5.明日の神話

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 高さが5.5m、横幅が30mに及ぶ巨大壁画《明日の神話は、革命の国、メキシコの高層ホテルロビーに描かれた岡本太郎最大の絵画作品である。中央に燃える骸骨を配したこの壁画は、原水爆をモチーフにし《ヒロシマ、ナガサキ》という副題が付けられている。オテルデメヒコ

 何故、岡本太郎はメキシコという土地で《ヒロシマ、ナガサキ≫という副題を付けたこの作品を描いたのか。太郎は後にこう述べている。「私がオテル・デ・メヒコに描いた壁画は《明日の神話≫と題する、画面の中央に骸骨が炎をふいて燃えあがっている絵である。(中略)みな感動する。燃えている骸骨に、不吉とか嫌悪感を示す人は誰もいなかった。(中略)メキシコだからこそ、私もああいう絵を描いたのだが。この風土の伝統の深さをつくづくと思い知らされるのである。」(『美の世界旅行』新潮社、1982年)

 ここで、副題のテーマを知るために、少しメキシコに触れてみようと思う。メキシコはマヤ、アステカの古代文明が生まれて2万年という歴史を持つ国である。植民地支配によって、先住民のインディオと外来のスペイン文化が融合した特異な文化を形成している。その理由として、メキシコには先住民族と植民地支配との長い革命の歴史がある。古代マヤ、アステカの文明から16世紀にコルテスの征服によりスペイン領となり植民地としての長い歴史が始まる。その後、イダルゴ神父の革命や1854年の自由主義革命、特に20世紀初めのメキシコ革命は、植民地支配の独裁制に対するメキシコ国民の自由と民族の誇りをかけた戦いであった

メキシコ革命

 その事命と同時に起こった壁画運動は、革命の歴史を現代に伝え、エリート階級のみが所有する芸術を民衆に奪回させた象徴的な運動である。「壁画は趣味的な美術作品ではなく、社会にうち出すピープルの巨大なマ36ニフェストなのだ。」(「シケイロスと現代美術批判」『みづゑ』1972年8月号)という言葉の通り、太郎は革命の国メキシコで、オリンピックに集まる世界の人に向けて、日本という国が唯一誇れる象徴的な出来事を突きつけたのである。それは、世界で初めて体験したヒロシマ、ナガサキという原水爆の悲劇と、その悲劇を乗り越え現在の日本を築き上げた人間の尊厳に満ちた姿である。《明日の神話≫は、過去の殺戟の歴史を繰り返さないために、現在に生きる我々一人一人が過去をどう捉え、今をどう生きるべきかを「明日」という未来に向けて確認するための人類のマニフェストである。太郎は遠いメキシコの地で、これを世界に打ち出したのである。

メキシコ古代遺跡 太陽の暦

 この歴史的背景を受けて、特に太郎はマヤ、アステカの古代文明が伝えるピラミッドに残るイケニエの歴史や太陽の発生を伝える神話について、「イケニエは人間存在にとって根源的な課題だ。」と驚嘆している太陽と人間の関係について古代メキシコでは、全ての生命を育む太陽なしに人間の存在はあり得ず、また、人間の血無しには太陽の存在はないという相互的な考え方が存在した。太陽を生かすために人間はイケニエを捧げ、その体内から生きた心臓を取り出し、血を捧げる。そこには絶えず生と死、二つの相反するものが一つの実体として存在している。死はメキシコの人々にとって不吉で忌まわしいものではなく、生と表裏一体の存在なのである画面中央で燃えさかる骸骨は、人間存在の象徴であり、メキシコなればこそ太郎はこのモチーフを堂々と描いたのである。これが、太郎が《ヒロシマ、ナガサキ》という副題を付けた大きな一つのテーマであるようには、考えられないだろうか。

■ここで、タイトル《明日の神話》の「神話」という意味を考えてみる

 人類は、世界中のあらゆる文化において、太古に起こった伝説的な出来事、寓話、逸話に関する物語によって、世界の創世、人間の起源、宇宙のはじまりなどの由来を「神話」として説明してきた。人類学者レヴイ・ストロースは、時代と場所を隔てた世界中の「神話」に共通する相互的な影響の存在を指摘している。また、心理学者ユングは、古代より伝わる「神話」は、一見無縁とも思える現代人の深層心理に於いても、人間の生の根本にかかわる重大な意味をもち続けていると指摘する。「神話」は信仰や時代的なイデオロギー、土地々の文化の表象としてではなく、人類の持つ普遍的価値観や生命の根源的な法則を物語として伝えるものであるといえる。

 太郎自身が明言しているとおり《明日の神話》のテーマは原水爆である。つまりここで言う「神話」とは、古代より人類が繰り返してきた殺戮の歴史の中で、原水爆という忌まわしい惨劇に直面しながら、生き抜いて来た人間の姿を人類普遍の物語としているのである。その「神話」は「明日の」という「未来」につながる。そこには、「現在」が問われている

