日本のかたち

formsinjapan_001■かたちの座標

建築史家・神代雄一郎

 集落や建築のような大きいものから,小さな玩見や食器のたぐいまで,日本文化の形態には,ヨーロッパやアメリカのそれと,はなはだ異なったものが認められる.それは,日本の芸術家やデザイナーたちが物を創るとき,どれほど西欧の模倣に専念したところで,必ずや,知らず知らずのうちに形相化されてきてしまうものなのである。これは日本の作家がその生涯のある時期において,どれほど先進の西欧文化を崇拝模倣しても,何時かは日本への回帰にむかうのと,また同じ力によるのであろう。この力とは,とりもなおさずわれわれ日本人をとりかこむ空間一風土であり,またわれわれ日本人の背負った時間一歴史であろう.われわれは自身が生まれ落ち,そこで育った空間と時間の条件から,逃れうるものだろうか.ヨーロッパでは,戦乱の不幸が多くの芸術家を亡命させた。また芸術の都パリをめざして,芸術家たちはいまでも集まってゆく。だが彼等の作品をじっと見ていると,彼等が他国で名声をうるときとは,その作品が語るもの,その作品の形相に,不思議と彼が生まれた祖国が,国籍が,にじみでてきたときなのである。日本人を例にとれば,パリの菅井汲,ニューヨークの草間弥生の絵画はその好例であろう.わたしは前者に,日本の紋章や書に通ずるもの,後者に江戸小紋と通いあうものを認めないではいられない。

 そうであるのならば,つまりわれわれほ日本の時間的空間的条件からぬけだすことができず,またそうした日本的なものをもってこそ,はじめて国際的に発言しうるのであるならば,何故にわれわれは,もっと日本の文化に,科学的に体系的に近づこうとはしなかったのだろうか。それはおそらく,長い鎖国の時期ののちにむかえた,文明開化のもたらした無条件西欧崇拝が,いまだに尾をひいてのことであろう。だが現代は,西欧模倣が国内的にも役だたなくなり,日本文化の特性が国際的に注目される時期をむかえているのである。OWL-2-450x300

 昭和35年の春,世界デザイン会議が日本の東京で開かれたという事実は,こうしたなりゆきを反映するものであった。あのとき,亀倉雄策は「かたち」という発表をしているが,しかし一般的にいって,「われわれは世界各国から集まったデザイナーたちに彼らが求める日本を与えただろうか。われわれにまた,そうした用意があっただろうか外国のひとたちが発表する日本に関する記述は,あまりにも断片的なもの,あまりにも表面的なものが多い,と同時に,日本人はあまりにも日本のことを知らなさすぎるのではないか。わたしたちがこうした反省に従って,とにかく「日本のかたち」の体系化にむかったのは,世界デザイン会議の終わった同じ年の同じ春であった。

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 わたしたちの目的は日本を,その文化の形相の特色によって,視覚を通して知ることであり,知らせることであった。従ってわたしたちがこの本の出版について,もっとも恐れることは,これがたんなる模倣のためのスタイルブックになることである。つまり日本人にとっては,かつての西欧模倣と同じように,これによって日本の過去のかたちがそのまま,まねられ,また外国人にとっては、これが一種の異国的な様式として,もてはやされること,それをわたしたちは恐れるのである。さきにあげた,日本を離れて日本を発見した芸術家たちの仕事も,決して日本のかたちの模倣ではない。彼等はおそらく,日本をふりきりふりすてようとして,しかも自身にしみついて消去しえないものを表現していたであろう白描を思わせる浜口陽三のエッチングにしても,仏画を思わせる棟方志功の板画にしても,日本刀を思わせる流政之の石彫の反りにしても,同じである。

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 わたしたちは,形式や様式だけに興味をそそられてこの仕事を始めたのではない。わたしたちの目的は,かたちの背後にあるもの,かたちを結実している人間の心の特性をとらえることであった。わたしたちは,ひとの心のような,見ることのできないものをじかにとらえることは,はなはだにが手である。だからあつかいなれているかたちを,可視的なものをたよりに,不可視な心をとらえてみようと試みたのである。そしてそうすることがまた,こうした仕事をたんなる形態模倣のたねにしてしまうのでなく,本当の創造行為の源泉になしうる道だと考えたのである。もしここに集めたかたち」の背後に,それを形相化した心のかたむきをとらええたとしたならば,それが現代の日本人の内部に復活し,生活化し,再び何かのもののうえに結晶し,形相化してゆくのは,案外容易なことのように思われるのである。そして,こうした気持ちで仕事を進めてゆくうえで,わたしたちがまずつきあたったのは,戦争前に行なわれた日本文化論が,わたしたちの心に落としている影響であった。

