馬飼集団の謎

■馬飼集団の謎

平林章仁

▶︎蘇我氏を称(たた)えた、推古天皇の歌

 蘇我氏に関する先行研究は数多く蓄積されているが、これまでほとんど触れられてこなかったのが、馬・馬飼(うまかい)集団との関係である。馬・馬飼関係の文化を「馬匹(ばひつ)文化」と称するが、これらを通して、蘇我氏の真の姿に迫っていく。その最初の手がかりは、推古天皇紀20(612年)正月丁亥(ていがい・七日)条であるが、この日の宴で大臣(おおみ)蘇我馬子は、天皇に觴(さかずき・酒杯)とともに次の歌を献上したという。

やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十蔭 出で立たす 御空を見れば 万代に斯(か)くしもがも 千代にも斯くしもがも畏(かしみ) 仕(つか)え奉(まつ)らん 拝(おろが)みて 仕えまつらん 歌献(うたづ)きまつる

 推古天皇小墾田宮(現・奈良県高市郡明日香村の北部)が末永く立派なことを称(たた)え、そこに忠勤する決意を表明した内容である。それに応えた推古天皇は、次の歌を返したという。

真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀の 諾(うべ)し 蘇我の子らを 大君の 使わすらしき 

 蘇我氏の人は、馬なら有名な日向の駒(譬武伽能古摩・ひむかのこま・宮崎県)、太刀なら有名な呉国(中田南朝)の刀にたとえられるほど優れているので、大君がお使いになるのはもっともなことである、と蘇我氏を褒め称えた内容である。

 正月7日・人日(じんじつ)の宴は、中国南朝・梁(502〜557年)宗懍(そうりん)が湖北・湖南省地域の民間の年中行事を撰録した『楚歳時記』にも記される、古代中国の正月儀礼である。この日、綵(いろきぬ)や金箔を人の形に剪(き)った人勝(にんしょう)を作り、屏風に貼り、前髪に飾った。

 人勝は、災厄を払う際に用いる人形の起源とみられるが、この日に七種菜羹(ななくさがゆ)を食して新年を祝した(中村喬1990、中村裕一2009)。

 ここでは、それが君臣の秩序を確認する政治的な意味を持った儀礼として催されているが、推古朝における宮廷儀礼の整備は遣隋使の派遣と連動し(鈴木2011)、のちには宮廷の年中行事としても定着する。

 これまでは、この歌謡の歴史的意味や内容など、ほとんど顧みられることがなかつたが、古代の馬匹文化に関連する呪術宗教的な信仰もあわせて、みていこう。


騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論(きばみんぞくにほんせいふくろん)ともいう。東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説である。この学説は、学会では多くの疑問が出され俗説とされており[4]支持する専門家は少数である。なお、この説の批判者は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している


4世紀後半以降、つまり倭国にヤマト政権が生まれ、古墳時代中期を迎えようとしていたころ、東アジア情勢に大きな動きが現れた。高句麗の南進による朝鮮半島の緊張である。そうした政治情勢が、倭人社会に馬匹文化を導入させることになった。その狙いは「鉄の確保」であった。

古墳時代に入って、社会の経済基盤は弥生時代以来の水田稲作農耕がさらに深化し、鉄の確保が、社会が次の政治経済ステップへ飛躍する鍵を握っていた。しかし倭人たちはまだ鉄の生産技術を持たず、朝鮮半島からの「輸入」に頼るしかなかった。すなわち半島からの鉄輸入ルートの確保は、当時のヤマト政権にとって最重要課題であったのである。

その朝鮮半島では、高句麗の南下により百済や加耶の諸国は国家存亡の危機を迎えていた。このため百済や加耶諸国は、倭国を味方に引き入れようとし、鉄資源の確保という利害で一致する倭国がこれと結び、ともに高句麗と戦ったことは、好太王碑の碑文に記録されている。

高句麗の力の源泉は騎馬軍団であった。この勢力に対抗するためには、大量の馬匹と馬具を生産する必要がある。倭人たちは百済や加耶の援助を受け、列島各地に大規模な生産基地=牧を設置していった。それに伴い馬匹や馬具の生産技術を持った人々が、大量に半島から渡来、移住させられていった。

それを裏付けるものは古墳の副葬品である。古墳時代前期の古墳には馬具の副葬が全く見られない。ところが中期の5世紀になると、馬具は、むしろほとんどの古墳に副葬されるようになる。さらにこの時代の古墳周濠内などから、犠牲馬の埋葬が多く見つかっている。渡来技術集団の風習であろう。

