1.光の捕獲者・モホリ=ナジ

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大島清次

 モホリ=ナジの人間像や業績については、多くの資料によっていまは容易に知ることができる。その上に意味あることとして、何を付け加えることができるのかと迷う。しかし誰にもラスロ・モホリ=ナジの名にはじめて出会う時はあるはずで、これは一回かぎりの個人的体験であり、またその体験が強烈であればあるほど、心のうちに秘めておくのは難しい。モホリ=ナジについて書くならば、まずここからはじめるべきだろう。新興写真がようやく全面的な展開を始める時期を、昭和5年(1930)ごろとするのが妥当なようである。そのころから新しい写真は1930年代を通じて、急速に多様な展開を見せるが、1940年代に入って戦争の開始とともにほぼ終息してしまう」(『日本写真史』平凡社)。ちょうどこの10年間をわたしは小・中学生として過ごした。もちろん写真界の事情など少年となんの関係もない。だが中学を卒業するころ、行きつけの古本屋で『フォトタイムス』という写真雑誌のバックナンバーを約20冊ほど、有り金をはたいて買ったのである。はじめて見る雑誌だったが、ぱらばらとめくるうちに閃くものがあり、こころを昂ぶらせながら買い占めたのであった。

 新興写真という言葉はこの雑誌の主幹・木村専一氏の造語だと言われているが、まさにそのことが示しているように新しい写真の息吹が紙面一ばいに漂っていて、それまで見たこともない写真作品の多様な姿に息を飲んで見入ったものである。もっとも世間知らずの中学生にしてみれば当然のことなのだが、しかしこの雑誌に出会って写真に開眼したことは幸いであった。紹介されていた写真と記事のうちとくに興味をもったのが海外作家の作品であったのは、珍しさというよりも異質の感性を感じとっていたからだろう。そうした作品のありようについて、手引きをしてくれたのは瀧口修造氏の論説だった。こうして「実験的写真家としてのモホリ・ナギイ」(昭和13年9月号・西暦1938年)という紹介記事でモホリ=ナジと出会ったのである。

 そこでは「モホリ・ナギイの名は、疾(と・以前から)くから日本の写真家の脳髄にも深く刻みこまれてゐるので、改まつて紹介する必要もないことである」と書きだしているのだが、それほど著名な人なのかと思うばかりで、少年にははじめて知る人物像と業績なのであった。ひとつだけわたしの知識と触れ合うところがあった。「また彼はさきに述べたやうな硝子や金属などによる複雑な、多少メカニックな装置を作り、それにさまざまな光と運動とを与えて、映画や写真に撮影することによつて、空間創造の実験をしてゐるが、この種のこころみは、ロンドン・フイルムの『来るべき世界』[Things to Come(1935)、H.G.ウェルズ原作]の特殊効果の基礎として応用された」と、その写真が数枚添えられていたが、じつはこの映画をわたしは見ていたのである。映画とこの写真の共通点を探しながら、少年は俄然モホリ=ナジとは親しい仲に思われはじめた。その映画の未来装置には圧倒される思いがあったからである。こうしたことからはじまって、いまだにモホリ=ナジは特別な人なのである。

 モホリ=ナジは1895年にハンガリーの南部に生まれた。父親は農場経常に失敗しアメリカに渡ったまま消息を断ってしまった。母親は実家に戻ってモホリ=ナジを育てたが、このつらい生活がモホリ=ナジを孤独な夢想家にした。19歳で軍隊に入り、都会生活をするうちに芸術に目覚め、詩を書いて表現主義的な雑誌に発表している。第一次世界大戦がはじまると出征したが、1916年に負傷して療養生活をしているあいだ、戦場や戦死者のデッサンを激しいタッチで描いている。1918年ブダペスト大学で法律の学位をとったが、それも母親を喜ばすためであり、その間画家になる決心をかためて、前衛芸術運動のカレープ「MA」に参加する。このころすでに構成主義的な作品を描いている。1919年ハンガリーに革命が起こり、時の社会体制に協力しようとして受け入れられずウィーンに亡命する。だがここでも彼の構成主義的傾向は場違いであり、1921年にはベルリンに移ったのであるベルリンには多くの前衛芸術家が集まっており、とくにロシアのシュプレマテイズム構成派の影響をうけた。この状況のなかで彼の芸術の方向は次第に確定していった。そのことは1922年の雑誌『MA』に寄せた論説にも読み取れるように、技術と芸術の融合による社会化という、その後の活動に一貫した姿勢を固めた。

