日本愛犬史

■日本愛犬史
—ヒューマン・アニマル・ボンドの視点から—

小佐々 学(日本獣医史学会理事長)

▶︎  はじめに

 犬はイヌ科のイエイヌのことであり,DNA 解析などから犬の直接の祖先はオオカミと考えられており,人により家畜化された動物の中では最古である.世界の文明や文化の起源は「人の社会化と動物の家畜化」といわれており,この意味では世界最古の家畜である犬が,世界の歴史の中で果たした役割は極めて大きかったということができよう.

2 犬の家畜化の歴史

 犬の家畜化の時期については諸説あるが,最も古い説では約35,000 年前の西アジアにおいて,有力な学説では14,000 年前のヨーロッパや12,000 年前の西アジアにおいて犬が家畜化されたとされている.特に注目されるのは,12,000 年前のものとされる現在のイスラエルにあるアインマラハ遺跡である.ここでは,人の遺体の手が子犬の遺体の上におかれる形で一緒に埋葬されており,人と犬との親密な関係を示すものとされている.これらの事実から,現在では犬の家畜化の時期はおよそ15,000 年前というのが定説になってきている.日本における犬の埋葬例にも諸説あるが,神奈川県横須賀市の夏島貝塚出土の埋葬例が約9,000 年前で最古とされてきた.

 一方,最近になって,縄文時代早期(9,000 年前頃)とされていた愛媛県の上黒岩岩陰遺跡出土の骨を放射性炭素で年代測定した結果,縄文時代早期末から前期初頭である約7,300 ~ 7,200 年前と分かり,年代が確定された国内最古の埋葬例であることが報告されている.これにより,犬を大切にあつかって埋葬していた時期が明確になり,日本における犬と人との関わりを解明する重要な手掛かりが得られたといえよう.縄文犬は縄文人と共に南方から日本列島に移住してきたとされ,丁重に埋葬されていたことから,狩猟犬や番犬として大切にあつかわれていた.

 一方,弥生犬は弥生人と共に朝鮮半島経由で渡来したが,水稲耕作と共に大陸の食習慣である犬食も渡来しており,家畜である弥生犬には食用犬としての重要な役割があったのである.そのため,丁重に埋葬されるのではなく,弥生人が食用にした時の解体痕が明瞭に残る犬の骨が出土している.

3 犬塚(犬の墓)と動物

 愛護史筆者は長年にわたり,「犬塚」とよばれている全国各地の旧い犬の墓の調査研究を続けており,その成果は主に日本獣医史学会や『日本獣医史学雑誌』などに報告している.日本でも明治時代まで,山犬とよばれた日本狼がおり,農業の主体が畜産ではなく農耕であった日本では,狼は鹿や猪などを駆除して田畑を守る益獣として大切にされており,死後に葬られて犬塚が作られた.したがって,調査研究の対象は特定の犬(イエイヌ)の死を悼んで弔った犬塚だけに限定する必要がある.特定の犬を弔うために建てられた古い犬塚のほとんどが,「義犬(ぎけん)」の墓であり,また義犬の墓は愛犬や伴侶犬の墓であった.

 したがって,義犬の墓の歴史は,わが国における動物愛護や動物福祉の歴史であることも分かってきた.後述するように「忠犬」は,昭和初期にマスコミなどで喧伝された有名な忠犬ハチ公に使われて広まった用語であり,それ以前は忠犬を指す言葉としては義犬が一般的に使用されていた.義犬とは,命がけで主人の命を救ったり,主人の命令に殉じた犬たちのことである.したがって,このように飼い主を信頼して慕っていた義犬は「究極の愛犬や伴侶犬」であり,古代から明治時代までは忠犬ではなく義犬よばれていたのである

 なお,義犬と忠犬とは同義語のように感じられるが,『広辞苑・第五版』で義と忠の違いを比較すると,義には「利害をすてて条理にしたがい,人道・公共のためにつくすこと」とあるが,忠には「君主に対して臣下たる本分をつくすこと」という記述がある.この辞書には「忠犬」はあるが,編纂時にすでに死語になっていたためか「義犬」は収載されていない.

 したがって,今では義犬のことを忠犬とよばないかぎり理解されなくなっている.「忠犬といえばハチ公」といわれるように渋谷駅前に銅像がある忠犬ハチ公の名は,知らぬ人がいないほど有名である.