さらに6世紀の集落遺構(群馬県・黒井峰遺跡)からは、家畜小屋と推定される遺構が発見されており、このころには牛馬による耕作が広範に行われるようになっていたことが知れる。「鉄の安定確保」という狙いから始まった列島における馬匹生産は、木工、皮革、金属工芸といった総合的な技術を伴い、日本列島の文明化をスタートさせるという結果にもなった。

その引き金は、高句麗の南進による東アジアの国際情勢の緊迫化によるものであったが、倭人社会がすでに、渡来技術陣を受け入れ、それを咀嚼して自らの新しい文化としていくだけの成熟度に達していたことも指摘できるのである。


▶︎馬匹文化の先進地域・九州

 倭国には本来、馬・牛はおらず、それらは4世紀後半から5世紀初頭頃に、大陸から導入した先進文化の一つであった。馬・牛は繁殖・飼育・調教しなければ、有効な利用は困難であり、専門的な知識・技術を必要とした。それに関わり、応神天皇紀15年8月丁卯(ていぼう)条には、次のようにある。

百済王、阿直岐(あちき)を遣(まだ)して、良馬二匹をを貢(たてまつ)る。即ち軽(かる)の坂上(さかのうえ)の厩(うまや)に養(か)しむ。因(よ)りて阿直岐を以って掌(つかさど)り飼(か)わしむ。故(かれ)、其の馬養いし処を号(なづ)けて、厩坂(うまやさか)と曰(い)う。阿直岐、亦能く経典を読めり。即ち太子菟道稚郎子(ひつぎのみこうじのわきいらつこ)、師(みふみよみ)としたまう。阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖(はじめのおやなり)なり。

 同じく、左の応神天皇記も百済から導入したと伝える。

百済国主照古王牡馬萱疋、牝馬萱疋を、阿知吉師に付けて貢上りき。(些 阿知吉師は、阿直史等の祖。)亦横刀大鏡を真上りき。

 阿直伎(阿直岐)と阿知吉師は同じ人物、阿直岐史と阿直史は同じであり、軽の坂上の坂(うまやさか)は、現在の奈良県橿原市大軽町近辺にあてられる。阿知吉師の「吉師」は、新羅では官位17等の第14「吉士」にも取り入れられる、古代韓国語に由来ヰる敬称であり、この人物と後裔氏族の名は「アチ」もしくは「アチキ」となる。「日向の駒(ひゅうかのこま)」について述べる前に、まず日向地域の馬匹文化について説明しよう。

 延長5(927)年に成立した律令の施行細則『延書式』によると、朝廷に必要な馬牛を飼育・調教する牧(牧場)には、馬寮(左馬寮と右馬寮)管轄の「御牧(みまき)」と兵部省管轄の「国馬牛牧(しょこくめごのまき)」などがあった。前者は甲斐(現・山梨県)・武蔵(現・埼玉県、東京都、神奈川県の一部)・信濃(現・長野県)・上野(現・群馬県)など東国「多く、後者は東西の18ヶ国に39牧が散在していた。

 日向国(現・宮崎県)には野波野馬牧・堤野馬牧・都濃野馬牧・野波野牛牧・長駆牛牧・三原野牛牧がみえ、牧数は「諸国馬牛牧(しょこくめごのまき)」所在国のなかで肥前国(現・佐賀県、長崎県)と並んでもっとも多く、かつその半数が牛牧であるのも共通する。

 このうち、都濃野馬牧は児湯(こゆ)郡都野郷(現・宮崎県児湯郡都農(つの)町)、長野牛牧は児過郡三納郷(現・同県西都(さいと)市三納・みのう)もしくは那珂郡於部郷(現・同県児湯郡高鍋(たかなべ)町か)、酎波野馬牛牧堤野馬牧は諸県(もろかた)郡(現・同県小林市)など、律令制下の諸県都から児湯都の地域に比定されている(北郷2007)。ただし、野波野牧の諸県地域比定を疑問とする説もあり(柴田2008)、なお確定的ではない

 いずれにしても、多くの「諸国馬牛牧」の設置は、火山裾野に広大な草原の広がる日向国で馬牛の飼養が早くからさかんであり、推古天皇の歌謡にみえる駿馬「日向の駒」が文学的な虚像でなかったことを示している。

 さらに、それが児湯郡・諸県郡・那珂郡と日向国南部に集中することから、5世紀代に当該地域で権勢を誇り、仁徳天皇に髪長姫(かみながひめ)を入内させたと伝える日向諸県君(ひゅうがもろかたのきみ)氏が、その馬牛飼育集団と無縁であったとは考えられない。