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 バウハウスは1919年にワイマールに設立されたが、1923年彼は教授として招かれ、モホリ=ナジは芸術家、研究者、教育家として活動する新しい段階を迎える。しかし学校がデッサウに移り、後にナチス体制の政治的圧力によって校長のグロピウスが辞任する1928年に、彼もまた共に去った。バウハウスもさらに強まる圧力で1933年に廃校となる。モホリ=ナジはそれでもベルリンを去り難く、その間舞台装置や実験映画をつくり、またオラシダの印刷会社で色彩写真の実験を重ねていたが、1935年にイギリスに渡る当地でも記録映画やルポルタージュ写真、光の実験をつづけた。

 1937年、ハーバード大学にいたグロピウスの推挙により、シカゴに新設されるデザイン学校の校長として赴任する。これはバウハウスの教育システムをさらに充実した学校てドイツ時代から信望の厚かった助手のジョージ・ケペシュも参加した。1944年には「インスティテュート・オブ・デザイン」と改称して拡充を計ったが、経営の危機を乗りきる苦闘に疲れはてて発病し、1946年11月に急死した。

 以上がモホリ=ナジの年譜の概略である。彼は決して写真だけに興味を集中したのではなく、造形芸術あるいは視覚芸術全般を広い視野におさめながら技術と芸術の統合を目指して活動してしたことは、簡単な年譜を見るだけでも推測できる事実レオナルド的な多面性こそが彼の芸術家としての特質であった。そうした彼の広がりのある活動であるが、その範囲を絞りこんで区分してみると、幾つかのきわだった傾向の山脈が浮かび上がってくる。そのもっとも大きな山脈が光ではないかと思うのである。写真と映画はもちろんこの範囲にあるが、さらに光を純粋に探究する場としてインスティテュートオブ・デザインでは「現在私たちは80名の学生を持ち、写真科以外に、光線工房(ライトワークショップ)を設けました。ここでは独創的な目的に人工光線を利用する最善の諸方法を研究します」と瀧口修造氏に送られた手紙にあるほど、光自体への関心の深さを示している。

 またグロピウスはモホリ=ナジについて「モホリは、吾々が光によってのみ空間を理解しうることを認識したのである。彼の全作品は新しい視覚への路を準備するための力強い戦ひである。彼はその中て絵画の境界を拡大し、新しい技法によって絵画の中に光の強さを増大せしめようとこころみた。モホリは光を、キャメラとフイルム・パースベタティプキャメラの目によって、蛙と鳥の視角から、観察し、記録した。こうして空間の印象をマスターし、彼の絵の中に新しい空間の観念を発展せしめた・・…・」と書いている。瀧口氏もこの言葉を受けて「モホリ・ナギイは最近のエッセイて光の利用、文化を開発せしめる目的て光の総合的な研究所(Academy of Light)が必要だと述べている。写真家モホリ・ナギイの作品は、いはば『空間写真』あるひはSPACEPHOTOとでも名づけるのにふさはしいものであると『フォトタイムス』誌では締めくくっていた。

 つまりモホリ=ナジにとって写真とは、画像である前に素材としての光、媒体としての光からはじまるのである。揺られた写真は実存する事物の複写である前に、強い意識のもとに光が介在しているのである。モホリ=ナジの論理はすべてこのように根源に遡ってはじまるようてこれが彼の感性や美意識と決してかけ離れてはいないのである。ときに見るものにとって堅く冷たい様相を示すのも、その故であるかもしれない。光からはじまる彼の写真は、だからリアル・フォトにとどまらず、フォトグラムとフォトモンタージュの三者に均等な重点がおかれている。そして彼が写真をはじめたとき、この三者を同時に手を染めたというのも頚けるのである。しかし、いつごろからはじめたのか定かでない。発表された写真では1922年の作品に署名があり、これが最もか)とされているが、その以前にも撮られている可能性はある。

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 モホリ=ナジのリアル・フォトでは徹底的にピクトリアル(絵画的)な写真が否定されていた。当時の風潮からすれば絵画的な作風は全盛期にあり、これを否定するところから写真をはじめるのは、普通ならば余程の先見性を必要とする。だが彼は写真の機能を芸術表現の手段として利用するところからはじめたのであり、彼の芸術はいうまでもなく構成主義的な立場であり、また技術と芸術の統合を目標としていた。疑いもなく光学と化学に即した技術として写真の機能を利用した。そこでレンズによる形態描写の特性、克明なテクスチュアやトーンの描写といった写真独自の造形性を遺憾なく発揮したし、また仰観や俯観といった新しい遠近法の解釈によって、見慣れた水平方向の遠近法に加えてダイナミックな視覚を啓発したのである。リアル・フォトあるいはルポルタージュ・フォト、記録写真という系列の写真を、構成主義の画家であるモホリ=ナジが、純粋造形的な写真と同等に扱い開発したことは敬服すべきことであった。

