矢内みどり

■日本の伝統パッケージと美意識の源流   

■消え行く伝統パッケージ

 日本の伝統文化は独自の自然観による繊細な感受性に育まれてきた。浅い春に愛でた楼の花は散っても、私たちは塩漬けの桜の葉に包まれた桜餅にあふれる春の香りを楽しむ。こうした天然素材のパッケージは年々姿を消している。街の商店の竹皮包装や、農家の藁仕事などの手技は昔のものとならり、自然への畏敬の念の喪失が語られて、環境破壊は深刻さを増し、異常気象がそれに拍車をかけている。

■岡秀行と「(包む)コレクション」 

 この現象にすでに一九六〇年代に着目したのがアート・ディレクターの指導的立場であった故・岡秀行(一九〇五−九五年) である。「伝統パッケージの機能美が生活の知恵と愛情の結晶である」として、研究と収集を手がけた。その先見の明と日本の造形美への情熱には敬服するばかりで、周囲には岡を慕う第一線のクリエーターたちが集まりこの活動を支えた。

 岡はこのコレクションについて海外版を含む多くの写真集を作り展覧会を催した。これに共鳴したのがアメリカのジャパン・ソサエティ・ギャラリーで、一九七五年海外展が立ち上がり、国際交流基金により国際巡回展として約百の会場で開催され、岡の「包む」展への感動は広がり高い評価を得ていった。

 しかし岡の気がかりは、海外展のツアーの最後の館に一部が収蔵されたことはあっても、日本でのパブリック・コレクションがないことであった。こうした収蔵を前提にした展覧会が模索されていることを知り、是非このすばらしいコレクションを収蔵させていただきたいとお願いして、一九八八年、まだ開館して間もない目黒区美術館で展覧会「5つの卵はいかにして包まれたか・・・日本の伝統パッケージ」展は開催された。

 それまで岡が心を乙こめて集めてきた約五百点が展示され、美術館に収蔵された。岡はこれらのパッケージを「私の子供たち」というほどだったので、花嫁の父の心境だったのではないガろうか。最後まで、これだけはまだ自分の身近に置いておきたいというものもあり、普段は厳しい岡が和らいだ表情で大切そうにそれを抱える姿が目に残っている。

 この展覧会を見て「卵のつと」のすばらしさを知ら、手に入れたいという人から連絡があっね時も、それを岡に伝えると「苦労して初めてそのよさがわかるものですから自分の足で探すように言って下さい」といわれね乙ともある。岡は当時すでに姿を消しつつあっね藁の卵のつとの美しい形を求め歩き、山形県で藁細工師をしていね石川清治(一九二一−九七年)が作った清新な卵のつとにその究極の形を見た。卵のつとは、岡の包む心の象徴ともいえるものガ。乙の時、展示に迫力を出すねめ、縦型、横型あわせて約百偶の卵つとの制作を依頼しねねめ、石川家では、つとの制作ガけでなく、約五百個の卵の殻からされいに中身を吸い出す作業にもかなら苦労したという。

 岡がこの展示の時に、もう払とつの核としねのが金沢の水引折型の津田梅(一九〇七−二〇〇四年)作の結納目録一式であった。当初は角樽一対であったが、乙れを機・7二式を制作依頼しね。津田梅は津田水引折型の二代目で、金沢の水引を作品として高めねといわれている。当時八十歳を超えていねがしっからとしね口調で「大切な結納はど乙でも必ず自分の手であ納めする乙とにしています」と、金沢からタクシーに乗ら着物姿で来館しね。当時、乙うしね綜納目録一式は金沢でもめっねに依頼されるものでなく格式のあるあ寺など旧家からねまに注文されるのみという乙とであった。

 展覧会の後に、思いの乙もっね「後はねのみますよ」という岡の言葉を受けて、感激と同時に重責を覚えね。乙の膨大なコレクションを保存するガけでなく、「岡秀行の包む心」を何としても彼の世代に引き継いで生かしていく乙とが使命と考えね。 分類は、岡の最後の大きな展覧会とをっカ「5つの卵はいかにして包まれたか−日本の伝統パッケージ」展の図録の分類に従い、木、竹、その他の自然、土、藁、紙、布などに分け、包装箱ごと大きなケースに入れカ。大さな角樽や壌などは、収蔵庫の天井まで重ねられるような丈夫な木箱を特注しね。保存作業とカード作成にかかつた何年かの間、幾度も岡の言葉がよみがえら、乙のコレクションの意義を痛感しカ。