 大陸に近い九州に逸早く馬・牛の文化が定着したのは当然であるが、継体天皇紀6(512)年4月丙寅(へいいん)条には「筑紫国の馬40匹」を百済に賜るとある。倭国は、かつては馬匹文化を導入した先進国・百済に、六世紀初頭には「筑紫国の馬40匹」を供与できるほどになっていたのである。この場合の筑紫国(福岡県全体)は、牧が肥前国(岡山県)や日向国(宮崎県)に集中分布することからみて、のちの筑前国(福岡県西)・筑後国(現・福岡県東)地域ではなく、九州全域を指していると解される。

 同じく欽明天皇紀7(546)年正月丙午(へいご)条の百済に供与した「良馬70匹」、さらに欽明天皇紀15年正月丙申(へいしん)条の「馬100匹」なども、九州産の馬であった可能性が高く、6世紀の九州地域は馬匹(ばひつ)文化の先進地であった

▶︎日向国への集中

 次に、日向国地域の考古学上の知見を紹介しよう。奈良時代以前の日向国は広大で、大宝二(702)年に唱更国(しょうこうこく・和銅2年6月丑・きちゅう・以前に薩摩国と変更)、和銅6(712)年に大隅国が分立する前は、両国とも領域であほかたくにとみ むつのばる

 馬匹(ばひつ)文化は、現在の宮崎県南部地域に顕著だが、同県東諸県(ひがしもろかた)郡国富(くにとみ)町の六野原(むつのばる)8号地下式横穴墓の北20mに位置する5世紀中頃の土壙(どこう)から馬の顎骨(がくこつ)が、同県えびの市久見迫(くみざこ)遺跡の地下式横穴墓に近接する6世紀前半から中頃の土壙から馬の頭骨が出土し、馬の犠牲(いけにえ)祭儀もしくは被葬者とともに葬った殉葬(じゅんそう)として注目される(桃崎1993)。

 早くも5世紀中頃には、先進文化である馬の飼育が行なわれていたことは驚きである。古墳時代の馬具が出土した墳墓は南九州では宮崎県が中心であり、2004年度までに馬具が出土した古代墳墓は71例を数える。そのうちの81例が西都市と児湯郡地域、25例が都城(みやこのじょう)市、えびの市・諸県郡地域に集中するが、特に後者はすべて隼人(はやと)との関係が想定される地下式横穴墓であり、この墓制と馬匹文化の強い結びつがうかがわれる。

隼人・・・古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じとする説、熊襲の後裔を隼人とする説(系譜的というよりその独特の文化を継承した部族)、「熊」と「襲」を、隼人の阿多」や「大隅」のように九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する総称と解する説などがある

 いっぽう、古墳から出土の妄例はかつての児湯(こゆ)郡に多いが、東諸県(ひがしもろかた)国富町の」六野原10号地下式横穴墓出土Ⅹ字形環状鏡板付轡(いたつきくつわ)は、宮崎県内最古の馬具と目され、朝鮮半島南部の加耶地域に特有の形式である。宮崎市の下北方(しもきたかた)5号地下式横穴墓出土の鐙(あぶみ)加耶・百済系の様式で、上の二例は5世紀代のものという(柴田2008)。ちなみに、とは馬の口に噛ませ手綱(たづな)をつける馬具であり、は人間が足をかけ踏ん張るための馬具である。

 これらは、熊襲(熊=肥後の球磨川流域、襲=大隅半島曾於地域)や隼人(大隅.阿多・薩摩)が住む僻遠(へきえん)の地という中央的認識に反し、早くに先進文物を導入していた南部九州の特色を示すものである。

 さらに、馬を埋葬した遺構が、宮崎市山崎町の山崎下ノ原(しものはる)第1遺跡(砂丘列上に6世紀〜7世紀前半の馬埋葬土壙6基)、山崎上ノ原(かみのはる)第2遺跡(5世紀後半〜7世中葉の遺跡で6世紀後半を盛期とするが、竪穴住居58、土壌墓4基、鉄滓(てっさい)、鞴(ふいご)羽口、鍛造剥片など鉄器生産遺物、竪穴住居理土中から馬歯土7カ所)、児湯(こゆ)郡新富町の祇園原古墳群(前方後円墳14基、円墳178基、円墳の周濠(しゅうごう)および付近で10基の馬埋遺構)などからも出土している。これらは、5世紀から日向地域に、馬匹(ばひつ)文化が定着していたことを語っている。

