見直される倭国と半島の関係

■見直される倭国と半島の関係


 4世紀の日本列島には、大和地方(奈良県)の勢力を中心とする広域の政治連合が形成されていた。教科書では、この政治連合、中心となる大和地方の政治権力を、「大和政権」「ヤマト政権」「大和王権」「ヤマト王権」などと表現している。かつては「大和朝廷」という用語が一般的であったが、4世紀にはまだ「朝廷」と呼べるような発達した政治組織は存在していなかったという認識が強くなり、現在の教科書ではあまり使われなくなっている。また、「大和政権」ではなく「ヤマト政権」と表記する場合があるのは、「大和」という地名表記の成立が8世紀まで下ることなどによる。この「ヤマト政権」「ヤマト王権」の4・5世紀における発展を、教科書は東アジア全体の国際的動向のなかで描こうとしている。

▶︎消えゆく任那

 中国では、五胡(旬奴などの遊牧民族)の侵入による混乱のなかで、316年に晋が滅亡する。翌年には江南に東晋が再興されるが、この晋の衰退・商運の影響で、朝鮮半島にも大きな変化が生まれる。まず、半島北部の句麗は、晋の半島支配の拠点であった楽浪郡帯方郡を滅ぼし、4世紀後半には楽浪郡の故地である平壌を拠点として南下政策を進める。

 一方、馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)の三地域に分かれ、多数の小国が分立していた半島南部でも、4世紀には諸国の統合が進み、馬韓の地に百済、辰韓の地に新羅という統一国家が成立する。

 弁韓では小国連合的な状態が続いたが、ヤマト王権に統合された倭国は、鉄資源の確保などのために、それらの小国と密接な関係を結んでいた。かつての教科書では、この小国群のことを『日本書紀』の用例に従って「任那」と記していたが、現在の教科書では、朝鮮の史書などによって「加耶」「伽耶」「加羅」と記すことが多い。

 南下する高句麗と争っていた百済は、倭国に接近して同盟関係を結ぶ。それを記念して百済から倭王に贈られたとされるのが、石上神宮(奈良県)に伝わる国宝の七支刀である。銘文から369年の製作と推測され、教科書でもしばしば紹介される。

 このような百済との関係を背景に、倭国は朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦火を交える。その事実を伝えるのが、教科書でも必ず取りあげられる広闘士王碑(好太王碑)碑文である。現在の中国・吉林省集安の地に、高句麗の長寿王が父の広闘士王の功業を記念して建てた石碑で、400年と404年高句麗軍と倭国軍が交戦したことが刻まれている。

▶︎「帰化人」か「渡来人」か

 朝鮮半島での戦乱を受けて、5世紀初頭頃には、半島から日本列島への移住民が急増する。さまざまな技術・文化を列島に伝えたこれらの人々を、かつての教科書は「帰化人」と称していた。しかし、王者の徳を慕って帰順することを意味する「帰化」という言葉は、当時の移住の実態を必ずしも反映していないとして、現在の教科書では「渡来人」と呼ぶのが一般的である。ただし、国家による受け入れを表現するには「帰化人」の方が適当であるとする意見もあり、「帰化人」の使用が一概に誤りというわけではない

 『宋書(そうじょ)』倭国伝によれば、5世紀には、讃・珍・済・輿・武と呼ばれる5人の倭王、いわゆる倭の五王が、中国南朝の宋朝貢し、皇帝から冊封(官爵の授与)を受けている「倭国王」の称号に加えて、朝鮮半島南部の軍事的支配権を示す称号を与え奉られることで、外交上の立場を有利にし、高句麗に対抗しようとしたと考えられている。

 一方、近年の教科書では、中国皇帝による冊封が、ヤマト王権内部の秩序形成に利用されたことも指摘されている。倭王は自らの臣下に自分より下位の称号を仮に授け、それを宋に正式に承認してもらったり、自らの称号にともなって設置できる役所の属僚(府官)臣下を任命したりして、自己を最高位とする身分の序列を明確にしようとしたのである。