 一方,「ハチ公以外の忠犬」の名前を聞かれても,直ぐに答えられる人はほとんどいない.これは忠犬ハチ公の名が余りにも有名で,忠犬がハチ公の代名詞のようになっているため,忠犬の歴史を調査しようと考える人がいなかったのと,義犬という言葉が理解できなかったのが最大の理由と思われる.そのため,古代史料記載の犬塚や伝説・伝承の犬塚をはじめ,江戸時代初期からは史実として手厚く葬られた義犬とよばれた犬たちがいたにもかかわらず,筆者が調査するまで,それらの犬たちの存在はほとんど知られていなかった

 また,調査対象を古代から幕末維新期頃までの旧い犬塚に限定したのは,欧米の動物愛護思想の影響がほとんど及んでいない時代における,日本人の動物観,人と犬との関係など,日本におけるヒューマン・アニマル・ボンド(HAB :人と動物の絆)の歴史を知ることができると考えたことによる.義犬のことは古代史料である『播磨国風土記』や『日本書紀』に記述されており,また類似の話は『今昔物語集』にも出てくる.中世史料では,『宇治拾遺物語』に義犬に似た説話があり,一般的な犬のことは『徒然草』などにも記述されている.

生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代前期、第5代将軍徳川綱吉によって制定された、「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である。

 また,江戸時代になっても,有名な「生類憐みの令」のほかは犬に関する史料は少ない.江戸時代中期の狂犬病流行時の医書である「狂犬」や「けい」,さらには江戸時代末期に犬の飼養法を書いた「犬狗養畜伝(けんくようちくでん)」や「狆(ちん)育て様及び療治(りょうぢ)」があるが,古代史料と「生類憐みの令」以外は人と犬との絆を具体的に知るのは難しい.このような視点に立てば,筆者による犬塚の調査,特に史実の犬の墓の碑文の解読は,犬に関する文献史料の空白期を補完する研究として意義があろう.

 以下に,古代史料の犬塚,伝説・伝承の犬塚,史実の犬塚に大別して,わが国の愛犬や伴侶犬の歴史の概要を述べてみたい(図1).

4 古代史料の犬塚

 8 世紀初期の成立である『播磨国風土記』や『日本書紀』には犬の墓をつくった話がある

(1)品太(ほむだ)天皇の狩犬麻奈志漏(まなしろ)の墓〔4 ~ 5 世紀頃の話,兵庫県西脇市・犬次(いぬつぎ)神社〕この神社は品太天皇(第15 代応神天皇)の狩犬を葬った場所に建てられたとされ,犬次神社の名は犬塚神社の転訛(てんか)とされている.

(2)捕鳥部萬(ととりべよろず)の白犬の墓〔6 世紀後半の話,大阪府岸和田市・天神山古墳群〕日本最古の勅撰の正史である『日本書紀』には,蘇我氏が物部氏を滅ぼした戦いで,物部守屋の近侍者で奮戦自刃した捕鳥部萬と,主人である萬の遺頭を守りぬいて餓死した白犬の話が記述されている.2 基の古墳の墳丘上に「捕鳥部萬墓」と「萬家犬塚」と刻まれた墓碑(墓石)が建っているが,これらの墓碑は国学の興隆期である江戸時代後半に,日本書紀の記載を知った地元の有力者が比定地にあった古墳上に建てたものとされている.現存する神社や墓碑の場所が古代の墓所と一致するかどうかの判断は難しいが,古代に犬の墓を作ったという史料の存在と,その犬の墓とされる場所を祀まつってきたという史実は,日本人の動物観や犬と人との絆を知る手掛かりとして高く評価されよう.

5 伝説・伝承の犬塚

 調査した墓碑に,飼い主の名前,飼い犬の墓であることや建立年号などの刻銘がないために史実と認定できないが,特定の犬の死を悼んで弔ったとされている墓を伝説・伝承の犬塚とした.

