モエレ沼公園計画-1

■イサム・ノグチとは

酒井忠康

 イサム・ノグチの人と作品は、今後、その魅力と謎を深めて、この不世出(めったに世に現れないほど、すぐれていること)の彫刻家の存在をいっそう輝かしいものとするのではないかと思う。そして、いくども語り継がれることになるのに違いない。それは単に現代彫刻の世界に、新しい地平をひらいた作家としてだけではなく、混迷の度を深める現代社会との関連についても、ノグチの残した仕事には、私たちが考えるに値するさまざまな問いかけと、創造的な展望をあたえてくれるヒントが隠されているからである。何かと暗示的なのは、芸術の領域に深くかかわっているためだといっていい。またノグチは、役に立つということを彫刻の仕事の第一に置いたわけではないけれども、芸術の効用ということを関心の外に置くことはなかった。だから椅子でもテーブルでも、あるいは「あかり」でもそうであるように、暮らしとむすびついた家具のデザインに、ひといちばい情熱をかたむけたのだと思う。


 彫刻のある空間、あるいは空間のなかの彫刻・・・ということを絶えず気にかけていたノグチは、空間を秩序づけ、活気づけて、空間に新しい意味を付与するのが、即ち彫刻家の役目なのだ、と語っている。けれども、空間というのは、それ自体何かを生み出すものではない。空間を生きたかたちにするには、空間のなかに「変化」を内在させなければならない。こどもたちのために・・・と考えて、ノグチが意欲的に制作に打ち込んだ遊具の数々も、つまるところは、この「変化」のこころみのひとつというふうに解釈できる。

 庭園やプレイ・グラウンドヘの関心にしても、こどもたちの遊びが「変化」を演出する、その予期せぬ「発見」に、ノグチは大いに惹かれるところがあったからであろうし、そうした場はまた、空間と時間についてのノグチの考え方を保証するものとなった。マーサ・グラハムと組んだ数々の舞台美術の仕事にしてもそうである。

 ノグチにとっては、単なる一場の舞台としてのとらえ方ではなく、それぞれ異質なものが、瞬時にまた同時に生起する場としての舞台であった。それは個々の彫刻作品の場合にも想定されることだが、ノグチにとっては、結局、環境的な要素に集約されるさまざまな仕事の隠喩となっていた。こうしたノグチの彫刻に対するアプローチが、彼の彫刻をオブジェとしての創意工夫と同時に(あるいはそれ以上に)、空間についての思索の運動とむすびついた展開=環境的な作品へとノグチを誘導するところとなったのである。当然といえば当然のことだったかもしれない。

 たしかにノグチは空間に遊ぶ造形の詩人といえる彫刻家であった。が、しかし、それを裏づける科学者の一面をもちあわせていて、彼の想像力はその意味で包括的であった。したがって、あらゆる表現領域の垣根もらくらくと超えていった。親友のバックミンスター・フラーは、そうしたノグチについて、ノグチを「宇宙時代の芸術家の原型」であったといい、「どこに在ってもつねに世界をわが家とする、生まれながらの性分」であり、しかも「彼の着想が具体的に展開していく陣容と並外れた幅の広さは、ノグチが現代において比類ない、包括的な芸術家であることを証明している」と書いている。

 これはノグチの自伝『ある彫刻家の世界』(小倉忠夫訳、美術出版社、1969年)序文の一節である。このようにフラーにいわせたノグチの、この「比類ない、包括的な芸術家」の一面をもっともよく示しているのが、ランドスケープ・プロジェクトであった。しかし、多くは模型でしか残されていない。つまり、実現されなかったからである。なかでも建築家ルイス・カーンと共同したニューヨークのリヴアーサイド・ドライヴ公園計画(1961−66年)などは、その実現されなかったものの代表的なプロジェクトであった。しかし、モエレ沼公園の設計にみごとに生かしたノグチの、その構想の持続的な展開は、まさに驚異にあたいするといっていい。

 ノグチの手にかかると、まるで魔法の杖のひとふりで摩詞不思議な世界が出現する・・・といったような、時空を隔てた世界が一瞬にして関係をもってしまうことがある。モエレ沼公園のプレイ・マウンテンの石積みの斜面と、マチュピチュ(ペルー)の“アンデネス”と呼ばれる段々畑とが遥かに遠くつながっているけれども違和感がない。その中心にノグチがいるからであろう。両手を前方に伸ばして、インカの石造の聖地を滑るノグチの写真(弟、野口ミチオ撮影)を、私はみたことがあるが、そのノグチの楽しそうなしぐさがまた、ヴェネツィア・ビエンナーレのときに(1986年)、アメリカ館前庭に設置された白い大理石の滑り台「スライド・マントラ」の上に立っているノグチの写真(安斎垂男撮影)とむすびつくから不思議である。