稲荷山古墳出土鉄剣銘と「獲加多支歯大王」(文化庁所有、埼玉県立さきたま史跡の博物館保管)

 478年の宋への上表文(じょうひょうぶん)で知られる倭王武は、稲荷山古墳(埼玉県)出土鉄剣銘と江田船山古墳(熊本県)出土大刀銘にみえる「ワカタケル大王」であり、のちに雄略天皇と呼ばれる人物にあたる。1970年代までの教科書では、大刀銘の大王は反正天皇にあたるとされていたが、鉄剣銘の発見によって解釈が改められたことは有名である。鉄剣銘・大刀銘からは、「○○人」と呼ばれる人間集団による職務分担制度(人制)の存在が知られ、また大王を中心とする倭国独自の支配領域=「天下」が形成されていたことも判明する。

▶︎ 「任那日本府」の実態

 この時期の倭国と朝鮮半島との関係を考える際に、大きな論点となってきたのが、いわゆる「任那日本府」の問題である。かつては、「大和朝廷」が「任那」の地に「日本府」という統治機関を設け、軍事力を背景に植民地のような支配・経営を行っていた、というのが通説的な見方で、教科書もそのような認識に沿って書かれていた。

 しかし、現在では、「任那日本府」の実態について、現地に居住する倭人集団の組織であるとする説や、倭国から派遣された使者であるとする説が有力視されるようになり、以前のような見方はほぼ否定されている。かつては、512年に「任那四県」が百済に「割譲」されたと書かれていたが、現在では、倭国による領土支配を前提とする「割譲」という言葉は使われなくなり、百済による支配を「承認した」などと表現されるようになっている。

■変容する「聖徳太子」

 冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した、推古朝の政治の主役。ある年代以上の人が教科書で学んだと記憶している聖徳太子像は、おそらくこのようなものであろう。たしかに昔の教科書では、推古朝のおもな出来事を、すべて聖徳太子を主語として記述している場合が少なくなかった。だが、現在の教科書では、聖徳太子とその時代の描き方は、以前とかなり異なるものになっている

▶︎ 「聖徳太子」よりも「厩戸皇子」

 まず大きく変わったのは、「聖徳太子」という人名そのものの扱いである。現在の教科書では、死後の呼び名である「聖徳太子」とともに、実名と考えられる「厩戸皇子(うまやとのみこ)」を重視し、二つの名前を併記するのが一般的である。生存当時の呼称を優先して、「厩戸皇子」を先に記すものも少なくない。さらに、「日本書紀』には「厩戸皇子」とあるが、推古朝に「天皇」号とかかわる「皇子」という表記が使われたかどうか不明であるとして、「厩戸王(うまやとおう)」と表記する教科書もある。いずれにせよ、「聖徳太子」という人名は、もはや教科書のなかで絶対的な地位を占めてはいないのである。

 聖徳太子の事績についても、記述は大幅に変化している。これは、当時の政権における太子の位置づけの理解とかかわっている。推古朝の政権では、大臣である蘇我馬子の発言力がきわめて強かったと考えられている。一方、聖徳太子も王位を継承しうる有力王族として、政権の中枢を担っていたという見解がいまでも有力である。そのため、推古朝の政権を、聖徳太子と蘇我馬子の共同執政の体制とする捉え方が、現在広く受け入れられている。そのうえで、2人に指示を与えるべき立場にある、推古天皇の政治的主体性にも改めて注意が向けられている。大枠としては、推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子の3人が、政治権力の中核をなしていたとする見方が強いといえよう。たしかに聖徳太子は政治を領導していた有力者であるが、ひとりですべての政策を決定し得るような存在ではなかった、という理解である。

▶︎「聖徳太子の政治」から「推古政権の政治」へ

 現在の教科書は、このような見方に沿って、かつては聖徳太子個人の事績として描かれていた冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などを、推古政権全体の事業として叙述するようになっている。推古朝の政治を「聖徳太子の政治」として書くものは、ほとんど見られない。