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 このことについてフランツ・ローは「写真は何よりもまずルポルタージュである。しかしこのルポルタージュと純粋創造との間には、たんに度合いの相違があるだけで絶対的な相違というものはない。外界の物体が示す無限の可能性から吾々が選択することによって、すでに創造されるのである。しかし写真はまだ一層広い能力を持っものであって、ある理論家等が、事実の報道だけを、写真の特有の領域であると主張して、写真のもつ自由な観念に反対することは危険である。モホリは初期において近代写真に対する興味を『絵画・写真・映画』の中に披瀝(ひれき・思っていることを隠さずに全部打ち明けること)したが、決してこうした狭隘(きょうあい・せまいこと)な見解を持っていなかった」と書いている。『絵画・写真・映画』というのはワイマールのバウハウスに赴任したころ、グロピウスを助けて「バウハウス叢書」14冊を刊行したが、そのうちの1冊で、このほか「物質から建築へ」をモホリ=ナジが書いている。この叢書は国際的に大きな影響を及ぼした。またイギリス滞在中に『ロンドンの市場』(1936)、『イートン・ポートレイト』(1936)、『オックスフォード大学基金』(1937)という一連のルポルタージュを撮って個展を開き、作品集を出版している。

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 デッサウのバウハウスを辞めた後、まだベルリンに留まっていたころ、実験映画を制作した。「光のプレイ・黒・白・灰」それに「音ABC」である

 危険をおかしてジプシーを取材した記録映画もあり、また実現しなかった映画「反映したイメージ」はトビス映画会社でていよく断わられたのだが、そのときトビスのシナリオ・ライターであったシビル夫人と出会い結婚した。『モホリ=ナギ総合への実験』(下図)はシビル夫人の書いた伝記である。

総合への実験

 イギリスでも記録映画「エビの一生」「ロンドン動物園の新建築」を制作している。映画「来るべき世界」の装置写真についてのいきさつは前に述べたが、イギリス滞在のこの時期に、その装置に使ったような透明樹脂によって構成的な彫刻を作成し、これを撮影して作品としているが、これは作られた立体的な対象を最終的には写真の空間に定着する制作の方法であり、たんなる記録写真ではないものとして注目されている。

 以上のようなリアル・フォトの系列の外にあるフォトモンタージュとフォトグラムも、モホリ=ナジにとっては光を素材とした視覚造形と考えるのが妥当なのかもしれない。フォトモンタージュはラウル・ハウスマンやジョン・ハートフィールド、マックス・エルンストなどがそれぞれの立場からすでに試みていた。しかしモホリ=ナジの作品の特徴は構成主義的なデッサンが付け加えられていて、ダダ時代の作品に見られた風刺性や、心理的空間構成が際立つ独特な様式であり、ここでは珍しく文学的な主題が浮かび上がる表現となっている。モホリ=ナジは彼のフォトモンタージュをフォトプラスティックと呼んでいたが、つぎのように説明している。「フォトプラスティツクは一種のファンタスム組織された幻想である。それは視覚的・精神的な諸条件に制限されるとしても、正確な意味と直接明快な理解とを与える構成の中心をもっている。イメージとしてのその構成は、普通の言葉の意味における構成ではコンポジションない。そのアクションは、事象の同時性を固定しつつ、普通隠されている或る素材を交錯し混合せしめることに基づくものである。フォトプラスティックは、その固有の目的を、形式的・調和和的な解決のなかにではなく、思想の表現のなかに求める。たとえ人が一枚の写真の客観性を信ずるあまり、他のあらゆる主観的な意義を排除するとしても、各部分の内在的な価値を強調するための一本の線ないしは他の補助線等を加えることによって、思いがけない緊張力を見出すにちがいない。それと同じ形態を絵画によって表現しても、決してこれほどの強い印象に達することはできない。なぜなら極めて写真的にあらわされた「発展」の諸要素は、非常に単純なものから複雑なものへと、奇異な統一にむかって飛躍するからである」(フォトプラスティツクという呼び名は、フォトモンタージュと区別していたのだが、のちにすべてフォトモンタージュに統一している)。

 バウハウスという名を聞いてすぐに連想するのは、なぜかフォトモンタージュである。だれの作品というのではなく、たとえば幾何学的な線の交乱遠近感の強調された物の配置、バランスのよい構成、どんな画面にも必ず感じられるダイナミックな動勢、太い小文字のアルファベット。そうしたイメージが混ざりあい、重なり合って頭をよぎるのである。これはまさしくバウハウス流のフォトモンタージュなのだが、どこで植え込まれたイメージなのだろうか。おそらくある時代を風摩したグラフィック・デザインの傾向からではないかと思う。私的にすぎる感想だけれども、それほど強い影響力を持った様式なのであった。