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 わたしたちはわたしたちの努力の結果が,創造の源泉になるようにつとめて,まず「かたちをば,われわれの断ち切りえない風土と歴史,空間と時 間の二本の座標軸によって構成された座標系のうちに,プロットすることから始めた。風土とは気候と地勢の条件であり,歴史とは民族の履歴である。わたしたちはかたちをこの座標系内におくことで,「わび」や「さび」は一種の風化や老化の現象として,「伝統」は文化的継承や遺伝として,すべてこの大きな座標系にまかせてしまい,ひとまずじめじめした日本文化論や,日本的なものの反動的礼讃を消去してしまったのである。かたちに見られる日本的特色は,わたしたちの仕事の結果としてえられるものでなけれはならない。わたしたちは日本的なものを,過去の日本文化論にわざわいされている,わたしたちの主観によって設定することを避けようとした。だからわたしたちは,日本的なかたちを探すという態度をすてて,日本にあるかたちから出発しようとした。そしてこうした態度をとらせたもう一つの理由は,日本とシナや朝鮮との地域的な,また歴史的なつながりにあった。いまわたしたちが,一つの日本にあるかたちをとりあげたとする。そしてそのかたちの発生を求めて歴史をさかのぼってゆくと,それが朝鮮やシナ,さらにはインドや西方アジアにいたりついてしまう場合がはなはだ多い。それは大げさにいえば,純粋な日本のかたちの存在を疑わしめる程なのである。

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 だがこのことは,アジア大陸の東のはずれの島国である日本にとって,むしろ当然のことである。日本の文化とは,アジア文化の吹き溜りともいえよう。にもかかわらず現代の日本人は,そうしたアジアとの歴史的な連帯性よりも,もっとヨーロッパやアメリカとの今日的な連帯性の方が強いと,幻覚しているのである。わたしはこの幻覚のうえにたって,純粋な日本を主張し,純粋に日本的なかたちを探す姿には疑問をもつものである。こうした戦後の日本文化論は,共産圏と非共産圏という,それぞれの政治的な連帯性を,文化の連帯性と混同する危険を蔵している。そして戦前の多くの日本文化論はまた,先にあげた時間の座標系を,いわば国粋的に,日本に限って設定したところで行なわれていると思う。わたしたちはこの座標系を,アジアとの連帯性をも意識したという意味で,こころもちゆるく選んだのである.それはこの本の題名「日本のかたち」が,Formso of Japan と解されるよりは,Forms in Japanである方がふさわしいという,わたしたちの気持ちになってあらわれている。

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 過去の日本文化論の多くは,座標系を日本に限るということで,わたしたちには極めて鎖国的な様相を呈しているように思われた・しかもそのせまくとらえた日本の歴史や風土の中で,その座標のせまさの故に,かえってそれを具体性あるものと錯覚して築かれたように,わたしたちには思われる。わたしたちは他国との関連も含めるという意味あいで,座標を開国的に設定し,一方国際的にも通用する具体性ある結論をうるために,時間と空間,歴史と風土を二つの軸とした大きな座標系に重ねて,その中にプロットされる「かたち」をとりかこむ,もう一つの座標を設定しようとしたのである。1415

 それは言葉をかえれば,また次のようにも説明す ることができよう.すなわち,「日本のかたち」 をとらえる座標は,その「日本」に対しては,先に述べてきたような「空間・・・風土」,「時間・・・歴史」を二軸にした座標系で対応しながら,さらに「かたち」に対しては,もっと具体性を持ち,また国際的普遍性を持った,もう一つの座標系を考え,この二つの座標系を重ね合わせて考えることで,「日本のかたち」をとらえようとしたのである。

