日本漆工の研究

■漆工史

沢口吾一

 漆工史は漆工の起源沿革およびその進歩発達の経過変遷を研究する学問なれば、史的考証は聊(いささ)かも牽強付会(自分の都合のいいように、強引に理屈をこじつけること)をゆるされない。ゆえに専門的の慎重なる研究と該博なる智識に俟(ま)たねばならぬ。されどここにほ温故知新の意味において実際に漆工の研究に参考となり、そしてその進歩に資せんがためなれば漆工の上に密接なる関係のあるものにつきその概要を述べんとするに過ぎない。

 元来漆工史の研究は、黒川真顔博士著『工芸志料 明治十一年刊行」を囁矢とし、次に小杉邨博士の研究発表があり、また今泉雄作先生の『髹飾録(きゅうしょくろく)』を基本とする東京美術学校における講義がある。

 六角紫水著『東洋漆工史 昭和七年発行』は朝鮮楽浪郡祉より発掘せる漢代の漆器について評論し、併せて我国の漆工に閲し飛鳥・奈良時代より明治時代に至る発達の経過を詳説して余す所がない。次に我が友、吉野富雄、溝口三郎の両君は多年漆工史の研究に従事しその線番は深く一家言をなしている。

 漆工を漆樹の分布上より見れば日本および中国において発達進歩したることは自然にして、また中国に漆工の発祥したることも当然である。しかし創始年代の古きをもって権威大なりと断じることは早計である。まして技術的方面より検討するときは一層この感を深くせぎるを得ない。その他の朝鮮、ベトナム、タイ、ビルマ方面の如きは著しき径庭(二つのものの間にある隔たり)があり同日に論じ難き程度である。

▶︎漆工の起源

 漆の使用は中国においては我国よりも古く四千年前舜の時代に始まりたることは、次ぎの文献により明かである。即ち明の天啓五年(1625年)明人黄大成著『髹飾録』序文に、漆之為レ用也始三於書二竹簡→而舜作二食器一黒こ漆之→商作二祭器一黒二漆其外一条二画其内→於レ此有l一其貢」周制於/車漆飾愈多焉、於こ弓六材一亦不レ可レ闘、皆取二其堅牢質一云々とあり、その他の文献にも則器之布レ漆自レ舜始也とある。

 大正年間東京大学および朝鮮総督府の監督下において、朝鮮大同江畔の楽浪郡址古墳より多数の漢代漆器が発掘され、それには製作の年号場所および作者の名を器物の裏面に針刻しあるので前漢代の作品なることが明瞭となった。その一例は楕円形の両耳ある羽陽にして、素地は爽紆乾漆で内部は朱塗外部は黒塗となしその上に特徴ある漢代の文様を彩漆にて線描してあり、底面には「元始二年萄酉工長広成東何故、護工卒史勝守令史母弟密夫索菩、佐勝髭工当画工文造」と針刻してある。始元二年は崇神天皇の十三年紀元前八十五年である。

 この外に元始、建武、陽朔、永始、居摂、緩和年間作の前漢のものおよび後漢の永平12年作の銘文ある実に146年間にわたる多数の漆器が発見された。その種類は盤(ばん)、盌(わん)、孟(う)、觴(しょう)等の飲食器および卓、案、箱、刀鞘などで、素地は夾紵(きょうちょ)乾漆木心夾紵あり、木胎には挽物、指物、曲物等がある。

夾紵像(きょうちょぞう)*乾漆像のこと。唐代およびわが国の奈良時代において、特に*脱活乾漆像を区別して呼ぶ時に夾紵像と称した。

木胎(もくたい)漆工品の素地の大半の材料が木材によって加工されている。その技法により指物・挽物・曲物・刳物等に大別される。

 下地は布着せして漆下地である、これ等のものは中国産としては最も古いものとされていたが、その後昭和26年に中国科学院考古学研究所の発掘にょり湖南省長沙付近より漢代よりもさらに古い紀元前三世紀文物が多数発見された。その中の漆器は盤(ばん)、深皿、盃、脇息(きょうそく)等があり長手の盤にほ赤地に黒漆にて唐草文を描き鮮実にして最近の作かと思われるくらいである。円形の盤には中央に一群の鳳凰文あり楚の典型的文様で周囲の連帯文様も漢代のものに較べ豊麗である。また楽浪の発掘品に比し損傷の少いのはが空気の通らぬ白粘土で密閉されたためといわれる。然るにこれ等のおよびの漆器中には蒔絵は勿論その類似品は一点も認められない。