 これらを参酌(さんしゃく)すれば、日向国南部地域隼人らの間に、これまでの予想よりも早くに馬匹文化が定着していたことは確かである。馬匹文化などの先進文物の導入をめぐり、日向国地域と朝鮮半島南部の百済や加耶との、積極的な交流も想定される。

 「日本三代実録」貞観2(860)年10月8日甲申条には、「大隅国吉多(よしだ)・野神(のかみ)二枚を廃す。馬多(あま)た蕃息(はんそく)して百姓の作業を害するに縁(よ)る」とある。9世紀中頃でも、大隅国吉多・野神(現・鹿児島県姶良市・あいら)では、近隣の農民と利害が対立して牧を廃止しなければならないほど、多くの馬が飼育されていた。

▶︎大和国と日向国の興味深い符合

 海女(海洋民)的文化要素が濃厚である日向国南部の人々や隼人の間に、どのよにして馬匹(ばひつ)文化が定着したかは、いまだ明瞭でない。『備前国風土記』松浦郡値嘉郷条は、値嘉嶋〈ちかのしま・現・長崎県五島列島)の白(あ)水郎(ま)(海人)の特色について、次のように記している。

彼の白水邸は、馬・牛に富めり。・・此の鴫の白水郎は、容貌、隼人に似て、恒に騎射(うまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。

 右の所伝から、隼人が馬・牛を飼育し、騎馬・騎射に巧みな集団として知られていたことがわかる。古代の海人が、馬匹文化を保有していたことも興味深いが、大陸産の馬が船に載せてもたらされたことを思えば、当然であろう。

 日向国南部地域や隼人と馬匹文化、および王権との関係を考察する上で注目されるのが、藤原京左京七条一坊(推定・衛門府跡)から出土した、大宝元年2年を中心とする一括性の強い木簡群における、次の木簡(下端切断、裏面割愛)である(木簡学会2003)。ちなみに、隼人司(はやとし)は宮城の門を守護する衛門府の管轄下だったが、のち大同3(808)年正月に衛門府に統合され、同年七月、兵部省に移管された。

日向久湯評人◻︎(平か) 漆部佐卑支治奉牛冊 又別平群部美支□(治か)

日向久湯評(ひゅうがこゆのこおり)」は大宝令以前の表記で、以降は日向国児湯(こゆ)郡となり、国府や国分寺(上図)が置かれた日向国の中心である。930年頃に編纂された辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、児湯郡に平群郷(へぐりごう)がみえ、現在の宮崎県西都市平郡(へごおり)にあてられる。木簡の「平群部美支(へぐりべのみき)」は、この地に縁(ゆかり)の人物で、「漆部俾支(ぬりべのさひき)」が頁進した30頭の牛も、児湯部からのものである。先に触れた兵部省管下の「諸国馬牛牧(しょこくめごまき)」として、日向国には6ヶ所の牧がみえるが、その半ばが牛牧であることにも照応する。

 「平群部」は、大和国平群郡〈現・奈良県生駒市、同県生駒撃群町と斑鳩町、同県大和郡山市の南部)を本貫(ほんがん)した平群(へぐり)氏部曲かきべ・領有民)であり、平群部の分布や関連地名の存在は、平群氏と日向国地域の関係を示唆している。平群氏は元来、馬飼集団馬匹(ばひつ)文化との結びつきが強い(辰巳1994、笹川2005)。

 まず、武烈天皇即位前紀の伝える、海柘(つばきち・現・奈良県桜井市金屋の南部あたり)の巷で催された歌垣(うたがき)において、平群鮪(へぐりしび)と太子の武烈が物部麁鹿火(あらかひ)大連の娘・影媛(かげひめ)を争う物語のなかで、武烈が平群鮪の父・平群真鳥(まとり)大臣に「官馬(つかさうま・朝廷または国の所有の馬)」を求めたが、久しく進上しなかったとある。

鮪と影媛の関係を知って激昂した小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)は顔を赤くして怒り狂って帰った。そして、その晩に大伴金村を訪ねて数千の兵を集めた。金村はその兵を率いて逃げ道を塞ぎ、鮪は平城山丘陵に追いつめられて殺された。影姫はこの一部始終を目撃し、「あぁ、つらい。愛する夫(鮪)を失ってしまった」と言って気を失った。その後、金村の提案により鮪の父の真鳥も追い詰められ、謀反の計画が頓挫したと知った真鳥は呪いの言葉を呟いて自害した(生存説もある)。こうして平群氏の嫡流は滅んだ。

