日本の地名

■はじめに

吉田茂樹

 ある明治のえらい学者が、いろいろなことを調べた結果、何がわからないといっても「日本の地名」ほどわからないものはないと、ため息をついた。「武蔵(むさし)・甲斐(かい)・相模(さがみ)・筑紫(つくし)・駿河(するが)」と古い地名を並べてみると、日本の地名でありながら、何という意味なのか、まるでわからない。「大川・高山・広田・長野」という地名ならば、何も調べなくても、日本語としての意味がわかる。ところが、古代から中世にかけては、二母音・三母音の地名が多く、「フサ・チタ・ヒダ・イヨ・トサ・サヌキ・ヒタチ」とやられると、何のことだかワケがわからず、いろいろな人によって、いろいろな解釈が生まれ、どれが正しい解釈なのかよくわからないのが現状なのである。これらの古い地名に関しては、江戸の国学者の賀茂真淵・本居宣長から、明治から昭和にかけてのえらい学者である吉田東伍・柳田国男まで、地名の意味を調べて解釈している。それでも、誤ったり、おかしいと思われる解釈がけっこうある。この結果、近年の学者は、地名の語源を調べることから手を引いて、もっぱら、全国各地の町の地名研究家に、そのことをまかせているのである。

日本の地名研究家の多くは、もともと在野あるいは正式に言語学、歴史学などを学んだ者ではないことが多かった 吉田東伍、柳田國男、池田末則、谷川健一などはすべて、地理学や歴史学や言語学を大学で学んでいなかった。 これは日本の地名研究のあり方と実態をあらわしており、同時にそれぞれの研究家の地名への関心の内容の違いをも示している。

 さて、私も町の地名研究家の一人で、昨年「日本地名大事典(上・下)」を30年の地名研究の集大成として出版し、この新しい解釈をもとに、その主だった所を、初心者にもわかりやすく本書にまとめた。千葉県の古代国名である「ふさ(総)」は、「フサ(塞)」という意味で、土砂でふさがれた国だとか、山梨県の古代国名である「かい(甲斐)」は、今までの「かい(峡)」という説を否定して「かわい(川合)」の国だとか、さらに、今まで誰にもわからなかった滋賀県の「滋賀」は、「しか(石処)」という語源で、石や岩の多い所という意味であるなど、多くの新しい説をかかげている。

 そこで、土地の名である「地名」というのは、いったいどのようにしてつけられるかを示してみよう。最もわかりやすいのは、皆さんの姓であります。「山本・大田・井上」などの姓は、ほとんど地名に由来しているのである。岡の下やふもとに村ができると、その所は「おかもと(岡本)」と呼ばれ、山のふもとは「やまもと(山本)」と呼ばれる。岡本村にいた人たちは、「岡本」の姓を名乗り、山本村にいた人たちは、「山本」の姓を名乗るのである。

 このように、日本の地名の半分以上は、地理的条件によって名づけられている。このほか、歴史によるもの、民俗によるもの土地の事情によるもの、人名によるものなど、さまざまである。ところで、岡本や山本などの地名は、地名の意味が最もやさしいものであり、本書には最も難しい地名を数多くのせている。なぜ難しいかといえば、長い歴史の間に、音が変化したり、音が略されて短くなったり、文字が変化したりして、元の意味がわからなくなるからである。さて皆さん、本書を通して、難しい日本の地名にチャレンジしょうではありませんか。

■各地域の地名外観

吉田茂樹

▶︎北海道・東北の地名

 北海道から東北地方北部にかけては、アイヌ語を語源とする地名がけっこう認められる。ことに北海道の地名の基本はアイヌ語であって、さっぽろ とまこまい わっかない あばしり「札幌・苫小牧・稚内・網走……」など、有名な地名の多くはアイヌ語に由来している。江戸時代に日本人が北海道に進出するまでは、そこはアイヌ民族の土地であったから、当然のことである。明治に入って、本州・四国・九州各地から、北海道開拓団入植して村をつくり、本文にもあるように、出身地の県名を用いた地名や、日本語において良い意味を表す佳名(かめい)の地名などが多く成立した。現在の北海道には、日本語よりアイヌ語を語源とする地名のほうが多く残っているが、アイヌ語の音に日本語の漢字をあてた地名が多いため、これを日本語に訳した場合、人によって解釈が異なり、かえって意味のわからなくなっている地名がかなりみられる。