 さらに、『日本の伝統』という文化論の中で太郎は「古いものはつねに新しい時代に見かえされることによって、つまり否定的肯定(弁証法的論理)によって価値づけられる。そして伝統になる。従って伝統は過去ではなくて現在のものである。」と提言している。この言葉に従えば、過去に起こした原水爆の悲劇とそれを乗り越えて生きる人間の歴史は、現在に生きる我々がどう捉えるかによってその価値が決定するのであり、《明日の神話》は、原水爆(核兵器・原発問題)の問題に対する、現在の我々の姿勢を問うているのである。 悲劇の起こった瞬間。大音響とともに画面全体に広がる閃光と爆風。強大なエネルギーは一瞬にして全てのものを破壊し、真っ赤な炎が舞う。空には、まがまがしい表情をしたキノコ雲が幾重にもわき起こり、炎に焼かれる亡者の群れやビキニ環礁で被爆した第五福竜丸を覆う

 画面中央には、オレンジ色の炎に包まれながら身をくねらせさく裂する骸骨が描かれている。しかし、原水爆の悲劇をテーマとしながらも、画面から受ける印象は陰惨さや醜さを感じさせない。この作品は原水爆の悲劇や悲惨さを伝えるだけの絵画ではないからだ。この絵は全体で哄笑(こうしょう・どっと大声で笑うこと)している。悲劇を生んだ原爆の強烈なエネルギーに対峠するかのように、巨大なエネルギーが哄笑となって炸裂しているのである。死を象徴する骸骨が炎に焼かれてさく裂するとき、そこには新たな生が誕生する。死を否定しているのではない。忌まわしい惨劇に対し、それを乗り越えて時代を切り開く人間の逞(たくま)しいエネルギー。その尊厳に満ち溢れた姿を太郎は生命の賛歌として誇らかに歌い上げているのだ。

■明日の神話・ドキュメント

■中南米の旅

 1967年7月8日、羽田空港から12時発のKLMオランダ航空864便に乗った岡本太郎は、約2ケ月に及ぶ中南米旅行に出発した。この旅行の目的は3つあった

 一つ目の目的は、しばた映画プロダクションが製作する「新しい世界・岡本太郎の探る中南米大陸」という大掛かりな番組の海外取材のためである。これは当時、日本テレビの番組で、評論家の藤原弘達がアメリカ、ヨーロッパ、東欧を取材し世界の人間と文明を紹介した「世界に夢(ロマン)を!」という人気番組の第2弾として企画されたものである。近代文明を象徴するアメリカやヨーロッパの文化に対し、中南米の国々の自然と人間、古代と現代がぶつかりながらたくましく生きる人間とその歴史、文化を太郎が取材するというもの。訪れる国はメキシコ、コロンビア、ベネズエラ、ブラジル、エクアドル、ボリビア、アルゼンチン、ペルー、チリ、パラグアイ、ウルグアイに及ぶ大規模な取材旅行で、この記録は30分番組として毎週1回、13回に分けて放送される予定のものだった。

 二つ目の目的モントリオール万国博覧会の視察である。この時太郎は、日本万国博覧会のテーマ館のプロデューサーにならないかと打診されており、この旅行の前日に記者会見を行なったものの、実際のところ太郎はモントリオール万博を見た上でプロデューサー就任を決める予定であった。しかしこの前日の記者会見は、結果的にプロデューサー就任記者会見として、世間に受け取られたようである。ともあれ、太郎にとって二つ目の目的は、モントリオール万国博覧会を自分の目で見ることにあった。加えて、アジアではじめて開催される万国博はいかにあるべきか、そのテーマ「人類の進歩と調和」を具現化するテーマ館の方向性を確立させるためのものでもあった。

 そして、三番日の目的がメキシコオリンピックのために建設を予定している超高層ホテル「オテル・デ・メヒコ」に制作する壁画のための下見である。中南米の取材旅行以前に、このホテルのオーナーであり、メキシコの大富豪といわれたマニュエル・スワレス氏が太郎を訪ねている。スペイン人のスワレス氏は、14歳でメキシコに移住し、穀物の卸業を皮切りに、石綿のセメント会社観光開発を手掛け一代で財閥を作った実業家であり、シケイロス、タマヨ、リベラなどのメキシコを代表する芸術家のパトロンとしてメキシコの新たな芸術運動にも尽力を注いだ人物である。彼は、はじめて会う太郎にいきなり自らが建設するホテルに巨大な壁画を制作して欲しいと頼んだ。スワレス氏に太郎を紹介したのは小栗順三氏である。日系移民の

38 1967年7月8日羽田空港を出発する岡本太郎

 小栗氏もメキシコに定住してから大規模な造園業を営み、メキシコの財界でも信望を集めた人物である。造園業という性格上、建築家の丹下健三とも親しく、度々日本を訪れては丹下氏を介し岡本太郎とも交友があったという。「小粟と岡本さんは本当に気があったようです。」「二人ともエネルギッシュなところがそっくりでした。」(「明日の神話・壁画の誕生」『中国新聞』2005年1月17日)小栗氏の妻・ふじ子さんが語るように、小栗氏と太郎は相当馬が合ったらしい。小栗氏は岡本太郎の芸術性を高く評価し、スワレス氏に太郎の画集を見せて壁画の制作依頼を薦めたという。そうして三つ目の目的は組み込まれ、これが太郎の中南米旅行となっていくのである。

■メキシコ

 羽田からマニラ、アテネ、アムステルダムを経由し、パリに到着した岡本太郎はパリ時代に通ったソルポンヌ大学やミューゼ・ド・ロンム(人類学博物館)を見学する。その後、オランダを経由して12日にモントリオールに到着し16日まで万国博を視察している。次いでニューヨークを見学した後、同月の19日にメキシコシティに到着した。この時の太郎のメキシコ訪問は2度目となる。