 平群真鳥(へぐりまとり)らが滅ぼされる原因と伝えるが、平群氏が官馬の管理に従事していたことが知られる。また、敏達天皇紀14(585)年3月丙戌(へいじゅつ)条は、物部守屋(もりや)大連と蘇我馬子宿禰による仏教崇拝抗争記事として知られるが、廃仏許可の詔を得た守屋の命を受けた有司(つかさ)は、善信(ぜんしん)ら三名の尼僧を禁錮して「海石榴市の亭(うまやたち)」鞭打ちに処したとあり、海柘榴市(つばいち)宮には王権の亭(厩・うまや)もあった。

 推古天皇16(608)年8月癸卯(きぼう)条に、額田部連比羅夫(ぬかたべむらじひらぶ)が飾り馬75匹をもつて、隋の使者裴世清(はいせいせい)の一行を海柘(つばきち・現・奈良県桜井市金屋の南部あたり)の術(ちまた)に出迎えたとあるのも、ここが水陸交通の要衝であるとともに、王権の (うまや)置かれていたことに関わる。

 平群氏は、ここ海柘に置かれた王権のと馬の管理に従事していたのである。なお、用明天皇紀元年5月条によれば、海柘には敏達天皇の大后(おおきさき)である推古額田部皇女)のき後宮(きさきのみや)海柘があったことも、この地と馬匹文化との結びつきを示している。

▶︎馬伺集団・平群氏

 葛城氏の滅亡後、平群氏は雄略朝から仁賢(にんけん)朝まで、平群真鳥(へぐりまとり)が大臣職にあったと伝えられる。その出自を伝える内宿禰(たけしうちのすくね)後裔系譜には、平群都久(へぐりのつく)宿禰の後裔として平群臣(へぐりのおみ)佐和良臣(さわらのおみ)馬御樴連(うまみくいのむらじ)がみえる。馬御樴連氏は、『新撰姓氏録』大和国皇別条に「馬工連(うまみくいのむらじ)。平群朝臣(へぐりあそん)と同じき平群木兎(つく)宿禰の後(すえ)なり」とある、馬工連と同じ氏とみられる(佐伯1982)。平群氏と馬飼集団が同祖を称していたのであるが、具体的には、次の『紀氏家牒(きしかちょう)』逸文から明らかになる。

○家牒に日わく、家は大倭国平群県平群里なり、故に称して平群木兎宿祢(つくすくね)と口曰う、是れ平群朝臣・馬工連(うまみくいのむらじら)等の祖なり。 

〇又云わく、額田早良(ぬかたさわらの)宿祢の男(こ)、額田駒宿祐、平群県に在る馬牧に駿駒を択(えら)び養(か)いて、天皇に献(たてまつ)る。勅(みことのり)して姓馬工連(うじうまみくいのむらじ)を賜い、飼を掌(つかさど)らしむ。故に其の養駒(ようく)の処を号(な)づけて生駒(いこま)と日う(又云わく、額田駒宿祢の男、□□馬工御職連)。

○紀氏家牒に日わく、平群真鳥(まとり)大臣の弟、額田早良宿祢の家は平群県額田里なり、 父氏を尋がずして二母氏二字脱か)姓額田首(ぬかたのおびと)を負(お)う。

 要するに、「平群朝臣(あそん)と馬工連(うまみくいのむらじ)は、平群木兎(つく)宿(へぐりつくのすぐり)を祖とする同族である。平群県にある馬牧で、額田早良宿禰の子の額田駒宿禰が駿駒を飼育して天皇に献上したので、馬工連の氏姓を与えられた。この馬工連氏に馬飼の事を管掌させたので、その地を生駒というようになった」という。

 また、「平群真鳥大臣の弟である額田早良(さわらの)宿禰平群県額田里(平群郡額田郷、現・奈良県大和郡山市額田部町・ぬかたべ)に住んだが、母系の氏姓である額田首を称した」と伝える。馬御樴連(うまみくいのむらじ)(馬工連)氏だけでなく、額田早良宿禰(のち早良臣民・さわらのおみ)や額田首(ぬかだのおびと)氏も、平群氏の同族であるという。さらに、これと照応する所伝が、次の『新撰姓氏録』河内国皇別条にみえる。

