように依頼するような、意外に律儀で細やかな心配りができる光琳の一面である。この工房のスタッフのような光琳の姿、はたして事実はどうであったのであろうか。

 さて、鳴滝窯(なるたきがま)の前期には、新たな試みとして桃山復古スタイルがある。

 美濃窯の織部焼、そして肥前窯の唐津焼などは、いずれも光悦が嵯峨本を刊行した時代、つまり慶長年間(1596〜1615)に花開いた陶器であった。桃山陶器の古典学習を経て、乾山は陶器のもつ土味や、その肌触りの良さや温かさなど、つまり土の素材のもつマチエールを習得していたように思われる。そして、以後に花開いた素地の土味を生かした、円やかで柔らかなかたち、素朴な色合い、肌に心地よい造形を創造したのである。

 鳴滝窯跡から出土した「織部浜松文写鉢片」[挿図3]であるが、桃山時代の織部焼に見られる鉄絵とは異なり、太く堂々とした線描でデザイン化された松は、いかにもモダンな感じである。このキノコを思わせるような勢いのある松は、小西家旧蔵の光琳関係の下絵「住吉名所図会写」などに見える、樹木表現にきわめて近い[挿図4]。この桃山復古スタイルの絵付けを、じつは光琳が担当していたとしたら、なんとも楽しいことではないだろうか。

■ 三、宝永年問の意匠革新

 元禄14年(1701)に光琳は法橋の位を得て、その後「燕子花図屏風」(図版2)を制作し、画師としての大成期に入っていく。宝永元年(1704)には江戸へ下向、さらなる飛躍を遂げていくことになる。鳴滝窯の中期というべきこの宝永年間(1704〜10)は、光琳が江戸へと下向してしま、乾山工房を留守にした時期(この間二度の帰京あり)ではあったが、鳴滝窯の活動に停滞は見られない。否、むしろ乾山焼においても、光琳の活躍に煽られるようなかたちで、新たなデザインの模索が進められた。そして、いわゆる光琳模様など、琳派風意匠が登場していくと考えられる。

 まずこの時期の特徴として、いわゆる異国趣味のスタイルが盛んにつくられている。とくに注目されるのは、中国・磁州窯タイプの白地鉄絵である。「絵高麗」ともよばれ、乾山自身は「模朝鮮国之珍器」と認識していた。中世以来、あまり日本にはなじみのないやきもので、わずかに京都の遺跡などからの出土例が知られている。

 この白地鉄絵スタイルを本格的に日本に導入したのは、乾山が最初であった。白いキャンバスに黒彩のコントラストの美しさ、そして軽妙酒脱な鉄絵に魅せられたに違いあるまい。この中国・磁州窯写(白地鉄絵)のスタイルで、「銹絵山水図四方皿」(宝永2年)、「銹絵牡丹唐草文大鉢」(宝永3年)がつくられた。これらに描かれたきわめて軽快な銹絵の雲気文や唐草文のタッチは、以後の光琳・乾山の合作した角皿の誕生を予感させる。

 さらに、「錬絵楼閣山水図八角皿」(宝永年問)[挿図5]と、光琳筆とされる「山水図団扇」[挿図6]に描かれた「楼閣山水図」は、構図や草体の筆致などきわめて類似する点があることを指摘しておきたい。

 この磁州窯白地鉄絵から、乾山は独自の白化粧の技術を習得したと考えられる。はじめは黒谷の白土を試み、白に冴えが見えない点から、さらに備前八木山、薩摩、備後赤岩などの白石や白土を次々と試みている。そして、白泥をうつわのベースである素地を塗る白化粧ばかりでなく、白彩の絵具としても使う手法を独自に獲得し、「惣テ白絵具ノ事自家最モ第一之秘事書面二難言尽シ以口授可相伝也」として、乾山は秘伝としている乾山工房二条丁子屋町時代には、この白化粧を活かしたデザインが多用されていくが、そうなるとこの白化粧を銘にも活かし、長方形の枠に「乾山」銘を入れた、まさに現在のロゴマークに似た酒落た銘が出来上がっている。この白化粧枠の銘は、あるいは光琳のアイデアである可能性もあるだろう。