盤とは、平らな表面を使う器具。特に、碁・将棋をする台。脇息とは畳や床に座った時に肘を置いて休むための座具で座椅子と合わせて使う用具。

 我国における漆工の起源は黒川真頼博士著『工芸志料』によれば黒川博士は『旧事本記』に「大木食第三見宿弥、漆部連(のりべのむらじ)等祖」とあることを引用して、孝安天皇の朝において既に漆部連の存在を指摘され、また鎌倉時代刊行の『伊呂波字類抄』の「本朝事始」を引いて、景行天皇の御宇日本武尊大和国宇陀郡阿貴山に猟されし時木の枝を折りしに黒き木汁皇子の手を染む、皇子は舎人床右足尼にその木汁を採り干を塗らしめさらに翫好のものをも塗らしめて、床右足尼を漆部の官に任じとあり、漆部は漆工をもって朝廷に奉仕するもので漆部連はその曹長である。しかし両者の何れを信ずべきか確認し難いが当時既に相当の漆工の存在は想像に難くない。

 大正・昭和年代に至り学術的研究を目的として各地の古墳古鏡が屡々発掘された。その結果縄文式時代晩期と推定される泥炭層より種々の漆器が発見され、従って我国漆工の起源は縄文晩期既に漆を獲る技術の存在を立証することができる。例えば八戸市(旧青森県三戸郡長川村中居)の泥炭層から数百点に及ぶ多数の打製の石器並に縄文式土器と共同に各種の漆工品が発見された。その主なるものを挙ぐれば、朱塗黒塗の椀、鉢、高杯などの木胎漆器、朱塗の腕輪、耳飾、櫛などの木製装身具、或は樹皮を編みその表面に黒漆を塗り赤漆にて文様を描きたるもの、或は彫刻を施したる木太刀および弓に朱漆を塗りたるものもある。

 これは発掘当時は、原形を維持したるも自然乾燥に従い攣曲したり折損してある。或はまた竹材を網代編みにしたる直径50㎜位の小鉢にアスファルト下地して赤漆を塗った藍胎漆器もある。或は土器に漆を塗ったもの現今の陶胎漆器の先駆をなしている。これは恐らく土器の吸水性を予防したものであろう。この外に使い残りの漆液が土器の中に乾固したるものあり、その状態は全く漆乾燥の特徴を示している。赤漆ほ水銀朱と酸化鉄の二種ある。なお泥炭層中に粟と胡桃(くるみ)は原形のまま固着して一塊となり炭化したるものおよび人骨も発見された。これ等の発掘品は是川村中居二階建土蔵造の陳列館に全部文化財として保管陳列されてある。

 また是川の発掘に先だって青森県木造町亀ケ岡より土器と共に藍胎漆器の残欠が発見され、今は東北大学考古学陳列館に保管されてあり、また埼玉県冥福寺泥炭層中よりも藍胎漆器は発見されたとある。

▶︎古代漆工に関する諸制度

 孝安天皇の朝(前四世紀三見宿弥をもって漆部の祖となす。 景行天皇の朝(一世紀)舎人床右足尼を漆部の官に任ぜらる。

 用明天皇の朝(六世紀漆部造兄という者あり兄は即ち漆部の曹長である。

 孝徳天皇の大化二年(646年)部連の漆工を督する世襲の制度を廃し、さらに漆部の司を置きこれを監督せしめ、また諸国より生産する漆器を貢(こう・みつぎもの)せしめた。大化2年西暦3世紀半ばから7世紀の 350 年間にわたる古墳時代は、古墳の築造及びそこで挙行される葬送儀礼を通じて、集団内部及び集団間の政治的、社会的秩序が表示される時代であった。