 太郎とメキシコの出会いは、パリ時代、友人の詩人に見せられた古代メキシコのピラミッドの写真とだったという。古代メキシコでは、ピラミッドの石積みの祭壇の上で、多くの人が生贅(いけにえ)として捧げられてきた。生きながらにして内臓をえぐられ、その心臓を取り出して太陽に捧げる古代の神聖な儀式である。

「まさに、宇宙のドラマだ。このとき、私にとって、血はもの凄い実体として感動的に再現したのだ。私はそれからメキシコに強い関心をもちはじめた。」(『美の呪力』新潮社、1971年)

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 この時、メキシコ古代文化と造形に対する思いは、1956年に出版された『日本の伝統』の中で、日本の縄文土器と同じく中国の、周の銅器、メキシコのナチェン・イツアーの遺跡などを例にあげ、それらが放つ人を圧倒するほどの造形の凄みに人間の根源的感動があると評価している。1963年に初めてメキシコを訪れた際には、古代遺跡の造形や、街中に溢れるメキシコの民芸品に感動し、講演の中で「メキシコというところは、なんて怪しからん所だ。何千年も前から断りもなく、私のイミテーションを作っているなんて」と冗談を飛ばしたのも太郎らしいユーモラスな表現である。

32 今回のメキシコを中心とする中南米の取材旅行についても、「真っ青にはりつめた青空。透明な陽光のもとに、灰白色にしずまりかえる古代マヤやインカの遺跡。中南米をめぐり、その重く濃い思い出に圧倒された。激しい響きを全身に感じつづけた2ケ月間だった。」(『オリンパスフォトグラフィ』1967年11月)と、その印象を語っている。

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 メキシコシティからテオティワカンに向かった一行は太陽のピラミッド、ケツアルコアトルのピラミッド蝶々の神殿などを取材する。メキシコシティでは大学スタジアムのリベラの壁画、ラグニアの泥棒市、人類学博物館やメキシコ壁画運動の中心的な活動家シケイロスのアトリエを訪ねている

シュケイロス

 29日にはオアハカに飛び、モンテ・アルバン遺跡、翌日にはミトラ遺跡、トラルコルーラの市場などを巡った。

 太郎らの一行はその後、オアハカからサンクリストパル、パレンケ、チチェン・イツアーを巡り8月3日には、グアテマラに到着。その後もパナマ、クスコ、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブラジルと強行軍の取材を続け8月30日に再度メキシコシティに到着した。空港には小栗氏とルイス西沢が出迎えていた太郎はその足で万国博に出品する民族資料の出品交渉の為に石黒大使を訪問している翌日、スワレス氏と小栗氏に案内され、いよいよパルケ・デ・ラ・ラマ(ラマ公園)の中に建設中の、オテル・デ・メヒコの現場に到着した。

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■オテル・デ・メヒコ

 オテル・デ・メヒコの建設予定地であるパルケ・デ・ラ・ラマ(ラマ公園)はメキシコシティの中央、国立人類学博物館、近代美術館のあるチャプルテペック公園の南に位置する。すぐ近くにプラザ・デ・メヒコ(闘牛場)やアスルスタジアムがあるインスルへンテス通り沿いの公園である。マニュエル・スワレス氏は、この公園に、当時中南米では最大規模を誇る2000人を収容できる44階建ての高層ホテルをメキシコオリンピックに向けて建設中だった。

パルケ・デ・ラ・ラマ(ラマ公園)

 高さは当時、メキシコ最高の「ラテン・アメリカの塔」壷25メートル上回るもので、当時の現地通貨で2億4千万〜3僚ペソ、日本円で72億〜86億円の総工費をかけていた。

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 太郎が中南米の取材旅行で現地を訪れたときは、すでにホテルの基礎部分の工事は着工しており、ホテルの模型や詳細な図面を見せながらスワレス氏は太郎に壮大な計画の一部始終を説明した。太郎に依頼された壁画は、ホテルの1階から3階までぶち抜かれたロビーの壁面に、高さ5.5m、幅30mという大きさで配置される。その正面にはタマヨの壁画が向き合う形で配置ざれる予定である。また、スワレス氏は、ホテル正面玄関の車寄せの広場にも太郎に巨大なモニュメント(これが彫刻の《五大陸≫となる)を作って欲しいとも依頼した。すでに、ホテルの正面左側にあたる場所にはスワレス氏がシケイロスに依頼し、彼の壁画で外装と内装を埋め尽くされたスタジアム「ポリフォルム・シケイロス」がすでに建設途中であった

ポリフォルム・シケイロス

 また、広場をはさんで「ポリフォルム・シケイロス」と向かい合わせに岡本太郎の美術館を作る予定だとも言う。これほどの大規模な壁画やモニュメントの制作1967年8月30日パルケ・デ・ラ・ラマ(ラマ公園)にホテルの建設現場を訪れる。を外国人に依頼することはメキシコでは初めてのことであり、さすがの太郎もスワレス氏の意気込みには驚かされたようである。

 「壁画美術王国のメキシコで私の作品が認められたのは大変光栄だ。タマヨ氏に負けない作品を作る自信がある。スアレス氏の私にたいするほれ込みようは大変なもので、私の作品を全部買い上げるとか、メキシこ住まないかとまでいってくれた。日本とメキシコの親善のためにもがんばりたい。(『東京タイムス』1967年9月7日)