 次に東北地方の地名であるが、青森県あたりにはアイヌ語と断定できる地名もあるが、その他はアイヌ語に由来すると確信をもって言える地名はきわめて少ない。アイヌ語らしい地名も、秋田・山形県境から宮城県中部あたりまでで、東北地方中部以南でのアイヌ語地名の存在は困難とみられる。東北地方北部には、古代より「蝦夷(えみし)」と呼ばれる異民族が居住していたことは、史料からもうかがわれるが、「蝦夷」の本体はアイヌ人で、これには朝廷に服従しない日本人も含まれていたと思われる。平安時代の『和名抄』の郡郷名が、岩手県中部から秋田県中部あたりに分布しており、平安前期には、日本人が開拓し居住した村落が、このあたりまで進出していたことがわかる。中世から近世にかけては、地名数が飛躍的に増えるが、方言的発音がわざわいして、意味不明の地名が急増しているのが、東北地方の地名の特色と思われる。

▶︎関東の地名

 関東地方の地名は『常陸風土記』にみられるように、古来より日本古語に由来した地名で満ちあふれている。そこにはアイヌ語や異民族の言語による地名は、まったく入る余地はないといってよい。ところがけっこう妙な地名があるものだから、これをアイヌ語で解釈する人がいて、それをまた信用する人もいて、はなはだヤッカイである。古代に「塩屋」という地名があると、中世以後「塩谷」と書かれ、「ヤ」の音がなんでもかんでも「谷」と表記されて、最後には「ヤチ・ヤツ・ヤト・ヤ」と同類とみなされて、湿地の意となるのである。古代の「塩屋・高屋」の「ヤ(建物)」と、中世以後の「ヤ(小さい谷・湿地・草むら)」が、「谷」の字で同居しており、こうした関東特有の地名用字法がわざわいして、地名の研究を困難にさせている。

 また、関東の地名の今一つの問題点は、日本古語で「にひた(新田)」とあれば「ニッタ」と発音し、「ひかは(日川)」は「ニッカワ」と変音するので、これらによって、とんでもない音や用字が出現する。本文コラムにもあるように、古代の「なさ(那射)郷」が「ナンジャイ(南蛇井)」と変化するので、日本語でなくてアイヌ語で解釈したくなる地名が多くみられるのである。さらに問題なのは、中世にひらがなで書かれた地名が、江戸時代に入って漢字で書かれて、なおかつ音が変化するので、いよいよヤッカイになる。例えば、中世の「こふしき村」が、近世では「子思儀(コシギ)村」となり、何のことだかワケのわからないことになるのである。このように、関東の地名には音や用字の変化が多いので、相当の注意が必要となってくる。

▶︎中部の地名

 中部地方は、北は新潟・富山県境の親不知(おやしらず)から、南は静岡・愛知県境に近い浜名湖あたりに、東日本と西日本の方言の違いがある程度みられる。地名でもたとえば、谷間のことを西は「谷」、東は「沢」という違いが知られる。一般に、新潟・長野・山梨・静岡の4県の地名は、関東地方の地名と類似する点が多くみられ、これに対して、富山・石川・福井・岐阜・愛知の5県の地名は、関西の地名と類似する点が多く、対照的である。また、地域的にみると、新潟県には、江戸時代の「新田集落」に起因する地名が多くみられ、長野県には、傾斜地を意味する「シナ」の地名や、古代の馬牧に由来した地名も多くみられる。山梨県では、甲斐の国の「カヒ」の意味について、従来の「峡(カヒ)」説を否定して、「川合(カアヒ)」説を筆者は見出し、静岡県では、浜名湖の「ハマナ」についても、従来からの「浜野」説や「浜地」説を否定して、「ハマアナ(浜穴)」説を同じく見出している。また、中部地方西部の地名に関しても、難解な古代の国郡名の解釈を本書でかなり取り上げている。富山県の「砺波(トナミ)」、石川県の「加賀・鳳至(ふげし)」、福井県の「若狭」、岐阜県の「飛騨・可児(カニ)」、愛知県の「愛知・知多」などが主なものである。さらに、平安時代から中世にかけての荘園集落に関する地名は、東部と比較してはるかに密度が高くなり、伊勢神宮領の「御厨(みくりや)」を含めて、より近畿の地名成立の傾向に近いものである。なお、伊勢湾から東の東海地方にかけては、砂丘や大きな砂浜・川洲のある所を「洲処(スカ)」と呼んでいるが、これが三重県を越えて西日本に入ると、「スカ」という地名がほとんどみられなくなるのも興味深いことである。

▶︎近畿の地名

 近畿地方の地名は、古代より日本の地名成立の原点とみられるものが多い。史料の上からみても、日本の古代地名の半数近くは近畿にあるといってよい。これは、藤原京から平城京・平安京などにおいて、皇居が長年にわたって近畿にあったこと、そのために、近畿で書かれた史料や書物が多いことによる。奈良時代からみえる「条・里・坪」などの条里制にもとづく地名や、平安時代から多くみられる荘園制度に関する地名は、近畿地方に圧倒的に多くみられる。ことに、皇族・貴族・有力寺社の荘園の大半は、近畿から発生したもので、これらから成立した地名の宝庫でもある。

