唐風化する天皇

■唐風化する天皇

▶︎桓武と嵯峨

 教科書に登場する平安時代初期の人物で、特別大きな存在感を放っているのは、やはり桓武天皇と嵯峨天皇の2人であろう。近年の教科書では、この2人の天皇の特徴として、唐風化政策の推進者という側面が重視されるようになっている。

 781年(天応元)に即位した桓武天皇は、天武天皇の系統であった称徳天皇までと異なり、自らが天智天皇の系統であることを強く意識していたとされる。784年(延暦3)の長岡京遷都の背景には、そのような皇統の転換の意識があるといわれ、教科書にもその点を指摘しているものがみられる。この長岡京と、794年に遷都した平安京を舞台に、桓武朝の政治が展開される。

▶︎転換期としての桓武期

 桓武朝の政策として教科書で必ず取りあげられるのは、勘解由使(かげゆし)の設置と健児(こんでい)の採用である。勘解由使は、国司の交替の際に後任者から前任者に与えられる文書を審査する令外官で、地方行政を監督する役割を担った。健児は、東北・九州などを除いて軍団の兵士を廃止し、代わりに郡司の子弟を国府警備の兵力に充てたものである。軍団兵士の廃止の要因としては、兵士の質の低下を挙げる教科書のはかに、唐の衰退による対外的緊張の緩みを指摘する教科書もある。

勘解由使(かげゆし)・・・日本の律令制下の令外官の一つ。 平安時代初期、地方行政を監査するために設置された。 その後、監査の対象は内官(京都の各官職)へと拡大した。 勘解由使の官庁である勘解由使庁は、太政官の北西、中務省の南に位置した。

健児(こんでい)・・・平安時代の兵制の一つ。奈良時代末期から,軍団が私物化され農民の疲弊を招いたので,延暦 11 (792) 年,軍団の制度が一部を除いて廃止されると,これに代って郡司や富裕者,有位者の子弟を採用して健児とし,軍団の兵士と同様の任務につけ,国府におかれた健児所が彼らを統率した。その数は国の大きさによって違い,約 20~200人であった。彼らは 60日交代で勤務し,徭役は免除された。その費用には健児田からの収入があてられた。この制度も平安時代以降,自然消滅した。

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。 

 もうひとつ教科書で大きく扱われるのは、坂上田村麻呂らを派遣して行われた蝦夷との戦いで、この征夷事業によって律令国家の支配地域は拡大するが、805年の徳政相論の結果、天下の苦しみの原因であるとして、平安京の造営事業とともに中止されたことが記されている。なかには、この征夷事業の中止が、蕃夷(ばんい・野蛮人。えびす。)を支配する帝国型の国家構造の転換を意味すると述べている本もある。

徳政相論(論争・争論)(805)とは、東北地方での蝦夷討伐軍事と平安京造営などの造作という桓武天皇時代の二大政策をめぐる論争。

▶︎ 中国皇帝の祭祀・服装を導入

 以上の事柄に加えて、近年の教科書で重視されているのが、桓武天皇が中国の皇帝と同じ祭祀を実施することによって、自己の権威の強化を図ったという点である。中国の皇帝は、冬至の日に都の南郊で天帝と王朝の初代皇帝を祀る昊天祭祀(こうてんさいし・郊祀・こうし)を行ったが、桓武はその祭祀を長岡京の南、河内国(大阪府)交野(かたの)で二度にわたり実施したのである。


 これは天皇が唐風化し、天命思想に支えられた中国の皇帝に接近していることを示している。ほかにも桓武朝には、中国皇帝の宗廟祭祀の考え方を取りいれて、天皇・皇后の命日である国忌の制度を再編するなど、天皇を支える論理の唐風化がみられる。このような、中国的君主に近づこうとする桓武の姿勢が、教科書でも重点的に描かれるようになったのである。

 この天皇の唐風化という傾向をさらに推し進めたのが、809年(大同4)に即位した嵯峨天皇である。820年(弘仁11)に天皇の服装に関する詔(みことのり)が出され、神事の際には伝統的な白の装束である帛衣(はくのきぬ)を着ける一方、元日の朝賀(ちょうが)では中国皇帝が用いた袞冕こんべん)十二章とよばれる華やかな礼服・礼冠を身にまとい、また定例の政務報告を受ける際などには、中国皇帝の服色にならった黄櫨染(こうろぜん)という色の服を着用することが定められた。神事以外の場面では、天皇の服装が唐風化することになったのである。