 スワレス氏は壁画のテーマについて特別な注文はしなかったが、岡太郎の画集の中で特に原爆をモチーフにした作品(恐らく1955年の《燃える人》《瞬間≫の作品)が気に入っていたようである。太郎も現場を見た瞬間、壁画の主題と全体の構想がむくむくと湧きあがっていた。9月4日、メキシコからアムステルダム空港を経由して羽田に到着した太郎は、「万国博までまだ余裕がありそうなので、引き受けた。原爆をテーマに、これから世界、人間の運命を象徴する作品を考えている。いいものを作りたい。」(『読売新聞』1967年9月7日)と、自宅で壁画への構想と意気込みを語った。

■デピット・シケイロスとの出会い

 ディアス政権の外国資本に依存した近代化政策は、白人階級やエリート層中心の経済構造を作り、インディへナ(先住民)とメスティーソ(混血)排除した。メキシコ革命は、この34年間に及ぶディアス独裁政権(1877~1911)への反発から生まれた革命である。国民はこの独裁政治体制に廃しスペインに征服される前のメキシコ文化を再評価する運動を起こした。

シュケイロス壁画

 壁画運動は、シケイロス、リベラ、オロスコらの芸術家が中心となり、立学校や市庁舎といった公共建築物の壁面に革命の意義を描いてこれを大衆に伝えた壁画は子どもでも革命の意義やメキシコの歴史を理解できるような具体的な表現がとられ、裕福な白人階級だけの所有物である芸術を、大衆の文化に帰属させる意味があった

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 シケイロスはすでにメキシコの壁画運動の中心的な存在として多く壁画を残しているが、60年に政治的活動によって投獄されることになる。シケイロスを大統領にかけあって解放し、彼の作品で「ポリフォルム・シュケイロス」というスタジアムを作ったのがマニュエル・スワレス氏である。

 メキシコシティに到着するやいなや太郎はシケイロスのアトリエを訪その時の印象を語っている。

 「アトリエではポリフォルムの仕事がもうさかんに進められているとき鉄を使ったレリーフの巨大な部分が、あっちこっちに立てかけられてい世界の各地からメキシコ、そしてシケイロスに憧れて、無条件ではせ参じてこの仕事を手伝っている若者たちがいる。中年の親方のような男の指導のもとに、行ったり来たりして働いている。たのしい組織だった。シケイロスはかなり大きな写真を貼りあわせたポリフォルムの模型の内部に私をつれ込んで説明した。モチーフの実現していく過程を得意になって見せたりする。

 彼はパリでも生活しているので、かなり流暢なフランス語を話す。雄弁家で、話に熱中してしまい、永い時間しやべりつづける。互いに情熱的に問題をぶつけあった。

 意外に話があう。メキシコ革命生きのこり、そして彪大な仕事をなしとげてしまった老巨匠だと思っていたのに。彼は商品化したパリやアメリカの美術に対する軽蔑をズケズケと語り、ピカソだってもう金で買われる芸術になってしまっている。あんなものは駄目だ、とはっきりしている。金持ちに買ってもらうために描かれた絵、銀行預金のようにしまっておくための芸術なんて、なんの意味があるか。まったく私が昔から常に発言している通りのことだ。彼の生涯をかけた闘いと、私の闘いと、状況もちがい、やり方もちがう、しかし芸術家としてとっている立場には相通ずるものがあるのだ。(「シケイロスと現代美術批判」『みづゑ』1972年8月号)

 個人の所有物となる趣味的な絵画や彫刻作品を否定し、作品を売ることを拒み、パブリックな空間に壁画や彫刻を制作することによって芸術を大衆の生活の中に解放することに情熱を燃やしてきた岡本太郎にとってシケイロスとの出会は、まさに莫逆の友を得た思いだったろう。この後も、太郎はしばしば彼のアトリエを訪ね、シケイロスもまた、来日した際に太郎のアトリエを訪れるなど、交流は続いた。

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〈明日の神話〉制作に関わる1967年の9月からは日本万国博覧会テーマ館のプロデュースともあいまって多忙さを極めた時期である。中南米の取材旅行後、テーマ館〈太陽の塔〉の原型制作を進めながら、同時にテーマ館基本構想の原案作成、現地の下見、関係者との懇談会や計画会議をこなす中、〈明日の神話〉原画の制作は猛烈な勢いで進められた。

■原画の制作

 岡本太郎は、この巨大壁画の制作の手順として、まず小さなサイズの原画を描き、徐々にスケールを拡大し最終的に細かなディテールが描写された1/3のサイズの原画を制作する予定を立てていた。これを木枠から外してメキシコに送り、その原画を元に壁画として拡大するのである。

 1967年9月8日、中南米旅行の疲れも癒えない内に、太郎はアトリエで壁画《明日の神話》のための最小原画を描き始めた。(以後、現在岡本太郎記念館が所蔵するこの縦48cm横195cmの原画を「no.1原画」と表記する。)原画は中央の骸骨部分から描きはじめられ、記録によれば、3日で完成している。太郎は壁画の原画となる油彩作品を4点描V)ているが、油彩原画のためのデッサン類は一切残っていない。太郎の作品は他の作品も同様に、完成された明確なイメージを持って制作に入る。イメージが決まるまでは簡単なスケッチを重ねる事もある。しかし、この後制作される4枚の壁画原画の構図やモチーフには大きな変更が見られない点でも、太郎の脳裏に描かれた壁画のイメージは相当な完成度であったことを伺わせる。