額田首 早良臣と同じき祖。平群木兎宿禰の後(すえ)なり。父の氏を尋がずして、母の氏の額田首(おびと)を負えり。

 右の河内国の額田首(おびと)氏本貫(ほんがん・戸籍の編成が行われた土地)は、河内都額田(ぬかた)郷(現・大阪府東大阪市額田町)で心る。平群氏系馬飼集団である額田首氏が、大和国平群都額田郷河内国河内郡額田郷の両所に本拠を有したことは、古代の馬飼集団の実態を知る上で重要である。雲て、次の仁賢天皇紀六年足歳条の、皮革技術者の渡来伝承も参考になる。

日鷹吉士、高麗より還りて、工匠須流棋・奴流棋等を献る。今大倭国山辺却 額田邑の熟皮高麗は、定其の後なり。

 彼らは、次項で述べる馬飼集団・額田都連民らから供給される、馬などの原皮(げんぴ・まだ加工していない、材料の皮)の加工を目的として招聘され、額田部村の近隣に居住した〈前沢1976)。(りょう・古代において、律と共に根本をなしたおきて)の註釈を集めた9世紀中頃成立の『令集解(りょうのしゅうげ)』大蔵省条古記にいう「狛戸(こまと)」は、その後裔である (仁藤2001)。

 このように、「額田」は馬飼(うまかい)集団・馬匹(ばひつ)文化に関係深い名辞であり、大和国平群郡額田郷と河内国河内都額田郷には、同じ平群氏系の馬匹集団・額田首(おびと)氏も集住していた。彼らは、王権に必要な馬の飼育・管理に従事し、前者は倭馬飼、後者は河内馬飼に編成された。

 法隆寺の西、奈良県生駒郡斑鳩町にある藤ノ木古墳〈6世紀後半未盗掘石棺から、象・龍・鳳凰・鬼神などを透彫りにした、澤例のない金銅製の見事な鞍金具をはじめとする、装飾用馬具などが発見されたのは、約30年も前のことである(奈良県立橿原考古学研究所1989)。これらは海外だけでなく、平群郡の馬飼集団・馬匹文化との関係についても検討が必要であろう。

▶︎額に旋毛(つむじ)を持つ額田馬(ぬかたうま)

 推古天皇紀19年5月5日条に、栗田臣細目(あわたのおみほそめ)を前部領(さきのことり)、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらぶ)を後部領(しりえのことり)として菟田野(うだの・現・奈良県宇陀市)で、滋養強壮の薬効で知られた鹿の若角(酪茸・ろくじょう)を獲(と)る薬猟(くすりがり)行なったとある。薬猟は、万葉集』巻16の3885番「乞食者詠・ほかいびとのうた」から、平群氏の本貫(ほんがん・戸籍の編成(籍)が行われた土地)である平群郡平群山でも行なわれていたことが知られる。こうした鹿猟(しかがり)は騎馬、騎射によるもので、馬飼集団の特技でもあった。

 額田都連氏の馬との関わりを明白に示しているのが、「新撰姓氏録・(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑』左京神別下爪次の所伝である。

額田部湯坐達 家宗郎の子、明立天御影命の後なり。允恭天皇の御世に、欝国に遣されて、隼人を平けて、復奏しし日に、御馬一疋を献りけるに、額に町磁の廻毛有り。天皇嘉ばせたまいて、姓を額田部と賜うなり。

 湯坐(ゆえ)は王族・貴人の子の養育やそれを担う人のことで、額田部湯坐連氏額田警女(のちの推古天皇)の養育に従事した集団である。その祖が、薩摩に派遣され、隼人を平定した際に人手した馬を允恭(いんぎょう)天皇に献上した。天皇は、馬の額(ひたい)に町形の廻毛(旋毛)があったことを喜び褒めて、額田(部)と賜姓したという。

 馬の額に町形の旋毛のあることが天皇を嘉ばせること、名馬のしるしと観念されていたのである。ただし、5世紀中頃の允恭朝に、薩摩「国」や額田「部」が存在したわけではなく、祖先の功績諸にのちの用語を遡及させて用いたものである。

 重要なのは、隼人から額に町形の旋毛のある駿駒を入手したヱと、隼人の間では良質の馬が飼育されていたことであるが、同じく大和国神別にも次のようにある。

額田部河田連 同じき神の三世孫、意富伊我都命(おおいがつのみこと)の後なり。允恭天皇の御世に、額田馬を献りけるに、天皇、勅(みことのり)したまわく、此の馬、額は田町如(な)せりと。仍(よ)りて姓を額田連と賜いき