 唐風化の傾向は、天皇のあり方だけに止まらない。818年に詔が出され、天下の儀式、男女の衣服、拝礼作法などが、中国風に改められている。貴人に対する伝統的な拝礼作法は、這(は)いつくばって進む匍匐(ほふくれい)や、跪(ひざまず)いて行う洗礼であった跪礼(きれい)をする人物埴輪(群馬県・塚廻り古墳群第4号古墳出土、文化庁所蔵)が、この詔で脆礼が廃止され、立ったままお辞儀をする中国式の立礼に変更されたのである。また、同年には、内裏の建物や大内裏の門の名前が中国風に改称されていて、これ古ま教科書でも紹介されることが少なくない。

 このような818年の改革を受けて、821年には『内裏式』という儀式書が編纂されることになる。嵯峨朝には、空間の名称も含めて、中国的な儀式・作法の整備が大きく進むのであり、教科書でも嵯峨朝の特色として、弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂のような法制の整備とともに、儀礼の唐風化がとりわけ重視されているのである。

▶︎ 「薬子の変」か「平城太上天皇」か

 さて、嵯峨朝の出来事として教科書で必ず取りあげられるものに、810年に起きた「薬子(くすこ)の変」がある。嵯峨天皇と平城太上天皇との間に、「二所朝廷」と呼ばれるような政治的対立が生まれ、太上天皇が平城京への遷都を命じたのを機に、天皇側が制圧行動を起こし、太上天皇は兵を徴発して東国を目指すが、天皇側の軍勢に阻まれて出家したという事件である。正史の『日本後紀(こうき)』は事件の責任を、太上天皇の寵愛を受けた藤原薬子とその兄の仲成(なかなり)に帰しており、この出来事は一般に「薬子の変」と呼ばれている。しかし、実際に事件を主導したのは太上天皇自身であったとする見方もあり、現在では「平城太上天皇の変」「平城上皇の変」と表現する教科書も増えている。

薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。 大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。 平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。

 このような事件が生まれた背景には、奈良時代以来の天皇と太上天皇との対等な関係があり、嵯峨天皇はその弊害を解消するために、自らの譲位後は離宮に隠棲し、太上天皇は国政に直接関与しないという姿勢を示した。唯一の君主としての天皇の地位は、この段階でようやく確立したともいえるのである。

■ 終わらない日中交流

 7世紀以来、中国の文物を日本にもたらしてきた遣唐使は、894年(寛平6)菅原道真の意見によって廃止された。それ以降、中国文化の影響は弱まり、日本風の繊細で優美な貴族文化である国風文化が興隆した。かつての教科書では、9世紀から10世紀にかけての文化の推移が、このように説明されていた。遣唐使の廃止をきっかけに、唐風文化は大きく後退し、日本的な文化が独自の進化を遂げたというものである。しかし、研究の進展によって従来の認識は修正されるようになり、現在では教科書の記述も大幅に変化している。

▶︎ 遣唐使の「廃止」から「停止」へ

 まず変化してきたのは、894年の「遣唐使の廃止」に対する認識である。887年(仁和・にんな・3)に即位した宇多天皇のもとで、838年(承和・じょうわ・5)に渡海した遣唐使以来、約60年ぶりに遣唐使の派遣が計画され、894年8月、菅原道真が大使、紀長谷雄(きのはせお)が副使に任命された。ところが、9月になって道真は、派遣の再検討を促す上奏文を提出する。かつての教科書は、この上奏文によって、260年余り続いてきた遣唐使の制度そのものが「廃止」されたという認識に立って書かれていた。

 だが、道真や長谷雄がその後も遣唐大使・副使の肩書を名乗っていることが注目されるようになり、894年以後も遣唐使派遣の可能性は残されたままであった、とする見方が強くなった。894年には派遣の可否について明確な決定時下されず、結論を先送りしているうちに、901年(延喜元)の道真の大事府左遷や、907年の唐の滅亡などがあり、結果として新たな派遣が行われないまま遣唐使は終焉した、という考え方が有力になったのである。このような認識の転換とともに、教科書の記述にも変化がみえ始め、現在では、894年の派遣が「停止」「中止」になったと述べるものが増え、同年に遣唐使の制度そのものが「廃止」されたとする記述は減っている。