 9月15日にはこのNo.1原画をもとに、もう一サイズ大きな原画に取り掛かっている。(富山県立近代美術館の所蔵する縦132cm、横537cmの原画はno.2原画と表記する。)「明日の神話」富山県立近代美術館

 10月末にNo.2原画を完成させた太郎は原画制作に取掛っている。(名古屋市美術館が所蔵する縦132cm、横728cmの原画はno.3原画と表記する)原画とはいえ幅は7m以上となるため、岡本太郎はno.3原画の制作をアトリエ室内から庭に移し制作した。新聞

朝日新聞 2003年9月12日金曜日 夕刊 一面掲載記事岡本太郎の「幻」壁画発見メキシコ「明日の神話」核テーマ、35年ぶり大阪万博のシンボル

 「太陽の塔」などの制作で知られる芸術家、岡本太郎(1911~96)の作品で、30年以上も行方がわからなくなっていた幻の巨大壁画「明日の神話」がメキシコ市郊外の町で見つかった。岡本太郎記念館館長の岡本敏子さん(77)が現地を訪ね確認した。太陽の塔と同時期に制作され、「塔と対を成す」といわれる作品。

 今後、修復、保存の道を探る。(メキシコ市=中川史)約33年ぶりの感激の再会だった。「一目見て岡本の作品とわかった。本当にあった。よかった」岡本太郎の養子でもある敏子さんは5日(日本時間6日)、壁画に小走りに歩み寄り満面の笑みを浮かべた。縦約5メートル、横約33メートルのアスベスト製の壁画に描かれたもので、岡本の壁画では最大の作品だ。モチーフは「核に焼かれる人間」。中央に炎を上げて燃え上がる骸骨があり、キノコ雲や米国の水爆実験で被爆した第五福竜丸をイメージした船も描かれている。メキシコでは完成当時「広島と長崎」という副題が付いていたという。原色を使った大胆な色彩、構図はおなじみの岡本作品そのものだ。

 メキシコ市の実業家の依頼を受けた岡本が、68~69年にかけ約30回にわたって現地のアトリエを訪れ、制作した。完成後7枚に分割、同市内に建設中だった火照るのロビーに設置されたが、ホテルは開業前の70年前後に倒産。岡本のサインが書き込まれないまま、行方不明になっていた。敏子さんや美術関係者は長年、「その後」の追跡調査を続けてきた。壁画は当初、ホテルのロビーにあたる場所でベニヤ板などに覆われた状態で長く放置された。92年に大手建設会社が建物を改修した際、壁画は同社の倉庫を転々とした。

 今回、新たに建設会社の倉庫に保存されているとの情報があり、敏子さんが訪問。7枚すべてが確認された。発砲スチロールで表面を覆い、その上にビニール製シートをかけて保存されてきたが、度重なる移動に加え、屋根しかない吹き抜けの倉庫。アスベスト材にはひび割れができ、かろうじて崩れずに立っている状態。大きな欠損は1メートル四方に近かった。「このまま朽ち果てるのは残念。修復の道を探りたい。アクリル絵の具の剥落は思ったより少なく、それほど困難ではない」壁画制作当時、秘書としてたびたび同行した敏子さんは話す。

 「核に焼かれる骸骨が、燃えながらこう笑する姿は、核に対する被害者意識ではなく、人間の誇りとしての怒りの爆発。イラク戦争などを続ける愚かな世界の『惰性』に対してノーというメッセージになる」壁画の下絵は4点あり、東京の記念館のほか、川崎市岡本太郎美術館、富山県立近代美術館、名古屋市美術館が所蔵している。 

 12月15日、いよいよ最終原画となる1/3スケール原画制作に取掛る。(岡本太郎美術館が所蔵する縦177cm、横1085cmの1/3スケール原画はno.4原画と表記する。)幅が10mを超す原画no.4原画の制作にはアトリエの庭でも全体を見通すことができない。当時、三菱地所の重役と知り合いだった太郎は、東京丸の内にある国際ビル(現在の帝国劇場ビル)9階の2000㎡のスペースを提供され、この場所でno.4の原画の制作を行っている。

岡本太郎記念現代芸術振興財団

このNo.4原画は翌年の1月末には完成し、1月26日には作品の制作記者会見で「原爆をモチーフにしたもので、題は《明日の神話》とつけた。原爆が爆発し、世界が混乱するが、人間はその災い、運命を乗り越え未来を切り開いていくといった気持ちを表現した。」(『中国新聞』1968年1月27日)と語っている。

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■モニュメント《五大陸》

 《明日の神話≫原画制作の開始と共に、岡本太郎はホテルの正面に据えられる巨大な彫刻の原型制作にも着手している。

 アルプの彫刻を思わせるような大きさの異なる有機的な形状をした5つの立体彫刻からなるこの彫刻は《五大陸》というタイトルが付けられた。《五大陸≫とは、アジア、アメリカ、アフリカ、オーストラリア、南極という5つの大陸のことである。太郎はオリンピックのためにメキシコに集まる世界中の人間をこの彫刻で歓迎しようと考えたのだろう。5つの彫刻は、大洋をイメージする巨大な円形プールに配置され、その至る所に大小さまざまな旗が建ち並ぶというのがこのモニュメントである