 また、同じく宝永年間の銘がある「色絵唐子文筆筒」[挿図7]も、軽快な線描で唐子に唐草が描かれている。これなども、小西家旧蔵の光琳関係の画稿「唐子」[挿絵8]に類似しているように思われる。

▶︎ 四、大胆を構図の変革

 ここで、再び定家詠花鳥図の角皿をご覧いただきたい。これは元禄十五年銘の作とは別のタイプで、出光美術館蔵の「色絵定家詠十二カ月和歌花鳥図角皿」[挿図9]である。「乾山」銘の特徴より、おそらく宝永年問(1704〜11)の前半くらいかと思われる出光本は、すでに指摘されているように、絵付けが二手に分かれるもので、肥痩(ひそう・肥えていることとやせていること)のある伸びやかな線描でモチーフを大胆に描き、余白の配置をほとんど考えることなく、画面の中央部まで絵模様を展開している。

 何よりも元禄15年銘の作の緊張感のある繊細な構図取りとは、随分大きな隔たりが生じた感がある。繊細で静謹な「真」体の世界から、ややっぽい速筆で躍動感のある「草」体の世界への変貌である。

 何よりも元禄15年銘の作と異なるのは、十二月図の梅花の表現が、五弁花ではなくなり単純な楕円形になったいわゆる「光琳梅に変化している点に注目したい。おそらく出光本では、新たに光琳によろ下絵が採用されたのではないだろうか。というのは、この出光本の構図は、宝永六年以降に現れる光琳・乾山合作の角皿(図版11〜15、27)と相互に通じ合う要素をもっているからである。

 元禄十五年銘の角皿や初期の銹絵角皿は、余白をたっぷりととった構図、いわゆる絵画で言う「探幽スタイル」を見せる。この探幽スタイルは、工芸でいえば寛文期(1661〜1674)に流行した小袖に見られる、いわゆる「寛文意匠」(モチーフを周辺にずらし、余白をたっぷりととる)であり、両者は年代的にもほぼ一致している。

 ところが、出光本の12ヶ月図角皿になると、余白にいたずらに頓着せず、のびのびと画面全体に意匠を展開していく。十七世紀中期以来、工芸界で長くデザインに影響を与えてきた寛文意匠を革新させた新たな構図は、余白とのバランスを考えながら文様を配置することなく、画面中央に大胆にもモチーフを配する構図である。その最たるものが、光琳・乾山合作の「銹絵寿老人図六角皿」[挿図10]であろう。


 画面の中央部を堂々と使い、それまでの余白のバランスを完全に破壊してしまう。これは光琳が自由気ままに描いたため、偶然に出来た構図ではあるまい。むしろこれまでの工芸品の固定化された装飾空間を、一刀両断にしてしまうような斬新で刺激的な光琳デザインの誕生であった。それはいかにも現在のTシャツのデザインのように、表の部分に明快なモチーフ一つを大胆に描くことで、画面自体を支配してしまうような構図になっている。これこそ光琳の躍動的な筆さばきの妙が、最も効果的に表わせられた構図取りともいえよう。

挿図11 鋳絵染付白彩菊花文反鉢 尾形乾山作  東京黎明アートルーム蔵、

挿図12 鋳絵染付藤文向付 尾形乾山作 

▶︎  5.   白と藍と黒・・・光琳と乾山の侘び

 宝永年問(1704〜10)から正徳年間初期(1711~12)頃に誕生した画期的な乾山焼のスタイルが、高火度焼成の陶胎素地に、白化粧に染付(白と藍)と銹絵(黒)という、白と藍と黒という侘びたトーンの三彩を主体に彩色されたスタイルである。

 

「銹絵染付自彩菊花文反鉢」[挿図11]「銹絵染付金彩薄文蓋物」(図版41)「錬絵染付金銀白彩松波文蓋物」(図版41)「銹絵染付藤文向付」(図版32)「色絵立英文向付」(図版33.34)など、他にも多数存在する。