(1)聖徳太子の愛犬雪丸塚7 世紀初期の話,奈良県王寺町・達磨寺〕ここは聖徳太子が愛犬「雪丸」のために雪丸塚を作らせたと伝えられる寺である.人の言葉を理解したという雪丸は,本堂下にある達磨廟を守るために,遺骸を本堂東北の鬼門に埋葬するよう遺言して死んだので,太子が雪丸の墓所に雪丸の石像をつくらせて置いたという.18世紀末の『大和名所図会』と酷似した達磨寺の欠年の絵図には「雪丸塚」と書かれた犬の石像が描かれているので,その頃には石像があったことが分かる.現在は,花崗岩製の総高75cm の雪丸塚の石像が,境内整備時に南西の裏鬼門に移されて安置されている(図2)

(2)人身御供(ひとみごくう)伝説の犬塚古狸老狒々(ひひ)大狢(むじな)などの妖怪から幼児や美女などの生贄(いけにえ)を救ったとされる犬の墓である.犬飼大歳(いぬかいのおおとし)神社〔7 世紀中頃の話,兵庫県篠山市〕,霊犬早太郎の墓〔14世紀初期の話,長野県駒ケ根市・光前寺〕,高安犬宮(こうのやすのいぬのみや)〔14 世紀後期の話,山形県高畠町・林照院犬宮〕などがある.

(3)大蛇伝説の犬塚主人が鹿などの獲物を鉄砲や弓で狙っているときに,飼い犬が突然吠えたために獲物が逃げたことを怒った飼い主が犬の首を刎(はね)たところ,首が宙を飛んで主人を呑み込もうとしていた大蛇を咬み殺して救ったとされる犬塚である.その後,飼い主は犬を弔うために墓を建てて神仏に帰依したというもので,類似の話が各地の寺社に伝わっている.

 代表例として七宝瀧寺(しちりゅうりょうじ)の義犬塚〔9 世紀末頃の話,大阪市和泉佐野市・犬鳴山(いぬなきさん)七宝瀧寺〕や,六美犬頭(むっつみのけんとう)神社と犬尾(けんび)神社〔14 世紀中頃の話,愛知県岡崎市〕がある.前者の墓碑は,その様式から江戸中期以降の作である.

(4)弘法大師伝説の犬塚真言宗の開祖空海が唐から連れ帰ったとされる犬の墓である.善通寺の空海義犬塚〔9 世紀初期の話,香川県善通寺市・仙遊院〕と,犬墓空海義犬塚〔同時代の話,徳島県阿波市犬墓〕がある.前者は鎌倉期の作で梵字以外は無銘であるが,後者は大師の犬塚があったとされてきたことから以前の地名は犬墓村である.太子堂の前に江戸時代中期の作である五輪塔の地輪(のちりん)部分だけが残っており,正面には「戌墓」の銘が,側面には愛らしい犬の彫像がある.

(5)播州犬寺の義犬塚蘇我入鹿に従軍した播磨の長者枚夫(ひらふ・または秀夫・しゅうふ)を殺そうとした下僕を咬み殺して主人を救った白犬と黒犬の2 頭を弔うために,枚夫が犬寺(金楽山法楽寺)と墓碑を建立したとされている.

 福本の義犬墓〔7 世紀初期の話,兵庫県神河町福本〕は,「白犬石塔」という梵字以外無銘の宝筺印塔と「黒犬石塔」という無銘の五輪塔がある.また,長谷の義犬塚〔同時代の話,同県神河町長谷〕には,枚夫の2 頭の義犬のうち1 頭がこの地で死んだため弔ったとされる無銘の犬塚がある.これらの墓は後世の作で犬の墓とする確証はなく,2 頭の犬に3カ所の墓があることになる.

(6)蓮如の義犬塚〔15 世紀中頃の話,滋賀県大津市〕浄土真宗の中興の祖とされる本願寺八世の蓮如が毒入りの食事で殺されそうになったのを救ったとされる犬の墓であるが,この墓碑も後世の作である.

(7)羽犬塚(はいぬづか)〔16 世紀後期の話,福岡県筑後市・宗岳寺〕豊臣秀吉の九州出兵のとき,両翼がはえた犬の死を弔うために建てられたとされる犬の墓である.羽が生えたように俊敏な秀吉の愛犬説と,秀吉軍を悩ませた島津軍の獰猛な怪犬説がある.五輪塔の火輪(かりん)部分には「犬之塚」の銘があるが,墓碑は数種の墓の寄せ集めで,しかも後世の作である.鹿児島本線にはこの犬塚に由来する羽犬塚という駅がある.

(8)葛原(くずはら)の老犬神社〔17 世紀初期の話,秋田県大館市葛原・老犬神社〕主人のマタギ(猟師)の定六(左多六)の死を悲しみ,食餌をとらずに餓死したとされる白犬を祀る神社である.