41 千葉県船橋市にある運動公園

 しかし残念なことに、このモニュメントもスワレス氏の事業悪化にともない、ホテルの建設が中断され、現地での工事着工もしないまま、原型となる彫刻だけが残った。

 現在、原型の彫刻は岡本太郎美術館が所蔵する作品のみであるが、千葉県船橋市にある運動公園には、このホテルの玄関庭に設置される作品と同じスケールのモニュメントを見ることができる。白を基調とした有機的なフォルムの美しさは見事に運動公園と調和している。


■2回目のメキシコ

 1968年2月1日、日本万国博覧会テーマ館の国際協力を得るため岡本太郎はヨーロッパに向けて出発した。プラハ(ハンガリー)、ロンドン(イギリス)、グルノーブル(フランス)、アルプスを経由して13日にメキシコに到着した太郎は、パルケ・デ・ラ・ラマのホテル建築現場に直行している。

大阪万博

 スワレス氏は太郎の2度目のメキシコ訪問に備え、ヒガンテという巨大なスーパーマーケットの増設予定の建物部分を壁画制作のアトリエとして準備していた。ヒガンテの仮設アトリエは床と壁こそできてはいたが、まだ屋根の部分がなく、スワレス氏は急遽仮設の屋根を取り付けさせた。あらかじめ木枠からはずして日本から送っていたNo.4の壁画原画は、メキシコの現場で再度木枠に張り替えられ、メキシコではじめてその全貌が明かされた。

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 秘書(当時)の岡本敏子氏によると、初めてその姿を目にしたスワレス氏は、原画を見るやいなや、「凄い!」と言ったきりその場に座り込んでしまい、そのまま絵の前で一晩を過ごしてしまったらしい。原画の公開に集まったメキシコ人たちも、メキシコ人でありながら作品に使われた原色を見て「なんて鮮やかな原色だ。こんな原色はメキシコにはない。」と狂喜したという。

 この時、太郎はスワレス氏との壁画制作に関する正式な契約を行つている。

■ホテルロビーの設計変更

 4月7日、2度目のメキシコ訪問を経て、再び万国博覧会テーマ館の多忙なスケジュールをこなす岡本太郎のもとに、メキシコからスワレス氏が小栗氏と共に訪れている。太郎は羽田でスワレスー行を迎えた。スワレスー行は真っ直ぐに青山のアトリエを訪れて、ホテルの進行状況などを報告し、当時太郎の進めていた万国博テーマ館《太陽の塔≫や《マミ会館≫の作品を見ると改めてその造形の素晴らしさに感動した。

《太陽の塔≫マミ会館-42

 ほぼ同時期に太郎は、壁画が設置されるオテル・デ・メヒコの正面ロビーに一部設計変更が生じたことを伝えられている。スワレス氏の訪問がこのためであるかは不明だが、設計の変更は、3階までの吹き抜け部分の両壁際にある階段の踊り場が壁画にかかるため、壁画両端の一部を削らなければならないというものである。4月の末には再度、メキシコに原画を持ち込み、いよいよ現場での壁画制作を予定していた太郎は、急なホテルの設計変更に対応するため、原画の修正を行わなければならなかった。壁画左部分の修正は特に大きな影響はなかったが、石部分は作品の中でも重要なモチーフとなるビキニ環礁で被爆した第五福竜丸と原爆マグロが描かれた部分であったためである。

 壁画の修正はNo.3の原画に施された。それは、太郎が翌月の5月9日に開催される第8回現代日本美術展への招待出品として《明日の神話》(No.4原画)を予定していたためである。

 実際の原画の修正は、No.3原画をメキシコに持ち込み、ヒガンテスーパーのアトリエで壁画の下地塗りと同時に行われた。以後の壁画制作はこの原画をもとに描かれている。No.3原画は、壁画制作の後、小栗氏が自宅に所蔵していたが、現在は名古屋市美術館が所蔵している。

■壁画制作開始

 No.3原画を携え、岡本太郎はいよいよ本格的な壁画制作のために4月25日、メキシコ入りした。すでにメキシコ全土では、外国人としてはじめてメキシコに壁画を描く太郎を取り上げるニュースが流れ、空港ではスワレス氏や小乗氏の他に詰めかけたマスコミ関係者に加えマリアッチ(酒場、ホテル、広場などでさかんに演奏しているメキシコの大衆的な楽団)が踊りと音楽で歓迎する賑やかな出迎えを受けた。

 はじめてホテルを視察したときに比べ、現場は順調に工事が進んでいた。ヒガンテのアトリエには、仮設の屋根が貼られ、中には風呂、トイレ、寝室を備えた家が建てられおり、いつでも太郎が制作できる万端の準備が整えられていた。また、スワレス氏は太郎の制作に関わる指示が正確に伝わる制作助手として、ルイス西沢の他に竹田鎮三郎ら数人の日系人作家を集めていた。ルイス西沢は日系の画家で、現在でもメキシコ市の郊外にあるトルーカ市に彼の美術館があり、シケイロスと同様にメキシコの壁画運動にも深く関わった人物である。彼は直接壁画の制作に携わるというより、太郎のメキシコ滞在中の取材に同行したり、壁画制作のための現地スタッフを集めたり、壁画用の絵の具の使い方を太郎に伝えるなどの重要な役割を果たしている竹田鎮三郎は1935年愛知県瀬戸市に生れ、東京藝術大学を卒業後、北川民次の弟子となるべく1963年にメキシコに渡った。現在は、オアハカ州立自治ベニトファレス大学芸術学校の美術学部長をつとめている。壁画《明日の神話≫に関わったのは、彼がメキシコに渡ってまだ間もないころのことだが、太郎の指示を受け、原画の拡大から彩色まで、太郎不在中の壁画制作のほとんどは竹田が中心となって進めている。竹田は当時、一ケ月100ペソの給料でメキシコにある美術学校の講師をしていたが、スワレス氏に3000ペソの給料で雇われたらしい。その他の助手は日系人で芸大の出身者がルイスや竹田によって集められた。