 また、地名の音(おん)に関しても古語に忠実で、「にひた(新郎」は「ニヒタ」の音であって、関東のように「ニッタ」と変化することはほとんどない。したがって、近畿独自の地名というよりも、日本古来の地名が凝縮されているのが近畿の特色といえるだろう。

 古代の地名の中で、いまだ、語源の明らかでないものを本書で剛上げており、かなり進展した解釈もあると考えている。「伊勢・滋賀・丹波・但馬・播磨・飾磨(しかま)」などがその代表である。また、東日本には、近世以後の地名が多いのに対して、近畿では、古代・中世の地名が、そのまま現在の地名として残存しているものが多いのも特色である。ことに、奈良盆地・京都盆地・近江盆地・伊勢平野.播磨平野のあたりは、こうした地名の宝庫でもある。このように、近畿の地名は、古代・中世・近世・近代にいたるまで、日本の地名成立の原点を包含したものであって、地名研究の基本が近畿にあるといってよい。

■中国・四国の地名

 中国・四国地方の地名は、基本的には近畿地方の地名と同じ流れを受け継ぐものである。しかし部分的には、方言的地名もあって、中国地方で、「とうげ(峠)」を「タオ」と呼んだり、徳島県では、開拓地名と思われる「キライ」という地名がいくつかある。古代の地名で著しいのは、大化前代の部民制の地名であって、「物部・服部・鳥取部・日置部・賀茂部・曽我部・綾部」といった地名が、近畿地方以上に濃厚に残存していることである。ことに吉備地方において顕著に現れている。また、方言とはいえかが、「かわ(川)」を「コウ」と発音し、「河野(こうの)・川立(こうだち)」といった具合の地名がけっこうみられる。

吉備における部民を古代の文献や木簡に現れる氏姓を調べると、部民の中核御名代(みなしろ)は、健部(たけるべ)・伊福部(いふきべ)・宇治部(うじべ)・額田部(ぬかたべ)・日下部(くさかべ)・矢田部(やたべ)・丹比部(たじひべ)・刑部(おさかべ)・軽部(かるべ)・白髪部(しらかべ)・石上部(いそのかみべ)・小長谷部(おはつせべ)・私部(きさいべ)・壬生部(みぶべ)がある。これらの部は5~6世紀の大王ごとに設置され、御名代として大王の宮廷に奉仕した。

 この地域で難解なのは、古代の国郡名である。「吉備」をキビという穀物名にすること、「出雲」雲の出る国とすることなどは疑問視せざるを得ない。また、国名の「伯耆(ほうき)・周防(すおう)・讃岐・伊予・安芸(あき)」や、郡名の「意宇(おう)・香川・宇和・阿武・世羅(せら)三次(みよし)」などについても、本文でそれなりの解釈をしてみたが、なかなか難しいところである。

 一部に難解な地名があるものの、全体としては古語に忠実な地名が多く、東日本にみられるような奇怪な音の地名はあまりみられない。また、『出雲風土記』が残存している関係から、古代の地名は近畿地方に次いで多くみられる。これら古代地名は、出雲地方を中心に残存率が高く、地名研究に重要な手がかりを与えてくれている。さらに言ぇば、中国と四国の地名を比較してみても、ほとんど同質の地名が多いということである。

▶︎九州・沖縄の地名

 九州地方には、部分的に特色ある地名がみられる。まず、壱岐島には「触(フレ)」という地名が集中している。これは一区画の単位として用いられたようで、長崎県北部にみられる「免(メン)」と同様に、小村に多くみられる。また、九州各地に多いのは、「ハル」といぅ地名で、これには「原」を「ハル」という場合と、「墾(ハル)」という開墾地名を指す場合があると思われる。この他、「牟田」という地名も九州が中心で、おそらく「浮田(うきた)」の「ウタ」が変化して「ムタ」となり、湿地の意と解されている。さらに、有明海の干拓地には、「カラミ・コモリ」といった独自の地名もみられる。

 九州で特に注目される地名は、『魂志』倭人伝にみえる「対馬・壱岐・松浦(まつら)・那」などの、日本最古の地名が残存していることであろぅ。また、古代において、北九州から南九州へ地名の移動があったことが『和名抄』によって知られる。

 沖縄県に目やると、12世紀より興った「古琉球」から歴史ひもとかれるが、地名としては、16世紀頃『おもろさうし』にままってみえる。軸の言葉は、基本的には日本語であるが、長年の独自性から、かなり音義した言語となっており、別の人ですら地各意味がわからないものが多い。琉球の地名とは、鹿児島県の奄美大島より南の琉球列島のものを指すが、本書でもいくっかの地名を即しげている。現地の解釈を参考にしをがら、筆者の考えを含めた地名論となっているので、この点を承知されたい。