 このもう一つの座標とは,とりもなおさず,歴史と風土の特性からだけでなまじかたちを観念することを避けるために,具体的普遍的に「かたち」を決定するものが何であるかを探し求め,それらを極にした座標系ということになろう。そしてこの「かたちを決定するもの」の決定は,当然わたしたちの間でかなりの期間,激しい論議のまとになった。こうしてようやく,誰にも一応の満足を与えうるものとして考えだされた座標とは,「かたちをつつむところの正四面体であった。そしてこの正四面体のそれぞれの頂点・・・極には,材・手・用・意という文字が書かれた。

 材とはかたちの実体をなす材料・素材であり,

 手とはかたちを作る技能・技術であり,

 用とはかたちの目的である用途・使用機能であり,

 意とはかたちを創るものの芸術意欲とか構想力とか創造力と呼ばれるところのものである。

 わたしたちは,あらゆる「かたちは具体的に,この意・用・手・材を極とし頂点とする正四面体の内部に,位置すると結論した。そしてある「かたち」は,この正四面体の中で意の頂点に近くプロットされようとし,またあるものは,用なり材なり手なりに近く位置づけられよう,と想像した。かたちを決定する意・用・手・材を,それぞれの極とした正四面体の「かたちの座標」と日本の時間(歴史)と空間(風土)を二軸にした「日本の座標」,この二つの座標の複合によって,「日本のかたち」は国際的な普遍性のうちに,その地域的な特性をとらえうるのではなかろうか。具体性を基礎にしながら,観念的にも整理されうるのではなかろうか。

 わたしたちは,日本の歴史と風土に日本人の精神(意)だけを結びつけて,すぐその文化の形相に及ぶ観念的文化論にはなっとくできない。また時間と空間に機能を加えた現代の機能主義論が,過去の形相にまで近づきうるとも思わない。そしてまた,日本の素材だけから「かたち」をとらえるのも一つの方法ではあるが,それはまた偏見でもあろう。わたしたちは,日本文化は木と竹と紙でつくられたといった曖昧な見解が,何も結果しえないことを,日本人の手の器用さというだけでは何も説明しえないことを,いやというほど知らされている。だから以上のような複合座標の設定は,わたしたちがこれから「日本のかたち」をあつかうにあたって,そうした過去の定見にとらえられないように,あらかじめ自らもうけた防波堤であったとも,回顧されるのである。

■かたちの分類

 わたしたちはこれだけの頭の整理をして,つぎに具体的に「かたち」を集め,ついでその分類にとりかかった.わたしたちの集める仕事を限った,何かの力があったとすれば,それは「日本にあるもの」という条件だけであった。ことさらに「日本的なもの」を探そうとしたり,「シナ的なもの」を排そうとしたりはしなかった。そこにわたしたちが「かたち」を発見したものは,すぐさま写真にとられたり,書きとめられたりした。そこに「かたち」を発見するということは,わたしたちにとって,「対象はそれが知覚の中で個別化すれば,ただちに一つのゲシタルトである」(P.ギヨーム著 ゲシタルト心理学)という言葉そのままであった。わたしたちが見て,そこに個別的なものを感じたものは集められた。

 もっとも実際には,時間も費用も地域も極めて限られたから,文献に頼った部分が多い。文献では古い絵図や,新しく出版されている図集が大いに力になったが,なかんずく古いものでは守貞漫や骨董集,新しいものでは百科辞典が,わたしたちの不明を開いてくれたところが大きい。とにかくこうして集められたそれぞれの「かたち」に,わたしたちはそれぞれ平等なウエイトをもたせて,それらのうちに互いに似たものを見出した場合,それを寄せてゆく作業をした。

 はじめから例えば素材によって,木・石・土・紙・布・竹といったふうに分けるのは,はなはだ簡単だが,そうした分類は,その分類のもつ価値が小さくなるので,従わなかった。

 技術による分類も,機能による分類も,そして芸術性による分けかたも考えられたが,従わないことにした。

 何とか,大きくは日本の歴史・風土を反映し,小さくは用・意・材・手といったかたちの諸成因をも含んだ分類にしたかった。それはとりもなおさず「かたち」そのものにしたがった分類であり,沢山の「かたち」の中に,それに従った「かた」を発見することであった。無数のかたちの中に,互いの類型をみつけることであった。この段階でわたしたちをかなりなやましたのは,