 出発前にあらかじめ送られていたNo.3原画を現地でキャンバスに張り直し、太郎はまず、ホテルロビーの設計変更に合わせた原画の修正を現地で行っている。原画の修正を行いながら、太郎は、数人の助手とともに下地の研磨作業と地塗りをおこなった。7分割された壁画の支持体は厚さ20mmのコンクリートで、鉄骨で裏打ちが施されている。

 表面の研磨とはいえ、合計で165㎡の壁画面積の全てを研磨するのは大変な作業だが、現地では機械を使わず全て手作業で行われた。全体の研磨が終わった後、コンクリートの壁の上に、白色の塗料が地塗りとして施された。壁画の国メキシコでは、壁画の材料として多くの材料が使オている。その材料はまちまちで、車の塗装に用いられるウレタン塗装やテンペラなどを使った壁画もある。

 岡本太郎がこの壁画で使った塗料は、アクリル系の塗料であるが、在日本などで作品を描く際に使うアクリル絵の具とは異なり、外壁材に近いペンキのような塗料が用いられている。水溶性のアクリル絵の具は油絵の具よりも乾燥が早く、描くく端から乾いていくため、短時間で作品を仕上げなければならない太郎にとって都合のよい材料だった。

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 壁画の研磨と地塗り作業を見届けた太郎は、スワレス氏が助手として依頼した竹田鋲三郎、ルイス西沢らに原画から7分割された壁画への下書きと具体的な作業の段取りを指示し帰路についた。

■万国博の国際協力と壁画制作

 同年9月10日、万国博の国際協力を要請するため、万国博覧会協会の石坂泰三会長と羽田を発った岡本太郎は、パリ、ロンドン、プラハを歴訪し、16日にメキシコ入りをしている。

 メキシコ空港に到着した太郎は、小栗氏らの出迎えを受け、秘書(当時)の岡本敏子氏と合流して早速ホテルの建設現場であるパルケ・デ・ラ・ラマの公園に工事の状況を見学。17日よりヒガンテのためのアトリエで壁画の制作に取りかかっている。前回のメキシコで助手に指示した通り、壁画は木炭による下書きから、下地となる彩色が進んでいた。この時、太郎の滞在できる時間はわずか4、5日という短いものだった。助手達によって進められていた壁画の色や細かなディテールの手直しを手早く終えた太郎は、以後の壁画制作についての指示を行い、再びアメリカ、パリ、アルジェリア、ケルン、トルコ、ベイルート、タイ、香港を石坂泰三と共に歴訪し10月16日に帰国した

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 《明日の神話》の原画制作から壁画制作に至るこの時期、太郎は万国博覧会テーマ館《太陽の塔》の着エと同時に、塔内《生命の樹》、《母の塔》、《青春の塔》の造形など、展示の具体的な内容を具現化している。驚くことに、太郎は万国博の超多忙なスケジュールの合間にもモニュメントの制作や個展を開催している。彫刻がそのまま建築となった〈マミ会館》、銀座数寄屋橋の《若い時計台》、伊豆のレジャー施設に作られた《太陽の鐘》、パリのフォーブル・サントノーレの祭に出品した《樹人〉などの制作はいずれもこの時期に平行して制作された作品である。

彫刻家・岡本太郎作「若い時計台」伊豆のレジャー施設《太陽の鐘》岡本太郎「樹人」

■壁画の仕上げ

 1968年9月のメキシコでの壁画制作以来、岡本太郎が現地で壁画を制作するのは、1年後の1969年9月に入ってからとなるメキシコオリンピックにあわせてオープンするはずのオテル・デ・メヒコはオリンピックから1年が経過したにもかかわらず、いまだに建設途中にあった。

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 9月10日に羽田を出発した太郎は、11日にはメキシコに到着し、久しぶりにシケイロスのアトリエを訪れて、翌日の12日から市内にあるヒガンテのアトリエで壁画の制作を再開させている。メキシコでの壁画制作としてはこの時の滞在が最も長く、完成までの本格的な制作を行っている。太郎不在中、竹田鎮三郎民ら数人の助手たちによって、壁画は地塗りから本塗りを経てはぼ全体に渡って彩色が施されていた。7分割されたパネルはアトリエの壁に立てかけられ、その巨大な全貌が見通せる状態となっている。アトリエには壁画を描くためのキャスター付きの櫓(やぐら)が造られ、高さが5.5m、横幅が30mの壁画を自由に行き来できるようになっていた。ここで数日間太郎は、作品の細かなディテールを修正し、全体の調子を整える作業を行う。壁画の向かいには、壁画を見下ろせる高さのフロアーが設置され、ここから全体を眺めては、階段を駆け下りて櫓に上がり、壁画を描くという作業を繰り返すのである。