 じつは光琳画にも、この三色を主体的に使った楚々とした色彩の作品が誕生している。山根先生が元禄14〜17年(1701〜04)頃の作と推定する「鵜舟図」(図版6)は、潤いのある墨と淡い藍色を基調に、夏の鵜飼いの情景が軽快に表された作である。舟の後ろにえがかれた葦の一叢は、藍と墨(黒)で表されているが、このような葦叢の表現は、「銹絵染付藤文向付」、「色絵立葵文向付」などの外側面に描かれている[挿図12]

 さらに、弘前藩津軽家に伝来した宝永二年(1705)「四季草花図巻」[挿図13]は、水墨(黒)主体の彩色に、自や藍、青(緑)を加えている。豊かな墨の階調やたらし込みで、四季の草花を清酒に描いている。

  ここに描かれた菊花などはうつわに置き換えると、まさに「銹絵染付白彩菊花文反鉢」のような作になるのであろう。この反鉢の菊は、花弁が重層的に重なり合う写実風の菊と、事態のように意匠化された菊が組み合わされたもので、二条丁字屋町時代の乾山焼の各種色絵反鉢(透鉢)の源流にあたる作である。白化粧土の上に描かれた菊花は線にやや硬さが残るものの、光琳筆と想定したくなる出来栄えである。

 このような高火度の陶胎に白化粧に染付(白と藍)と銹絵(黒)の施された乾山焼は、文様意匠がほとんど琳派風といえるものである。光琳と乾山の兄弟が素地やうつわのかたち、さらにデザインと、綿密な設計のもとに仕上げられた逸品ものも多い。二人の美意識が見事なハーモニーを奏でた一群といえるであろう。山根先生が無銘ながら光琳自身の絵付けであると断じているのが「銹絵染付金彩薄文蓋物」、「銹絵染付金銀白彩松波蓋物」である。

 乾山の代表作とされる「絵染付金銀白彩松波文蓋物」は、於が描かれる。全体に州浜の景が表現され、粗い焼き締め陶の素地は砂浜の砂をもイメージしたものと想定される。蓋のつくる柔らかな曲線は、宗達から光琳へと受け継がれてきた、各種蒔絵硯箱の造形のなかで表現されてきた円やかな線とも通底しているといえよう。

■ おわりに

 十七世紀末期、伊万里磁器ばかりでなく、仁清などの京焼にしても、その描線が稔じて画一化し、肥痩(ひそう・肥えていることと痩せていること)があり抑揚の効いた線描を失ってしまったように感じられる。乾山はそんな国内の窯場に蔓延した、ある意味でやや硬直化した意匠世界を変革するために、時代に逆行するかのように、桃山時代の付け立て技法を復活させようとしたのではないだろうか。

 織部や絵唐津に見える銹絵による付け立て法は、あらかじめ当たりのような輪郭線を置かず、器面に絵模様を一気に太く、抑揚をつけて筆端きする、いわゆる没骨法である。鳴滝窯跡から出土した高火度焼成の蓋碗に描かれた銹絵や、染付磁器の描線であっても、乾山焼の描線は太さが自在で、じつに抑揚のきいた線である。例えば「鋳絵染付流水文蓋碗」[挿図14]に染付で描かれた流水文は、澱みのないしなやかで力強い筆致である。これは、小西家伝来の光琳筆「桜花山水図」の流水に類似している。

 このような文様は、その源流のひとつにやはり慶長13年刊の「嵯峨本」があるだろう。表紙・本文用紙ともに雲母摺りで各種の意匠を凝らした美麗なもので、我が国の装丁美術の頂点に立つと称される印刷本である。木版下絵による宗達の動植物モチーフの特徴は、思い切って近接祝された描写であり、そこには余分なものをすべて削ぎ落としていく大胆さが認められる。そこにはたっぷりとしておおらかな筆致と、しなやかで強靭な線描さえも同居している。

 鳴滝時代の乾山焼の文様には、「嵯峨本」のモチーフが多数活かされている。乾山工房の「嵯峨本」デザインのディレクターとして、やはり光琳が最もふさわしい存在であることに問違いない。とくに宝永年問以降の乾山工房の目指すうつわには、光琳のもつ軽妙で酒脱な絵模様は、欠かすことのできない要素であったと考えられる。