 これらの犬塚は史実に近いものから明らかに伝説と思われる話まであるが,神社には墓碑がないため確認は難しく,また墓碑はあっても銘がないため犬の墓とする決め手に欠けたり,あるいは伝説の時代と墓碑の制作年代とに大きなずれがある.史学的な裏づけに乏しいとはいえ,日本各地には古くから特定の犬の死を悼み弔い祀った犬塚が存在したのは事実であり,日本人と犬との絆を今に伝えるものとして意義があろう.

6 史実の犬塚

 歴史上の事実である史実の犬の墓は,日本人の動物観や人と動物との絆の歴史を知る上で貴重な史跡である.墓碑に犬の墓であること,建立年号や飼い主の名前などが刻銘されるなど史実としての条件を満たした犬塚である.また,これらの中には漢文の詳しい由緒書が刻銘された墓碑もある.全国各地を調査して認定した幕末維新期までの史実の犬塚を年代順に列挙して以下に解説する.

(1)小佐々市右衛門前親(あきちか)の「華丸(ハナ丸)」の墓

 〔1650 年,犬種は狆,長崎県大村市古町・萬歳山本経寺,国指定史跡〕小佐々前親は肥前国大村藩三代藩主大村純すみ信のぶの幼少年期の傅もり役やくで家老であった.

 自分が守り育てた純信が33歳の若さで江戸表で逝去したという悲報に接した前親は,慶安3(1650)年6 月に純信に追腹して殉死した.前親は大村家の菩提寺である本経寺で火葬されたが,このとき前親の愛犬華丸(ハナ丸)が主人の死を悲しんで涙して鳴き,荼毘(だび)の炎の中に飛び込んで焼死した.

 藩主の死に殉じた忠臣と,忠臣に殉じた義犬のことを「武士道の鑑(かがみ)」として後世に伝えるため,高さ3mの前親の大型墓に並んで高さ90cm(3 尺)の華丸の墓が建てられた(図3)

 華丸の墓碑の拓本を取って碑文を調査したところ,墓碑前面には132 文字に及ぶ漢文の由緒書があり,その中には「前親と華丸はお互いに親しんでおり,前親は常に華丸を愛して膝元に抱いていた」ことなどが記述されていることが判明した(4)

 この碑文から,華丸は主人に殉じた義犬であると共に,愛犬や伴侶犬であったことが分かる.この碑文は漢学者であった前親の高弟が選文したとされ,『孟子』を引用した格調高い漢文であるが,前親と華丸の日頃の親密な交情が見事に活写されている.

 江戸時代初期の高さ3 尺の墓は上級武士と同等であり,五代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」より35 年も前に建てられており,また忠犬ハチ公の墓より285 年も前のことである.

 さらに,欧米でも動物愛護の考え方がまだなかった時代であることから,前親と華丸の墓は動物愛護史や人と動物の絆(HAB)の歴史などの世界的な史跡ということができよう.なお,平成16 年に本経寺やその墓所と共に前親や華丸の墓碑が国の史跡に指定された.

(2)加藤小左衛え門の「矢間(やま)」の墓

 〔1787 年,犬種不明,長崎県雲仙市小浜町札原(ふだのはら)〕雲仙温泉の湯太夫(湯元)であった加藤小左衛門の飼い犬「矢間」は,加藤家から親戚の八木家まで手紙を届ける「お使い犬(飛脚犬)」であった.

 蛇に襲われた娘を救うなどして名犬とよばれており,両家の家族から信頼され可愛がられていた.天明7(1787)年11 月に雲仙温泉近くの札の原で,矢間は手紙を包んだ風呂敷包を奪おうとした盗賊と闘って死んだ.小左衛門は,非業の死を遂げた矢間を供養するため,その姿を刻んだ墓を札の原に建てた.墓碑の高さは約50cm で矢間の半身像が立体的に浮彫りされている(図5)

(3)暁鐘 (あかつきのかね)成なるの「皓(しろ)」の墓

 〔1835 年,犬種不明,大阪府東大阪市・梅龍山勧成(かんじょう)院〕大阪の戯作者であった暁鐘成が愛犬の皓を連れて,天保6(1835)年に奈良に行く途中で賊に遭い,皓が身代わりになって殺されたことを悼んで弔うために建てた墓である.高さ約60cm の墓碑の前面には121 文字の愛犬の死を悼む漢文の碑文があり,墓碑の前には皓と思われる犬の小型の石像がある(図6).なお,鐘成は犬の飼養法などを書いた『犬狗養畜伝 (けんくようちくでん)』の著者である.