▶︎ 「唐物」と巡礼僧

 以前は、894年の遣唐使の「廃止」に続いて、10世紀初頭に個人の海外渡航を禁止する法令(渡海の制)が出され、日本は鎖国的な状態になったと考えられていた。しかし、渡海の制は10世紀初頭に新たに制定されたものではなく、8世紀に編纂された律の条文に淵源があるとする説が有力になり、また正式な手続きを踏めば私人の海外渡航も可能であったことが指摘され、10世紀以降に日本が鎖国的になるという理解は通用しなくなった。さらに、中国からも商船が頻繁に来航し、陶磁器を始めとする多くの文物がもたらされるなど、10世紀以降も日中の間で、ヒトとモノの交流が活発に行われていたことが知られるようになった979年に中国を統一した宋と、日本は正式な国交を結ばなかったが、民間レベルの日中交流はむしろ拡大していった、と理解されるようになったのである。

日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。

 このような研究成果を受けて、教科書の記述でも、10世紀以降の日中交流に多くの行数が費やされるようになった九州の博多などに来航した中国商人を通じて、書籍・香料・薬品や、陶磁器のような工芸品、錦・綾(あや)のような高級織物などが輸入されたこと。そのような舶来品がからもの「唐物」と呼ばれて貴族社会の憧れの的となり、大きな需要を持っていたこと。日本からは金や硫黄などが輸出されたほか、源信が著した『往生要集』なども中国に伝えられたこと。さらに、日本の僧侶が中国商船を利用して大陸に渡り、仏教の聖地である五台山や天台山を巡礼し、宋の文物を日本にもたらしたことが述べられている。10世紀末に東大寺僧の奝然が入宋し、京都の清涼寺に現存する釈迦如来像や、摂関家の所蔵となる経典をもち帰ったことは、多くの教科書で紹介される代表的な事例である。

金沢文庫本『自民文集』(大東急記念文庫所蔵)

▶︎ 唐風の上に成り立つ「国風」

 こうして、遣唐使の終焉以後も日中の活発な交流が続き、日本に対する中国文化の影響は弱まっていないことが認識され、国風文化も中国文化の影響なしには成立しえないことが強調されるようになった。教科書でも、中国文化の放棄ではなく、中国文化の咀嚼・消化のうえに国風文化が生まれたと記述されるようになった。

 国風文化の内容としては、かな文字の発達、『古今和歌集』に象徴される和歌の繁栄、『源氏物語』『枕草子』に代表されるかな文学の隆盛などが、現在の教科書にも書かれている。また、白木造・槍皮葺(ひわだぶき)の寝殿造の住宅、日本の風物を題材とした大和絵なども、国風文化の主要なものとして掲げられている。一方で、和歌以上に漢詩の才能が重視されたこと、唐の詩人・白居易(はくきょい)の漢詩文集『白氏文集(はくしもんじゅう)』が愛好され、『源氏物語』『枕草子』にも同書の強い影響が見られることなど、中国文化のさらなる浸透も、現在の教科書には記されるようになっている。10世紀以降も、中国文化は貴族社会にとって不可欠のものであり、中国文化の基盤のうえに国風文化は初めて成立していた。そのような認識が、現在の教科書には定着しているのである。

■貴族社会を支える受領

 律令国家の地方行政は、都から各国に一定の任期で派遣される国司によって運営されていた。国司の中心をなすのは、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)からなる四等官であり、各国の政務は四等官の連帯責任制によって遂行されていた。

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)たちを指す。 守の唐名は刺史、太守など。 中央では中級貴族に位置する。

 ところが、9世紀後半になると、国司のなかの最上席の者(一般的には)に地方行政の権限と責任が集中するようになる。この最上席の国司が受領(ずりょう)と呼ばれ、9世紀末には、受領が中央政府に対して各国の租税納入の全責任を負う体制が確立する。

受領・・・中古、遥任(ようにん)(=名目上の任命で、実務を執らなくてよい)と区別して、実際に任国におもむく、諸国の長官。

▶︎ 否定的に描かれてきた受領

 10世紀以降の地方政治をめぐる教科書記述では、今も昔も変わらず、この受領が主役の位置を占めている。ただし、その描き方にはかなりの変化がみられる。かつての教科書では、受領の特徴として、過酷な徴税で私腹を肥やす強欲な地方官、という側面が強調されていた。しかし、近年の教科書では、任国(にんごく・命ぜられて赴任する国)内の支配体制を整え、国家財政を強力に支えた、平安貴族社会の支柱としての側面も描かれるようになっている。