 氏名(うじな)の河田は皮革工人(カワタクミ)のことであるが、ここでも允恭天皇に、額に「田町如」すという特徴のある「額田馬」を進上したので、額田連を賜姓されたと伝える。「額は田町如せり」は、「額に町形の廻毛の有り」とあることと同じ内容を指している。額田馬は隼人から入手したということだが、額に「町形の廻毛」がある、「田町如」している隼人馬は駿駒として尊ばれ、「額田馬」と称されたのである。額田馬とは、隼人の飼養する駿駒であった。

 允恭天皇紀42年11月条に、天皇の死去に際して派遣された新羅王の弔問使帰国に「倭飼部(やまとのうまかいべ)」が従ったとある。倭飼部はのちの表記だが、右の額田馬貢伝承に時代を照応させることもできよう。

 6世紀には、額田部連氏らは王権から倭馬飼(やまとのうまかい)に編成されていたが、天武天皇8(679)年11月に倭馬飼部造連大使として南九州多禰嶋(たねのしま・現・鹿児島旧西之表市種子島)に派遣したことは、倭馬飼と南九州の古くからの関係の上でのこゝとも考えられる。

 右は、額田馬・額田(部)の名の由来が隼人馬と強く連関することとして、額田部(湯坐・河田)連氏により、象徴的に伝承されてきたことを示している。しかし、額田馬の旋毛については具体像が不明であることから、単なる説話として片づけらあ(田中卓1986)、あるいは事実でないとして(仁藤2001)、これまで深く追究されることはなかった。

日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、古墳時代には馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が確認される。

最近の考古学的発掘が,日本における馬産が古墳期以降に始まったことを物語っているとすれば,古墳期に朝鮮半島を経由して種々の文物を受け入れるなかで,蒙古系馬が輸入され馬産が始まったと推測する方がより合理的であろう。その場合,南西諸島の小型在来馬はもと本土より南下し,小型化したものと考えられる。ただし,この点については,遺跡から出土した馬骨の生存年代を化学的方法によって明らかにしたデータが蓄積するのを待って最終的判断を下すべきである。

 しかし、日向(ひゅうが・ひむか)が馬の産地であったことや、古代における馬の重要さを思えば、説話として見過ごすことはできない。なかでも、額に町形・旋毛のあることが天皇に献上されるに相応しい名馬とされる理由なら、そのことに重い意味があったとみなくてはならない。

 隼人馬の額の特徴「額田馬」「額田(部)」の名の由来であり、それが額の「町形の廻毛」「田町」にあるならば、その実態と意味を明らかにする必要があろう。それには額田・町形(田町)を具体的に示す必要があるが、やや複雑な手続きが必要なため、次章で述べよう。

▶︎鳥伺集団・河内馬瀬

 平群氏と額田部連氏の関係については、馬に関する職務期間の前後関係で理解する向きもある(森公章2001)。

 ただし、平群氏の本貫(ほんがん)・大和国平群郡に額田部連氏の本貫・額田郷があるだけでなく、日向国児湯郡平群郷や筑前国早良郡にも平群郷・額田郷・早良郷が分布することなどを考えれば、平群氏や同族の早良(佐和艮)氏・額田首(おびと)氏、額田部連氏らは、王権内の馬飼集団として連携して行動していたと解される。

 また、平群氏や額田都連氏ら王権膝下の馬飼集団が、日向諸県君氏や隼人らと島匹文化を介して緊密な関係にあったこともまちがいない。

 ややのちの史料であるが、天武天皇紀朱鳥元(六八六)年九月丙寅条に、「次に☆隅・阿多隼人、及び倭・河内馬飼部造、各 課 る」とある。九月九日に天讃天皇が亡くなり、二十九日に大隅・阿多隼人と倭・河内馬飼部造が預宮でそろっで諌をしているのも、偶然のこととは思われない。

 倭・河内馬飼とは、単に倭国(大和国、現・奈良県)や河内国(現・大阪府の東部)に住んでいる馬飼集団ということではない。王権に必要な馬を供給する目的で、王旛によって組織され、その基盤地域である倭・河内に配置された馬飼集団のことである。

 「日向の駒」と河内馬飼について考える際に、河内日下(草香、現・大阪府東大阪市日下町) の歴史地理的背景が示唆となる。

 日下の地域は、日向諸県君氏を核とする日向・隼人系集団の一大移住地であり、諸県君氏から出た慧媛と仁徳天皇の間に生まれた大日↑王・若日↑王の居住に象徴される、日向系女性らが天皇との間にもうけた王族「朝郎王家」の拠地でもあったことは、先著にも述べた季林二〇一五a)。