(4)横田三平の「赤あか」の墓

 〔1853 年,犬種は四国犬,高知県安芸市井ノ口一ノ宮〕土佐藩の家老五島家の知行である井ノ口村に住む横田三平は,「赤」という犬を飼っていた.三平の息子,10歳の寅次と7 歳の乙次が連れだって行くところには,いつも赤がついてきた.兄弟は近くの山に柴取りに行き,乙次が足を滑らせて谷に落ちたとき,赤は乙次の襟をくわえて放さなかったため転落をまぬがれて救われた

 赤の死後に,この地の領主の五島家は赤の美談を後世に伝えるために,家臣の漢学者に碑文を作らせて,嘉永6(1853)年に義犬赤の墓碑を建立した.赤の墓碑は全高120cm で,正面には「義狗墓」の文字が,他の3 面には赤を称える228 文字の長文の漢文の由緒書が刻銘されている(図7).

 なお,土佐藩家老の五島家文書の中に,赤の墓建立時に石工に具体的に指図した覚書が残されており,その指示通りにつくられた墓が現存している.赤の墓碑は愛犬や伴侶犬の史跡として重要であるが,同時にこの犬塚の制作法を記録した覚書は獣医史学的に貴重な史料といえよう.

(5)は組の新吉の唐犬(とうけん)「八(はち)」の墓

 〔1866 年,犬種は唐犬東京都墨田区両国・諸宗山回向院(えこういん)〕回向院にある有名な鼠小僧次郎吉の墓の後方に並ぶ墓碑の中に,町火消の「は組」の新吉を施主とする,幕末の慶応2(1866)年銘の唐犬(洋犬・オランダ犬・南蛮犬)「八」の墓がある.この墓碑には由緒が刻銘されていないため,飼い主(施主),犬種,犬名と年月日以外は不明であるが,墓碑の拓本を取って確認したところグレイハウンドやマスチィフに似た大型の洋犬の姿が彫られていることが判明した(図8).幕末期の町火消の名簿がないため新吉のことは不明であるが,は組を名乗っていることから組頭か幹部と思われ,飼い犬の姿まで彫った墓を建てたのは愛犬なのであろう.大型で珍しい洋犬を引き連れて,胸を張って誇らしげに幕末の江戸市中を歩く新吉の姿が想い浮かぶのは筆者だけではなかろう.

(6)島津随真院(ずいしんいん)の「福(ふく)」の墓

  〔1869 年,犬種は狆,宮崎県宮崎市佐土原町・大池山青蓮寺高月院〕日向国佐土原藩主島津忠徹(ただゆき)の夫人随より子は,忠徹の死後に剃髪して随真院になった.その後,随真院が佐土原へお国入りのときに,愛犬「福」が駕籠に乗せられて江戸下がりのお供をした.福は明治2(1869)年に佐土原で死んだため,高月院の島津家墓所の一角に葬られた.福の墓碑は全高約80cm で,正面には「高林女転性慈福霊」という輪廻思想にもとづく福の戒名と年月日が,他の3面には228 文字に及ぶ漢文の由緒書が刻銘されている.この碑文には,「随真院は福を寵愛しており,昼間は懐に抱き着物の裾の上に寝かせている.夜は福が寝室を守っており,見かけない人を見ると警戒して白昼でも吠える」とある.随真院は福をいつも側において可愛がっており,福も随真院を慕い守っていたことが記述されている.江戸時代初期と明治維新期という時代の違いはあるが,小佐々前親の華丸の墓と同様に,主人と伴侶犬との交情を記述した碑文がある墓碑は貴重である(図9).

(7)小篠源三(おざさげんぞう)の「虎(とら)」の墓

 〔1876 年,犬種不明,熊本県熊本市花園・本妙寺雲晴院〕神風連の乱は,熊本士族の神風連(敬神党)が明治9年10 月におこした事件である.わが国古来の敬神の精神にもとづく国粋保存を主張し,急激な文明開化を推進する明治政府の廃刀令や散髪令などの欧化主義政策を激しく非難して反対し,志士170 人余が決起した.熊本鎮台司令長官や熊本県令らを殺害して鎮台を一時占拠したが,翌日鎮圧されて志士の多くが戦死あるいは自刃した.