 この様子を日本のNHKや現地のマスコミが取材する傍ら、日本大使館の大使や壁画の制作をこの目で見ようと現地の人たちが入れ替わり訪れている。太郎もまた、忙しい壁画制作の合間を縫って、シケイロスのアトリエやテオティワカンの遺跡を訪ねている。中でも神像・コアトリクエのレプリカを依頼するため、ムセオ・デ・アントロボロヒア(メキシコの国立人類学博物館)を訪れている。古代アステカ国王の時代の神像・コアトリクエは大地の母なる「死の女神」と言われ、頭に2匹の蛇を配し、首には死者の首飾り、胸には骸骨をつけ、蛇のレリーフの施されたスカートをはいた巨像である。この像は1970年に、万国博のテーマ館《太陽の塔》の地下展示室「祈り」に展示された。

 この時の作業によって壁画は完成し、幅30mの巨大な壁画の全貌が現れた。事1969年9月14日 ヒガンテのアトリエで壁画の制作を行う。


■壁画のその後

 結局、メキシコオリンピックに向けてオープンするはずのオテル・デ・メヒコは1968年の10月を過ぎても完成に至らず、最上階のレストランのみの営業を行っており、《明日の神話》はホテルロビーに設置されていた。

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 ホテル建設は、メキシコオリンピックに間に合わなかったという理由で銀行の融資が滞り、中断を余儀なくされた。失意のうちにマニュエル・スワレス氏は1987年に亡くなり、スワレス財閥は事業不振に陥り建物は人手に売却されることになった。その後の1994年、ホテルは世界貿易センターとして開業し、壁画はロビーからはずされている。

 壁画は梱包されたままメキシコ市内の資材置き場や倉庫を転々と移され死蔵されていた。岡本太郎が放った人類へのメッセージ《明日の神話》は幻の壁画となったのだ。壁画完成から34年の歳月が流れたが、この間、太郎が1996年に亡くなった。太郎の養女となった岡本敏子氏はあの壁画をもう一度復活させたいと、壁画の調査を行いつづけてし)た。それはスワレス氏の末子で現在、ポリフォルム・シケイロス会館の事業責任者であるアルフレツド・スワレス氏も同様であった。

 2003年9月、岡本敏子氏の想いは叶い、壁画はメキシコ市郊外の資材置き場で発見された。岡本敏子氏はすぐにメキシコに飛び、壁画の所在を確認した。彼女は自らの最後の仕事として、この壁画を日本に持ち帰り、修復して新たな命を吹き込み、現在の不穏な世界情勢に対し太郎のメッセージを発することを決めた。

 2004年10月には、(財)岡本太郎記念現代芸術振興財団内に《明日の神話≫再生プロジェクト事務局が設置された。壁画の買取から運搬、修復の一切の指揮はゼネラルプロデューサー平野暁臣氏(現岡本太郎記念館館長)に委ねられた。平野氏は修復家の吉村絵美留氏と共に現地に赴き、壁画を梱包して船に搭載した。2005年4月20日、予定していた一連の作業を終えた平野氏らが成田空港に到着したとき、彼を迎えたのは岡本敏子氏の言卜報だった。岡本敏子氏は壁画が無事船に乗せられたことを知り太郎のもとに旅立ったのである。

 2005年5月28日、壁画は無事神戸に到着し、6月6日に行われた《明日の神話≫再生プロジェクトの記者会見で壁画の修復の計画が明らかにされた。岡本太郎と岡本敏子の両氏が残してくれた壁画《明日の神話》は、やがて修復を終え、日本のどこかで私たちが目にする時が来る。《明日の神話》は日本が世界に誇る壁画として永遠に残されるべきである。

■幻の壁画とモニュメントの依頼

 オテル・デ・メヒコの《明日の神話》はすでに完成していたが、ホテルの玄関を飾るモニュメント《五大陸》の制作は模型が完成しただけで現地での制作は行われていない。また、岡本太郎は《明日の神話》とは別に、スワレス氏より、ホテルの大食堂に縦9m、幅60mの壁画(この壁画が《豊能の神話》となる)を依頼されていた。この壁画については、原画となる作品が現存しているが、結果的には現地での制作には至っていない。

豊饒の神話

 また、1970年10月28日、メキシコを訪れた岡本太郎に、メキシコの元大統領で、当時メキシコ観光理事会総裁のミゲル・アレマン氏から新たな作品制作の依頼があった。ミゲル・アレマン氏の依頼は、この年日本万国博覧会のシンボル的な存在となったテーマ館《太陽の塔》のようなモニュメントを制作して欲しいというものだった。しかし、このモニュメントについても実際には制作に至っていない。

 このドキュメントは、故岡本敏子さんからの聞き取りをもとに作成いたしました。しかし残念なことに岡本敏子さんが急逝されたため、1969年以降の内容に関しては残されたアルバムや当時の新聞記事を中心にまとめたものです。岡本敏子さんは最後まで《明日の神話》に情熱を傾けられ、岡本太郎の芸術やその人生を熱く語っておられました。私どもは敏子さんとこのドキュメント作成に関われたこと、またこれまで様々な局面で美術館を支えていただいたことに感謝いたします。敏子さんありがとうございました。 また本文は、2005年1月より中国新聞で連載された《明日の神話≫の記事を参考にいたしました。この記事を担当された道面雅量(どうめんまさかず)氏に感謝申し上げます。             

岡本太郎美術館学芸員 大杉浩司