 憲法十七条は、『日本書紀』に聖徳太子が自ら作ったと明記されていて、かつての教科書では、太子による制定と断定して書かれていた。しかし、太子に仮託されたものとする説もあり、現在の教科書では、制定の主体を明示しないか、太子の制定と「される」「伝えられる」といった婉曲(えんきょく・表し方が、遠まわしなこと)な表現を使うことが多い。推古朝の事業として記述されてはいるが、太子本人の事績であるとは断定していないのである。現在の教科書は全般的に、聖徳太子の事績とされてきたものに対し、慎重な態度をとっているといえよう。

 慎重な態度は、聖徳太子の肖像の扱いにも共通している。太子の肖像といえば、左右に2人の童子を配した、8世紀の制作とされる御物の絵画宮内庁所蔵)が有名である。「聖徳太子二王子像」「唐本御影(とうほんみえい)」などと呼ばれるもので、の顔のもとになった、誰もが見覚えのある画像である。教科書では、この絵が「聖徳太子像」と題してしばしば掲載され、生徒たちの目に太子の印象を焼きつけた。現在でも、これを太子の肖像とする見解は有力であるが、確証に欠ける。そこで、近年の教科書では、この画像を載せる場合、「伝聖徳太子像」とすることが多い。国民的に知られる聖徳太子の肖像も、現在は留保付きで教科書に載せられるようになっているのである。

▶︎ 世界に驚いた遣唐使

 推古朝の記述の変化といえば、遣隋使の派遣も見逃すことはできない。昔の教科書では、607年(推古15)小野妹子の派遣が特筆され、煬帝(ようだい)不興(ふきょう・機嫌をそこなうこと)を買った「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の国書とともに、もっとも重要な暗記の対象となった。だが、現在の教科書では、『隋書」にみえる600年の第1回遣隋使も、画期的な遣使として重視されるようになっている。

「梁職責図」(中国国家博物館所蔵)に描かれた倭国の使者

 603年の冠位十二階の制定や、604年の憲法十七条の制定など、この時期の国内体制の整備は、600年の遣使で隋の文明に触れ、国際社会との落差を思い知らされたことが、大きな動機になっていると考えられるからであろう。

 現在の教科書は、時代のあらゆる出来事を聖徳太子の事績に帰するのではなく、逆に彼自身を大きな時代状況のなかに位置づけようとする傾向が強い。ひとりで時代を作った超人的偉人から、時代とともに生きた政権の担い手のひとりへ。教科書のなかの聖徳太子像は緩やかに、しかし確実に変化してきたのである。

■ 天皇・日本・藤原京

 大化改新から大宝律令制定までの7世紀後半は、律令国家の建設が本格化する時期とされている。中国から律令という体系的な法典を学び、それに基づく官僚機構と人民支配の体制を作りあげていった時代である。この新たな国家建設の過程で浮上してきたのが、君主号や国号の制度化、あるいは都城の造営といった、国家の根幹にかかわる重要な課題である。

養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。 廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。 制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。孝謙天皇の治世の757年5月、藤原仲麻呂の主導によって720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。これが養老律令である。

▶︎ 「天皇」は古いか新しいか

 「天皇」という君主号については、7世紀初めの推古朝に成立したとする津田左右吉の説が戦後ほぼ通説となり、教科書でも、それに従った記述金銅弥勒菩薩半助像(野中寺所蔵)が長く定着していた。この説の根拠は、法隆寺金堂薬師如来像光背銘や天寿国繍帳銘など、推古朝の銘文に「天皇」の語がみえることであった。

 ところが、それらの銘文が7世紀後半の天武・持統朝に製作されたものと考えられるようになり、天皇号もその時期に成立したとする説が有力となった。それを受けて、教科書でも天武朝の成立と記述するものが増えていった。壬申の乱に勝利した天武が君主としての権威を高めたことで、それにふさわしい新たな称号が創出され、持統朝に施行された飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)で正式に法制化された、という理解である。