 小篠四兄弟も神風連に身を投じて出陣したが,敗戦後に再挙の見込みがないことを知った長男と次男は自刃し,その後に三男と四男も一緒に自刃して果てた.この時,四男で末弟の源三はまだ1 8 歳であったという.源三の愛犬「虎」は,源三の死を悲しんで墓前に座り続けて動かず,食餌を与えても何も食べず,ついに餓死して殉じたという.

 雲晴院には長男一三墓,次男彦四郎墓,三男清四郎と四男源三との合葬墓,虎の墓の4 基が並んで建っている.四兄弟の3 基の墓碑は全高約90cm で,正面には実名が,裏面には自刃の日付が,側面には辞世歌が刻まれている.虎の墓碑は全高約75cm の自然石で前面に「殉死犬虎墓」とある(図10)

 また,熊本市黒髪の桜山神社は神風連の百二十三士を祀る顕彰地である.顕彰墓地入口には一対の灯籠があり,左の灯籠から4 番目の立石塔が小篠源三の顕彰墓である.また,右の灯籠のそばにある小さな顕彰墓が虎の墓であり,前面に「義犬之墓」,裏面には「明治九年十一月十一日殉死」と刻銘されている(図11).この虎の顕彰墓碑から,明治時代まではまだ義犬という言葉が使われていたことが分かる.明治9 年の神風連の乱の翌月には秋月の乱や萩の乱がおこり,明治政府に対する士族の反乱が相次いだ.翌10 年2 月には西郷隆盛らの西南戦争が勃発したが9 月には鎮圧されており,いわゆる動乱の維新期(広義の維新期)が終焉を迎えている.

 このような視点に立てば,小篠源三の義犬「虎」の墓は,一部の階層を除けば日本人の風習が欧風化しておらず,欧米の教育法や思考法,とりわけ動物愛護思想の影響が一般民衆には及んでいない時代である維新期最後の犬塚として意義があろう.

(8)遺跡出土の犬塚

 東京都港区高輪の伊皿子貝塚の旧・泉谷山大円寺境内跡からは,文政10(1827)年1 基,同13 年2 基と天保6(1835)年1 基の計4 基の全高45cm くらいの犬の墓碑が出土している.遺跡出土の犬塚は史実の犬塚と同様に興味深いが,紙面の都合で詳細は割愛する.

▶︎ 7 義犬の歴史と忠犬ハチ公とタマ公

 特定の犬の死を悼んで弔ったとされる古代史料の犬塚,伝説・伝承の犬塚や史実の犬塚について具体的に述べてきたが,以下に歴史上の事実である史実の犬塚を中心に,日本における動物愛護史である義犬の歴史について述べてみたい(表).

 この史実の犬塚の年表をみれば分かるとおり,江戸時代初期の小佐々前親の愛犬華丸の墓の35 年後には,犬などの動物保護を積極的に推進した五代将軍徳川綱吉の有名な「生類憐みの令」の制定がはじまり,その後は何十回も発令されている.この時代には,犬の死を弔うために建てた犬塚が多数残っているものと期待していたが,筆者による長年の調査にもかかわらず,この頃の墓はいまだに見つかっていない.その理由は,犬公方とよばれて反感をかっていた綱吉の死後に犬の墓が壊されたという考え方もできるが,幕府による厳しい取締りが行われていた綱吉の治世下では,犬に関わる行為に対する幕府の過剰な反応を恐れて,個人的に犬の墓を建てるのを意識的に避けていたと解釈するのが妥当と思われる.

 したがって,華丸の次は江戸時代中期末頃の加藤小左衛門の矢間で,137 年間の空白期間がある.その46年後が暁鐘成の皓であり,その後は幕末維新期に集中していることが分かる.この頃は,高価な狆(ちん)や唐犬(洋犬)が愛好されており,現代でいうペットブームがあったものと考えられる.現在では「義犬」という言葉はすでに死語になってきているが,「忠犬」という言葉が広まるきっかけとなった渋谷の忠犬ハチ公と,その直ぐ後でほぼ同時代の新潟の忠犬タマ公がいる.