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 もう一つのフォグラムについては、フォックス・タルボットのレースなどを密着してプリントした例がもっとも古く、1830年代後半のことである。クリスチャン・シャドのシャドグラフと名付けた方法などもあったが、マン・レイのレイヨグラフとモホリ=ナジのフォトグラムが相前後して、同じ手法として発表されたのが1922年であった。モホリ=ナジはこの年と翌年にフォトグラムの個展を開いている。そのときのカタログに「フォトグラムは黒・白・灰による空間的な緊張の表現である。色彩と質感を抑制することによって、それは非物質的な効果をもつ。つまりそれは光によって書くことであるが、黒と白の対照関係、すばらしい灰色の語調によって自由に表現することができる。我々の心理・生理的な視覚組織にもとづいた直接な視覚経験をよびさますのである」とモホリ=ナジは書いている。

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 ここでは芸術家モホリ=ナジを光の探究者として、とくに写真表現の特徴を中心に見てきたがもちろん彼の業績はそれだけで終わるものではない。とりわけ彼の夢想家として、あるいは理想の追及者としてのかかわりを、バウハウスでの教育の場面に残した大きな足跡として特筆しなければならない。モホリ=ナジがワイマールのバウハウスに迎えられたとき、すでにグロピウスなどによって教育の基本路線はできていたとしても、技術と芸術の統合を旨としていた構成主義者の心中には、彼の理念に基づいた計画が溢れていたに違いない。新任教授モホリ=ナジの担当は予備課程の造形訓練と金属工房の担当であった。

 こうした教程はのちに校長の立場でアメリカに開校した「インスティテュート・オブ・デザイン」でも強化拡充して受け継がれるのだが、近代工業化社会にどのように対応するかという検討に迫られる。つまり従来から標模してきた機能主義そのままを踏襲できるのか、という問題である。このことについてモホリ=ナジは『アメリカン・アーキテクト』誌に一文を寄せている。「新鮮な展望は、我々の生物学的要求に対する満足な意匠を通じてのみ生じうる。我々の標的は今日すでに労力節約を建物に封じ込むような昨日の目標よりも遥かに進んでいる。我々が意匠する時には、単に物的な快適を求めるばかりでなく、更にそれ以上に心理的、心理生理学的要求を遥かに大きなスケールにおいて関係させなければならない・・…・」(『アトリヱ』誌所収、蔵田周忠訳)

 モホリ=ナジのこうした開陳はちょうど新しいバウハウスを開設し、運営と維持に奮闘していたころで、理念の再構築にも忙殺されていたころのことである。このときの基本理念の見直しともいうべき宣言は、世界の造形家たちにとっても大きな衝撃であったし、この方針は現在の生物工学Biotechnologyの関与にまで引き継がれている造形思想の原点でもあった。そのせわしいなかで『ヴィジョン・イン・モーション』が刊行された。

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 彼の造形理論の集大成ともいうべき著書で、戦後の混乱したある時期に、未だ見ぬ本を巡って仲間うちの大きな話題となったことを覚えても)る。

 ドイツの新興写真が運動体としてどのような活動があったのかどうか、手もとの資料では詳らかではないが、しかし新即物主義の主張は明確な論理によって推進されていて、多くの共鳴者の活動がある。これをリアル・フォトに対応するものとして考えるならば、フォトモンタージュやフォトグラム、あるいは抽象写真やダダ、ルポルタージュ・フォトなど新興勢力の写真のすべてを含めて、モホリ=ナジはまさにその中心にいたわけである。モホリ=ナジが意識するとしないにかかわらず、この時期にはおそらく新興写真の指導者と目されていたに違いない。(九州産業大学教授)

参考文献:

1)瀧口修造、「実験的写真家としてのモホリ・ナギイ」、『フォトタイムス』1938(昭和13)年9月号、フォトタイムス社、p.41-48

2)瀧口修造、「モホリ・ナギー」、『世界写真全集・ドイツ/北欧』、平凡社、1957(昭和32)年、p.24−28

3)L.モホリ=ナギ、『ザ・ニュー・ヴィジョンある芸術家の要約』、大森忠行訳、ダヴイッド社、1967年

4)シビル・モホリ=ナギ『モホリ=ナギ総合への実験』、下島正夫/高取利尚訳、タヴイッド社、1973年

5)ルートヴィヒ・グローテ/他、『bauhaus』、宮島久雄/他訳、講談社、1971年