 しかし、現在の教科書でも、推古朝成立説を併記したり、より強調したりするものは少なくない。それは近年、天寿国繍帳野中寺弥勤菩薩像などの銘文の再評価が進み、さらなる反論はあるものの、推古朝成立説有利な材料も提供されているからであろう。

 推古朝成立説は、608年(推古16)の遣隋使が「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」で始まる国書を持参したとする『日本書紀』の記事を重視し、外交の場面で天皇号が使われ始めたとみる。一方、天武朝成立説は、対外意識の問題とともに、国内での君主の権威の高まりを天皇号成立の要因として重視する。また、天武朝成立説をとれば、天皇制は律令国家とともに新しく件られたことになるが、推古朝成立説をとれば、天皇制は律令国家以前の古い要素を受け継いでいることにもなる。二つの説の違いは、天皇制の本質にも関わる、きわめて重大な問題をはらんでいるのであり、容易に結論が出るとは思えない。ほかの見方を含め、不動の定説が教科書に書かれるようになるのは、まだまだ先のことであろう。

▶︎高まる「日本」国号への関心

 律令国家にとって、君主号とともに重要であったのは、国家の名をあらわす国号である。「日本」という国号については、戦後の歴史学であまり議論にならず、教科書でもほとんど言及されることがなかった。まれに、7世紀前半(推古朝頃)に成立したと記す教科書もあったが、あくまで例外的なものであった。したがって、成人の多くは、「日本」国号について教科書で学んだという記憶がないであろう。しかし、「日本」国の自明の枠組みを問い直すという気運とともに、国号への関心が高まり、現在では教科書でも、「日本」国号の成立に触れるのが一般的になっている。

 「祢軍墓誌」拓本(部分)

 2011年に中国で、「日本」という文字が刻まれた678年頃の製作とされる墓誌祢軍・でいぐん・墓誌)が紹介され、その解釈をめぐつて議論が続いているが、現在のところ、「日本」が国号になったのは、この墓誌より後のこととする見方が有力のようであり701年(大宝元)制定の大宝令に国号として明記されたことが、大きな画期になったと考えられている。教科書でも、大体その範囲で記述がなされているが、さらに702年遣唐使が中国にはじめて「日本」国号を通知したことを述べている場合もある。中国からみた極東を意味する「日本」は、中華世界を意識した外国向けの国号であり、その対外的な意義が、教科書でも重視されているのである。

▶︎姿を変えた藤原京

 もうひとつ、律令国家の建設に不可欠であったのは、中央集権の拠点となる本格的な都城の造営である。天武朝に造営が始められ、持統朝に完成した藤原京が、そのような律令国家を象徴する新たな都となった。かつての教科書では、「畝傍山(うねびやま)・香具山(かぐやま)・耳成山(みみなしやま)の大和三山に囲まれた」というのが、この藤原京を描写するときの決まり文句であった。そして、東西約2キロ、南北約3キロ、という京城の規模が説明されていた。さらに詳しい場合には、のちの平城京の三分の一ほどの面積であること、京域の北部中央に宮を置く形式をとり、それが平城京以降の都城に受け継がれることなどが書かれていた。こうした見方が当時の通説になっていたからである。

藤原京復原図(小澤毅F日本古代宮都構造の研究』青木書店、2003年)

 ところが、1990年代以降の発掘調査と研究によって、それまでの通説が見直され、教科書には従来とまったく異をる藤原京の復原図が載ることになった。京城は約5.3キロ四方の正方形で、宮はその中心に置かれていたとする見方が有力になってきたのである。かつての決まり文句とは逆に、藤原京が大和三山を包みこむことになった。また、京城の面積は平城京に引けをとらず、宮の位置は平城京以降とまったく異なることになった。研究の進展によって、教科書の内容がこれほど劇的に変わるのは、珍しいことだろう。この新たな見方により、律令国家の建設過程における藤原京の位置づけを、改めて問い直す必要が出てきたのである。