 「平面・・・パターン・・・もよう,」

 「立体・・・フォーム・・・かたち,」

 「空間・・・スペース・・・かこみ 」

 といった分類概念であった。これは,それぞれ絵画・彫刻・建築に相応する古典的な美学のジャンル別を背景にしているもので,それ自身たいへんな歴史の重みをもっているものである。わたしたちは新しい「かた」の発見による,新しい分類の可能性にはなはだしい困難を感じていたので,一時はかなりこの分類に動かされないわけにはいかなかった。だが幸せにも,わたしたちが発見し始めていたいくつかの「かた」には,実は平面的なもようにも,立体的な姿にも,空間構成にも,共通に見出されるものがあったので,むしろこのことは逆に,こうした三つのジャンルに共通して発見されるようなものであれは,それはわたしたちの探そうとしている「かた」として取り上げてまちがいないのだ,という目やすを与えてくれるのに役立つ結果となった。

 つぎに問題になったのは,「かた」の数をどのくらいに止めるか,つまりいくつくらいの類型にまとめるかということと,その「かた」に与えねばならぬ名称であった。わたしたちは,最初の段階では,類型の数を無理してまで少数に整理するという態度を避けて,それに属する具体的な「かたち」がたった一つであっても,それに特別の個別的性格が認められれば,それを「かた」として取り上げるようにつとめた。ある類型に属する,「かたち」が少なくても,その類型の意味の重さが類型相互間でバランスがとれていればよいと考えた。

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 たとえば,露地の飛石のくはりに捨石というのがある.このすて(捨)というのも,あまり(余)やちらし(散)と同程度の「かた」としての意味を持つので,わたしたちはたった一つの捨石という例(かたち)のためトキ,すて(捨)という項目を落とすことをしなかった。

 捨石からすて(捨)という「かた」をえたように,「かた」の名前は,それに属する「かたち」の名前から自然にえられる場合が多く,そうしたものは一番確実性をもっているように思われた。例えば截金(きりかね)のちらし,かるたのちらし,ちらしずし,散華,こうした互いに似かよったかたちが集めら れて,これは当然一つの類型として考えられ それには「ちらし(散)」という「かた」の名称が与えられるといった具合であった.そして,このようにしてえられた「かた」は,「っらなり(連)」から「かすれ(掠)」まで,実に77を数えるにいたった。

 この「かた」の名づけの段階で,図集や写真集よりも,国語辞典や漢和辞典が役立つことになった事情は,読者の皆さんにも充分察していただけることと思う。そしてわたしたちは,できうれば漢字かやまとことばかどちらかでこの「かた」の名称を統一したいと考えたのだが,いずれか一方に整理することは,かえって「かた」の意味内容を充分に伝ええない場合があったので,やまとことばと漢字の組み合わせで,「かた」を示すようにした.こうして決定した77の「かた」を,さらにいくつかにまとめることが,つぎの作業であった。討論を重ねた結果,わたしたちが一応同意に達した分類項目は,「つらなり=連続」,「むすび=結合」,「あつめ=集積」,「くぼり=配置」,「かこみ=包囲」,「ささえ=支持」,「まがり=転曲」,「ながれ=さゆだねのカlたち流動」,「そのまま=自然」,「ちぢめ=縮小」,「ひねり=異相」,〔こわし=破切」,「きりはなし=切断」,「くずし=変容」,「ぼかし=濃淡」の15であった。しかしここでは,それぞれの内容が少ない「こわし」と「きりはなし」,「くずし」と「ぼかし」を合わせて,別表のように13項目にまとめてある。しかし「こわし」の内容である破・欠・割と,「きりはなし」の内容である切・断・落・取の間には,かなりの相違が認められるし,同様に「くずし」の崩・違・乱・舞と「ぼかし」の暈・透・掠の間にも,やはり項目を別にすべきちがいが存在すると,いまでも考えている。ところでわたしたちは,この15なり13なりの分類項をえたことで満足して,はじめはこれ以上分類にかかわる気持ちを持っていなかった。ところが,この15の分類項にいろいろと検討を加え,それぞれに認められる日本的な性格を思考しているうちに,それがさらに四つの大項目にまとめうるように思われてきた。それらを別表にみるように「まとめのかたち」,「ちからのかたち」,「ゆだねのかたち」,「かわりのかたち」と名づけたとき,わたしたちはそのそれぞれが,先の正四面体の頂点に与えた用・意・材・手に,稀しくも対応しているのを発見したのである。従ってわれわれはこの分類表をみることで,「日本のかたち」用の対応がどんな特性をもっているかを,[まとめのかたち」の内容を見ることで知ることができようし,意あらわれの特質をおもに「ちからのかたち」の内容で知ることができよう。