 現在に至るまで、教科書では、受領の性格をよく表すものとして、二つの有名な史料が取りあげられてきた。ひとつは、12世紀前半の説話集「今昔物語集』に伝えられた、信濃守藤原陳忠(のぶただ)にまつわる説話である。任期を終えて帰京の途にあった陳忠が、落馬して谷底に転落してしまったが、そのような状況でも、そこに生えていた平茸(ひらたけ)を採ることを忘れず、「受領は倒るる所に土をつかめ」と語ったというもので、受領の貪欲さを示すエピソードとされている。

 もうひとつは、988年(永延2)の「尾張国郡司百姓等解」である。尾張国(愛知県)の郡司と百姓が、同国の守藤原元命(もとなが)の非法31か条にわたって列挙し、中央政府に直訴したもので、大幅な増税や、元命が都から連れてきた子弟・郎等の横暴などが訴えられている。10世紀末から11世紀前半に集中的にみられた、国司苛政上訴と呼ばれる現象の一例である。

 このような、暴政を働き、私利を貴る受領の姿が、かつての教科書では前面に出されていた。それに対して、近年の教科書には、そのような受領の姿を可能にした強力な任国支配体制そのものを、より詳しく記述しようとする傾向がみられる。

▶︎ 受領による任国支配の強化

 10世紀になると、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名」にして、租税の納入を請け負わせた。現在の教科書では、このような徴税の仕組みを「負名体制」と称している。

田堵が請け負った田地は、田堵の名前をとって名(みょう)とか名田と呼ばれました。太郎丸が請け負えば太郎丸名、次郎兵が請け負えば次郎兵名になります。このように田堵は名の耕作・経営を請け負っていますから、負名とも呼ばれるわけです。これを「負名体制」と言います。

 それまでの律令制では、地方豪族である郡司が徴税の実務を担っていたが、負名体制の成立によって、郡司に依存せずに、受領が有力農民を直接把握する徴税体制ができあがった。それに伴って、郡司の執務場所である郡家(ぐうけ)が衰退し、受領の執務場所である国衛の重要性が増していった受領は、田所・税所・調所など、国衛行政を部門ごとに担当する「」という機関を設け、それを統轄する目代(もくだい)に郎等をあて、行政の実務を担わせた。このような体制を前提に、官物・臨時雑役という新たな性格の租税が徴収された。現在の教科書には、以上のような受領による任国支配体制の強化が詳しく記されている。

▶︎ 客観的な受領への描写へ

 強力な徴税体制によって、受領は中央政府への租税納入を果たすと同時に、莫大な私富を蓄積することも可能になった。そのため、受領の職は一種の利権とみなされ、成功によって受領に任命されたり、重任されたりする者が増えた、と教科書には書かれることが多い。成功とは、私財を提供して建物の造営などを請け負う見返りに官職を得ること、重任は同様にして同じ官職に再任されることをいう。さらに、受領への任命を希望して、人事権を握る摂政・関白などに金品を贈与する者が多かったと述べる教科書もある。

任国に下向する因幡宇・橘行平の一行(『因幡堂薬師毒豪起絵巻』東京国立博物館所蔵)

 一方で、近年の教科書には、中央の宮司特定の要職を務めた者が、順番に受領に任命されるという仕組み(受領選任)に言及しているものもある。財力や有力者の意向という曖昧な要素だけでなく、規格化された受領任命の方式があったことにも注意が向けられているのである。

 受領は、公卿(くぎょう)の会議で決められた各国への割り当てにしたがって、内裏の造営を分担して請け負うようになった。国家財政の経費を諸国に賦課する国充(くにあて)という方式で、受領による徴税体制の強化を前提としている。このような国家財政を支える受領の役割に対しても、近年の教科書は相応の注意を払うようにをっている。

 また、任期終了後には、受領功過定(こうかさだめ)という公卿の会議で勤務評定が行われ、国家財政を担う受領の統制が図られていたが、最近はこのことに触れる教科書もみられるようになった。かつての教科書では、私欲に走る貪婪(どんらん・たいそう欲の深いこと)な地方官として、受領を否定的に描くことが多かったが、現在の教科書では、受領にかかわる諸制度が、より客観的に記されるようになっているといえよう。