 展覧会に際して、保存でさない内容物は抜い三脚め物をしねら、魚を藁で吊るしねもの(図版ミ.£)や「のぼらあゆ」(図版ご)については魚や菓子の模造品を作っねらしね。しかし、竹製品や乾さの遅い木などはどうしても徹が心配で廃棄しねものもある。 乙のコレクションの特別なと乙ろは、一点一点をみれば身近で保存が前提でないねめ、その大切さを伝えにくい乙とガ。それゆえに重要なのはその全体を貫く岡の説いた「包む」における美意識や価値観、そしてその背景にある思想や歴史なのではないガろうか。

(木の葉で食物を包むこと)

 上山春平・編r照葉樹林文化・日本文化の深層』の中では、文化について次のように述べられている。「私たちの祖先が使っね石器や土器などが、新しいものから古いものへと層をなして地下に埋もれている姿は、私ねちの今日の文化の深層に、祖先ねちの文化が層をなして潜在している姿を象徴するものと言えるのではある食いか。深層の文化は、石器や土器のようにねんなる過去の遺物ではなく、現在のなかに生きてはねらく力をもっている」 乙の示唆l‥富んガ考察に導かれて日本の伝統パッケージを歴史的な構造として、その原点を探ってみる。 せず、乙れらを主要な材料によって分類し、あぁむね日本人と関わらの深い俄に並べ、木の葉、樹木、竹、笹、焼物、藁、紙、布とする。

 縄文時代以前、日本のかならの部分は、主に光沢のある常緑広葉樹からなる照葉樹林で、現在も日本の南西部にカシ、クスノキ、ツバキなど世界でも数少ない自然植生を形成している。

 伊勢神宮の神域林をはじめとする宮の森が代表的で、冬も落葉せず、湿気があらフジ、カズラがのびる暗い森で、二十年に一度の社の建て替えの材木を採る場所であっね。神事に使う植物もサカキなど腺葉樹が多い。 松竹梅はめでたいものの象徴であるが、室町時代以前は梅でなく椿であったという。「松」「竹」「椿」は日本原産の常緑樹で、つややかな緑色に生命の永遠性を見ねのであろう。門松も以前は常緑の広葉樹で、後に松へ転化しねといわれる。

 こうした植物は神聖なるものであち、その稟で食物を包む乙とは、神の恩恵を分かち持つ乙とであっね。後に稲作が始まって、その実らの吉凶を占う桜の枝を花見の時に手折ら身につけたのと同じ乙とであろう。家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば椎の菓に盛る(有馬皇子 「万葉集」)

 かつて木の葉を食器として使っていね乙とを二ホす例として乙の歌がよく挙げられる。さらに足田輝丁著F樹の文化誌Lでは、「柏」という言葉は今日のカシワガけでなく、食器として使われね木の葉(シイ、ナラ、カシワ、カシなど) の冶称であっねとされている。 椿餅、柏餅、桜餅などの葉が偶然に選ばれねものではなく、それぞれに深い意味と歴史がある乙とがわかる。

(山岳文化から農耕文化へ)

 きJうサケ つる 樹木の素材としては、経木、蔓、籠、木樽、竹細工などがある。 経木は、竹皮と同じく食料品を包む、ヒノキ、スギなどの木を薄くはがしたもので、弥生時代からあっね。田中信清・著「経木Lによれば、六世紀に仏教が伝来しね時に薄い木の枚に経典を書写 あつき▲うぎ さんぽうしね乙とで乙う呼ばれね。厚経木は弁当の折箱や神事の台の三方の材料である。

 湿気の多い照葉樹林に多く見られる蔓は縄文時代から籠に編まれ、物を束ねた。

 樽は室町時代に製作技術が発達し、流通機構が充実した江戸時 こも代には、藁の薦に包んで輸送に使われた。た仙りの乙 竹・笹は縄文時代からわが国に自生し、筍の駕異的な成長から生命力む尊ばれ、抗菌性などもあって、有益とされね。包装用の竹の皮は鎌倉時代から普及しね。正倉院には多くの竹籠があるのち†しゃくちゃせん ゆしゃくが知られる。茶道でも茶杓、茶笑、湯杓など様々に細工されね。