 こうして,分類のあらましの体系化ができ,それを一つの表に整理してから,さらにわたしたちは,そこにわたしたちの主観的なかたよりがないかを吟味し,多くの方々に相談しながら,できるだけそれが客観的・普遍的であるように,多少の修正を試みた。特に最後までひっかかったのは,「そのまま=自然」や,その項目の中に含まれる「もの=物」などで,これほ日本のかたちの特性を考えるとき,ぬき去ることのできない重要さをもちながら,適当な名称が考えられなかった。こうした場合は,とくにひねくってもっともらしい名称をつけるよりは,ごく素直にあつかっておいて,のちの修正にまつべきと考えて,こうした名称を与えたままでいる。そしてこのような分類の体系化の過程で,わたしたちはさまざまな「日本のかたち」の特性をつかみ出すことができたのであるが,それには従来から直感的にいわれていたものと合致するものもあれば,また新たに発見したものもある。そうした結論的にえた特性については,以下写真とともに組まれた文章の中で,うたってある。

 最後に,分類・体系ができてみて,わたしたちが感じた二,三のことについて述べておこう。

 その一つは日本のかたちは神道に関するものに多く発見されて,仏教には見るべきものがないといった従来の偏見である。この宗教にかかわる偏見は,仏教が外来の宗教であって,神道は日本固有なものであるといった通念に強く由来していると思うが,そうした通念にもとづいて「日本のかたち」を探すことが,いかにせまい効用少ないものになるかは,わたしたちの広範なあつかいの結果を見るとき,明らかであろう.以下のところで文章や写真にとりあげられている「かたち」のうち,はっきり神道に由来するものは,それをとりたてて問題にするほど多くはない。

 また宗教の場合と同様に,「日本のかたち」が階級的に貴族文化に多く認められるとする説や,そうした傾向に対して,逆に町人や農民の文化にこそ見るべきだとする説もあろう。このことは,文化の階級性を第一に問題にして「かたち」を見るのであれば,そこにそれぞれの傾向が認められはしようが,それとても,わたしたちの場合のように「かたち」を主にして見てゆけば,神仏混淆の歴史が先の宗教的かたちを不分明にしているように,階級間の長い歴史的闘争や交流が,文化のさまざまな混合や分離を含んでいて,かたちの分類にまで影響してくるような差別とはなっていないことを知るであろう。細部的に問題となったことを,もう一つつけ加えておけば,それは,

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 例えば屏風のように,一つの「かたち」が,「かこみ(囲)」と「おり(折)」といった,二つの「かた」に属する場合のでてきたことである.しかしこのことは,機能(用)で分類すれば「かこみ」一つになり,技術(手)で分類すれば「おり」一つに整理はされようが,わたしたちのように「かたち」そのもので分類すれば,当然でてくることである。屏風というかたちにとっては,「かこみ」一つにすることも「おり」一方にすることも不充分なのであって,そうした複合的性格を持ち,さらには意にも材にもいくぶんほかかわっているわけである.こうした場合がでてきても,それはわたしたちの分類の不備ではなく,たとえばよく行なわれている材料別分類の場合,一体屏風はどこに入るのだろうか,それを木に入れても紙に入れても何も結果しないし,その両方に入れたところで,わたしたちのような「かこみ」と「おり」に入れるうえの意味を持ちえないであろう。そして,わたしたちの分類は,決して用と意と材と手による分類の複合的なものではなく,「かたち」そのものによった分類であり,その結果が,最後に,

■ 用に多くかかわるもの-まとめ,

■ 意に多くかかわるもの-ちから,

■ 材に多くかかわるもの-ゆだね,

■ 手に多くかかわるもの-かわり

 の四つに,ただ稀しくもまとめられたものであることを,重ねておことわりしておきたい。