 昭和初期であるため筆者の調査期間の対象外であるが,義犬を考えるには忠犬を知ることは重要なので,以下に簡単に言及してみたい.ハチ公は,現在の秋田県大館市生まれの秋田犬で,日本の農業土木の開祖とされる東京大学農学部の上野英三郎教授の愛犬であった.上野教授が大学で急逝後に,渋谷駅で7 年間も帰りを待ち続けたという美談が,昭和7(1932)年10 月の『東京朝日新聞』に「いとしや老犬物語,今は世になき主人を待ちかねる七年間」と題して紹介された.その後は忠犬美談としてマスコミにより大々的に喧伝されており,生存中に渋谷駅前に銅像まで建てられた.

 さらに,ハチ公が11 歳で渋谷駅近くの路上で死亡しているのが発見された昭和10 年には「恩ヲ忘レルナ」という題で修身の国定教科書にまで載って,国民的英雄になっており,熱狂的なハチ公ブームがおこって忠犬ハチ公の名は不動のものとなった.

  一方,タマ公は,現在の新潟県五泉市生まれの越後柴犬(越ノ犬)で,猟師の刈田吉太郎氏と常に行動を共にする猟犬であり,愛犬であった.タマ公は狩猟中に雪崩で遭難した刈田氏やその仲間を2 度も救っており,昭和9(1934)年2 月の『新潟新聞』には「雪崩の下から忠犬,主人を救ふ」や同11 年1 月の同新聞には「二度目の殊勲,忠犬タマ公,人間以上」と題して紹介された.


 生前に川内かわち小学校などに銅像が建立されており(図12),刈田氏に見守られながら昭和15 年に11 歳で死亡した.前述したように,歴史上の義犬は主人のために命がけで行動した犬たちであり,強い自己犠牲を伴っている.飼い主を信頼して慕っている犬であれば,いつもの場所で飼い主の帰りを待つのはごく普通の行動であり,ことさらに称賛され顕彰される美談ではなかろう.したがって,タマ公は義犬になるが,ハチ公は義犬の範疇から外れている.当時の軍国主義化の流れによって忠義のシンボルとして,ハチ公の忠犬美談が意図的に広められたという説は的を射ているのかもしれない.

 義犬ではなく忠犬とされたのも,義と忠の語意の違いを考えれば納得できよう.もちろん,このことはハチ公美談を喧伝した人の側の問題であり,ハチ公自身には全く責任がないのは言うまでもない.筆者の感想を述べれば,「忠犬としての知名度ではタマ公はハチ公に及ばないが,伴侶犬パートナーとしての幸福度ではハチ公はタマ公にはるかに及ばない」ことである.

 飼い主を早くに失ってしまったハチ公と,飼い主という伴侶と一緒に余生を暮らすことができたタマ公の生涯を想えば,このことは容易に理解できよう.

 なお,ハチ公の死因は長年にわたって慢性犬糸状虫症とされてきたが,最近になってハチ公の保存臓器を調査した東京大学大学院農学生命科学研究科獣医病理学研究室の中山裕之教授らの研究により,肺と心臓に悪性腫瘍が見つかっており,犬糸状虫症と共に死因であった可能性が報告されている.

▶︎  8.  西欧と日本の動物観

 動物観の違いは,人と動物との絆(HAB)の根源を考える上で重要である.一神教であるキリスト教にもとづく動物観と,仏教や神道にもとづく動物観について以下に言及してみたい.

(1)西欧の動物観

 『旧約聖書』の「創世記」には,神が人(男と女)を創造した時に祝福して言われた言葉として「産めよ,増えよ,地に満ちて地を従わせよ.海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とある.人にとって動物は支配すべき対象であり,動物の命に対して厳しく無情であり,かつては動物虐待が日常的に行われていた.また,動物には感情がなく霊魂がないので,動物の墓を作って葬ることはなかった

(2)日本の動物観

 仏教の「輪廻転生」や「衆生(有情)」という考え方により,人と動物の命に明確な区別をつけなかった.衆生(有情)とは情(心の働きや感情)を持つもののことで,一切の人類や動物を含んでいる.また,神道の「八百万の神」的な感性により,人と動物の命は同等にあつかわれることが多かった.江戸時代中期の国学者である本居宣長の『古事記伝』の日本の神の定義のように,本来の神道は多神教(アニミズム)的であり,鳥獣草木や海山など畏敬の念を起こさせる事物はすべて神とされている.このような仏教や神道の動物観からすれば,動物の命を人と同等視しており,動物に対して優しく同情的であり,動物の墓を作って葬っていたのである