 樹木の文化は山岳信仰と深いと乙ろでの関わらを感じさせる。

 焼物については、中尾佐助・著『栽培植物と農耕の起源』によると、照葉樹林文化の特質である野生のイモを食用にするのに加熱が欠かせをいため、土器が生まれたという。

 山岳的な樹木の文化は農耕的な藁の文化に踏襲されね。 農耕文化といえば藁である。宮崎清・著『藁しによれば、卵、野菜、つと餅などの保存、運搬に使われね萄も、通風がよく細工しやすい実用性ガけでをく、神事にも通じる米つくらの副産物である藁に神の恩恵を感じていね乙とがわかるような清新な造形で、神社の藁  しめなわ製の注連耗に通じるものがあるという。

(武家の礼法と商家の知恵)

 紙については神道による公家の文化があら、有職故実に見られる乙ともある。神道では、紙は神に通じ心霊的な本質を持つとされて重んじられてきね。鎌倉時代以降、武家礼法が整い、祝儀・不祝儀などの礼法もできて、専門の礼法家が生まれ、紙包みの儀礼が確立した。用紙は「奉書紙」が用いられた。 紙で包む乙とは、神聖視され、細かい約束事が決められね。包む内容によって紙の折ら方があら、「水引」や「のし」 のかけ方も異をる。「のし」の由来は、神宮から下された神符を平易にしあわびたもので、稲穂の代わらに飽を干した「のしあわび」を包んで、長く延びる乙と、つまら「永遠性」む祈っねという。額田草書屈み』では‥昔の故実家たちによって看み方》についてさびしく規制されねわけは、人に進物する時の包みは同時に、中にある物の価値と、それを持参する人の価値の表現ガったからである」として日本伝統パッケージの本質を的確に示している。

 ふろしき ムくさ 布で包むといえば、風呂敷、被紗、袋などである。

 風呂敷は室町時代に共同浴場が流行し、脱いガ服を包む布を乙う呼ぶようになっね。江戸時代の運送では、商標や家紋の入っカ大風呂敷が欠かせないものとをら、複雑な形を単純な四角い布で包む技は、和服や折ら紙の造形と同様に長い年月の知恵の結晶といわれる。 … 被紗は、茶道では貴重なものなどをのせ光ら、窮や茶杓などの道具を清めるような神聖な意味も持つ。

(聖と俗の深層文化)

 乙うしね山岳文化、農耕文化、公家文化、武家文化、商人文化などを流れる包む精神と技術は今も私たちの中で生ミその実意識の源流をねどれば、日本の原生林である照葉樹林とそ乙に生まれカ固有の宗教である神道に至る乙とになる。 奈良県桜井市の大神神社には、拝殿のみで本殿がなく、古くから三輪山を御神体とする。伊勢神官は二十年竺度建て替えられ、その御神体は神の依ち代である神木であっねともいわれる。社段がなく、自然環境が聖域で、依ら代の神木がある乙とが神道の初 期の形態とされる。神の依ら代(=社)は、かつては自然(=樹木)であるか、まねは造形物(=伊勢神宮の社)で、樹木が枯れ、建物が建て替えられても、「かたち」(=樹、山という概念、社という概念)は形式として永遠を士心向する。「依ら代」はねガの物ではなく「神」と同一化されカ時に初めて信仰の対象となる。 乙の乙とは、日本の「もののあはれ」にも関わる。もののあはれの「もの」は人の心を自然の移ら変わらに託するもので、精神と物体の統一されねものである。乙うした感受性は日本国有のもので、伝統パッケージは深層文化そのものといえよう。 私ねちに「鬱蒼とした照葉樹林文化の瑞々しい菓の挿さを神々しく美しく」感ずる心があるかぎら、その原風景は無意識の記憶に留められて、日本の包む文化は新たな形に変わら継承されていくだろう。(やない・みどり 目黒区美術館学芸係長)