長谷川沼田居とは?

以前、長谷川沼田居(はせがわしょうでんきょ 1905‐1983)の生誕100年を記念する回顧展を開催されました。 足利市に生まれ、15歳で田崎草雲の弟子・牧島閑雲(かんうん)に南画を、のちに閑雲の息子・如鳩(にょきゅう)に洋画を学んだ沼田居の作品は、 日本画、水彩画、クレヨン画、さらには克明な鉛筆画と多岐にわたります。1960年頃から視力が減退し、右目に続いて左目も摘出、 全盲という苦境に立たされながらも、描くことは生きることに等しく決して筆を折ることはありませんでした。

筑波村大字県1210(現足利市)      全盲になって制作に励む頃         ひまわり(鉛筆画)            沼田居美術館入口付近      

長谷川沼田居の生涯前期(明治38年~昭和25年)

明治38年11月11日 (1905) 1歳
父長谷川定次郎・母スイの二男として、栃木県足利郡筑波村大字県1210番地(現足利市)に生まれる。

大正7年 (1918) 13歳
筑波尋常小学校を卒業。在学中は、図工には優れた才能を見せたが他の学科には興味を持たなかった。

大正9年 (1920) 15歳
漢学者、南画家牧島閑雲(田崎草雲門)の内弟子となり、四書五経・唐詩から始まり、日本画の基礎を学ぶ。

昭和6年 (1931) 26歳
下野新聞社主催、栃木県美術展に、勝光寺の竹藪を「二曲屏風」に鉛筆で描いて出品。 小杉放庵の眼にとまり受賞。小杉放庵の知遇を得て、春陽会の日本画家田中咄哉州(とっさいしゅう)の内弟子として上京。

昭和17年 (1942年) 37歳
2月、春陽会会員、高木勇次の妹花子と結婚。

昭和19年 (1944) 39歳
妻花子病没。

昭和22年 (1947) 42歳
足利市井草町足利信用金庫を会場に、初めてで最後の個展を開く。

昭和25年 (1950) 45歳
自宅で小・中学生を対象に日曜画塾を始める。 真下ミヤと結婚。ミヤ病弱のため苦労する。2年後、ミヤ没す。

後期(昭和27年~昭和58年)

昭和27年 (1952) 47歳
藤倉三四志と結婚。 両眼摘出後の沼田居先生

昭和35年 (1960) 55歳
視力の減退徐々にはじまる。

昭和36年 (1961) 56歳
足利日赤病院にて白内障手術。 続発性緑内症併発、治療続行。

昭和37年 (1962) 57歳
再入院手術。以降治療効果なし。

昭和40年 (1965) 60歳
自律神経失調症発熱、大汗の持病に、最後の日まで苦しめられる。 右眼摘出手術を受ける。

昭和48年 (1973) 68歳
左眼も摘出全盲となる。しかし、精神的、肉体的の苦痛にも筆を捨てず、点線の修練を狂気の如く続け、独自の画風書体を確立する。

昭和58年 (1983年) 78歳
8月17日、台風余波の風雨激しき早暁最後まで己の画を描き続けられたことを喜びて生涯を閉じた。

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