 鳴滝窯跡出土の陶片などを見ると、高火度焼成の鋳絵染付、つまり自と藍と黒の彩色の類に、とくに光琳らしい琳派風意匠を認めることができる。普段描くのに慣れていないやきものの素地だけに、付け立ての自由なタッチは、献本や絹本に描く場合とは、かなり異なる特徴を見せることも考慮しなければならない。たとえ光琳自身が下絵のみの提供で、実際の器物への絵付けは他の画工に任せていたとしても、光琳風の活力みなぎる筆の調子こそ、多くの需要者が喝采をもって期待したものであったに違いない。

 その意味で、やはり乾山焼の意匠世界は、プロデューサーとしての乾山、総合デザイナーとしての光琳という、二人の美意識が貫かれている。乾山焼の上に表現された抑揚のある線や、軽妙で伸びやかな筆の調子は、まさしく光琳らしさの表出であり、その背景にはうつわに生き生きとしたいのちを吹き込もうとした、乾山の強い意図があったに違いない。

ところで、乾山が鳴滝窯を引き払い、洛中の二条丁子屋町へと作陶の舞台を変えたのは正徳2年(1721)、乾山が50歳の時であった。その表向きの理由は、おそらく販売体制の見直しが原因になったものと思われる。鳴滝に集うサロンのメンバーを支持基盤する高級器専門窯では、すでに立ち行かない時代となっており、広く不特定多数の需要層を対象にした、量産を前提とするシステムに切り替えていかねばならなかったと想定される。

 そこでの切り札となったのは、やはり兄・光琳による光琳模様と琳派意匠であった。銹絵角皿による象徴的な兄弟合作は、すでに鳴滝窯後期から開始されていたが、二条丁子屋町時代にも引き続いて人気を獲得したであろう。

 そして、とくに華麗な琳派意匠による色絵の製品は、鳴滝時代に較べてぐんと増えたように思える。「光琳菊」や「光琳於」などの光琳模様と呼ばれるモチーフ、あるいは「竜田川文」や「藤文」などをうつわの内外面に展開したもの、さらにこれらのモチーフのかたちに合わせて、口縁や透かしを具象化した反鉢や向付が人気を呼んだ。文様は一層の洗練を加え、かたちもシャープな造形をみせる。まるで現代のロゴマークのような長方形の自枠に乾山銘を記した、新たな銘もこの頃に登場した。

 このような量産化を目指した新生乾山窯は、経営的には成功をおさめたようで、正徳三年(一五〇八)刊の『和漠三才図会』では山城国土産に乾山焼が採り上げられ、同五年に大坂で初演された近於門左衛門の『生玉心中』にも乾山焼の名が現れるなど、世問での評判の高まりがうかがえる。一方、養子の尾形猪八は京都の聖護院門前で窯を営み、型紙を利用した白抜きの意匠を描く「色絵椿文輪花向付」などをつくつている。:れもいわば省力化の中から生まれた造形であるが、それまでのオーダーメイドされた限定生産による作品ではなく、不特定多数の富裕層を需要者とした新たなヒット作品であったと判断される。しかしながら、鳴滝窯と同じ乾山焼と呼ばれても、二条丁子屋町以降に徐々に失われていってしまったものがあった。それは、鳴滝時代に乾山が目指した、気韻生動する造形のうつわである。うつわ全体から立ち上がる勢いが、徐々に薄らいでいってし\まった。それは、おそらくうつわの土台となる素地に動きがなくなり、文様の線や彩色にもメリハリや抑揚が失われ、作品全体が画一化していったのであろう。

 乾山がやきもの創作に入ったばかりの頃である鳴滝窯跡から出土する陶片に触れると、素地の微妙な厚みの変化、うつわの稜線の丁寧な削りや調整など、じつに細やかな配慮がなされている点が目に付く。二条家の御茶屋もが備えられた鳴滝工房には、乾山の物づくりへの情熱、そして乾山の要求に応えた光琳の線描とセンス、さらには有能な工房のスタッフたちの高い技量、それらが総合された奇跡のように賛沢な創作空間が存在していたのであろう。

(あらかわ・まさあき 学習院大学教授)