 また、日向を発して東遷してきた神武天皇が、大和へ入ろうとした際の、早での戦も参考になる。神武天皇即位前紅から関連する所伝を摘記しょう。

①宗っ期のを郵享、警り献腎碗く。碗して其の路狭く唆しくして、人並 み行くこと得ず。哺ち幣て部に東掛部を賢て、中洲に入らんと欲す。

②時に長髄彦…‥・鵬ち句に郵芸兵を起して、徹りて、孔舎衛坂にして、与に 会い戦う。

③「今や蹴れは知新の誕にして、日に郎いて郎を警は、舶載厳に労り。.⊥とのたまう。…:・那りて郡部に至りて、郎を撃て雄話したまう。:▲ 因りて改めて其の津を朝けて緊と称ぇ今髪結㍑紺誰れるなり。よ 

④郡め孔舎衛の戦に、人有りて大差る緋に隠れて、難に免るること得たり。仇第三章 馬飼集団の謎 りて其の樹を指して日わく、「恩、母の如し」という。時人、因りて其の地象  号けて、母木邑と日う。

 もちろん、物語の史実性を追究することは困難であるが、ここでの問題は、各傍線部の「胆駒山(生駒山)」「孔舎衛坂(日下江坂)」「草香津(日下津)」「母木邑」の地坪的位置である。

 母木邑は日下(現・大阪府東大阪市日下町)の南約二キロメートルに位置する河内国 とよ,つら河内郡豊浦郷(現・同府東大阪市豊浦町)に求められる。ここは、継体天皇紀二十四(五三〇)年九月粂に、わが国と関係の深い朝鮮半島南部の任那の復興に派遣された近江竜野臣の従者とみえる、河内母樹馬飼首御狩(同二十三年四月条には河内馬飼首御狩) の拠地である。

 さらに、日下と豊浦郷の間に位置するのが河内郡額田郷(現・大阪府東大阪市額田町)であるが、ここは先に述べた平群氏同族の馬飼集団・額田首氏の本貫である。日下を含む河内郡(現・同府東大阪市の東半部、同府八尾市の一部)から北接する讃良郡(現・同府四係畷市、同府大東市、同府寝屋川市の南東部)一帯は、河内馬飼の拠地として周知されている(佐伯一九七四、野島一九八四、森公章二〇〇一、大阪府立狭山池博物館二〇一六)。


▶︎遺跡から出土する馬具の数々

 河内馬飼が史料にはじめてみえるのは、履中天皇紀五年九月壬黄条の、天皇の淡扱島での狩猟に従事したという「河内飼部」であるが、孤立的で具体性に欠ける。 確実なそれは、継体天皇紀元年正月丙黄条の、即位前から継体天皇と親交があっぁという河内馬飼首荒籠である。このことは、五世紀代には、この地域に馬飼集団爪定着があったことを示している。 なかでも、讃艮郡は河内馬飼の本拠として知られ、天武天皇紀十二(六八三)年⊥月条の婆羅羅馬飼造氏・菟馬飼造氏、平安時代はじめ成立の最古の説碧冒本霊異記』中巻四十一縁の更荒郡馬甘里、「讃良郡鵬釦、耶椚索掛耶齢麻酔馬七打得四至ハ十」と墨書された天平十八(七四六)年の木簡など、関連史料は多い。烹ぅち、大阪府東大阪市日下町の北約四〜五キロメートルに位置し、近年とみに古慧代の馬の骨や菌の出土集中域として知られる四傑畷市域の状況の一端を紹介しよう。 蔀屋北遺跡からは、古墳時代中期の埋葬された馬の全骨格(体高約一二四センチメートル〉、鉄製磯部の表軒の攣頁黒漆塗りの木製の軍馬飼の必需碧ぁる塩を供給した射撃器約言00個、海人との関係を示唆する井戸枠に転用した準構造の船底、渡来系集団との関係を示す陶質や韓式系土器などが検出されている。 中野遺跡からは、古墳時代中期の井戸内の堆積層から板材の上に載せた馬の頭骨が出土、頭骨の上には石と土器が置かれ、馬の頭部を用いた井戸(水神)祭祀を示している。他の場所からも、焼けた木と馬の下顎骨、製塩土器のほか陶質や韓式系の土器が出土している。奈良井遺跡からは、古墳時代中期の一辺四〇メートルの方形台状地形を囲う清から七頭分の馬の頭骨が出土したが、馬を犠牲に用いた祭祀遺構である。一体は板に載せられた状態で全骨格が検出されたが、体高は約一二〇センチメートルであった。馬の飼育道具である睨と翠三六個の瀧郁鄭印ポ入り卸獣胡郵陶質嘉や韓式至