新田神社とは

■最も歴史ある正統な新田神社

▶︎新しい時代に即した成長への提案

 つくば市下原の新田神社は、新田義貞を祀る最も由緒ある神社。しかしながら時代の趨勢で、他集落と同様に維持管埋が難しい時代を迎えた。そうした時こそ原理  原則が必要で、神様の実像とご利益の理解を深めるか氏神の場合では子孫へ重ねる事もポイントになろう。

▶︎新田神社の歩み 

 新田神社の主祭神は、群馬県を拠点に鎌倉幕府を滅ぼすなど活躍した新田義貞となる。南北朝の争乱で足利尊氏に敗れ新田一族は、難難辛苦を乗り越え義貞子孫の由良成繋が妻・妙印尼輝子の助力などで有数の戦国大名になった。

 妙印尼成繁亡き後豊臣秀吉の北條攻めで子供たちは北條側に付いたが、孫・忠繁とともに秀吉軍へ参加し活躍し家名を存続させた。その結果が常陸由良家のスタートで牛久が居城となった。

 新田神社は、由良家と共に群馬県太田金山城から牛久城内に遷され、その後徳川幕府の改易で梶内入会地へ鎮座となった。3年後に家名が復活しその地に陣屋も造られている。幾多の変遷があるが、大正5年(1916)に梅内・下原・新牧田の人たちにより神社拝殿が再建された。

 新田義貞の評価は、明治維新の後に朝廷に忠義を尽くした武将として高く評価された。さらに忠臣義貞の子孫を華族するべきだとする機運が高まり、由良家と岩松家(120石)も間で、争いが起こつた。こうした事情が原因と推測される出来事が、明治3年(1870)の新田神社の火災焼失事件である。その神社焼失は、新田氏嫡流争いにも影響を及ぼしたようだ。

▶︎由良家代官子孫・櫻井倉之助の苦悩

 江戸時代の新田氏嫡流(ちゃくりゅう・正統の流派)は、明確に由良家とされており龍ヶ崎の金龍寺が証明してくれる。当初、華族をめぐる争いは、由良家が有利であった。しかし火災同様に不思議にも、由良家当主が4代に渡り短期間に急死した。そうした結果、明治17年に岩松家が男爵を拝命した。その岩松男爵家誕生だが、最大の要因は岩松家当主の娘が元勲・井上馨侯爵の後妻になった事と認識されている。

 旧由良家代官の系譜であった櫻井倉之助氏(元小野川村長)にとって、新田神社の焼失や由良家当主の連続死亡、そして華族昇進が不首尾に終わり落胆は想像を絶する程であった。

 特に明治政府により幕府時代と相反する非嫡流の裁定は、想像以上の衝撃を櫻井倉之助氏に与えた。しかも資産なども旧主への応援に使い新田神社再建へ向ける余裕すら失っていた状況であった。大正5年の神社再建に櫻井氏が沈黙せざるを得なかった背景には、由良一族のこうした挫折感があった。今想像すると新田神社は皇国日本に最適な神社で、運営主導権が社会的評価に繋がる時代背景があった。

▶︎新しい時代に対応する新田神社

 不思議にも新田神社は、時代に沿うように生き抜いている。戦後の忠君愛国が否定される時代になると、常磐自動車道建設に関係し社殿が新築された。一方新田氏の氏神である事実は変えようも無く、地元の新田義貞子孫は赤塚の櫻井家だけである。

 義務感だけで地域の神社を維持するのは困難な時代であろう。しかも新田神社の場合には、戦前の氏子総代のような帝国臣民として名誉もない。そうした状況で神社継続に悩んでいるとすれば、新田家子孫の横井家へ氏神の管理を委ねるのも選択肢となる。義貞の子孫に取って神社は大きな拠り所で守るべき対象となる。この感覚は他人には持ち得ない価値観となろう。

 新田神社の管理を横井家が地域の人に任せた事情は、国元代表として岩松家と壮絶に戦い、敗北した結果である。新田神社が楼井家など由良家子孫に返納されたなら時代に即応した神社になる可能性も生まれよう。

▶︎新しい時代の新田神社とは

 新しい時代に向けた神社にするには、七観音八薬師で知られる「由良妙印尼新田輝子」を祭神に加える必要がある。妙印尼輝子を祀る事で、女性活躍社会を願う神社へ変貌することが可能となる。

 日本の神様は、人々の心情から生まれてきている。妙院尼輝子のブロンズ像など建立されたなら、武神から平和の神ヘチェンジでき女性の関心も集まり、地域に元気をもたらしてくれるはずだ。令和の時代にふさわしい、女性活躍を応援する神社が実現する。由良家の歴史では、常に女性の活躍が局面を打開してきた。そして岩松男爵家も女性の力で誕生している。


▶︎多々良沼(邑楽町/館林市)

 多々良沼は群馬県館林市と邑楽町にまたがる沼。その昔砂鉄が採れ、この地で製鉄と刀鍛冶が行われていたという。妙印尼輝子の時代、由良成繁、国繁、館林城主 長尾顕長の命を受けた農政家 大谷休泊が、館林地区の農業(米)生産力の向上のため、金山から赤松を植林し上州名物空っ風を防ぎ、また灌漑(現:休泊堀)を整備したと言われている。

多々良沼(邑楽町/館林市)多々良沼の中心、沼に突き出るように位置する浮島弁財天が印象深い

多々良沼(邑楽町/館林市)最近ではハクチョウの越冬地としても知られ、多くの観光客やカメラマンなどで賑わう

多々良沼(邑楽町/館林市)現在、赤松林内は散策路が整備され、近隣住民や観光客らの散歩コースとして人気がある

 

多々良沼(邑楽町/館林市)沼の周囲には、金山から植林したと言われる赤松の防風林がつづく。野鳥観察などもできるようになっている

多々良沼(邑楽町/館林市)妙印尼様の時代には、沼に面して鶉古城があった。今では土塁が残るのみとなっている

多々良沼(邑楽町/館林市)その昔、この地では「たたら製鉄」がおこなわれており、名前の由来ともなっている

 

多々良沼(邑楽町/館林市)沼の周辺は、大谷休泊らの努力により、現在では豊かな田畑が広がっている

多々良沼(邑楽町/館林市)多々沼近くにある大谷休泊の墓。その功績は周辺の地区名(太田市休泊地区)や堀の名前(休泊堀用水路)として今でも伝えられている

多々良沼(邑楽町/館林市)多々良沼には桟橋なども整備され、1年中を通してヘラブナやバスの釣り客で賑わっている

群馬県館林市飯塚町1059-1