 暮らしに関連したノグチの仕事は、どれをとっても創造的な答えをもとめる人には、たまらない魅力に富んだものと映るはずである。彫刻の思想を軸に大胆なかたちで展開した、まさにイサム・ノグチの作品となっているからである。ノグチの仕事の多彩さとユニークさは独特である。アイディアのいっばい詰まった「玉手箱」にも例えられるかもしれない。言い方を別にすれば、ノグチは彫刻の「百科事典」を生きたような彫刻家でもあった。しかし、その反面(これは逆説的な言い方になるかもしれないが)、イサム・ノグチの「個」としての自分の顔は、徐々に後退していくこととなるのではないかと私は思う。なぜなら、この彫刻家の望むところは、要するに一種の「匿名性」の獲得にあったといってもいいからである。「ブラック・スライド・マントラ」が、1992年、札幌の大通公園に設置された。

 これは黒い御影石の滑り台だが、じつはイタリア産の白い大理石の「スライド・マントラ」(1980年)という作品がもうひとつある。その作品はアメリカ、フロリダ州マイアミ、ベイフロント・パークに設置されていて、いわば兄弟(姉妹)のような作品なのだが、冬の景色を想像して、ノグチは札幌のものは黒い御影石でサイズも大きくした・・・と聞いていた。が、そうしたことはともかくとして、このいずれの滑り台も「こどもたちのお尻が作品を完成させる」といっていたという、ノグチのコメントに私は感心した。「こどもたちのお尻が」といっているところに、私は彫刻芸術の起源となる「触覚」の効用を考えることにもなった。なかなかに暗示的な指摘だと受け取った。彼の作品は第三者が体で感じたくなる、妙に触覚的な性質を蔵しているのは事実で、突き放して眺める鑑賞用の作品というより(ちょっと哲学的な雰囲気もあるけれども)、とにかく身近に感じてほしいという、どこか懐かしさを誘うかたちと肌触りをもっている。しかし「100年はかかるだろう」という酒落に、私はノグチの望む「匿名性」の一端をかいまみる思いがした。

 ここで想起するのは、昨年、生誕100年記念で開催された「イサム・ノグチ、ランドスケープヘの旅」展である。これはボーリンゲン基金によって(1949年から8年間)、「レジャー(余暇)環境の研究について」という論文をまとめる目的で旅したノグチのユーラシア遺跡探訪である。ドウス昌代著『イサム・ノグチ・・・宿命の越境者』(講談社、2000年)によれば、基金への申請書の書き出しは以下のごとくである。「彫刻の創造性と存在意味において、個人での所有は公共の場で人々が楽しむことに比べると意味がはるかに希薄だ。この本来の目的なくして、彫刻という手段による創造には疑問符がつく」と。時の経過にともなう「個」の消失と、遺跡に名を刻まない無数の人間の「労働」の価値に、ノグチはランドスケープへの壮大な夢を抱き、同時にまた異文化への鋭い洞察力によって、ノグチがさまざまなアイディアを獲得したことは知られている。


 「個」としての自分の顔より「匿名性」というような逆説的な言い方をしたけれども、要するにノグチは「公共の場」を仕事の契機とすることによって、「個」というものを超えようとしたのである。特に石を中心にした仕事になってからのノグチの関心は、空間というより時間の問題にもかかわってくる。そして人間の経験によってはかられる時間と、地質学的なそれとが相互に介入するようになってくる。つまり、石との対話を通じて、自然との交感が生まれ、それが「公共の場」としての都市空間や建築空間、あるいは公園などに設計された数々のプロジェクトとなって実現することとなるからである。

 他方、「地表の風」のような庭の片隅(イサム家、牟礼)に、それとないかたちで置かれた石彫がある。ノグチが生きることの意味を結晶化させた世界と映って、私などは忘れがたいものとして記憶しているが、しかし、それ自体で完結してしまいがちなこうした彫刻の考え方に、満足しないのがノグチであった。今回、はじめてイサム・ノグチ庭園美術館から移設展示される「エナジー・ヴォイド」(1971−72年)は、高さ約3.6メートル、重さ約17トンにもおよぶ巨大な作品である。


 この作品を被せるようにして展示棟を建てたといわれている。いつ訪れても、そこだけは特別な空間のような気がした。宇宙的な静けさというのか、一種、峻厳なかたちのなかに、深遠なる光景がちらつくことがあったし、そうでないときには底なしの混沌にみえたこともあった。だから私のなかでは、環境それ自体が、彫刻であるといったような「エナジー・ヴオイド」であっ。ところが、この巨大な作品が環境=場を異にする空間に展示されることになった。はたして、いかなる環境=場の創出となるのか興味津々であるが、それはまた第三者にとって、時空の変貌を知る不思議な体験ともなるはずである。                                           (美術評論家)