 「棺槨の制」を定め棺の接合部は漆をもって三回塗となしこれを堅牢ならしめた。大化3年七色十三階の冠を定め、黒絹にて造り背の羅に漆を塗らしめた。

西暦3世紀半ばから7世紀の 350 年間にわたる古墳時代は、古墳の築造及びそこで挙行される葬送儀礼を通じて、集団内部及び集団間の政治的、社会的秩序が表示される時代であった。その古墳において最も重要な、被葬者の遺骸を収容する「棺槨」を取り上げ、多様な構造を詳細に整理・分析するとともに、東アジアの墓制の動向にも目配りをしながら、古墳時代の棺槨の系譜と展開を考察したものである。なお、ここでいう棺槨とは、被葬者の遺骸を直接収容する棺と、その棺を埋置するために墳丘内に構築される埋葬施設を一体的に呼称するものである(古墳時代棺槨の系譜と展開 ・ 岡林 孝作 /大阪大学)

羅(ら、うすもの)は絡み織を用いた、目の粗い絹織物の一種。 もともと羅とは鳥や小動物などを捕獲するための網を意味する言葉だったが、絹で織った網のような薄物を指す言葉にもなった。

 天武天皇は朱鳥元年(687年)に崩御され大和国阿布幾の御陵に葬る。文麿二年(1235年)盗人御陵をあばき棺内の宝物を盗むその記事に、「御棺は張物也以レ布張レ之八角也、朱塗長七尺、広二尺五寸、深二尺五寸許也、御棺蓋木也、朱塗云々」これによって見れば当時棺に漆を塗りしこと明らかである。

 文武天皇の大宝二年(702年)新令を発布す、これを大宝令という。探部司の職制を定め正(かみ)一人、佑(じょう)一人、令史(さかん)一人、漆部二十人、使部(しぶ) 六人、直丁(じきちょう)一人を置く。漆部は漆器を製作し、正は雑権漆事を掌らしめた。なおこの外に漆工に関する左の諸制度も定められた。

 従来の冠制を改め四十八階の冠を定め塗るに漆をもってす

 皇太子親王より諸臣に至るまで版位を作らしむ。版は方七寸厚さ五寸の木版にして漆を塗りその品位および位階を漆にて書かし

版によって定められた位階の列次。版とは朝廷での儀式のとき,参列者のおのおのの座席の位置を示すために目印として置かれた木製の板。律令の規定によれば,その大きさは7寸(約21cm)四方で厚さ5寸(約15cm)の板に皇太子以下,諸臣百官の位階を漆で書くとある。

 市場規則関市令を定めその中に横刀、槍鞍、漆器の属は各製作者の姓名を題せしめ、如して濫造(乱造)を成しむ、漆樹(うるし)の栽培を全国に励行し、各戸に園地を給与して上中下戸に区別し、上戸ほ百本、中戸は七十本、下戸は四十本を五年間に植え畢(おわ・終わった)らしむ、但し不適当の地はこの限りにあらず、而して漆を生産する各地方は皆調貢に付し調の副物として、正丁一人に付き漆三勺を定額として調貢(みつぎもの)せしむ。

勺(しゃく)は、尺貫法の体積の単位である。 合の10分の1、升の100分の1と定義される。 日本では1升=約1.8039リットルであるので、1勺は約18.039ミリリットル、中国では1升=1リットルであるので、1勺は10ミリリットルとなる

正丁の用語解説 – 大宝令(たいほうりょう)および養老(ようろう)令で定められた成年男子に対する呼称で、21歳から60歳までの男子で、身体上の障害のない者をいう。

 聖武天皇の天平年間(729−748年)に至り大宝令に準拠して再び漆樹の栽培を奨励された。

 平城天皇の大同二年(807年) には三度漆樹の栽培を督促励行された。