 これらのことから,日本と西欧の動物愛護の歴史的背景を要約すれば次のとおりである.日本には17 世紀末には人の保護をも含む世界最初の先進的な「生類憐みの令」があったにもかかわらず,その後は西欧に比べて動物愛護の後進国になったのは,動物を同情的にあつかってきたために動物虐待の歴史がなく,西欧に比べて動物に対する態度が曖昧で,動物愛護の必要性に気付かなかったためと思われる.

 一方,西欧では18 世紀後半になって初めて動物の感情(痛みを感じ取る感覚)に気付くなどして動物にも道徳的配慮をすべきだという活動がはじまり,1822 年に英国で動物虐待禁止法が制定されてから現在に至るまで,旧約聖書の動物を「支配せよ」を「管理せよ」に読み替えるなど,動物愛護や福祉が論理的・科学的に発展してきた.その理由はキリスト教の教義に反する行為であるために理論武装が必要であったこと,さらに1859 年のダーウインの進化論により動物と人との連続性が理解されて,動物の苦痛を和らげる必要性が認識されたためである.

 1872(明治5)年には,英国スコットランドのグレイフライアーズ14 年間も主人の墓を守り続けたスカイ・テリアの「ボビー」の墓がつくられたのも,このような経緯を経たからであろう.これは,華丸の墓の222 年も後のことで,ハチ公の墓の63 年前である.

 

グレーフライアーズ・ボビー(Greyfriars bobby)は、スコットランドの首都エディンバラのグレーフライアーズに実在したである。犬種はスカイ・テリア(skye terrier)。ボビーは主人であるエディンバラ市警のジョン・グレイ(John Gray)が1858年に死去した後、14年間その墓の隣に座っていた。スコットランド版の忠犬ハチ公として知られている。

 五代将軍綱吉の「生類憐みの令」は,戦国時代からの旧弊である武断政治から文治政治に変えるために,命の大切さを理解させる手段であったとも考えられている.大規模な野犬収容施設である犬小屋を維持するための経済的負担厳しい罰則や運用面での行き過ぎにより不評を招いたが,人と動物の命を同等視して人も動物の一員であると考えていた可能性があるのは注目されてよかろう

  人の立場だけを重視して一方的に評価した従来の歴史教育により,「犬公方」が制定した「天下の悪法」とされてきた「生類憐みの令」は,動物のみならず人の保護まで包含した世界最初の動物保護法として極めて重要であり,今後は動物愛護やヒューマン・アニマル・ボンド(HAB)の視点から,積極的な再評価がなされるべきであろう.

▶︎  9 あとがき

 犬の墓である「犬塚」という地名は関東・中部・中国・九州など全国各地に約15 カ所も分布しており,またこれらの地名に由来する犬塚という姓も珍しいものではない.また,「犬墓」という地名は和歌山県と徳島県の2 カ所にあるが,姓の存在については不明である.今までほとんど知られていなかった旧い犬塚を,長年のあいだ全国規模で調査するという無謀な挑戦を始めたきっかけは,江戸時代初期の先祖の小こ佐ざ々さ市右衛門前あき親ちかの大型墓の隣りに並んで建つ「義犬ハナ丸(華丸)の墓」と伝えられる小型の墓石に興味を抱いたためである(図13).

 その後30 年間にもわたって,全国各地に分布する百カ所以上の旧い犬塚を巡り歩いており,その由緒や関連史料を調査して,獣医史学上重要と思われる犬塚を選んで,この日本愛犬史として紹介した.義犬は「究極の愛犬であり伴侶犬パートナーだった」のである.本稿により,日本でも最古の家畜である犬の歴史,特にわが国の愛犬や伴侶犬の歴史を,ヒューマン・アニマル・ボンドの視点から考えるきっかけになれば幸いである.

 終りにあたり,筆者の現地調査や史料収集に協力いただいた全国各地の関係各位に対し,ここに深甚なる謝意を表する次第である.なお,本稿は平成24 年11 月27 日の日本獣医史学会創立40周年記念事業の記念講演の内容を要約して加筆したものであることを付記する.